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It gets better. 居心地のいい世界は、自分でつくれる。【後編】

It gets better. 居心地のいい世界は、自分でつくれる。【前編】はこちら

2023/01/14/Sat
Photo : Taku Katayama Text : Kei Yoshida
ホフマン / Hoffmann

1995年、オーストラリアのメルボルン生まれ。11歳のとき、同級生の男の子に恋をしたことがきっかけで、自分のセクシュアリティに気づく。メルボルン大学で政治学とスペイン語、日本語を専攻し、卒業後はスペイン語教師として1年間務めたのちに、岐阜県の行政機関で働くため、2019年に来日。2022年2月からは拠点を東京へ移し、在日オーストラリア大使館のエグゼクティブ・アシスタントを務める。

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INDEX
01 言語が変わると視点も変わる
02 遺伝子学者の父と心理科学者の母
03 瞑想して45秒でゲイだと自覚
04 自由に動けない “ロボット生活”
05 永遠に恋愛ができないから
==================(後編)========================
06 自分にも恋愛はできるんだ
07 国際交流員として日本へ
08 日本と海外、LGBTにまつわる共通点と相違点
09 世界がより良い方向へと向かうために
10 差別禁止法が存在しない日本で

06自分にも恋愛はできるんだ

スペインへの移住を計画

自分は永遠に恋愛ができない。
ずっとそう思っていた。

しかし、高校2年生のとき、出会いがあった。

「彼はスペインからオーストラリアへ来た留学生で、僕はその3ヶ月後にスペインに行く予定で。お互いに交換留学生でした」

彼がオーストラリアに滞在していた期間で、ふたりの仲は深まり、「高校を卒業してからも一緒にいよう」と約束するまでになった。

「ずっとひとりぼっちで生きていくんだと思ってたから、彼のことは絶対に手放してはいけないという気持ちが強くて、卒業後にスペインへ移住するために計画を立てました」

しかし、彼はカトリック教徒であり、ゲイとしては生きられなかった。

「彼は、自分は誰かと結婚して子どもをつくるけど、僕にはそばにいてほしいと勝手に思っていたらしくて。それはできないよ、となって」

「僕が、彼のスペインの実家に滞在しているあいだに別れました」

「そのあとは、英語教師の資格をとるためにイギリスへ行って、またスペインに戻ってきて、就職して、自分でアパートを借りて、住み始めました」

「18歳のときでしたね」

カミングアウトしたときに完璧な反応がなくても

彼と一緒にいるために、やってきたスペイン。

一緒にいられなくなったあとも、ここで暮らしてみようと前を向いてみたら、そこにまた新たな出会いがあった。

「すごくいい人で、出会ってから数年後にメルボルンで同棲もしました」

「そのあと、僕は進学のためにメルボルンに帰って、彼も資格をとるためにシカゴで2年間勉強してから、メルボルンに来てくれたんです」

スペインでは彼の両親との関係も良好で、メルボルンでは彼も自分の両親と仲良く過ごすことができていた。

13歳でカミングアウトしたときには、「一時的なものだろう」と言っていた母も、23歳になったときには、息子がゲイであることを完全に受け入れてくれていた。

「10年の月日が経っていましたが、自分がゲイだと自覚するまでにも時間がかかりましたし、親が理解して受け入れるまで時間がかかるのは当たり前」

「カミングアウトしたそのときに、相手に完璧な反応がなくてもいいと思います。完璧な反応がなかったからって、カミングアウトしたことを後悔したり、自分を責めたりしなくてもいいと思います」

お互いの両親からも認められた交際だったが、5年のあいだ、一緒に暮らしたり、離れてお互いを思い合ったりしているなかで、別れて生きていくことを選択する。

「ドイツ、アメリカ、オーストラリアと、いろんな国で暮らしてきた彼は、もうスペインに帰りたいという気持ちが強くて・・・・・・」

いずれスペインで同棲することができたらよかったのだが、スペインの経済状況を考慮すると、大学卒業後の自分の拠点にはできなかった。

「お別れすることになってしまったけれど、彼と出会えたおかげで、僕でも、ふつうに恋愛できるんだと、やっと思えるようになりました」

07国際交流員として日本へ

どうすれば日本の社会に貢献できるか

大学では、政治学とスペイン語、日本語という3つの分野を専攻。

いつかは日本に行きたいと思っていたところ、JETプログラムという、語学指導などを行う人を海外から日本へ招致する事業のことを知る。

「すぐに応募したんですが、決まるまで1年くらいかかったんです(笑)。そのあいだはスペイン語の先生をして、2019年8月に、ようやく岐阜県内の行政機関に、国際交流員として赴くことに決まりました」

「岐阜で働き出してからは、通訳とか翻訳とか、海外からの観光客の誘致の仕事を手伝ったりしてましたが、コロナ禍になってからは、そういった仕事はまったくなくなってしまって・・・・・・」

「日本の税金で暮らしていたので、どうすれば日本の社会に貢献できるのかを考えて、ポルトガル語を勉強することにしたんです」

「暮らしていたエリアには工場が多く、その工場で働くブラジル人もたくさん住んでいたので、社会福祉の手続きなどをポルトガル語とスペイン語、英語を使ってサポートすることができました」

大使館に転職し、多忙な毎日に

コロナ禍が収まっていくと、サポートのニーズも次第に減っていく。

「なんだかすごくヒマになってしまって(笑)。もう、ここでできることは全部やったかなって思っていたところ、在日オーストラリア大使館が職員を募集してることを知って、応募したんです」

「面接は緊張しましたよ(笑)。試験もありました。すごく丁寧な内容のメールを日本語で送るとか、日本の政府関係者の方との電話の応対とか」

そして2022年2月、大使館のエグゼクティブ・アシスタントに就任。
岐阜での日々とは打って変わって、目が回るほど多忙な毎日を送っている。

「いろんなことを体験したいので、いまの忙しさはすごくありがたいです」

「岐阜は、住めば住むほど、人の絆が深くなっていくようで、そこが魅力でしたが、東京もまた住みやすくて、すごくいいです」

「都会ですので外国人もたくさんいますし、いい友だちもできました。いま、すごく幸せですよ」

08日本と海外、LGBTにまつわる共通点と相違点

イベントでライフストーリーを話すことも

「岐阜での仕事がヒマになってしまったとき、自分がここにいる意味ってなんだろう、ってなったんです」

「意味がないように感じたら、自分で “ここにいる意味” をつくらないといけないと思って、ポルトガル語を一生懸命勉強して、コミュニティに貢献しようとがんばりました」

「同時に、プライベートでもヒマだったので、東海地方を拠点とするLGBT関係のNPO法人ASTAでの活動にも参加して、講演会などのイベントのスタッフもしてたんですよ」

イベントでは、LGBT当事者がライフストーリーを語ることもあった。

「僕は、自分が同性愛者であることを話しても平気だったし、東海地方にはまだまだカミングアウトできないでいるゲイの人も多かったので、僕なりに貢献できるならと、ライフストーリーを語ってました」

「もちろん英語のほうが断然得意ですが、日本語での表現力も大丈夫だと思ったので(笑)」

「なにより、いまの子どもたちが、僕のように、つらい10代を過ごさないようにしなければ、という責任を感じてたんです」

講演を聞いた人の感想はさまざまだが、毎回のように言われることがあった。

「日本も海外も意外に同じなんですねって」

「なかには、『自分のことが語られている気がするくらい、あなたと私は、状況がまったく同じ』と言われることもありました」

「もしかしたら、日本人の多くは、LGBTを取り巻く海外の事情は、日本と全然違うと思い込んでいるのかもしれないですね。実は、世界中どこでも、LGBT当事者は同じような経験をしているんだと思います」

LGBTに対する認識が低い

海外と日本ではやはり異なる点もある。

「海外といっても広いですが、少なくとも英語圏では、みんながLGBTの話題について認識していて、議論している感じ」

「どう思いますかってきくと、全然いいと思いますとか、全然反対ですとか、なんらかの意見をもってるんです」

「でも、日本では、議論している人は少ないんじゃないかな」

「オーストラリアの人は、多分ほとんどの人が、ゲイのことを理解しています。でも、日本では『ゲイです』って言うと、まだ『女性になりたいんですか?』ときかれてしまうことがあるんです」

「そもそも、LGBTが周りにいるという感覚がないのでは・・・・・・」

だからこそ、講演の際にいつも話していたことがある。

LGBTの数は、日本人の六大名字である、佐藤、鈴木、高橋、田中、渡辺、伊藤という名前の人の数の合計よりも多いのだと。

「高橋さんと飲みに行ったことがある人は手を挙げてください、田中さんという友だちがいる人は手を挙げてください、って言うと、みなさん手を挙げます」

「だから、きっと知らないうちに、みなさんも日常生活でLGBTの人たちと関わってますよ、とお伝えしてました」

東京に暮らすいまは、LGBT関連の活動には参加していないが、機会があれば関わりたいと思っている。

09世界がより良い方向へと向かうために

がんばっている両親の姿を見て

日本で暮らしているのだから、日本のコミュニティに貢献したい。

そんな想いを抱くのは、世界をより良い方向へと変えていこうとする両親の姿を、子どもの頃から見てきたことも影響しているかもしれない。

「父は、遺伝子学者として、地球温暖化について研究し、状況を改善するためにすごくがんばってます。母も、セラピストとして、一人ひとりが良くなるようにがんばっていると思います」

「自分が生きている意味は、世界に貢献することだと、ふたりとも強く思っているんです」

岐阜で暮らしているから東海地方のコミュニティのために、と参加したLGBT関連の活動のように、東京でも貢献できる場があるといい。

「でも、東京には外国人も多いですし、僕がいくらポルトガル語で講演しました、とか、英語でも日本語でもできます、と言っても、もっと語学が堪能な人はいらっしゃるので・・・・・・」

まだ貢献できることがある

今回のLGBTERのインタビューに応募したのも、いまの子どもたちが、自分のように、つらい10代を過ごさないようにとの想いからだった。

「LGBTERは、以前から読んでました」

「LGBT当事者の方々を、ひとりの人間として焦点を当てたインタビューが、ほかのインタビュー記事とは違って、いいなと思いました」

「たとえば、講演会では10分で自分のライフストーリーを話さないといけないので、小学生のときに違和感を感じて、バレないようにロボット生活を送って、それではいけないと思ってカミングアウトして、ってLGBTに関することだけを話すんです」

「時間が限られているので、仕方ないんですが。でも、このインタビューでは、その人の人生全体を描いているのがいいですね」

文法が独特なことから日本語に興味をもち、次第に日本に住んでみたいと考えるようになり、メルボルンから、はるばる岐阜へやってきた。

仕事のニーズが減り、岐阜でできることは全部やったと思えたタイミングで、帰国するという選択肢もあったかもしれない。

しかし、そこで日本から去る気にはなれなかった。

「岐阜でお世話になった仕事の上司が、すごくいい人だったこともあって、日本にまだいたいと思えたんです。恵まれてました」

どこにいても、どんな立場でも、人と接することに積極的で、自分にできることは何かと、常に自問自答を繰り返す。

日本で、まだ貢献できることがあると信じている。

10差別禁止法が存在しない日本で

差別されるのではという不安が

「スペインでは英語教師として勤めてましたし、いつかは、日本の会社でも働きたいと思ってます」

一方、懸念することもある。

「いま勤めている大使館ではゲイであることで差別される不安はまったくないんですが、ほかの企業だと、どうでしょう・・・・・・」

「日本にはまだ、差別を禁止する法律がないし、LGBTの権利を守る法律もほぼない状態。岐阜にいたときも、職場の上司たちはすごくいい人ばかりだったけれども、不安は感じてました」

大使館は誰もが、セクシュアリティはもちろんのこと、自分自身を隠さずに、ありまのままで働くことができる環境だと感じている。

そんな環境のなかで勤めてみて、生きていく上で、それがいかに安心できることであるかを再確認したのだ。

「日本に来て、こんなに安心して働けるのは初めて」

「もしも日本の企業に転職するとしても、ゲイであることを理由に解雇されてしまうのでは、孤立してしまうのでは、と不安になってしまうんです」

「パートナーができたとしても日本では同性婚は認められていないし、生きづらいかなって思うし、子育てもしたいってなったら、なおさら難しい」

「日本のことは、言語も文化も大好きですし、死ぬまでずっと日本には関わりたいと思うんですが、終のすみかとして選ぶって考えると、ちょっと微妙な気持ちなんです」

「やはり・・・・・・差別を禁止する法律がないということが大きいかな」

いまは自分を隠さずに生きている

とはいえ、かつて「永遠に恋愛はできない」と自分の人生を悲観していた自分が、いまは世界を変えようと未来を見つめている。

「『夢見てたことは、もう叶えたよ』って、少年だった自分に伝えたいです」

「都会に住んで、いい環境で仕事をして、自分を隠さずに生きている・・・・・・。いい恋愛も経験できたし。1 回だけだけど(笑)」

「あの頃は、自分を “例外” だと思っていて、孤独だったけれど、自分は “例外” なんかじゃなかった。ほかの人と同様に、いい経験ができたから。自分だけが、ひとりぼっちだなんてことはあり得ない」

大人になるにつれて自分がいる場所や環境を選んだり、コントロールしたり、できることが増える。

「我慢すればいいって意味じゃなくて、渦中にいるときはつらいけど、がんばって行動していくと自分の成長につながると思うし、そのときに蒔いた種は、まちがいなく芽生えるから」

「It gets better・・・・・・きっとよくなる、大人になったら、すごーーーくいいことがあるからって、伝えたいですね」

あとがき
文化や習慣が異なると、細かな配慮も違うはず? でも、どの国にいても、どの言語をつかっていてもホフマンさんなのだ。会話にもメールにも優しさやポジティブマインドがあふれてる■慎重だったホフマン少年のターニングポイントは、人の目を気にしたり他人と比べていた時代と決別したときか。自分の過去よりも今がいい! と思えたら自信もわくね■「It gets better」。行動した数だけのぞみが叶う。境界線を超えて、世界と自分に自由にめぐり合おう。(編集部)

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