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親の暴力は “ふつう” じゃない。身近な人に助けを求めてもいいんだよ【前編】

不意に込み上げる嗚咽を静かに抑えながら、母親から虐待を受けていた子どもの頃の記憶を語ってくれた鈴木真実さん。涙で濡れた瞳は、恩人である先生の話をするとき、あるいは現在のパートナーの話をするときには眩しいほどに輝いた。自分がトランスジェンダーであると気づいたのは21歳の頃。本来は自分を守ってくれる存在だったはずの家族から自らを守り、生き延びることで精一杯だった子どもの頃から、トランスジェンダーFTXであると自覚してホルモン治療や乳腺切除を経たいま、そしてこれからについて聞いた。

2024/07/24/Wed
Photo : Taku Katayama Text : Kei Yoshida
鈴木 真実 / Mami Suzuki

1992年、三重県生まれ。小学1年生のときに両親が離婚。交際相手から暴力を受けていた母親から虐待を受け続け、中学3年生ようやく学校の担任教師に助けを求めることができた。以来、たびたび児童相談所が介入しつつ、高校卒業まで虐待に耐え続ける。看護師として内科と小児科、産婦人科を8年近く担当したのちに退職し、現在は主に子どもと女性の性の悩みに向き合える場所を作るため、起業準備中。

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INDEX
01 母と子ども4人で暴力から逃れて
02 虐待されるのは自分のせい?
03 心の痛みをリストカットに変えて
04 先生に助けを求めてもいいんだ
05 性被害にあった人のケアを
==================(後編)========================
06 レズビアンよりもトランスジェンダー
07 家族へのカミングアウトで「気持ち悪い」
08 妊娠や出産について自分で決める権利
09 一人ひとりの悩みと向き合える場を
10 信頼できる人はきっと身近にいるから

01母と子ども4人で暴力から逃れて

夫婦喧嘩の末、父が家に火を

「子どもの頃のことって、あんまり覚えてないんです」

「唯一、覚えているのは家の床が黒焦げになったこと。自分が小学1年生のとき、両親が喧嘩をして、父が家に火をつけようとしたんです」

「ショックすぎて、細かいことは覚えてないんですけど・・・・・・」

真っ黒になった床のことだけは覚えている。

その喧嘩のあと、両親は離婚した。
原因は父の借金とDVだった。

離婚後は生まれ育った三重県を離れ、母の故郷である岐阜県へと引っ越した。

「自分は4人きょうだいの2番目。姉が1歳上で3番目が2歳下、4番目が4歳下です。些細なことで、よく取っ組み合いの喧嘩をしてました(苦笑)」

女性ひとりで子ども4人を育てていくのは大変なことだ。
母は、実家から少しは援助があるのではと考えていたのかもしれない。

「時代のせいですかね・・・・・・。祖父と祖母には離婚自体を反対されてたみたいで、岐阜に戻ってきても実家に来てもらっては困るって言われたそうです」

「体裁が悪いからってことなんでしょうね・・・・・・。それで仕方なく、県内にある母子寮(母子生活支援施設)に、家族5人で入りました」

虐待するターゲットを決める母

岐阜県に引っ越してからも生活は落ち着かなかった。

「転校がすごい多くて。小学校では4回くらい、中学校でも2回、岐阜県内で転校しました。しかも、転校は急に決まることが多くて」

「母の彼氏が母に暴力を振るって、急に家族でDVシェルターに入って、そのまま引っ越ししたりとか。母の仕事も長続きしなかったですね・・・・・・」

家族を養うために母が働いていたため、両親の離婚当時まだ小学2年生だった姉が家事を担い、きょうだいたちの面倒をみていた。

「そのストレスのせいで、姉は自分の髪の毛を抜いてしまってました」

そんな姉も、中学2年生のときに家を出て行ってしまう。
母からの虐待が原因だった。

交際相手から暴力を受けていた母は、自分たちきょうだいに暴力をふるっていたのだ。

「当時付き合っていた母の彼氏の暴力がひどくて、そのせいで母からの虐待もひどくて・・・・・・。きょうだい全員が母から暴力を振るわれてたんですけど、やっぱり一番ひどかったのが姉でした」

「母が、きょうだいのなかで “この子” ってターゲットを決めると、ほかの子はその子に話しかけたり気にかけたりできないんです」

「かばったりなんてしたら、とばっちりのように手を上げられるので・・・・・・」

姉が逃げ込んだ先は母の実家だった。

きっと祖母も母の虐待のことを知っていただろう。
しかし、それも躾であると見て見ぬふりをしていた。

「姉がいなくなってからは本当につらかった。母の捌け口にされて」

「包丁を突き出されて、本当に刺されるんじゃないかってときもあって、怖かったです。でも妹たちも助けるに助けられなくて」

「食事もさせてもらえないこともありました・・・・・・つらかったです」

02虐待されるのは自分のせい?

冬の公園で野宿することも

母からの虐待は、周りに気づかれることはなかった。
というより、気づかれないようにしていた。

「周りに知られたくなかったんです」

「虐待されているときは、自分が悪いことをしたから、母に手を上げられてるんだって思っていました。『お前が言うことをきかないから悪い』って母からも言われていて・・・・・・」

「もう、洗脳みたいになってました」

「自分のせいだから、虐待されてもしょうがないってずっと思ってました」

そんな生活のなかで、学校だけが安全な場所だった。

「学校にいくのは楽しかったですね。学校でバスケをするのも楽しかった。唯一、母から手を上げられなくて、自分らしくいられる場所でした」

「姉がいなくなって、母の暴力の矛先は自分に向くってことはわかってました。だからといって、自分も逃げようとは思わなかった」

「祖母は、姉しか引き取らないって言ってたんで、逃げる先もなかったですし・・・・・・」

冬に家から閉め出されて、公園で野宿することもあった。

「姉がいた頃は、ふたりで野宿してましたが、姉がいなくなってからはひとりで、補導されないように、周りにバレないように、公園で身を隠していました」

DV重ねる交際相手を刑事告訴

中学3年生のとき、隠し続けた虐待の状況は周囲に知られることとなった。

「交際相手から母が殴られて、頬骨がバキバキに折れて・・・・・・手術しなくちゃいけないくらいで・・・・・・。これはもう自分の力ではどうにもできないって思って、学校の担任の先生に、これまでのことを話しました」

そこで初めて、きょうだい3人で、児童相談所に一時保護された。

施錠された施設で、外出できず、学校にも行けないままで一週間。
そして一時保護のあと、再び母のもとへと戻った。

「母が手術するほどの大怪我を負ったということで、警察にも入ってもらって、交際相手を刑事告訴したんですけど・・・・・・しばらくしてから母は『あの人は悪くない』って言って、告訴を取り下げちゃったんです」

「DVを受けている人の典型的な行動ですよね(苦笑)・・・・・・」

しかし、事件があってからは交際相手が家に来ることはなくなった。

とはいえ交際相手との関係が絶たれることはなく、母への暴力は周りからは知られないように続き、体から傷やアザが消えることはなかった。

03心の痛みをリストカットに変えて

初潮を迎えたことを受け止めきれず

児童相談所に一時保護されても、交際相手が刑事告訴されても、母は子どもたちへの虐待をやめなかった。

「何度か児童相談所の人がうちに話を聞きに来てくれてたんですけど、母が『大丈夫です』って答えたら、当時は相談所の人も踏み込めなくて」

暴力に怯えて暮らす日々で、未来を夢見ることは難しかった。

「自分は結婚しないだろうな、って思ってました。結婚しないというか、結婚したくないというか・・・・・・」

「あと、自分はたぶん二十歳になったら死ぬんだろうな、と。死ぬ・・・・・・というより死にたいという気持ちが強かったです」

「母の姿を見ていて、結婚して、好きな人と一緒に生活するとか、子どもを育てていくっていう楽しさがわからないなって思っていました」

「だから二十歳になったら、区切りとして死ぬんだろうなって」

その絶望の原因は自分の体にもある。
思春期に入って、胸が大きくなり、初潮を迎えた自分の体が疎ましかった。

「生理になったときも、母には言えなかったんです。言ったら怒られるんじゃないかっていう気持ちもあったんですが、なにより、自分に生理が来たってことを自分自身が受け止めきれなくて、言えませんでした」

「小さな頃から、自分は大きくなったら男になるんだろうなって、漠然と思っていたので。周りの女友だちとは違って、オシャレとか化粧とかにまったく興味が湧かなかったし・・・・・・」

妹の腕全体に切り傷が

初潮を迎えたことは母の交際相手に気づかれ、母の耳に入る。

「自分がその人に言ったわけじゃないのに、『なんで私じゃなくて、あの人に言ったの!?』って手を上げられました」

母の怒りのスイッチは、どこにあるかわからなかった。
もしかしたら母自身もわかっていなかったのかもしれない。

いつどんなことで暴力を振るわれるかわからない。
その恐怖が常にあった。

「いつも母に隠れてリストカットしていました。お風呂とかトイレで」

「最初は手首を切ってたんですけど、これはきっとバレると思ったので、太ももとか足首とかを切るようにしてて」

「心の痛みを体の痛みに変えているような感覚で・・・・・・。切ると、一時的にスッキリする感じがありました」

リストカットをしていたのは、自分だけではない。
3番目の妹も、腕全体に切り傷があった。

「妹の傷は、結構ひどかったですね・・・・・・。中学校はあまり行けなくて、高校も途中で家出してしまって」

家族全員が体だけでなく、心に傷を負っていた。

04先生に助けを求めてもいいんだ

守ってくれた4人の先生

二十歳になったら死ぬんだろうな。
未来を夢見ることはできないでいたが、将来の仕事については考えていた。

「中学生のときに、母が介護の仕事をしてたんですが、自分もたまに母について行って『こうやるんだよ』って教えてもらうこともあって」

「だから、なんとなくですが、介護の資格をとるために福祉系の学校に行こうかな、とは思っていました」

「母も、仕事を教えてくれたりとか、優しいときもあったんです」

高校は福祉科に進学し、フェンシング部に入った。

「福祉科の担任・副担任の先生とフェンシングの顧問の先生。本当にすごいお世話になりました。自分には、守ってくれた先生が4人います」

ひとりは、中学3年生のときの担任の先生。
刑事事件の際に、児童相談所につなげてくれた。

そして、高校の3人の先生だ。

「高校に入ってすぐは、やっぱり家のことを誰にも話せなくて」

「でも、三者面談のときに、先生が『勉強をがんばってるね』と母の前で褒めてくれたんです。で、家に帰ってから、褒められたことが気に食わなかったのか、なにが原因かわからないんですけど、母にすごい怒られて・・・・・・」

「そのことを先生に話したら『それは “ふつうじゃないからね” って教えてくれて。それでやっと、自分の状況がふつうじゃないって気づきました』

ふつうじゃないと気づけたからこそ、助けを求めてもいいんだと思えた。

男子生徒と付き合って「好きってなんだろう?」

「副担任の先生は、高校の3年間、ずっと相談にのってくれました」

「高校3年生のとき、家から閉め出されて、どうしようもないときに、先生に電話をかけたら、すぐに来てくれて。抱きしめて『大丈夫よ』と言ってくれて・・・・・・その日は児相に連絡してもらいました」

「ふたりの先生からは携帯番号を教えてもらっていたので、家でなにかあると、どちらかに連絡して、話を聞いてもらって。本当にお世話になりました」

フェンシング部に入ったのも、顧問の先生に会えるからという理由が大きい。
毎日、学校という安全地帯で、ふたりに会うのが楽しみだった。

「いま思うと、恋愛に近いような感情だったのかも」

実は中学3年生のときに、周りに盛り上げられて、流れで男子生徒と付き合ったことがあった。

「家族からも『彼氏できないの?』ときかれたりとか、周りの女友だちは男の子と付き合ったりしてたので、自分も男の子と付き合わなきゃいけないのかな、という気持ちだったんだと思います」

「でも、付き合ってみたら、やっぱりちょっと違う感じがして。居心地が悪くなるというか、『好きってなんだろう』って悩んでしまって・・・・・・」

中学のときの男の子への感情よりも、高校でのふたりの先生に対する気持ちのほうが、より恋愛に近いように思えた。

05性被害にあった人のケアを

性暴力を受けたと妹が

高校卒業後は実家を出て、看護助手として病院で働いた。
しかし2年目は実家に戻り、近所の接骨院の受付を担当。

母が住む実家に、再び戻ることを決めたときの気持ちは複雑だった。

「やっぱり、虐待されているとはいえ・・・・・・母の愛情がほしくて。さみしくなってしまったんですよね・・・・・・。家は家っていうか」

「ただ、家に戻っても、母から愛情はもらえなかったですけどね(苦笑)」

さみしいという気持ちと、妹のうちのひとりが心配だったということもある。

「自分が家を出る前、高校3年生のとき、妹が性暴力を受けてしまって・・・・・・。妹が言うには、知らない人が家に押し入って、被害にあったって・・・・・・でも家族の誰も妹の言うことを信じてあげられなくて」

「なんかすごい妹が平常心で、いつもどおりだったので。ぜんぜん取り乱したりなんかしてなくて。まるでなにもなかったような感じで」

「母が警察を呼んだんですけど、やっぱり妹を信じてあげられなくて」

「信じてほしかった」

被害を受けたあと、妹の生活はその心とともにさらに乱れていった。

リストカットを繰り返し、学校には行かない。
とうとう高校の途中から家出をして、不登校になる。

妹から言われたひとことが忘れられない。

「お母さんに信じてもらえなくても、真実には信じてほしかった」

「そう、ポツッと言われてしまいました」

実家近くの整骨院に1年勤めたあとは、看護学校に入学し、再び家を出た。

しかし1年間一人暮らしをしたあとは、母から「お金がかかる」と呼び戻され、実家から看護学校に片道1時間かけて通った。

実家に戻ってくるたび、家族が荒んでいくように感じられてつらかった。

「家出している妹が、たまに実家に帰ってくると、母と妹が取っ組み合いの喧嘩をするんです・・・・・・。ひどいと、毎年のように警察がうちに来てて、家の状態も家族の関係性も、ひどくなっていくばかりでした」

看護学校を卒業して、病院に勤めてからは実家を離れた。

「その後、妹は通信制の高校を卒業して、いまは働いているようです」

「妹が性暴力を受けたこと、そしてそれを信じてあげられなかったことは、常に後悔とともに、心に留めてます」

「それがあったからこそ、看護師としてやらなくちゃいけないこととして、性被害にあった人のケアを自分がしっかりしたいと思うようになりました」

 

<<<後編 2024/07/28/Sun>>>

INDEX
06 レズビアンよりもトランスジェンダー
07 家族へのカミングアウトで「気持ち悪い」
08 妊娠や出産について自分で決める権利
09 一人ひとりの悩みと向き合える場を
10 信頼できる人はきっと身近にいるから

 

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