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Xジェンダーという言葉と出会って迷いが消えた【後編】

Xジェンダーという言葉と出会って迷いが消えた【前編】はこちら

2021/07/15/Thu
Photo : Tomoki Suzuki Text : Shintaro Makino
野田 涼 / Ryo Noda

1979年、大阪府生まれ。短パン、Tシャツで野山を駆け回るボーイッシュな女の子。男子にはまったく興味がわかず、女の子の仲よしを作りながら生きてきた。会社の先輩に連れていかれたクラブをきっかけにLGBTの世界を知り、自分のセクシュアリティに目覚める。昨年、Xジェンダーであることを前面に出し、イベント、アパレルの分野に踏み出した。

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INDEX
01 細くて真っ黒で男まさり
02 男子には一切興味なし
03 大人っぽい同級生に抱いた恋心
04 好きになる相手は女性ばかり
05 楽しかった初めての海外研修
==================(後編)========================
06 セクシュアリティで悩んだ1年間
07 知られざる世界へのデビュー
08 オーストラリアで知った自由な世界
09 お前はキムタクがカッコいいと思わんのか!?
10 Xジェンダーという言葉が意識を変えた

06セクシュアリティで悩んだ1年間

女らしくしてみたものの・・・・・・

イギリスでの研修を経験し、就職先は海外と繋がりのある会社を希望するようになった。そして、短大の就職課で紹介されたのが、スポーツウエアのブランドだった。

「海外事業部の事務の仕事でした。でも、英語はなんとか海外からの電話を取り次いだり、ファックスを書いたりする程度でしたけど」

職場の雰囲気は最高だった。おじさまたちにかわいがられ、しょっちゅう飲みにも誘われる。

「仕事もアフター5も楽しかったんですが、悩みもありました」

社会人になると男女のあり方が学生のときとは大きく違った。

「タイトスカートの制服も着なきゃいけないし、女らしくしなきゃいけない空気がありました・・・・・・」

髪も伸ばし、化粧もして、精いっぱい頑張った。

「普通のOLにならなきゃいけないのか、男性を好きにならないといけないのか、悩みましたね」

初めてセクシュアリティに関するモヤモヤが生まれた時期だった。

好きになったのは、また女性

しかし、しばらくすると、自分らしくない生活は幸せではないと割り切ることにした。

「これはダメだ、と思って、髪をショートに戻しました。ちょうど制服も廃止になったんで助かりました」

悩んでいた時期は1年弱と短かった。そして、仲のいい相手ができた。

「会社の2年上の先輩でした。ああ、やっぱり、また女性か、という感じでしたね(笑)」

仕事ができるカッコいい人だった。初めのうちは、先輩の同期の人と4人くらいで食事にいくことが多かった。

「私がなついていたような関係でしたね。そのうち、ふたりだけで出かけるようになりました」

「そのふたり、つき合ってんの?」といわれると、「え? そういうふうに見えますか」と、「はい」とも「いいえ」ともいわず、はぐらかした。

「やっぱり、公にはできませんでした・・・・・・」

初めての共同生活

その人とはしばらくつき合って、一緒に住むことになった。

「私も彼女も親元から出たいと考えていて、それなら一緒に住みましょうか、という話になりました。もちろん、親にも周りにも内緒でした」

初めての共同生活は1年ほど続いたが、彼女が退職することで関係は解消となった。

「彼女としては、男の恋人ができて結婚したいとか・・・・・・。確かそういう理由でした。まだ、年齢的にも生涯を共にするパートナーを求めていたわけではないので、それほど辛くはありませんでした」

それまで何人かと交際をしてきたが、結局、男性と結婚して子どもを育てる人が多いと感じていた。

「やっぱり、男が好きなんだよね、結局、男にいくんだよねって思いますね(笑)」

07知られざる世界へのデビュー

先輩たちに誘われてクラブへ

共同生活は解消したが、実家には戻らず、一人暮らしを始めた。22歳だった。

「クラブ好きの会社の先輩に、『メッチャ、面白いで。あんたも来てみい』って誘われたのが最初でした」

先輩ふたりと3人でミナミのクラブを初体験。そこではドラァグクイーンが踊り、凄まじい熱気にあふれていた。

「私はいつもどおりのボーイッシュな服装で行ったんですが、先輩たちは服も髪も爪もバッチリ決めていました」

何回か通ううちに、クラブの楽しさに魅了されていった。そして、あるとき、ドラァグクイーンのお姉さんが、別の場所でDJをやっているから、今度、来てみない、と声をかけてくれた。

「誘われるままに行ってみると、その人が普通の男の格好をして回してたんです。カッコええなぁ、と感激しました。その店名が『エクスプロージョン』でした」

自分の人生を変えることになる場所に足を踏み入れた瞬間だった。

声をかけてきた “どう見ても男性”

「ほら、こんなイベントあるで。わたしらは興味ないけど、あんた、あるやろ」

そういって先輩から渡されたのが、『女性限定』と但し書きがされたクラブイベントのフライヤーだった。

「そのときは、レズビアンもLGBTもトランスジェンダーも知りませんでした。ただ、何となく自分が呼ばれているような予感がしましたね」

ひとりきりで「女性限定イベント」のドアを開けた。

「それが私のデビューでした(笑)」

一見してレズビアンと分かる人たちが、出会いや楽しさを求めて大勢、集まっていた。それが「女性限定」の意味だった。

「そこで、ある人に声をかけられて、ふと顔を見たら、どう見ても男なんですよ。名前も男の名前だし、何で? 女性しか入れないはずなのに、何、何? って頭の中が疑問だらけになりました」

その人と一緒に飲んで、別の場所に連れていかれた。

「そこでジェンダーのことについて、いろいろと教えてもらいました」

08オーストラリアで知った自由な世界

私は、中性ボーイッシュ

イベントで出会った人たちから手ほどきを受け、自分でもあれこれと調べるようになった。

「FTMがいて、MTFっていうのもあるのか。トランスジェンダーって、みんな戸籍を変えるのか? ・・・・・・そんな感じでした」

LGBTの人たちと出会う機会も増え、ますます興味が深まる。いろいろな人たちと話をした。

「男みたいな女みたいな、女みたいな男みたいな人たちとの出会い。学生のときは、想像もしなかった世界でした」

知識が増すと、「じゃあ、私って何? どこにカテゴライズされるの?」という究極の疑問が降ってきた。

「私は女じゃないからレズビアンじゃない、と。じゃあ、FTMなのかな、と思いました」

男の服を着て、女性に恋をする。いくつか一致することがあった。

「でも、手術をしたいとか、戸籍を変えたいとは思わない。つまり男になりたいわけじゃない。じゃあ、これも違うのか・・・・・・」

その結果、選んだ言葉が「中性ボーイッシュ」。ほかのジェンダーよりは、しっくりとくる呼び名だった。

日本に帰りたくない!

27歳、6年半、勤めた会社に辞表を提出した。

「ワーキングホリデーでオーストラリアに行くことにしたんです」

海外で働いてみたい。その気持ちが大きな決断を導いた。その背景には、短期留学の楽しい経験がある。

「最初にブリスベンに入って、ゴールドコーストとか、何カ所かに住みました。楽しくて、帰りたくなかったですね」

主に日本食レストランで働きながら、1年間、飲んで食べて働いて過ごした。

「フィッシュ&チップスとか、パンケーキがおいしくて、10キロ近く太ったんですよ」

セクシュアリティに関する文化の違いも明らかだった。

「普通に、アー・ユー・レズビアン? ミー・トゥなんて、いわれるんですよ」

働いていたレストランでは、かなり親密な印象の女性同士の客も珍しくなかった。

「それまでジェンダーのことで嫌な思いをしたことはありませんでしたけど、オーストラリアに住んでみて、やっぱり日本では見えない抑圧を受けていたと感じました」

文化の違いはジェンダーに限ったことではない。

「裸足でスーパーに入ってくる人や、いつも上半身裸で過ごしているサーファー、髪にハイビスカスの花をつけているバスの運転手さんとか、みんな自由なんですよ」

「自分を隠してない。それが、とっても心地よかったですね」

オーストラリアは自分に合っている。ずーっとここにいたい。そう思いながら毎日を過ごした。

09お前はキムタクがカッコいいと思わんのか!?

出会いをきかっけに大阪を離れる決意

日本に帰ってきて、派遣社員として働き始めたとき、女性限定イベントである人に出会った。

「東京に住んでいる人でした。遠距離も辛いんで、それなら、私が東京へ行きましょうか、ということになりました」

生まれ育った大阪、大好きな大阪を離れて東京へ行く。それは大きな決断だった。

「これは、親にカミングアウトするタイミングやな、と考えました」

まずは、姉に相談。「いきなりそんな話をしたら、お父ちゃんもお母ちゃんもびっくりするで」と、忠告をうける。

そして、まずは東京へ引っ越す話から始める作戦を授けられた。

両親へのカミングアウト

「まず、『東京に行きます』と切り出しました」

「何で!?」と聞き返す両親に、「ある人と一緒に暮らすことになった」と説明する。「実は、その人は女性なんです」と続け、「私、女の人しか好きになれないんです」と告白した。

「この逆算の作戦がうまくいったんです。お姉ちゃん、すごい、と感謝しました(笑)」

母親は「そうやと思った」と納得してくれた。

「この年になって男の影がまったくないんですから、勘づいていても不思議じゃないですよね」

慌てたのは、父親だった。

「お前は、キムタクを見て、カッコええと思わんのか!」と、声を大きくした。「全然、思わん」と答えると、「そうか、あかんか」と肩を落とした。

2011年、東日本大震災直後の4月、神奈川でふたりの生活が始まる。

「私も彼女のご両親に会いました。どちらの家族も、男とつき合うことを押しつけてこない、理想的な関係でした」

家族の理解もあり、ふたりの生活はそれから数年間続いた。

10 Xジェンダーという言葉が意識を変えた

改めて保育士を目指す

神奈川で暮らすようになってすぐ、一旦は諦めた保育士の仕事を目指すことにした。

「大阪で小学生と関わる短期バイトをしたことがあって、小学生ってかわいいな、と改めて感じたんです」

パートナーに相談すると、喜んで背中を押してくれた。

「それから専門学校に通って資格を取って、学童保育で仕事をするようになりました」

始めてみると、保育士の仕事は性に合っていた。以来、現在まで保育士のキャリアを継続している。

Xジェンダーを自認

神奈川での生活もすっかり馴染んだある日のことだった。

「Xジェンダーという言葉に出会ったんです。本当に衝撃的でした。一発で、私はこれだ! と納得しました」

男でも女でもない。それを堂々と名乗れるジェンダーがあるのか。それは驚き以外の何ものでもなかった。

「その言葉に出会った喜びと同時に、自分以外にも同じ人たちがたくさんいることに感動しました」

Xジェンダーを自認すると、意識も変わった。

「今までは女であることを否定していたから髪を短くしていましたけど、Xだと思えば、長くてもいい、と思えました」

化粧もファッションも同じだった。無理に「女」を否定する必要はない。自分らしく生きているのが一番いい。それを支えるキーワードがXだった。

みんなが集まれるカフェを開く

東京に出てきて10年がたった。

「本当は大阪のほうが好きなんですけどね」

しかし、東京のほうが友人も多くなり、新しいことへの挑戦も始まった。

「DJのスクールも卒業しました。将来的には自分でカフェを開いて、そのブースで回したいんです。それが夢ですね」

セクシュアルマイノリティの人たちが気軽に集まれる場所を提供したい。始めたばかりのオフ会イベントは、その第一歩だ。

「自分はセクシュアリティを非難されて嫌な思いをしませんでしたけど、なかには苦しんでいる人もいます。その人たちに寄り添いたいですね」

孤立すると苦しさが増す。誰かに会える場所があれば、きっと救われる。

「LGBTという言葉は知名度が高くなってきましたけど、Xジェンダーは、まだ知られていません。自分のことをオープンにして、Xをもっと広めたい。そう願っています」

自分自身も、ある場所との出合い、たくさんの人との出会いで世界を広げることができた。今度は、自分が悩んでいる人を助ける番だ。

あとがき
潮風で飛びそうな帽子を押さえる仕草やサラリと流れる髪は、〔男でも女でもない〕と語られたことすら忘れて、誰でもない涼さんだと感じる一瞬だった■オーストラリアの開かれた空気が、いまへ運んでくれたのか。考えや感じ方を変えるのは難しい。別人にもなれない。であれば、いる場所を変えたり、会う人を変えてみるといい■「孤独にならないでほしい」と涼さんはいう。できることは何だろう。変えることは、少しでも動いてみること。(編集部)

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