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いくつになっても自分を取り戻せる! 39歳で女性として人生をスタートした私。【後編】

いくつになっても自分を取り戻せる! 39歳で女性として人生をスタートした私。【前編】はこちら

2018/09/10/Mon
Photo : Tomoki Suzuki Text : Yuko Suzuki
瀬川 沙織 / Saori Segawa

1975年、京都府生まれ。男の子として生まれ、家業の跡継ぎとして育てられながらも、幼い頃から自分の性別に違和感を抱く。中学生の時、両親に打ち明けるも理解されず、以来ずっと自らのセクシュアリティをひた隠しにしてきた。28歳で、仲良しの女性と結婚、1児を授かる。夫として、父親として過ごしていたが39歳の時、ひょんなことがきっかけで、性同一性障害と診断されるに至る。40歳でホルモン治療開始、41歳で改名。

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INDEX
01 女の子の名前がほしい
02 中3で両親にカミングアウト
03 トランスジェンダーの存在を知る
04 「男であろう」と必死だった
05 ”気の合う女友だち” の延長で結婚
==================(後編)========================
06 フルタイムの女性として生きたい
07 もう、隠せない。私はMTF
08 本当の自分に戻りたいだけなのに
09 肩書も収入も捨て、ゼロからのスタート
10 今、自分ができること

06フルタイムの女性として生きたい

父親になることで男らしさを保っていた

結婚生活は、とくに問題がなかった。

「よく、部屋のインテリアとかで夫婦の意見が対立してケンカする、って聞きますよね」

「でも、私が選ぶのはたいていかわいいものだったから、彼女は反対しようがなかったみたい(笑)。趣味が合いました」

「以前と変わらず、気の合う友だち、という感じで仲良く暮らしていました」

しかし、2年経った頃から心の中がモヤモヤしてきた。

結婚と前後して会社では常務取締役に就任したこともあり、跡継ぎとして「男らしく、しっかりしろ」という声が外野から聞こえてきた。

それは期待を込めての言葉だったのだろうが、自分にとっては大きなストレスとなる。

「男らしさ」を求められれば求められるほど、自分の中にある「女性らしさ」が言葉やしぐさとして表に出てきてしまう。

「それを必死で抑えるわけですよ。つらかった・・・・・・」

妻との間に男の子が生まれた。

父親として、男性であることをなんとか保っている状態だった。

MTFとして生きる自分の未来が見えない

結婚後も車のレースを続けていたが、いよいよ車を維持できなくなる。

年齢的にも潮時だと考え、38歳のときにやめた。

「レースは、自分が ”女性化” するのを止めるために続けていた部分もあったので、やめたらストッパーが外れたような感じになってしまって」

しかし、はたして自分が「女性として」生きていくことができるのだろうか。

「世の中には、ニューハーフさんとして仕事をして生きていく人もいますけど、私は普通の ”フルタイムの女性” として生きたいと思いました」

私はやっぱり、トランスジェンダーかもしれない。
そう感じながらも、病院には行かなかった。

「『性同一性障害』と言われて、病気扱いされるのがイヤだったんです」

「それに、性同一性障害と診断がついたとしても、その後、どうやって生きていけばいいのか」

「男性から女性になった人が、実際にどうやって暮らしているのか、情報がほとんどなかったから、自分の未来が想像できなくて苦しかった・・・・・・」

07もう、隠せない。私はMTF

”女性装” に目覚めてしまった

39歳の秋、9月のある日のこと。

「何がきっかけだったのか、自分でもよく覚えていないんですけど」

いわゆる ”女装趣味” はなかったが、女の子の服はかわいいし、本来自分が着る服だと感じた。

それから、洋服を買い集め、髪の毛も伸ばし始めた。

「最初は家で、家族が寝た後に着たり、夜中にこっそり家を抜け出して女装クラブに繰り出していたんです」

「そのうち、昼間に女性の姿で繁華街やデパートに出かけてウインドウショッピングをするようになりました」

「髪がまだ伸び切らないので、ウィッグをつけて」

自分としては、”女装” ではなく ”女性装” をしているつもりだった。

妻に「トランスジェンダーでは?」と指摘される

翌年2月、女装扱いされるのが嫌でウィッグから卒業。

より本物の女性らしくなったと、うれしく思っていたのもつかの間、隠していた女性ものの洋服が妻に見つかってしまう。

「シフォンのスカートとかブラウスとか。妻がそれを見つけて私のところに持ってきて、『何、これ!』って」

ごまかそう、なんとかはぐらかそうと思ったが、頭の中が真っ白になった。

ウソが思い浮かばない。

気がつくと、妻に向かって「(洋服に)触るな!」と叫んでいた。

そして、家を飛び出した。

「1週間、車中泊をしながらあちこちを転々としていました」

両親からの電話も無視。

妻からの「私も気持ちが落ち着いたから一度、帰ってきて。話しをしよう」というメールを見て、戻ることにした。

家では両親と妻が待ち構え、さっそく家族会議に。

「あなた、ひょっとすると性同一性障害なんじゃない?」

それが、妻の第一声だった。

しっかり者の妻も、「気持ちは落ち着いた」と言いながら、顔を見ると明らかに動揺していた。

「そこで、自分もそうではないかと思っているって、カミングアウトしました」

「一度、病院を受診してみよう」ということで、話し合いは終わった。

08本当の自分に戻りたいだけなのに

「お父さんのおっぱい、やわらかい」

受診先を調べると、地元にGIDの診断ができる病院があった。

あらかじめ自分史を書いて持って行ったところ、「これは、性同一性障害、性別違和に間違いない」と、医師はすぐに診断書を書いてくれた。

「先生には、『年齢的に、ホルモン治療を始めるなら早いほうがいい。でも、それには奥さんの承諾が必要だよ』と言われました」

妻に伝えると、彼女は承諾書を書く代わりにと、あれこれ要求を提示した。

要求はどんどんエスカレートし、最終的には金銭を求めてきた。

「私が、ホルモン治療の費用を稼ぐために、夜に居酒屋でアルバイトを始めたんですね。そこで給料をもらっていることを、彼女は知っていたので、お金を要求してきたんでしょうね」

もしかすると妻は、ホルモン治療を断念してほしくて、そういう行動に出たのかもしれない。

「でも、お金を渡しても何だかんだ言って承諾書を書いてくれないので、もう待てない! と思って、妻に内緒でホルモン治療を始めてしまいました」

個人差はあるが、ホルモン治療を始めると脂肪がつきやすくなり、体つきが丸みを帯びてくる。

体が少しずつ女性らしく変化していくのはうれしかったが、まだ妻に知られるわけにはいかない。

「服を着れば何とかごませていたんですが・・・・・・」

息子とお風呂に入った夜のこと。

先に出た息子が妻に、「お父さんのおっぱい、やわらかいよ」と言ったらしい。

風呂から上がり、服を着て居間に行くと妻に「脱いで」と言われた。

少しふくらんだ胸、明らかに形の変わった乳首を見て、妻は激怒。

「その日から妻は荒れ、家は針のむしろ状態でした」

自分はただ、本当の自分になりたいだけ。
申し訳ない気持ちがなかったわけではない。

私の居場所はどこ?

治療を始めた当初、昼間は男性として仕事をし、夜だけメイク・おしゃれをして女性として生活していた。

「でも、体型が変わってくると、男性として生きるのがどんどんつらくなってしまって」

「私服は完全に女性の洋服、仕事にも女性用のスーツを着ていくようになりました」

そのうち、周りから「気持ち悪い」「病気なんじゃないか」という声が聞こえてくるようになる。

会社でも「あんな人がいるところでは働きたくない」と、社員が辞めていった。

それまで事態を静観していた両親も黙ってはいなかった。

「洋服もアクセサリーも『捨てろ』と言われて。それは困るので、洋服をすべて車に押し込み、車の中で寝泊まりしていました」

唯一、女性としての働くことを認めてくれていた夜のバイト先でも、戸籍が男性であることが、少しずつ問題視されるようになった。

男性として働くことを求められ、それが苦痛で辞めてしまった。

自分の居場所はどこにもない。

女性として働ける!

絶望しかけたとき、フェイスブックの投稿の中に、横浜に新しくオープンするお店の記事が目に止まった。

ニューハーフクラブのスタッフ募集だった。

「自分はニューハーフではないと思っていたけど、そのときはまだトランスジェンダーとしての生き方がわからなかったので、働くならここしかない、と思いました」

ニューハーフの仕事も、雇ってもらえるのは35歳くらいまでだと聞いていた。

39歳の自分が雇ってもられるかどうか、わからない。

「募集要項には、採用条件として『若くてきれいな方』とあったので無理だろうなと思いながらも、ダメ元で連絡をしたんです」

必死さが伝わったのだろうか。ママがわざわざ京都まで面接に来てくれた。

しかもラッキーなことに、採用が決まった。

09肩書も収入も捨て、ゼロからのスタート

離婚届を置いて、ひとり横浜へ

両親に「会社を辞め、家からも出て行く」と告げた。

当然、「何を考えているんだ!」と言われたが、決心は変わらない。

「妻は、『もう、好きにして』という感じでした」

「当時の私は、外見的にも精神的にも男なのか女なのかわからない中途半端な状態だったので、妻としても気持ちが悪くて見ていられなかったんじゃないでしょうか」

気になったのは、子どものことだ。
説明したところでわかるだろうか。

「大事な話があるんだ。お父さん、実は心の中は女の子なんだよ」

「そう話したら、息子は『どんな姿になっても、お父さんはお父さんだから』って」

息子が、自分の話をどう解釈し、どの程度理解できたのはわからない。

本意もわからない。

「でも、その言葉を聞いて、家を出る決心がつきました」

父親の会社に17年間勤め、跡取りとして周囲から期待されていた。
地位も収入もあった。
妻も、かわいい息子もいる。

そのすべてを捨て、ゼロから人生をやり直すことに対して後悔はなかったが、不安はあった。

でも、残りの人生、自分の真の姿で歩いていきたい。

判を押した離婚届を置いて、京都を後にした。

色物扱いをされるのはイヤ

横浜から始まった新しい人生も、目の前には波の荒い海が広がっていた。

最初に勤めたニューハーフクラブでは、残念ながら半年で閉店。

居酒屋でアルバイトを始めたが、アルバイトという身分に加え、外見は女性だが戸籍は男性だということが問題だとされ、なかなかシフトに入れてもらえなかった。

「ホールの仕事という約束だったのに、キッチンに回されて」

キッチンの仕事は、洗いものはもちろん力仕事も多いため、女性スタッフはやりたがらない。

「私は『男だから』と、そういう仕事ばかり回ってきました」

「悔しかったし、自分には向いていない仕事だったのでつらかった」

「でも、お金をもらっているのだから仕方がない。食べていくためと、働きました」

その後も、いくつかの店を経るうち、ショーパブでニューハーフとして働かないかと誘われた。

「ただ、ニューハーフさんの世界は、けっこう男の縦型社会で上下関係が厳しい。私はそういうのが苦手なんですよ」

「お客さんたちも、ニューハーフさんは男性だという認識のもとで、接してくるんですね」

「男性として扱われるのは、つらかったですね。でも、いつか絶対に女性として生きていくために耐え、必死で働きました」

きっと誰かが見てくれている

「あるお店で飲んでいた時、ママが忙しそうだったので、代わりにお酒をつくったりして、ちょっとお手伝いしたんです」

その働きぶりを見初められ、ママに「うちで、女の子として働かない?」と声をかけられたのだ。

「うれしかった。もちろん、『はい』と即答しました」

ただ、自分が本当に目指しているのは、女性の正社員として昼間の仕事に就き、生きていくことだ。

「ママはそれも理解してくれて、『昼間の仕事が見つかるまでうちで働けばいいじゃない』って」

ママとのすばらしい出会いに感謝していると、さらにいいことが起きた。

22歳の頃の女友だちと再会する機会があった。

「私を見て、『別人みたい!』ってびっくりしてました。そりゃ、そうですよね(笑)」

「全然わからない、きれい、とほめてくれて」

飲食サービスの店を経営している彼女は、「一緒に働かない?」と誘ってくれた。

不器用でも、一生懸命に生きていれば必ず報われる」

この言葉を今、実感している。

10今、自分にできること

年齢的に「遅すぎる」ということはない

性同一性障害の診断後、ホルモン治療を受け、女性としての人生を歩み始めて2年ほど経つ。

女性名へ改名も済ませ、治療のかいあって、外見もかなり女性らしくなった。

「周りの人たちには、『ものすごいスタートダッシュだね』と言われます」

「自分では、何がものすごいのかよくわからないんですけど(笑)」

ただ、自分は「こうだ」と決めたら突っ走るタイプだったのかと、我ながら驚いている。

「私、ネバーギブアップという言葉が大好きなんです」

「何事も、やってみなければわからない。年齢なんて、関係ない!」

たとえば、「ホルモン治療は30歳をすぎると効果が出ない」という声をよく聞くが、個人差はあるはずで、やってみなければわからない。

「私の場合は順調なようで、お医者さんにも『こんなに効果が出るとは思わなかった』と言われました」

性同一障害と診断されるまでは、「女性として生きていけるのか」と不安に思ったこともある。

「だけど、勇気と覚悟を持って一歩踏み出してみたら、思っていた以上に目の前がパーっと開けたんですよ」

今でも「あの人、男性よね!?」という視線を感じたり、心無い言葉をぶつけられることもある。

めげそうになることも、なくはない。

実際、たくさん傷ついてもきた。

「でも、女性として胸を張って生活するようになったら、いいこともたくさん起きるようになったんです」

MTFとして堂々と、女性らしく生きていく

「自分を偽って、女性であることを隠そうとしていたときは、周りに理解してくれる人なんて、いないと思っていました」

「今は、女性としての私を応援して、手を差し伸べてくれる人がいます」

LGBTへの理解が広まりつつあるという、今の世の中のムードに助けられてもいる。

「だからこそ、もしセクシュアリティで悩んでいて、その状況から抜け出したいと思うなら、もっともっと表に出た方がいいと思うんです」

たとえばフェイスブックやブログなど、間接的にカミングアウトする方法もある。

自分の場合も、フェイスブックの投稿を誰かが見てくれて、その人から自然に話が伝わっているようだ。

「京都時代、仕事関係でつきあいの合った人が連絡をくれて、『トランスジェンダーだということをアピールして、こっちで仕事していてもよかったんじゃない?』って言われました」

「いえいえ、2年前の京都はとてもそんな雰囲気ではありませんでした。でも、そういう時代に変わってきているのかもしれませんね」

昨年7月には、大阪市内で開かれたLGBTのブライダルショーにモデルとして出演、メディアデビューを果たした。

「憧れの純白のウエディングドレスを着ることができて、本当に幸せでした」

自分が表に出ていくことで、トランスジェンダーのことをひとりでも多くの人に知ってもらえたら。

トランスジェンダー当事者にも「私は私でいいんだ」と思ってもらえたら。

「私も、隠れたい、埋没しちゃいたいと思っていた時期はありました。でも、誰かが表に出ていかなければ世の中は変わらないと思うんです」

そのために、これからもトランスジェンダー、MTFとしてどんどん表に出ていくつもりだ。

「友だちには、『そういうところ、沙織ちゃんは変に男らしいね』って言われます(笑)」

大切な家族のこと、自分のこと・・・

「実は先日、妻が用事があるからと京都から出てきたので、一緒にランチしたんです」

不思議なことに、昔のように仲のいい友だち同士の雰囲気になれた。

「彼女、私の格好を見て『すごく似合ってる』『がんばったね』と言ってくれて」

「離れたことで逆に、お互いの気持ちがまた、ちょっと近づいたのかもしれません」

久しぶりに、手をつないで歩いた。
息子のことも、いろいろ話してくれた。

「最近になって彼が、私と一緒にやったことをいろいろ思い出して、『お父さんはこんなことをしてくれた、あんなこともしてくれた』と、彼女に話すんだそうです」

息子は11歳になった。

これから思春期を迎え、自分の境遇をどう思うのか。
父親に対して、どんな感情を持つのだろう。
母親の手を焼かせることになるのだろうか。

申し訳なく思う。

しかし、もはや自分の生き方は変えられない。
妻や息子にも、自分の好きなように生きていってほしいと思う。

今、自分にできるのは「幸せに生きること」。

それだけしかないかもしれない。

それが、好きなようにさせてくれている家族への恩返しの一つになるのではと、思っている。

あとがき
男性として生きていた少し前の画像を笑いながら見せてくれた沙織さん。確かに別人。継がれてきた家業、求められる役割、どうにか “はまろう” とした時代がリアルに思い浮かんだ■今は軽やかに語るけど、飲み込んだ言葉や置いてきた記憶は、きっと、たまに沙織さんに押し寄せている■[利他]を掲げるほど美しくなれない。でも、[利己]をよしと言える度胸もない。自分のしあわせと他の人のしあわせが近いときに、しあわせなのかもな。(編集部)

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