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4人の継母とDVの父。何度もつらさを乗り越えた先に、幸せがあった【前編】

生みの母は2歳でいなくなり、父の暴力に怯えて育った。4人の継母はDV、オーバードース、覚醒剤、アルコール依存症。自分の体験をいつか世の中に伝えたいと、小5のとき心に誓った。ふたりの子どもをひとりで育て上げ、ついに大きな幸せをつかんだ。憧れの湘南に引っ越し、子育てに悩む人を助けるカウンセラーを目指す。

2023/07/22/Sat
Photo : Tomoki Suzuki Text : Shintaro Makino
小林 美由起 / Miyuki Kobayashi

1961年、神奈川県生まれ。問題の多い家庭環境に育ち、小さい頃から家事と継母の面倒を押しつけられる。27歳で結婚。授かった子どもは発達障害や性同一性障害(性別違和・性別不合)を持っていた。二番目の子がセクシュアリティの困難を乗り越える姿は、ドキュメンタリー映画『ぼくが性別「ゼロ」に戻るとき 空と木の実の9年間』として記録されている。

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INDEX
01 人格に問題のある父とやさしいおばあちゃん
02 小学校5年生で家事をすべて押しつけられる
03 次にやってきた継母は覚醒剤常習者
04 25歳で、ついに家を出る
05 生みの母との再会、そして結婚
==================(後編)========================
06 破綻した最初の結婚生活
07 シングルマザーとして再出発
08 小4のとき、瞳のキラキラがなくなった
09 性同一性障害の診断が下りて治療開始
10 今、本当に幸せなんです

01人格に問題のある父とやさしいおばあちゃん

2歳のとき、母は駆け落ちをしていなくなった

神奈川県川崎市出身。ひとりっ子の長女として生まれたが、母親は2歳10カ月のときに駆け落ちをして家を出ていってしまった。

「生みの母の記憶はほとんどありませんけど、最後の別れのシーンだけは鮮明に覚えています」

場面はタクシー乗り場。父方のおばあちゃん、母、そして私の3人でいる。母が私を抱きかかえてタクシーに乗り込もうとする。と、おばあちゃんが「人さらいだ!」と大声を張り上げた。

「何ごとだ!」と人が集まってくると、母は私をタクシーから下ろし、「もう二度と戻ってきません!」と捨てゼリフを残して走り去った・・・・・・。

「父は私を渡す気はなかったみたいですね。でも、自分では子育てなんかできないんで、品川に住んでいるおばあちゃんのところに預けられました」

おばあちゃんのアパートは、四畳半一間で共同トイレに共同洗濯場。人ひとり立つといっぱいの小さな台所があるだけ、という貧しい生活だった。

「いつも割烹着を着て、モンペをはいてる明治生まれのおばちゃんでした。目が悪かったんですが、どこへ行くにも私の手を引いてくれるやさしい人でした」

近所にはひとり住まいのおじさんがいて、3人で過ごすこともよくあった。

「父が新しい女性と暮らすと連れ戻されました。次々と再婚と離婚を繰り返すんですが、継母がいない間は、おばあちゃんのところに預けられるようになりました」

人格的に問題がある父

おばあちゃんは後妻さんで、前妻と合わせるとその家には13人の子どもがいたという。

「私の父はその末っ子で、いわゆる恥かきっ子だったんです。おじいちゃんは酒乱で息子や娘にひどい扱いをしたのに、父にだけは甘かったみたいです」

そのためか、若い頃は仕事もせずにブラブラしていることも多く、わがままだ、と親戚からは問題児扱いされていた。

「実際、人格的に問題があって、ドライバーとして働いていたタクシー会社と揉め事を起こして、転々と職場を変えるような人でした」

家にはお金を入れずに、遊ぶ金だけはいつもポケットに入れていた。社会的には、明らかに適応力に欠けた人物だった。

「でも、イケメンで男としては魅力があったんでしょうね。水商売の女の人と仲良くなっては、家に連れてくることを繰り返してました」

02小学校5年生で家事をすべて押しつけられる

川崎と品川を行ったり来たり

2人目の母は、私が4、5歳のときにやってきた。自分の子どもを鹿児島に残して、出てきた人だった。

「DVでしたね。雨が降っても保育園に迎えに来てくれないし、部屋の外に洗濯機があったんですけど、終わったら教えなさい、と外に立たされてました」

しかし、その女性はすぐにいなくなり、またおばあちゃんのアパートに戻って小学校に通った。

「私はのんびり、のほほんとしたグズな女の子でした(笑)。誰とでも友だちになれる、朗らかな性格だったと思います」

家庭環境とは裏腹に、明るいキャラクターで学校では人気者だった。しかし、小学校4年生のときに3人目の母親が来ると、また川崎の家に戻された。

「この人はひどかったです。薬物のオーバードースで、学校から帰ってくると、ひっくり返って垂れ流しているんです」

下着を替えて、きれいに世話をするのが日課になった。それだけではない。炊事、洗濯、掃除、支払いなど、家のことはすべて押しつけられる。

「今でいうヤングケアラーですね。私、なんでこんなところに生まれてきたんだろうって思いましたね」

友だちも学校も助けてくれない

父親は気に入らないことがあると、一瞬にして人格が変わった。少しでも不機嫌な顔をすると、「何だ、その顔は! 嫌なら出ていけ!」と言葉の暴力が飛んできた。

「いつも父の顔色をうかがってビクビクしていました。怒られるのが怖いから、ニコニコしていましたね」

「お前がいるから金がかかる」「お前さえいなければ、すべてうまくいく」そんなことまでいわれた。

「学校には友だちがいましたけど、部活とか放課後に遊びにいくことはできませんでした。友だちは、家の用事をするから遊べないんだなって分かってくれましたけど」

先生たちも私の家庭環境には気がついていた。通知表には、「小さな胸を痛めているようなので、安心して通学できるようにしてあげてください」などと書いてくれた。

「でも、父も継母も通知表なんて興味ありませんから、自分で勝手にハンコを押して持っていくだけです。意味ありませんよね(笑)」

学校はそれ以上、関わりをもつことはなかった。

いつか、このつらさを伝えたい

家事と継母の世話に追われる毎日。そのつらい状況でもへこたれず、弱音を吐くことは一切なかった。

「小学校5年生のときに、今、自分が経験しているつらさを覚えたまま大人になって、それを誰かに伝えたいって思ったんです。心のメモ帳に記録しておこうって。だから我慢できたんです」

一人娘なんだから、私が家のことをやらなくちゃいけない、とひたすらに責任感、義務感を背負い込んだ。

「私さえ我慢すればなんとかなる、と思い込んでました。“今、耐えれば、いつか幸せになれる。がんばれ、私!” って、自分で自分を励ましていましたね」

つらいことがあれば、「また次の修行が来た」と気持ちを強くした。

「グレたり、しらけたりすることもなかったですね。女の子がひとりでフラフラ出ていっても、落ちていく先がどうなるか、もう分かっていましたから」

03次にやってきた継母は覚醒剤常習者

おばあちゃんの急死にも涙は出なかった

中学2年のとき、全力で私を包んでくれたおばあちゃんが亡くなった。
所持金は27円だった。

「急死でした。救急車の中で亡くなったんですが、変死扱いで、おばあちゃんが運ばれた病院に警察が来たりしました」

悲しいはずなのに、不思議なことに涙は一滴も出なかった。

「感情を表に出さないしつけをされていたからでしょうね。つまらない顔をしていると、すぐに怒られるんで、どんなときでも笑っていられるようになってたんです」

オーバードースの継母は、高校1年生のときまで、出たり入ったりしていた。

「おばあちゃんがいなくなったので、継母がいないときは父とふたりの生活になりました」

ふたりになると、余計に「嫌なら出ていけ!」と怒鳴られるのが怖くなる。「出ていけ」は、「死ね」といわれるのと同じに感じられた。

「中学のとき、バレないように、少しだけ不貞腐れました(笑)。勉強もしなくなって。将来の夢なんて、何もありませんでした・・・・・・」

6時間働いて、アルバイト代は1000円

結婚への憧れもなかったが、中2の文集には、「ちょっと変わったかわいいお嫁さんになりたい」と書いたこともあった。

「中学のときに、いいなと思う人がいました。でも、おつき合いはなかったですね。片想いしているくらいがちょうどよかったんです」

高校に入ると告白されたこともあったが、「友だちなら」とのらりくらりとやり過ごした。

「初めてカレができたのは、高3でした。年下の子でした。その後でつき合った人も、みんな年下でした。家事をずっとしてきたんで、姉さん肌っていうか、しっかり者の役が合ってたみたいです」

高2のときに、3人目の継母がやってきた。

「今度は覚醒剤をやる人でした。その人が店をやりたいと、スナックを始めたんです。それで高3のときから、その店を手伝うようになりました」

夕方6時から深夜12時まで働いて、アルバイト代は1000円。お酌をすることはなかったが、カラオケをかけたりインベーダーゲームをしたりした。

「目の前で覚醒剤を打つお客さんもいました。一度、打たれそうになって警察を呼ぼうかと思ったこともありました。面倒なことになりそうなのでやめましたけど」

04 25歳で、ついに家を出る

変にまっすぐな責任感

新しい継母が来ても、家事をすべてする生活は変わらない。

「友だちに家のことを話したり、相談することもなかったですね。オーバードースだ、覚醒剤だって人に話したところで、どうにもなりませんから」

つらいときは、自問自答して自己解決するのが常だった。「何がつらい?」「どうしたい?」自分自身にそんな問いかけをした。

「気晴らしは詩や絵を書くことくらいでしたね。喘息があって外で遊ぶのが苦手だったので、家の中にいることが多かったんです。絵は小学生のときから好きで、ずっと描いてました」

早く大人になって家を出たいという気持ちはあった。でも、家のことは私がやらなければ、という責任感は相変わらず強かった。

「変にまっすぐだったんですよね(笑)。ここまで我慢してきたのに、ここであきらめたらもったいない。潰されてたまるかっていう意地もありました」

4人目の継母が父の面倒をみる

高校の卒業が近づいたとき、大学への推薦入学の話があった。

「父親は、女は勉強する必要はない、金がもったいないという考えでしたから、断ってしまいました。私も、特に勉強したいこともありませんでしたし」

結局、進学も就職もせずにアルバイトをしながら家事をすることになった。

「スーパーのレジ打ちなんかをしました。それから、渋谷のファイヤー通りの雑貨屋さんに勤めました。これは楽しかったですね」

20歳になる前にヤマハ音楽教室に就職。2年勤めた後、川崎ステーションビルに転職する。

「食堂のレジから始めて、営業事務から総務部に配属なって。バイトの管理なんかをしていましたね」

そして、25歳のとき、4人目の継母がやってきた。

「私と10歳しか違わない人で、お母さんと呼ぶには若すぎる人でした。もう、私も母親を必要とする歳ではなかったんで、父をよろしくお願いします、という感じでした」

ついにお役御免! その1年後には家を出て、ようやくひとり暮らしを始めることになった。

「その人はアルコール依存症でしたけど、最後まで父の面倒をみてくれました」

05生みの母との再会、そして結婚

生んでくれてありがとう。母にお礼をいいたい

20歳になる直前に、ある出来事があった。生みの母親との17年ぶりの再会だ。

「母と駆け落ちをした相手を間接的に知ってるという人に、赤提灯で会ったんです。その人に、お母さんに会いたいか? と聞かれて・・・・・・」

駆け落ちした相手と静岡に住んでいるというのだった。

「この世に生まれてきたのは、母のおかげ。お礼をいいたい、という気持ちになったんです」

今までずっとつらいことばかりだったけど、これから先、私はきっと幸せになる。自分の肉体がこの世にあることに感謝しなければならない。そんな殊勝な思いだった。

母宛ての手紙をその人に託すと、しばらくして川崎で会う段取りが整った。

「でも、テレビ番組にあるような感動の再会ではなかったですね。ああ、この人なのかって、ちょっと不思議な気持ちになりました」

信頼し合う関係にはならなかったが、その後も連絡を取り合い、年に2、3回会うようになる。

7歳年下の人と結婚

実は、ひとり暮らしをすすめたのは実母だった。

「ストレスが原因で体調を崩して、手術を受けたあとだったんです。自分でも家を出るタイミングを探していました」

母が探してきた部屋に越してみると、さすがに解放された気持ちになれた。

「24時間、自分が生きることだけを考えていられるって、すごいことだなと思いました。もちろん、父ともなるべく距離をおきました」

幼い頃から結婚に憧れはなく、ホームドラマのなかで起こることと冷めた感情を持ってきたが、当時つき合っていた人と27歳で入籍することになった。

「駅ビルで働いているときに、高校生のバイトできていて知り合った人で、7歳年下でした。結婚するときは、自動車の整備士をしていました」

その人も家庭環境に恵まれず、温かい家庭に憧れているという話で、うまくやっていけそうに思えた。

「共働きでしたけど、朝早く起きて、行ってらっしゃいと見送って、夜遅くまで待って、お帰りなさい、と迎える生活をしました。最初はそれなりに楽しい結婚生活でした」

 

<<<後編 2023/07/29/Sat>>>

INDEX
06 破綻した最初の結婚生活
07 シングルマザーとして再出発
08 小4のとき、瞳のキラキラがなくなった
09 性同一性障害の診断が下りて治療開始
10 今、本当に幸せなんです

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