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“1人の100歩” ではなく “100人の1歩” で世界は変わる【前編】

すらっとしたシルエットで落ち着いた印象の加藤岳さんは、「レインボーさいたまの会」の発起人。埼玉県を中心に全国各地でパートナーシップ制度が導入されるよう、自治体への働きかけを行っている。この活動のきっかけは、トランスジェンダー男性(FTM)の弟さんにあるという。加藤さんと家族、その人生の移り変わりについて聞いた。

2023/06/10/Sat
Photo : Yasuko Fujisawa Text : Ryosuke Aritake
加藤 岳 / Takeru Kato

1978年、秋田県生まれ。性自認はシスジェンダー男性、性的指向はヘテロセクシュアル。自動車好きが高じて、大学卒業後は自動車ディーラーに入社。その後、転職を決意し、海外の労働者支援を行う公益財団法人に所属。仕事を続けながら、2018年に任意団体「レインボーさいたまの会」を発足し、代表を務める。

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INDEX
01 学生時代に感じた “生きづらさ”
02 夢に近づくための自動車の仕事
03 20年間続けてきた国際協力
04 トランスジェンダーの弟から受けた影響
==================(後編)========================
05 セクシュアルマイノリティのサポート
06 家族が互いを受け入れ合えた時
07 活動の進め方、思いの伝え方
08 “100人の1歩” で世界は変わる

01学生時代に感じた “生きづらさ”

乗りたくなかったレール

父の故郷・秋田県で生まれ、その後すぐに父の転勤で宮城県に引っ越した。

小学5年生になった際に、再びの転勤で埼玉県に引っ越し、現在も住んでいる。

「家族仲が悪いわけではないですが、会話をするのがそんなに得意じゃない家庭でした」

両親と2歳上の兄、3歳下の妹の5人家族で育つ。

「お父さんは典型的な昭和の親父って感じで、仕事人間でしたね」

「お母さんは専業主婦で、『学校行きなさい』『宿題しなさい』って言うタイプでした」

両親からは「普通のレールに乗って、大学に行って就職しなさい」と、言われてきた。

「僕は勉強とかが得意じゃなかったんで、イヤだな、って思ってたんです(苦笑)」

学生の頃の自分は、優等生とはいえなかった。

「大学時代にパンクバンドをやっていて、金髪で眉毛も細くて、両親の言う “普通” からは外れた学生でした」

「車が好きで、ドリフトしたり、交差点でグルグル回ったりして、警察に追いかけ回されたことも(苦笑)」

自動車を改造しては、駆け回る日々を過ごし、大学は留年した。

「親からは敬遠されて、『お前みたいな子どもは出てけ』と、言われたりしましたね」

「僕も、面倒くさいから1人でいいや、って感じで、家族に壁を作ってたところがあったと思います」

衝撃を受けた価値観

そんな自分に転機が訪れたのは、大学3年生の時。

「大学にオーストラリア留学のシステムがあって、40日間だけだったんですが、行ってみたんです」

当時好きだったクロムハーツのアクセサリーやヴィンテージのデニムを身につけ、オーストラリアに渡った。

数万円もするアクセサリーやデニムは、自分にとってのステータスだった。

「でも、オーストラリアの人から、『そんなの5000円で買えるよ』って言われたんです」

「現地の人と僕では、まったく価値観が違うことを思い知らされました」

悪ぶってタバコの吸殻を道端に捨てると、現地の人から「鳥が食べたら危険でしょ」と怒られた。

お風呂でシャワーを出しっぱなしにしたら、ホストファミリーに「水がもったないだろ」と叱られた。

「外国に来て、それまで自分の抱いていた価値観が180度変わるのを感じて、衝撃でしたね」

一方で、もうひとつ驚かされたことがあった。

「就活が始まる時期に留学したので、家族や友だちからは『バカなことしてる』って言われたんです」

「でも、日本の大学で出会った留学生仲間はみんな『たけちゃんの生き方はクールだ』って言ってくれたんです」

「日本では自分の生き方が受け入れられなくて、そこに生きづらさを感じましたね」

02夢に近づくための自動車の仕事

理想と現実のギャップ

大学卒業後は、自動車ディーラーに入社し、営業マンになった。

「当時、ドリフトのチャンピオンになるという夢があって、販売店に入れば道が開けると考えたんです」

「現場に出れば、整備用のリフトを使って、自由に愛車を改造できると思ってました」

しかし、現実はそう簡単ではなかった。

「当然ですが、いち営業マンが勝手にリフトや機材を使えるわけがないんですよね」

「勝手に使ったら、上司に『何しに入社したんだ!』って怒られましたし、茶髪で入社したので、『髪を黒くしなさい』って言われたりもしましたね(笑)」

当時は、自分の車で顧客回りをするのが普通だった。

自分の車はシャコタン(車高を落とした状態)で、マフラーの中にある消音器を外していたため、エンジン音がすさまじかった。

「社内でも前例がなかったでしょうし、お客さんからクレームも入りました(苦笑)」

納得いかなかった労働環境

働き始めて数年が経った頃、「納品された新車にムラがある」というクレームが入る。

「僕が納車したものだったんですが、クレームにつながるほどのものではなかったんです。会社としても問題ないという判断でした」

「でも、上司から『とりあえず謝れ』って言われたんです。それが納得いかなくて・・・・・・」

会社も自分自身も悪いことはしていないのに、謝る理由を見出せなかった。
その一件以外にも、職場に対する違和感があった。

「毎日定時を過ぎてから『明日やることを日報に書け』と言われて、サービス残業する日々が続いていたんです」

「結婚して子どもが産まれたばかりだったんですが、帰宅は夜中の12時過ぎだから、子どもの寝顔しか見れなくて・・・・・・」

パートナーとも相談し、転職を考え始めた。

「人事課に相談したら、『残業しない店舗に異動させてあげる』という話をされたんです」

「不意に正義感みたいなものが働いて、『今の店舗の仲間は残業し続けたままでいいんですか?』って聞いたら、『君が考えることじゃない!』って逆ギレされて」

その言葉が癇に障り、つい「僕は辞めます」と口にしていた。

「パートナーに報告したら、『転職先が決まってないのに、家庭をどうするつもり!』って怒られましたね(苦笑)」

ここから半年間の無職期間が始まる。

03 20年間続けてきた国際協力

諦めなかった転職

転職エージェントが「加藤さんみたいな人に合う仕事があるから、推薦したい」と、言ってくれた。その仕事は、海外の労働者の支援。

「ただ、当時はTOEIC495点しかなくて、応募した団体から『全然足りないからダメ』って断られました(苦笑)」

基準となるTOEIC750点以上を取らない限り、転職は難しかったが、諦めずに何度も応募した。

「3回目の応募時は、TOEIC630点まで上がったものの、基準に届いていなかったんですよね」

「これで最後と思って『仕事も辞めました』って話したら、『あと1カ月したら750点いけるんじゃないか』という見込みつきで、採用してもらえました」

それから20年弱、現在も労働者支援の仕事を続けている。

「来月はバングラデシュに行って、再来月はパキスタン、さらにその次はインド、フィリピンに行く予定です」

かつて海外の価値観に感銘を受けた自分には、合っている仕事だと感じている。

“魚の釣り方” を教える仕事

主な業務は、海外に赴き、現地の労働者を支える土台を作ること。

「労働者の生活が保障されるように、現地の労働組合の人に日本のノウハウを伝えるコンサル的な立ち位置です」

国際協力は、 “魚を与える支援” ではなく “魚の釣り方を教える支援” と表現される。

魚を与えても、それがなくなったら食べていけない。しかし、釣り方を教えれば、現地の人だけで食料を確保できる。

「そこで大事なのは、日本の釣り方ではなく、その国や地域に合う釣り方を考えることです」

「現地で実現できる釣り方でないと、自立できませんから」

魚釣りはあくまで例えであり、実際に行っているのは労働環境の整備。

「インドやネパールでは、児童労働の状態にある子がたくさんいます。その子たちを保護する活動のひとつが、『ブリッジスクール』という教育の場です」

「『ブリッジスクール』の運営方法を現地の労働組合の人に考えてもらうなど、その国の人たち自身が児童労働の問題を解決できるように支援しています」

労働者の代表の人たちに、労働問題を解決する意識を持ってもらうのだ。

「20年も続けると思ってなかったですが、今の仕事が好きだし、やりがいも感じてます」

04トランスジェンダーの弟から受けた影響

妹のカミングアウト

話はさかのぼって、パートナーと結婚する前のこと。

デート中に、突然妹から電話がかかってくる。

「そこで急に、『自分は女の子が好きで、自認が男なんだ』って言われたんです。頭が真っ白になって、当時はよく理解できなかったです」

今から20年以上前、トランスジェンダーという言葉は知らなかった。

どうやら妹は、弟だったらしい。

「正直ピンとこなかったんですけど、僕は『お前の人生なんだからいいんじゃないの』って話したらしいです。後から弟に聞きました」

「僕は『できることがあれば応援する』ということも言ったようで、弟は『その言葉に涙が出た』って言ってました」

その時点で弟のセクシュアリティを理解できたわけではないが、周りが変えられることではない、ということは感じた。

「弟が最初に僕にカミングアウトしてくれたのは、すごくやさしかったからだそうです」

「弟の話によると、ちょっと気性が荒いところがある兄から、僕は弟を守ってたらしいです。自分では全然覚えてないんですけどね(苦笑)」

母のリアクション

弟から「親にも話したい」という相談を受け、どうすれば理解してもらえるか、一緒に考えた。

最終的に、弟が直接伝えるということになった。

「弟のカミングアウトを、お母さんは受け入れがたかったようで、『一切その話はするな』って、拒否されたそうです」

「しまいには、『帰ってくるな、顔も見たくない』って、弟は実家を出入り禁止になってしまって」

母は、もっと柔軟に受け入れてくれると考えていた。

「僕のパートナーは台湾人で、国際結婚なんですが、その時はお母さんも『岳のことだから、海外の人でもおかしくない』ってすんなり受け入れてくれたんです」

「弟のセクシュアリティのことも同じように受け入れるだろう、と思ってたので、拒否されたことにびっくりしました」

弟に代わって、自分が実家に帰り、「仕方ないことでしょ」と、母を説得したことがある。

「そうしたら、お母さんに『お前も来るな』って言われて、僕も出禁になりました(苦笑)」

「お父さんは弟を応援してくれていたんですが、お母さんは世間体を気にしたんだと思います」

「当時は両親が秋田に戻っていたので、いきなり娘が息子になって帰ってきたら、ご近所さんが騒ぐでしょうから」

知らないもの=恐怖

「ただ、お母さんの気持ちがわからなくはないというか、僕自身も最初から理解があったわけじゃないんです」

弟がホルモン注射を始めると、ヒゲが生え、筋肉質になり、声が変化していった。

「変わっていく様子を見て、弟に『気持ち悪い』って言ったことがあるんです」

「今はすごく後悔してますが、その時は人体実験みたいに思えてしまったんですよね」

自分にも、アンコンシャスバイアス(無意識の偏見)があったのだと思う。

「知らないものって、怖さを感じてしまうんですよね。レインボーさいたまの会の活動を続けていく中で、ホルモン注射について知っていきました」

「セクシュアリティのことも、知っていけば受け入れられると思うんですよね」

 

<<<後編 2023/06/17/Sat>>>

INDEX
05 セクシュアルマイノリティのサポート
06 家族が互いを受け入れ合えた時
07 活動の進め方、思いの伝え方
08 “100人の1歩” で世界は変わる

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