01何気なくかけた娘への言葉
2011年3月9日
「ねぇ友紀ちゃん、最近、あなたの声が男みたいに低くて、気持ち悪いんだけど」
5年前の3月、同居している娘の異変に気づいて、口を突いた言葉だ。
特に悪気があったわけではない。ただ居間でいつものように娘と話していて、軽い気持ちで聞いてみただけだった。
仕事で大きな声を出さないといけない、インストラクターという職業柄、喉を痛めたのかな、と少し心配もしながら。
娘は質問に答えるでもなく、そのまま仕事に出かけて行った。
体育大学在学中からバイトで始めたフィットネス・インストラクターの仕事に興味を覚え、大学4年からフリーのインストラクターとして働き出して7年。
近所の同級生の女の子が、長い髪を振りかざし、ピンクのジャケットやフリルのブラウスを着て会社勤めしているのに対して、娘はいつもカジュアルなGジャン姿。
髪も男のように短い。
が、動きもキビキビしているので、宝塚の男役のような雰囲気があり、それはそれでかっこいい、とも思っていた。
女らしくはないけれど、さっぱりとして凛々しい、自慢の娘だった。
それに。見かけはボーイッシュな娘ではあるけれど、化粧をしたり、ネイルをしたり、可愛い下着を身につけたり。
やっぱりそこは、年頃の女性だった。
そんな姿を見ていると、娘もそろそろ20代後半、結婚の話が出て、その先にはきっと孫の誕生が待ち受けているのだろう。
そう信じて疑わなかった。女性らしさはなくても、娘は娘に違いないのだから。
声の異変への質問に答えず出て行った娘・友紀の後ろ姿を見送った後、そんなことを考えていた。
告白のメール
当時、東京・田無駅の近くにマンションを借り、美容サロンを経営していた。
2011年3月9日、この日も常連客の予約に対応するため、店に向かう。
お客様への施術中、携帯電話が鳴る。娘からのメールだった。
しかし、その衝撃の内容に、一瞬にして思考が停止してしまう。
「お母さん、実は私は性同一性障害です。1年前から男性ホルモン投与の治療も受けています。これからは男として生きます」
「性同一性障害」「男性ホルモン投与」「男として生きる」。
全てが未知の言葉だから、頭に入ってもこなければ、理解なんてできない。
とりあえず家に帰って、本人と話そう。
混乱を極めたまま、しかし常連客への施術はしっかり行い、家路を急ぐ。
娘・友紀が男として、”友星” として生きることをカミングアウトした日。
母娘にとって運命の日、2011年3月9日を振り返って、母・雅子さんはこう語る。
「友星は昔から何でも自分で決めて、自分で実行する子です。だからカミングアウトのメールには、微塵の迷いも感じられなかった。親の私が相談したり反対する余地もないんです。でも性別を変えるなんて、そんな大切なこと、どうして勝手に決めたのか」
「あの子はすでに前を向いて進んでいたけれど、私はどうしたって、そう簡単には納得がいかない。この日から、深い苦悩の日々が始まったんです」
02自慢のかっこいい娘だった
活発な女の子
「カミングアウトされるその日まで、友星が性同一性障害だなんて考えたこともありませんでした。確かに女性らしくはない娘でしたけれど、私の中ではボーイッシュな女の子、くらいにしか思っていませんでしたから」
娘が幼稚園の頃を思い返すと、確かにままごとより、外で男の子に混ざって遊ぶのが好きだった。
いわゆるレンジャーごっこ、戦隊モノのヒーロー遊びでも「私は黒、何とかちゃんはピンクね」と男の子にも命令するような、勝気な子だった。
「キリスト教系の幼稚園に通わせていたのですが、帰ってきたら、毎日靴下がドロンコで。男の子とサッカーして遊ぶからです。体格は一番小さな女の子だったけど、運動量は人一倍でした」
折り紙を選ばせたら、必ず青。お弁当箱もドラゴンボールのキャラクター入りを好んだ。
「大きくなったら男になりたいとも言っていました。理由はかっこいいからだ、って。他の女の子は、お花屋さんやケーキ屋さんって答えているのにです。加えていつも男の子とばかり遊んでいるから、一度、幼稚園の先生に『うちの子、大丈夫でしょうか?』と相談したことはあります」
「でも先生は『男の子と一緒に遊べるなんて、運動神経がいい証拠ですよ。娘さんを褒めてやってください』とむしろ肯定的で。だから深刻には考えていなかったんです。すぐにそんな悩み、忘れてしまいました。男の子と外遊びするのが好きな、活発な女の子。小さな頃から、そのくらいにしか思っていなかったんです」
凛々しい女性
小学校に上がっても、娘はとにかくスポーツ、身体を動かしてばかりいた。
高学年になると、男子に混ざってサッカークラブにも入部する。
しかし勉強も負けたくないからと宿題も頑張った。
早く練習に行きたいから、と歯を食いしばって机に向かう娘の足元にいつもサッカーボールがあったことを、今でも覚えている。
「でも一方で、エレクトーンも習わせていたんです。当時の友星は発表会にも、ふりふりの花柄のワンピースを着て出ていました。小学校にも制服があって、もちろん女子はスカートでしたが、文句も言わずに着て、通学していましたし」
中学校に入学すると、娘はバスケットボール部に入った。
女子サッカー部が、なかったからだ。
小学校の時から一緒に練習していた男友達と同じ部活に入れないことを、娘は悲しがった。
「身長が150センチくらいしかなかったので、大きな子を相手にレギュラーを勝ち取ろう、と頑張っていました。当時も今と変わらない、短髪でサバサバした雰囲気だったので、同性の後輩からは憧れの先輩に映っていた、という話も聞いたことがあります」
「でも中学校にも制服のスカート、そのとき流行っていたルーズソックスも履いて楽しそうに通っていたし、娘はちょっとボーイッシュな女の子なんだな、くらいにしか考えていませんでした」
高校では真っ黒に日焼けしながら、ソフトボールに打ち込み、東京都公立選手権大会で優勝した。大学は体育系の学校へ。
やはり娘は中学で好きだったサッカーを辞めざるを得なかったのが相当悔しかったのだろう、2年間は下宿生活を送りながら、大学女子で日本一になるべく、サッカーに打ち込んだ。
しかし3年生のとき、ジムで出会った凛々しい女性インストラクターに憧れ、自らもその道に進むことを決断。
インストラクター1人で、スタジオの多くの生徒に体を動かすことの楽しさを伝える。
その様を見て、直感的に自らの未来を選び取ったのだ。
スカートでいる時間より、ジャージやスウェットでいる時間の方が長いような女の子だった。が、一緒に生活していても、それをおかしいとは全く思わなかった。
うちの娘はスポーツが好きだから、その方が機能的な服装でいいじゃない、と。
娘の性に対して、全くと言っていいほど、疑いも持ったことなどなかったのだ。
そう、あのメールで告白されるまでは。
03恥ずかしくて死んでしまいたい
一緒に死のう
「メールを受けたあの日、家への道を車で帰りながら、その1年前のことを思いだしていたんです」
「あれだけ自分のことを自分で決めてきた友星が私に『お母さん、弟だけじゃなくて、私のことも気にかけて欲しい』とポツリ、相談するような素振りを見せたときのことを、です。けれども当時、私は下の子の大学受験、あと仕事のことで頭がいっぱいで」
今振り返れば、娘が男性ホルモン投与の治療を始めた時期が、その相談を受けた時期と重なる。
大事な娘のSOSのサインを受け取れなかった、と自責の念を交えながら振り返ることもあるという。
「そんなふうに過去を思い出しながら、とにかく家に帰って娘と話をしました。でも友星は、男として生きます、テレビに出ます、ブログでもカミングアウトします、と決めたことを言うだけで。話し合いにもならないんです。あとは性同一性障害のことを知って欲しいから、この本を読んで欲しいと言って、一冊の本を置いて、居間を出て行きました」
娘が、自分が、今置かれている状況が、とにかく分からない。
そのためには目の前にある本の表紙を開くべきだったのかもしれないが、そんな気には到底、なれなかったと話す。
「『私の友紀ちゃんがいなくなった』。そんな気持ちでいっぱいでした。これからも母娘二人で、買い物やご飯を食べに行ったり、海外旅行もしたり。いつか結婚して孫が生まれたら、何でも買ってあげられるように仕事も頑張ろう、そんなふうに考えて日々を過ごしていたんです」
「そのライフプランが、全部、目の前から消えたんです」
同時に「恥ずかしい」という思いが、どこからともなく芽生えたとも話す。
「娘が突然、男になった。この状況を親戚や自分の友達になんて説明したらいいの、って周囲の目ばかり気になりだして。もうこんな恥ずかしい思いをするなら、いっそ死んでしまいたい。そのときは思い詰めて、真剣にそう考えてしまったんです」
次の日の3月10日は、娘と出かける約束をしていた。
カミングアウトしたことで、もう気持ちがすっかり吹っ切れた様子の娘は、毅然とした態度で約束の時間に現れる。
その後、二人で車に乗りながら、素直に考えていたことを口にする。
「『友紀ちゃん、私たちを知っている人が誰もいないところに、引っ越ししない』って、本気で言ったんです。娘はもちろん、嫌がりました。『もうお母さん、死にたい、ラクになりたい、あなたが男になるなんて恥ずかしくて生きていられない』」
「一度、口にしたら、もう止まらなくなりました。友星は『恥ずかしくも、何ともない』と言うけれど、『お母さんが恥ずかしいの、苦しいの、だから逃げたい』って、もう堂々巡りで・・・・・・。正々堂々と東京で勝負すると言い切る娘と、結局全く理解し合えないまま、家に帰りました」
帰宅後も、苦悩し続けた。
友紀ちゃんを失った喪失感と、これから訪れるかもしれない、周囲からの偏見への恐怖。
それらに苛まれながら、もういっそ死んでしまいたい、ずっとそれだけを考えて、その夜は明けた。
3.11を体験して
2011年3月11日。
娘のカミングアウトから2日後に、未曾有の大地震が東北地方を襲った。
東京でも震度5強を観測し、交通機関や通信網も麻痺した。
「テレビで被災地の惨状を目にして、私は自分の愚かさを痛感したんです。生きたくても生きれなかった人たちの悔しさ、避難所で今後の生活の青地図も描けないで不安な日々を過ごす方々の苦しさに比べたら、娘が男として生きることへの羞恥心なんて、本当にちっぽけな悩みだと。何より友紀は男としてでも、生きていけるのだから」
「震災で深い傷を負いながらも、逞しく前に進もうとしている被災者の方々を見て、生きること、前を向くことの大切さを教えてもらいました」
震災当日、母親を心配して5時間かけて歩いて帰ってきてくれた娘。
改めて自分が、娘に愛されて生きていることを痛感した。
とにかくお互い、生きていてよかった。
この時の気持ちが、母子の和解の出発点となる。
04カミングアウトを乗り越えて
子どもの方が大人
震災後の1週間は、あっという間に過ぎた。
ようやく周囲も落ち着いた頃、娘のカミングアウトの問題とじっくり向き合える時間ができた。
「娘の置かれている状況、性同一性障害についてもっと知りたい、とは思える心境になっていました。でもやっぱり『私の友紀ちゃんがいなくなった』という気持ちが完全になくなったかといえば、そうでもない。自分一人で、自問自答する時期でした」
そんな時、友紀さんの弟、大学生の息子が自分に投げかけた言葉に、ハッとさせられた。
「『お母さん、子どもは親の持ち物じゃないんだよ。単にお母さんの理想が、崩れただけ
じゃん。家族が一番、理解してあげないといけないんじゃないの』って息子に言われたんです。どうやら友星は男性ホルモン投与の治療を受ける前に、看護士の従姉妹には相談していたようで。その従姉妹から、息子は姉が性同一性障害であることを聞かされていたみたいなんです」
子どもの方が自分より大人なのかもしれない。
そう感じた瞬間でもあった。
喧嘩しても親子
それからは自分一人で苦しむのはやめた。
性同一性障害について真に理解したいと思い、娘が治療を受けているクリニックに足を運んだ。
「保護者の同意がなければ治療を受けられない歳でもない、ましてや自分で通院代も支払っているのだから、来てほしくない、と友星は言いました。でも私は、とにかく先生に直接、お話を伺ってみたかったんです。で、先生に言われました、娘さんは健康そのもので、頭の中や考え方が男性なだけなんですよ、と」
治療によって、性器以外は男性の身体に近づけることも知った。
先生からの説明を受け、一気に性同一性障害が身近な問題になり、娘への理解を深めるきっかけになったという。
「実は自問自答している時期、本当に苦しくて、周りが見ても驚くくらい、やつれて老けてしまったんです。心配して、どうしたのと友達に言われても、娘が性同一性障害で、なんて言えるはずもなくて。でも他人に言うことはできなくても、せめて家族には自分の気持ちを言おう、感情はぶつけようって、先生にお話を伺ったのをきっかけに思えるようになったんです。だって喧嘩しても親子ですから」
「以降、娘の治療がどんどん進んで、声が低くなる、ヒゲが生える、身体がたくましくなっていく。本音を言うと、どんどん”友紀ちゃん”がいなくなっていくのは寂しい。でもその悲しさを、一人では抱えず、友星本人にぶつけようと思ったんです。その方が、お互い、理解しあえるんじゃないかって。そうしたら友星は、きちんと治療の経過を教えてくれて私を安心させてくれるようになったんです」
「私はその度に思いました、友紀ちゃんは死んだんじゃなくて、生まれ変わるんだな、と」
娘があるべき姿に生まれ変わろうとする日々を、少しずつ少しずつ、応援できるようになる自分がいた。
05娘か息子かは関係ない
夢は叶う
黄金色の肌に筋肉隆々。
今、娘は友星と名前を変え、フリーのフィットネス・インストラクターとして活躍している。
「顔つきもなかなか精悍で、男前じゃないの、と親ながらに思います(笑)。でも小柄なのが、ちょっとかわいそうで。ああ、もっと大きく産んでやればよかった、と思います」
雅子さん自身はご両親の介護もあって、今は大阪に在住。
母娘は離れて暮らしている。
「性同一性障害の子だけでなく、ニューハーフ、あとLGBTではなくても友星の友達は皆、私のことを『友星くんのママ』って慕ってくれるんです。娘のおかげで、普通の生活では会えないような、いろんな価値観を持った方々に会うことができました」
「友星のインストラクターの先生とも、仲間ぐるみの付き合いですし。私と娘を支えてくれる方々には、本当に感謝しています」
我が子が娘じゃなきゃできないと思っていたことも、実は大方、実現することができた。
「よく平日の昼間から待ち合わせて、ランチしたりお買い物したりします。娘といっても外見は男ですから、いい歳した息子とその母がキャッキャッはしゃいでる、と側から見たら異様に思われているかもしれない、とふと考えたりもします(笑)」
エステの研修でアメリカ、ヨーロッパに一緒に旅行することもできた。
吉祥寺にサロンを持つ夢も二人で実現できた。
あとは結婚と孫の出産だが、それは諦めてもいい、と考えている。
「何しろ友星が、本当に楽しそうに生きているんですから。あの子の生き生きした様子を見ていると、親の私がライフプランを変えることぐらいどうってことないと、今は思っています」
1度しかない人生
とはいえ、何もかも受け入れられたかというと、そうではない。
例えば友人から来た年賀状に孫の写真がプリントされているのを観ると、気持ちが塞ぐこともある。
「実は友星のカミングアウト以来、ずっと今でも年賀状が書けないんです。出したら出したで、そういったお孫さんの写真が入った返信が来ることが予想できるからです」
「でもひょっとしたら来年は、自分から年賀状を出せるかもしれません。私にそう思わせてくれるくらい、今の友星は本当に輝いて見えますから」
「私、たまに思うんです。カミングアウトの1年前、友星が私にSOSを出してきたとき、それに真剣に向き合っていたら、今どうなっていたのかな、って。『ホルモン注射を受けようと思うんだけど』と相談されたら、きっと反対していただろうな、と。そう思うと、あのときSOSを見落としたのは、案外良かったのかもしれない、とも思うんです。けれども、それはうちの友星が、なんでも自分で決めて、実行する子だったから」
「もし自分の子供が性同一性障害かもしれない、と悩んでおられる親御さんがいたら、極端に心配する必要はないけれども、SOSは感じ取って、相談には乗ってあげて欲しい、とは思います。でも案外、子どもは親よりも考えているもの。相談されてもそれはその子の人生、一度しかない人生だから、子どもの思うままに歩ませてあげるのがいい」
「私個人の体験からは、そう思います」
自分の好きなように、望む人生を歩めばいい。
今、息子・友星に送る、心からのエールだ。そう思えるようになったのも、あのカミングアウトがあったから。
我が子が性同一性障害だと知って、必要以上に自分を追い込んで苦しむ母を、息子・友星は当事者の辛さを抱えながらも、そっと支えてくれたのだ。
その優しさが、心に空いた穴を少しずつ小さくし、今では息子の一番の理解者となることができた、と自負している。
「今では堂々と、息子の友星です、と胸を張って言えます」。凛として語る、中谷さん。母子の間で様々な試練があったからこそ、今、分かり合える。前に進む苦しみなくしては幸せは掴めない、そんな人生の鉄則を改めて思い知らされた。
記事を読んで下さった皆さまへ
ふと思うことがあります。
子どもと一緒に悩んでいる親のサポートも欲しいと。
抱えている悩みを、親も打ち明けたい・・・・・・。
振り返ると今でも涙があふれます。
涙は枯れることがないですね。
生きにくい生き方をあえて選んだ我が子に、
真剣に生きることを教えてもらったように思います。
世間はまだまだ理解をしてくれない性同一性障害。
みんな頑張って生きているのに、偏見、嫌がらせなど
悲しくなりますね。
誰かが変えないと・・・・・・。
幸せだよね、みんな。