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Writer/shu

誰かと付き合う自分の姿が想像できない― クワロマンティックのわたしの違和感

かつて友達が「恋愛的に気になった人としか、2人では出かけない」と言ったとき、わたしは少し驚きました。みんながみんなそういう意見ではないはずですが、じわじわと違和感が残りました。わたしはクワロマンティックとして、自分の気持ちが恋愛感情なのか、それとも友情なのか、考えることがあります。その中で、ずっと変わらずあるのが「誰かと付き合う自分の姿が想像できない」という感覚です。

クワロマンティックのわたしは「2人で出かける」ことに恋愛的な意味をもたない

誰かと付き合うという話をする前に、その前提とも言える「2人で出かける」「デートをする」ことに対するわたしの違和感についてお話しします。

「2人で出かける=恋愛的に気になっているから」という謎の方程式

わたしが友達の言葉に驚いてしまったのは「2人で出かける」ことが「恋愛的に気になっている」とイコールだと感じたからです。その友達曰く、2人で出かけるという行為には、恋愛的な意味が含まれていて、お互いに相手を恋愛できるかどうかという目線で見ているとのこと。

こうした話を複数人の友達から聞いたため、当時わたしは、世の中の ”ふつう” から外れているのかもしれないと思ってしまった記憶があります。

クワロマンティックのわたしは、恋愛的な意味を携えて2人で出かけたことはありません。

わたしの場合は、「話しやすい」とか「お互いに相手のペースを尊重できる」といった心理的安全性が高い相手となら、2人で出かけても居心地よくいられるんじゃないか、と思っています。

「デート」って一体なんなんだ? と思うクワロマンティックのわたし

わたしが「デート」という言葉をイメージした場合

・恋心を抱きはじめた者同士が同じ時間を過ごす
・すでに付き合っている二人が同じ時間を過ごす

この2パターンが浮かびます。しかし、わたしはその「デート」というものを体感したことがありません。

お互いの心理的な距離感を縮め、もっと仲良くなるために「デート」する。

その気持ちはわかりますが、2人で出かけることが恋愛を前提とした意味での「デート」だとは考えません。これはわたしだからなのか、クワロマンティックだからなのかはわかりませんが・・・・・・。

2人でご飯に行ったり、深い対話をしたりして、ともに心地良い時間が過ごせたらそれでいいんです。だから「それって(恋愛的な意味を持つ)デートだよね?」と言われたら、「たぶん違う」と答えると思います。

こうして考えてみると、わたしは誰かと時間を共有していても、必ずしも恋愛を前提としていません。こういうところが、クワロマンティックだなと思います。

「誰かと付き合う自分の姿が想像できない」のはなぜなのか

「デートしてみて、付き合えそうかを考えて、付き合う」という、わたしの中にはない流れが世の中の当たり前だとしたら、どうだろう・・・・・・。

デートも恋愛経験もないことを疑ってみたけど、どうも違いそう

わたしはデートをしたことがないし、その先の恋愛経験もないから、誰かと付き合う自分の姿が想像できないのかもしれない、と考えます。

果たしてこれは合っているのか。単に経験不足が原因だという結論だったら、これはクワロマンティックとは無関係ということになる。ここで随分と悩んだ過去があります。

しかしよくよく考えてみると、経験は関係ないんじゃないかと思ったんです。
中高生時代の友達の会話を思い返してみると

・気になる人と学校の帰り一緒に帰ってみたい
・好きな人を祭りに誘ってみようかな〜
・彼女ができたら映画に行きたい

といった話をしていたな〜と思います。

デートの経験、恋愛経験がなくても「もしデートに行くなら」「もし付き合ったら」という未来を、周りの同級生たちは自然に思い描いているようでした。

そのときのわたしは、そうした想像すらしていなかったんです。
そして想像ができないまま、今まで過ごしてきてしまいました。

みんなには恋愛の想像スイッチがあって、ON/OFFを切り替えられるけど、わたしはそのスイッチすらない気がする。この感覚って、経験の有無だけでは説明できないと思うんです。

「誰かと付き合う自分の姿が想像できない」のは、恋愛のストーリーを持っていないからかもしれない

クワロマンティックのわたしが思うに、多くの人は「告白して、付き合って、恋人として振る舞う自分・・・・・・」という恋愛のストーリーを心に持っていると思うんです。

それに「恋愛感情がある相手」と「友達」とを明確に分けて考えることができます。

そうすると、デートして付き合うという想像がしやすくて、自然にできるんじゃないかって思います。

でも、クワロマンティックの場合、「恋愛感情がある相手」と「友達」とを明確に分けて考えていません。グラデーションで存在しています。なので、「恋人としての自分」のような役割を自分に当てはめるのが難しいわけです。

だから、デートして付き合うというストーリーが思い浮かびづらい。
想像が難しいし、想像のしようがないんじゃないかって思います。

誰かと付き合う自分の姿が想像できなくてもいいのかもしれない

色んな角度から話をしてきましたが、クワロマンティックであるわたしは、やっぱり誰かと付き合っている自分の姿が思い浮かびません。想像しようと思っても、空白の世界。映像が出てきません。

わたしは、恋愛感情と友情とを、はっきり区別することがありません。そして、無理に区別したいとも思っていません。その感覚であらためて考えてみると、世の中の人たちが “ふつう” としている、自然な流れでデートになることはないし、むしろ、誰かと2人で過ごすことが恋愛的な意味を持つかどうかは、あまり重要じゃないのかな、と思います。

こんなわたしって何かが欠けてるんじゃないかと、ずっと思ってきました。
でもそれだと悲しいので、ただの違いだと思いたくて生きてきました。

自然に想像ができるその感覚を、わたしだって体感してみたい。その感覚を体験できる日が来るのかはわからないし、どうしたら体感できるのかもわからない。

それでも「誰かと付き合っている自分の姿が思い浮かばない」という不思議をもちながら生きていきたいと思います。

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