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東北・仙台で「ひと」の声を聴き、ともに考えていく活動を【前編】

男性と女性の「ダブルジェンダー」だという小浜耕治さん。持参してくれた手作りのマスコット作品は、どれもあたたかみがあって表情豊か。おだやかで周りをなごませるチャーミングな人柄がうかがえる。1992年より東北・仙台で25年間LGBTに関わる活動に取り組み、東北のさまざまな民間活動を牽引してきた。そんな小浜さんのLGBT活動の歴史はとても興味深いものだった。

2017/06/08/Thu
Photo : Mayumi Suzuki  Text : Mayuko Sunagawa
小浜 耕治 / Koji Kohama

1962年、大阪府生まれ。東北大学理学部を卒業後、同大大学院に進学し、地質学・古生物学を研究。1992年に自分へのカミングアウトを果たし、それを発端としてゲイサークルやHIVの活動に従事。LGBTの枠にとらわれず精神障害や発達障害、生活困窮といったより困難を抱えている人の相談支援を幅広く行っている。現在、宮城県仙台市に在住。24年来のパートナー「旦那」と同居している。

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INDEX
01 ともに学び、ともに生きる活動
02 ”自分の言葉” を持たなかった時代
03 活動を始めたきっかけ
04 サークル活動で生まれた人とのつながり
05  HIVがある社会の当事者であるために
==================(後編)========================
06 ”自分の言葉” を持つこと
07 性指向と性自認
08 東北・仙台のLGBT事情
09 あるがままの自分で
10 一つひとつ丁寧に着実に

01ともに学び、ともに生きる活動

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25年にわたる東北・仙台での活動

現在、東北・仙台を拠点とし、ゲイを始めとするLGBTやHIV、被災地問題などさまざまな分野で支援活動をしている。

「活動をはじめてもう25年になります。ライフワーク的に考えていますね」

『東北HIVコミュニケーションズ』を始め、『レインボー・アドボケイツ東北』など、セクシュアリティや人権に関する市民団体の立ち上げに関わり代表も務める。

「当事者から電話や対面で相談事を受けたり、コミュニティ内でミーティングや勉強会をしてみたり。依頼を受けて講演することもあります」

「最初はゲイサークルを立ち上げて。それから行きがかり上、だんだんHIVだったりセクシュアリティだったり」

「活動の範囲は、精神疾患や発達障害、生活困窮にも広がっていっています」

相談支援員。

職種としてそう名乗ることはあるが、自分が ”支援” や ”サポート” をしているという感覚はない。

マイノリティや病気、障害といった困難を抱えている方は、世の中をよりセンシティブに捉えている。

そんな彼らから社会や地域で直面している状況や問題を教えてもらう。

それで私自身も成長させてもらったという気持ちがあるから、これは”支援”や”サポート”ではないのだ。

活動を始めて25年。

息切れをしたこともあるし、長い期間休んだこともあった。

けっして平坦な道ではなかった。

「でもやっぱり自分が生きていく根っこは、活動することだったから」

「活動することでエネルギーをもらっています」

「いろんな人に迷惑をかけたこともあるけれど、その分恩返ししなきゃというのもある」

心身ともに擦り切れて休んで、立ち止まって、もう一度やり直して。

そうやって、今まで呼吸するように活動を続けてきた。

活動の根本は、自分と向き合うこと

マイノリティや病気、障害などは、一見マイナスに思われがちなこと。

それをプラスイメージとして、自分の中にどんどん取り込んでいきたいと思っている。

「当事者って誰だろう、って思うんです」

「当事者とは、HIV感染者やセクシュアルマイノリティなどだけではなくって、HIVがある社会に生きている人、セクシュアリティを持つすべての人が当事者なんですよね」

あらゆる状況や課題をどう自分に引き寄せて、自分のこととして考えられるか。

それをみんなと語り合いながら、よりよい方向性を探っていきたいと考えている。

「まず自分自身のことをちゃんとわかっていないと、社会に働きかけたり、相手に気付いてもらったりすることはできないんです」

ちから技で社会や相手を変えようというのではなく、自分も一緒に考えて一緒に変わっていく。

自分を掘り下げて自分を理解し、自分の特性や限界をわかっていないと、周囲のさまざまなことに変化をもたらすことはできないのではないだろうか。

02”自分の言葉” を持たなかった時代

セクシュアリティへの気づき

セクシュアリティの違和感に気づいたのは、小学生の時。

「ウルトラマンが素敵だと思った」

「特にウルトラマンが負けている時にドキドキする(笑)」

雑誌「薔薇族」が創刊した中学の時。

電車の中吊り広告に並ぶ刺激的な見出しにドキドキしたし、「薔薇族映画」の記事はすごく気になった。

でも、当時はゲイ雑誌を手に取る勇気はなかった。

好きになるのはいつも男の子。

自分の中で腑に落ちたのは、高校の時。

「部活が一緒の同学年の男の子を好きになった時に、これはもう確実にそうだと気づいたんです」

でも、同時に「男が好きであることを認めると、『本格的に変態』になるからだめだ」と禁止した。

男性を好きだという気持ちを抑えなきゃいけないと思った。

それでも恋愛はしたい。

恋に恋をしていた時期もある。

だから、高校から大学にかけて同級生の女性と付き合ったこともある。

「人間としてすごく惹かれ合っていたんだと思います」

「でも今思えば恋のテンションではなかった。キスの感覚が全然違っていたんです」

セクシュアリティを認めない自分

長年、男が好きであることを禁止し、自分に目を背けて生きてきた。

「女性と付き合って子供ができたら、異性愛者になれる」

「女性と恋愛できなくても、長年一緒にいればパートナーシップが築ける」

「それでいい」

そう本気で思い込もうとしていた。

世の中が思う性別にはめて、世の中の期待に応えられるような自分になる。

親や周囲が願うであろう自分になっていくことに努めてきたのだ。

「セクシュアリティ:性自認と性指向って”私は何者で、誰とつながりたいのか”ということだと思うんです。性というものは生き方そのものにかかわる」

「だから、セクシュアリティを認めないということは、自分を認めないこと」

根っこがグラグラなので、何を経験して何を積み重ねようとしても、いつでも白紙に戻るのだ。

1992年の自分へのカミングアウトまで、ずっと自分を受け入れられなかったし、認められなかった。

いつまでたっても「自分の人生」は始まっていかなかったのだ。

03活動を始めたきっかけ

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自分へのカミングアウト

自分自身がセクシュアリティを受け入れられたのは、1992年の始まりだった。

「もうそろそろ30歳になるというタイミングで、ちょうどアカーの府中青年の家裁判、エイズが発生した報道やエイズパニックとかがあって、だんだん向き合わなきゃいけないだろうな、と思うようになりました」

当時大学院の研究室にいたが、手詰まり感もあった。

生物進化を解明する化石の研究。

「化石を分析して、それがどんな種なのかという古生物学の研究なんですが、研究していく中で、そもそも種とは何か、時間とは何かっていう哲学的な話になってくるんです」

すると、必然的に自分とも向き合わなければいけなくなる。

哲学の中で自分がどうあるべきかというのは、考え方しだい。

ある意味、なんでも正解だ。

となると、身体性がよりどころとなってくる。

今まで「自分が何者であるか」というのを向き合わずに生きてきたのに・・・・・・。

考えるほどに研究は続けられなくなっていき、生活は乱れていった。

ゲイ団体との出会い

なんだか自分の人生はちっともかみ合っていない。

そう感じていた時に、活動を始めるきっかけに出会った。

雑誌「アドン」を発刊した南定四郎さんが立ち上げたILGA日本。国際的なゲイ・レズビアン団体「ILGA」の日本のサポートグループだ。

「当時、すでに名古屋と札幌にILGA日本のグループがあり、ちょうど中間地点ということで、東北で合宿しようということになりました」

「それに参加したのがきっかけです」

「あわよくば地元・東北の人がグループを作ってくれたら、という意図があったとのことですが、自分はそれにまんまとはまって(苦笑)」

東北・仙台のグループの立ち上げに関わることになった。

それまでゲイバーには行っていたが、同じセクシュアリティの人たちと交流すると言えばそれぐらい。

それが、いきなり札幌と名古屋、東京のグループの人たちともつながって、一気にゲイコミュニティの輪が広がった。

「初めはゲイサークルの活動だったんですけど、そのうちHIVの活動にも広がって」

ILGA日本以外の団体ともさまざまにつながることで、活動にのめり込んでいった。

「だんだんと研究がどうでもよくなっちゃって」

大学院を辞めて、活動に専念するようになった。

04サークル活動で生まれた人とのつながり

ゲイサークルの立ち上げ

1992年から立ち上げたゲイサークル。

活動の基本は、ゲイ同士が集まってエンパワーし合うこと。

「月に一度昼間に集まり、楽しくお話をするという場所。バーよりも自然な出会いだし、さっと集まってワイワイやって。それを楽しむみたいな」

東北ならではの芋煮会を開催することもあった。

始めた当初、ゲイバーは10数軒あったがサークルは珍しかったため、毎回20人以上の若者が集まり盛り上がった。

「だんだん仙台や東北でレズビアンのサークルとか、トランスジェンダーのグループもできてきて、ゆるーく横のつながりができはじめました」

東北・仙台エリアでは、草分け的な存在のゲイサークルだったが、2000年あたりでマンネリ化したこともあった。

「新しい人があんまり入って来なくなったんです。他にもグループができて唯一のものではなくなったというのも理由のひとつでしょう」

「もう今までのつながりを維持していくのでいいよねー、って言ってたんですけど、2004年ぐらいからはゲイコミュニティでのHIVの活動をはじめたいということで、HIVボランティアの活動に発展していっています」

LGBTコミュニティとのつながり

仙台はコンパクトシティだ。

「知り合いの知り合いは自分、ってすぐに戻ってくるぐらい。本当に狭い」

「だから、関係を維持しないとそこでやっていけないんです。ケンカして別れてもまた出会ってしまう」

「だから、みんなとどううまくやっていくかを考えるようになるんでしょうね」

他の地域では、ゲイはゲイで、レズビアンはレズビアン、と別々に活動しているという話を耳にすることもあるが、東北・仙台エリアには当てはまらない。

「もちろんそれぞれの場はあるんだけど、『こういう活動を始めたんだって?どんな感じ?』というふうに情報交換はし合っていて。今も、お互いよい距離感を保っているんじゃないかな」

「サークルの中でトラブルがあり、来れなくなってしまった人も見てきているから。それはすごくもったいないことですよね」

同じLGBTの仲間として、横のつながりはやっぱり大事。

特に地方にいたら情報が集まるようにしておかないと、すぐに閉鎖的な環境に陥ってしまう。

だからつながりは意識的に大切にしていきたいと思っている。

05HIVがある社会の当事者であるために

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HIV活動のきっかけ

ゲイサークルで集まる際に、毎回ちょっとしたテーマを出していた。

「12月に世界エイズデーというのがあって。それについてみんなで情報収集したり、各自行動したりしてその成果を持ち寄って」

自分はHIV検査を受けに行った。

「その中で、エイズメモリアルキルトの活動を見つけてきた仲間がいて、それに参加してみようか、となったんです」

エイズメモリアルキルトとは、畳一畳ほどの人の大きさのキルトを、エイズで亡くなった方の遺族や周りの人がその人をしのんで作るという世界的な活動だ。

その活動が仙台で開催されたのは、1991年が初めて。

「エイズは怖い」「エイズ=死」というイメージが根強く、まだ差別・偏見がひどがった時代に、病気としてではなくエイズを抱えていた一人ひとりに光を当て故人を悼む。

「ともに生きてきた大切な人」「その大切な人を失ったのだ!」と声を上げ、社会に働きかけていった。

自分もそれに共感し、1992年からHIV活動を始めた。

「HIV活動は電話相談を受けるとか、地域にHIVの情報提供をするとか。いろいろな形でどんどん発展していきました」

自分にとってHIVとは何か

HIV活動を始めたときにしていたのは、HIV当事者をサポートするというよりも、「自分にとってのエイズって何だろう」と考え、学ぶということだ。

「単にエイズを社会現象として勉強するのではなく、どう自分に引き寄せられるかということがポイントです」

自分の中の偏見・思い込みをありのままに受け止めて、それとどう向き合うか。

それをするためには、まず自分とエイズとの関わりを語ってみることが大切だと思っている。

自分自身に問い、周りと語り合うことで、自分とエイズとの向き合い方が見えてくる。

「いまだにエイズ活動に関しては ”支援” と言っていないんですよ」

「強いて言うなら ”ともに学びともに生きる活動” かな」


<<<後編 2017/06/10/Sat>>>
INDEX

06 ”自分の言葉” を持つこと
07 性指向と性自認
08 東北・仙台のLGBT事情
09 あるがままの自分で
10 一つひとつ丁寧に着実に

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