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FTMからFTXへ。「真ん中」を選択したら楽になれた【後編】

FTMからFTXへ。「真ん中」を選択したら楽になれた【前編】はこちら

2018/10/29/Mon
Photo : Mayumi Suzuki Text : Sui Toya
粒来 知樹 / Tomoki Tsuburai

1981年、北海道生まれ。幼児期に父の仕事の都合で埼玉に引っ越す。その後、通学のため東京に引っ越し、幼稚部から中等部まで大塚ろう学校へ。高校は石神井ろう学校に通った。2010年、小学生の頃から憧れていたプロレスの道に入り、聴覚障害者で初めて後楽園のリングに立つ。リングネームは矢神葵。2014年から、ろう者と健聴者のプロレス団体「HERO」に所属している。

USERS LOVED LOVE IT! 30
INDEX
01 家族の横顔
02 性への抵抗
03 登校拒否の始まり
04 FTMを知った日
05 初潮がバレた!
==================(後編)========================
06 将来は真っ暗
07 母への手紙
08 新宿二丁目で知ったこと
09 十数年越しの夢
10 一人じゃないよ

06将来は真っ暗

死ぬしかないと思っていた

耳が聴こえないことで、コミュニケーションに苦労したことはあまりない。

しかし、耳が聴こえないと、情報を得るのがなかなか難しいこともある。

「高校生のときに、LGBTに関する情報をネットで調べました」

「セクシュアリティの悩みを分かち合えたらいいと思い、掲示板に書き込みをしたこともあります」

「でも、ろうのLGBTが自分以外にいるかどうかは、わからなかったんです」

ろう者の世界は、コミュニティが狭い。

噂が広まったらどうしようと思い、周りに相談することはできなかった。

「20歳になるまでは、将来のことはあまり考えられませんでした」

「というより・・・・・・ もう死ぬしかないと思っていたんです」

「死んだら何も考えなくて済むと思い、リストカットをしたこともありました」

履歴書の性別欄

高校を卒業した後は、進学をせず、仕事を探した。

しかし、面接を受ける前に壁にぶつかった。

「履歴書の性別欄に、丸をつけなきゃいけないですよね」

「それが、なかなか付けられなかったんです」

「丸を付けないと『どっち?』って聞かれるし、もし正直に話したら断られるだろうと思いました」

「実際に、正直に話したことで不採用になったこともあります」

仕事をしない期間が長くあった。

その間、ろうのアイスホッケーチームに入ったりするなど、スポーツをして気を紛らわしていた。

07母への手紙

初めてのカミングアウト

そんな生活をしていたとき、ドラマ「3年B組金八先生」でトランスジェンダーの話が出てきた。

たまたま母と一緒に、そのドラマを見ていた。

「横にいたお母さんに『自分も同じなんだよ!』と言いたかったです」

「金八先生の効果もあって、その後、カミングアウトをする人がメディアで頻繁に取りあげられるようになったって気づきました」

「安藤大将さんというトランスジェンダーの競艇選手もその一人です」

自分も同じだと知ってほしい。

そう思い、20歳の誕生日を迎えたとき、母に手紙を書いて渡した。

選んだ道を行けばいい

「口で説明するのが難しいので、手紙を書きました」

「今まで苦しかったことや、手術をするかもしれないということを綴ったんです」

「でも、お母さんの反応を見るのが怖くて・・・・・・」

「これを読んでって伝えて、パッと立ち上がって遊びに行っちゃいました(笑)」

帰宅後、母から何か言われるかと思ったが、特に何も言われなかった。

「おかしいな」と思いながら、そのまま何日も過ぎた。

モヤモヤしていたときに、母とゆっくり話す機会があった。

「お母さんからは、『理解してるよ』と言われました」

「小さいときからの振る舞いや、スカートが嫌だと言われたことに、合点がいったって」

「自分の選んだ道を行けばいいって言ってくれました」

抵抗されたり、縁を切られたりするかもしれないという不安もあった。

だからこそ、母の一言にとても安心した。

父と弟の反応

手紙を読んだ後、母は父にも手紙を見せたという。

「お父さんは初めショックを受けて『育て方を間違えたのか・・・・・・』とお母さんにこぼしたらしいです」

「でも、今はお父さんも理解してくれています」

弟には、自分から話した。

母へのカミングアウトからおよそ10年後、30歳手前になったときだった。

「たまたま弟とLINEをしていたときに、『新宿二丁目に行った』と言われたんです」

「二丁目に行ったの? 気持ち悪くなかったの? というやり取りをしました」

「その流れでカミングアウトをしたんです」

弟も母と同じだった。

拒絶せず自分のセクシュアリティを受け入れてくれた。

08新宿二丁目で知ったこと

新宿二丁目デビュー

初めて新宿二丁目に行ったのは、20歳のときだった。

試しに行ってみたいという好奇心からだった。

「お店に入るときはすごくドキドキしましたよ」

「1人でしたし、ドアを開けるかどうか迷って、周辺をちょっとウロウロしたりしました(笑)」

初めて行ったのは、レズビアンバーだった。

それ以降、ミックスバーなどいろいろな店を回るようになった。

「二丁目に行ったことで、気持ちが少し変わりました」

「それまでは、お先真っ暗という気持ちだったんです」

「でも、二丁目に行ってLGBTの情報を得るにつれて、いろいろな人がいるんだとわかってきたんです」

「ここから気持ちを切り替えられるかもしれないと思いました」

難聴のレズビアンの人と知り合ったのも二丁目だった。

初めての、自分以外のろうのLGBT当事者。

「その人から『MTFのろうの人がいるよ』って、菊川れんさんの本を見せられたんです」

「プロフィールに出身校が載っていて、ろう学校時代の先輩ということがわかりました」

「『あの先輩がトランスジェンダーだったんだ』と知って、すごく驚きましたね」

高校時代は、自分以外にろうのLGBTなんていないんじゃないかと思っていた。

けれども、同じ悩みを抱えた人が、意外にも身近にいたと知る。

やっぱり性同一性障害だった

性同一性障害の診断を受けたのも、20歳のときだ。

「自分は何なんだろうという思いがあったので、20歳になったときに通院を始めたんです」

「病院で性同一性障害という診断書をもらって、“ やっぱり ” と思いました」

「少しホッとした思いもありましたね」

その後、26歳のときに、国内の病院で乳房を切除した。

とにかく胸が嫌だったのだ。

「我慢するよりも、手術してスッキリしたほうがいいと思ったんです」

「術後は、精神的にもちょっと楽になりました」

子宮・卵巣の切除手術はタイで行った。

「国内で手術しようと思うと、とても高いんです」

「ネットで情報を調べたところ、タイで安く手術できると知りました」

耳が聴こえないため、不安はあった。

通訳をしてくれるアテンドの会社があることを知ったが、それにも費用がかかる。

「悩んでいたときに、友だちが『僕がお願いした個人でやっているアテンドの人を紹介するよ』って言ってくれたんです」

「メールアドレスを教えてもらい、安く手術を受けることができました」

それ以来、ムエタイのトレーニングを兼ねて、タイには何度も足を運んでいる。

自分にとって、タイは特別な国。

「心のふるさとですね」

09 十数年越しの夢

男らしく生きろ

性同一性障害の診断を受けた後、ホルモン治療も続けている。

しかし、4年前、あることをきっかけにきっぱり止めた。

「友だちと遊びに行ったときに、ある人から『男らしく生きろ』というようなことを言われたんです」

違和感があった。

「“ 男らしく ” という意味が、わからなかった」

「男らしいって何だろう?と悩んじゃったんです」

体質なのか、ホルモン治療を受けてもヒゲが生えず、身体的な変化も感じられなかった。

注射を打つ必要があるのか疑問に思い、徐々に通わなくなっていく。

タイで手術を受けたときは、確かに戸籍を変更しようと思っていた。

しかし「男らしく生きろ」という言葉がきっかけで、自分の中に迷いが生じた。

「それまで、自分は男だと思って過ごしてきました」

「そのせいで悩んだことも、たくさんあります」

「でも、男らしく生きろと言われたことで、今までの人生は何だったんだろう? と疑問を感じてしまったんですよね」

真ん中がいい

自分の生き方を、人に決めつけられるのは嫌だった。

「こうあるべき」とカテゴライズされるのは耐えられない。

「オーストラリアでは、パスポートでXという性が選べますよね」

「日本ではまだ導入されていないけど、Xがあったらそれを選ぶだろうなって思ったんです」

「もし選べるのであれば、真ん中がいいなって」

現在は、以前よりも、Xに対する認知も広がってきている。

それにともない、Xを自認する人も増えてきた。

「悩んで揺れていた時期もありましたが、最近は考えが固まってきました」

「男でも女でもどっちでもない、真ん中でいいかなって」

「真ん中という生き方もいいって思うようになってから、ホルモン治療に通うことが少なくなっていったんです」

プロレスラーの夢

現在、ろう者と健聴者のプロレス団体「HERO」に所属している。

プロレスラーとしてデビューしたのは、2010年。

初めて所属したのは、聴覚障害者によるプロレス団体「闘ろう門JAPAN」だった。

「小学生のときから、プロレスが好きだったんです」

「プロレスオタクというか・・・・・・。テレビにかじりついて見るほどでした (笑)」

「プロレスのビデオを借りて、何度も繰り返し見ていましたね」

プロレス技をしょっちゅう弟にかけていたため、母に怒られた。

怒りが沸点に達した母から、プロレス技をかけられたこともある。

そのくらい、プロレスが大好きだった。

プロレスラーになりたいという夢を描いたこともあった。

「中学生のときに、女子プロの有名な団体のドキュメンタリー番組を見たんです」

「入団オーディションのドキュメンタリーで、100人を超える応募者が映っていました」

「それを見て、プロレスをやりたいけれど、耳が聴こえないし、どうせ無理だろうと思っちゃったんです」

「もし耳が聴こえたら、目指したのになって」

当時、好きだった選手はブル中野選手。

ヒールの選手に惹かれることが多かった。

どっちでもいける選手

夢を一度諦めてから十数年。

28歳のときに、友だちから「ろうのプロレス団体がある」と聞いた。

「今まで知らなかったので、すごく驚きました」

「すぐにインターネットでサイトを探しましたね」

自分もプロレスができるんだと知って、入団の申し込みをした。

「面接を受け、すぐ入団することができたんです」

体力テストや実技はなく、ゼロからトレーニングを開始。

戸籍が女性のため、女子プロレスラーとして登録することになった。

「昔の自分だったら、女子プロの選手と呼ばれるのはお断りと思っていたでしょうね」

「でも、今は抵抗を感じないし、気にしないようにしています」

「自分としてはどっちでもいける選手というふうに捉えています」

プロの団体に「一緒に練習しないか?」と声を掛けられたこともある。

そうして練習に参加するうちに「プロの試合に出てみないか?」と誘われた。

「2010年、ろうのプロレスラーで、初めて後楽園のリングに立ったんです」

「夢だった後楽園に立つことができたんだ、と喜びを感じましたね」

「やっと後楽園に来られた!って」

10 一人じゃないよ

花屋の仕事

HEROはアマチュアの団体のため、プロレスでの収入はない。

昼間にアルバイトをして、夜にトレーニングする生活を送ってきた。

いまは、花屋で働いている。

「もともと、花に興味があったわけではないんです」

「たまたま仕事を探していたときに募集を見つけて、応募しました」

花屋だとしても本当は、ホームページの更新などをするようなバックヤードの仕事をしたかった。

しかし、その部門は人が足りていた。

「販売部門に来てもらえたら助かりますといわれて、接客をすることになったんです」

花屋で働き始めたのは、今年の2月から。

花のアレンジメントなども任されているが、なかなかうまくいかず、四苦八苦する日々だ。

「たまにプレゼント用のアレンジメントを頼まれることがあります」

「花のバランスを整えるのが難しいですね」

「作った後に、先輩スタッフに確認をお願いすると、いろいろ手直しをされてしまいます(笑)」

耳が聴こえないため、お客様に相談されても、なかなかうまく対応できないこともある。

「まだ始めたばかりですし、徐々に慣れていくしかないですね」

「アレンジメントを作るときは楽しいなと思いますし、お客様の喜びの言葉も、そのうち聞けるといいなと思っています」

パニック障害と適応障害

プロレスは、今後も続けていこうと思っている。

目標は、所属団体の中でベルトを取ることだ。

「トップを目指したいという思いは変わりません」

「でも、今は精神的なものもあって、練習を休んでいる状態なんです」

現在、パニック障害と適応障害を抱えている。

3年ほど前、ある日突然症状が出たのだ。

「満員電車の中で、ドアが閉まった瞬間、呼吸ができなくなってしまいました」

「汗をかいて、めまいに襲われて・・・・・・」

「次の駅に着き、ホームに降りたときに、ようやく息がつけたんです」

「少し時間をずらして出勤していましたが、そのあと様子がおかしくなりました」

そういった発作を繰り返すようになり、精神科に行くことを決めた。

それまではプライドがあり、精神科に行くのを長いことためらっていた。

「原因はわかっていません」

「ろうやトランスジェンダーなど、いろいろなストレスが引き金となって起きたんじゃないかと思います」

「プロレスの試合ではプレッシャーもかかりますし、そういったことが積み重なって起きたんじゃないかなって」

パンセクシュアル

ろうとトランスジェンダーのほかにも、ストレスの原因があることは自覚している。

「自分はパンセクシュアルなんです。それだけでも数が少ないですよね」

「LGBTの人に話を聞くと、パンセクシュアルと言いだせない人は結構いるんです」

「そういう苦しさもあるのかなって思います」

性自認はトランスジェンダーで性指向はパンセクシュアルは少ないけれど、決して世界に1人だけではない。

だから今後は、自分と同じ人が必ずいるということを発信していきたいと思っている。

「20歳になって二丁目に行くまで、本当に情報が少なくてつらかったです」

「いまは理解のない人たちにも、知ってもらって、理解してほしいという気持ちが大きいですね」

今度は自分が

10代の頃は、目の前が真っ暗で、もう死ぬしかないと思っていた。

そのときの自分にもし会うことができたら、何と声をかけるだろう?

「若いときに死んでしまったら、プロレスラーになるという夢は叶いませんでした」

「自殺しないで生きていたほうがいいよ、って言ってあげたいです」

「死ななくて良かったよ、って」

LGBTの人たちが陰に隠れるのではなく、自分はここにいると声を上げることで、理解は深まる。

表に立つ人が増えれば、差別はなくなっていくんじゃないかと思う。

「自分で発信するのもいいし、LGBTERとか何かの力を借りて発信するのもいい」

「アピールを続けることが大切だと思います」

自分はかつて、アメリカのFTMの人の写真を見て「こういう人がいるんだ」と感銘を受けた。

今度は、自分がその役割を担いたい。

「セクシュアリティに悩みを抱えている人たちや、理解されない人たちは、国内にもたくさんいます」

「そういう人たちに、一人じゃないよと言ってあげたいですね」

あとがき
全身をつかって、喉がカラカラになるほどの知樹さんの会話は、大仕事。伝わることへの過信がないそれは、自分のコミュニケーションの粗さを反省する機会になった■「・・・生きていたほうがいいよ」。プロレスラー矢神葵さんが、あの頃の知樹さんにかけた言葉。夢も、楽しみも、幸せも変わっていくけど、生きていれば苦しさも終わりがあるから■つながってほしい。家族でも、学校でも、そうでなくてもいい。外の世界もあるよ。私たちもここにいます。 (編集部)

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