02 小学校5年生で家事をすべて押しつけられる
03 次にやってきた継母は覚醒剤常習者
04 25歳で、ついに家を出る
05 生みの母との再会、そして結婚
==================(後編)========================
06 破綻した最初の結婚生活
07 シングルマザーとして再出発
08 小4のとき、瞳のキラキラがなくなった
09 性同一性障害の診断が下りて治療開始
10 今、本当に幸せなんです
06破綻した最初の結婚生活
父親の近くに逆戻り
長女を出産してしばらくたった頃、父親から自分が持っている家に住んでくれないか、と連絡があった。
「継母のアルコール依存の症状がひどくなって。タバコを吸う人だから、火事でも出したら大変だ。私たちが近くに来れば、暮らしが変わるかもしれないっていうんです」
夫も、家賃が浮くから助かる、と乗り気になってしまった。
「引っ越した頃から、私たちの結婚生活がだんだんうまくいかなくなってきました。しかも、父親が怒鳴り込んできて、旦那に包丁で切りつけたりしたんです」
状況が不穏になり、何が気に入らなかったのか、夫は家でまったく口をきかなくなってしまった。
名前の入っていない引っ越しトラック
夫は口をきかない。笑わない。
下の子もすでに生まれていたが、子どもをかわいいと思えないという。この人とこの先も一緒に暮らしていけるのか、さすがに不安になった。
「精神衛生上よくないし、どうしたいのかと問い詰めました」
父親の暴力のこともあり、この生活を立て直す自信がなくなってしまった。
「一度、実家に帰ったらって、旦那にいったんです。ここにいるよりいいんじゃない? 子どもの面倒は私がみるからって」
こうして夫を実家に帰し、自分も逃げ出す計画を立てた。きっかけとなったのは、どうしても許せない父の一言だった。
包丁を向けられて「死にやがれ」と脅されたのだ。しかし、「子どもを育てるから死ねない」と言い返すと・・・・・・。
「ガキを殺して、お前も死ねっていったんです。これは、もう許せませんでした。これまで、どんなことも我慢してきたけど、さすがに、もうダメだと思いました」
ブツっと、何か太いものが切れた感じがした。
「バレないようにこっそり荷造りをして、押し入れのカラーボックスの後ろに段ボールを隠して、出ていくタイミングを見計らってました」
すると、また父親が逆上して、「てめー、何やってんだ、出ていけ!」と、怒鳴り込んできた。
「これがチャンスだと思いました。じゃあ、出ていきます。これから部屋を探しますから、それまでいさせてくださいって、土下座をして頼みました」
引っ越し屋には、名前の入っていないトラックで来てくれるように頼んだ。そして、こっそりと父親の家を後にした。
07シングルマザーとして再出発
支援、慰謝料、養育費、何もなし
1996年12月、ふたりの子どもを抱えたシングルマザーとして再出発する。上の子は年長さん、下の子は、まだ1歳11カ月だった。
「下を向いてはいられませんでした。引っ越しの荷物が落ち着いたときには、『せーの、我が家は明るい母子家庭、いえ〜!』って、子どもと叫んでました」
親からの支援はない、離婚した夫からの慰謝料、養育費もない。しかし、不安もなかった。
「いざとなれば、寮のある夜の仕事でもいいや、って覚悟してました」
とはいうものの、ひとりでお風呂に入っているときに、つい涙がこぼれる。
大好きだったおばあちゃんが亡くなったときにも流れなかった涙だった。
「上の子の幼稚園はちゃんと卒園させてあげたくて、3カ月間は電車に乗って元いた地域の幼稚園まで連れていきました。父親が包丁を持って待ち構えていないか、ドキドキでした」
離婚のときに折半した貯金で半年間はやり繰りし、6月からパートで仕事を始めた。
「少ないお金をやり繰りすることは、小学校5年生からずっとやってきましたからね。それは得意でした(笑)」
長女は発達障害で苦労する
離婚とひとり親としての自立に奮闘しているときに、もうひとつの悩みがあった。
「長女が、幼稚園でほかの友だちとうまくいかなかったんです。先生は、この子は知能が高すぎて浮いているけど、年をとっていけば、きっと大丈夫ですよっていうんです。でも、本当かなぁって疑ってました」
大人顔負けの知識と言葉づかい、ひとつのことに夢中になるとほかのことが目に入らない。のちに発達障害と診断される、はっきりとした兆候があった。
「朝、いつもの時間に送り出しているのに、先生は『毎日、遅刻する』っていうんですよ。本人に聞くと、アリを見ていたとか、葉っぱを見ていたとかいうんです。小学校でも、友だちができませんでしたね」
学校ではいつもいじめがひどく、高校生になっても友だちはほとんどできないままだった。
「『いじめは理不尽だ』って、よくいってました。学校が嫌だったら行かなくてもいいよっていったんですが、勉強が好きなんで、『これで学校をやめたら、もっと理不尽だ』って。どんなにいじめられても、ちゃんと通ってました」
小説を書いてみたいという希望があり、大学に進学。しかし、本人が考えていた内容と違ったようで、2年で中退してしまった。
社会に適応することができなかった
長女は何度も働こうとチャレンジをしたが、なかなか定着することができなかった。
「自立支援を利用して、社会に出る努力はしたんですけど・・・・・・。理解してくれている人でも、ついついグサッと刺さる言葉を使ってしまうんです」
何度も失敗するうちに本人に疲労感が溜まってきた。いくら頑張ってもできない自分がつらくなったのだろう。
「もう33歳になりました。今は家を出て、同じタイプの友だちと一緒に暮らしてます」
今は、生きることを精一杯がんばっている。それが本人の言葉だ。
08小4のとき、瞳のキラキラがなくなった
スポーツブラを泣いて嫌がった
下の子は活発でよく動き回る子どもだった。
友だちから、「おままごとをしよう」と誘われても、自分がしたくなければ、はっきりと断れるタイプだった。それは協調性がないのではなく、自分をしっかり持っているから、と理解した。
「この子が性別のことで悩んでいると気がついたのは、小学校4年生のときでした。なんだか瞳が曇っているような気がしたんです」
保育園のときから描く絵はロケットだった。男の子っぽい遊びが好きで、洋服を買いにいけば迷うことなくボーイズのコーナーに向かった。
「最初は好みの問題かと思っていたんです。でも、瞳のキラキラがなくなったときに、何か違う原因があると思いました」
5年生になると、男女分かれての授業がある。どうもそれもピンとこない様子だった。
「そのうち、女の子たちの話が宇宙人の会話みたいで分からない、っていい出したんです。女の子にいじめられて、友だちは男の子ばっかりになりました」
そして、6年生のときにスポーツブラを与えると、泣いて嫌がった。
「もしかしたら性別のことで悩んでいるのかな、と思いました。でも、変化することが嫌なだけかもしれないので、この子のなかで答えが出るまで待つことにしました」
「あんた、もしかして男の子なの?」などと、親のほうから押しつけることはよくないと考えたからだ。
「本人の答えを待ちながら、私もこっそり勉強しました。図書館で本を借りてきたり、インターネットで性同一性障害(性別違和・性別不合)当事者のブログを読んだりしました。もし、そうなったときにどういう手順でどんな病院を受診したらいいか、という知識も身につけました」
自分は男の子だと思う
カミングアウトは中学2年生のときだった。
「その頃には、私は性同一性障害だと確信してました。だから、その前から何気なく本を見せたり、一緒にドラマを見たりして、少しずつ本人が話しやすいように準備を進めてました」
そして、本人がつらそうにしているときに、「あなたは女の子なの? 男の子なの?」と問いかけた。
「そうしたら、自分は男の子だと思う。だから病院に行きたいって答えたんです。分かった。じゃあ、病院に行こうね、っていいました」
事前に調べておいた病院で先生に会うと、下の子はタオルを握りしめてボロボロと涙を流した。
「『どうして男の子だと思うの?』と先生に聞かれました。でも、すぐに言葉が出ない間じっと待ってくれたんです。ああ、先生が待ってくれている、と思って、私もじっと黙ってました」
しばらくして、「セーラー服を着たくない」など、自分自身の言葉で性の違和感をポツリポツリと話し始めた。
09性同一性障害の診断が下りて治療開始
担任がクラスメイトに性同一性障害を説明
中2の11月から病院に通い始め、翌年の1月には診断書が出る段取りとなった。
「最初、担任の先生に相談したときは、そんなことはないだろう、前例がない、と後ろ向きな反応でした」
少しずつ事情を分かってもらい、12月に学校で話し合いの場を作ってもらった。メンバーは、校長、教頭、養護の先生、学年主任、担任、そして本人と私だった。
「診断書が出たら、男子生徒として通わせたいという話をしました。そのときは、もう受け入れ体制を作る前提になってました。制服やトイレに関して、具体的な要望を出しました」
そして、中2の3学期から男子生徒として通学することになる。
「あんたは男の子なんだから、女子の格好をすることはない。でも、学校には学校の社会があるんだから、びっくりする人もいるよ。自分でも我慢しなきゃいけいことがあることは分かってね、と事前に話しておきました」
誹謗中傷があるかもしれないよ、と釘を刺すと、「自分にウソをついているよりはマシ」という答えだった。
「担任の先生は、性同一性障害のことをクラスで説明して、ほかのクラスはクラスごとに先生に説明を一任するというやり方でした。実際には、いじめなんかはなかったですね。私たちが鈍感なだけかもしれませんけど」
トイレは職員用の男子トイレを使うことになった。
友だちは、「やっぱりな。そのほうが似合うよ」と受け入れてくれた。
ガラッと変わった姉の態度
ちょうど「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン」で、ホルモン療法開始可能年齢が条件付で15歳に引き下げられたタイミングだった。
「条件を満たしていたので、すぐにホルモン注射も始めました。18歳で胸オペ、20歳で性別適合手術という計画を立てました」
反応が面白かったのが、長女だ。それまで、下の子を妹として接してきたため、「愛想が悪い」「いったことをやらない」と不満が多かった。
「それが男の子だと分かった途端に、そうか、そうか、弟なのか。それなら分かる、納得だって、ガラッと態度を変えたんですよ(笑)」
気に入らない妹から、かわいい弟に一変。感覚が鋭い上の子ならではの反応だった。
「高校を卒業してから、声優を目指して養成学校に入るはずだったんです。でも、性別適合手術をすると学校を休学しなくちゃいけないというので、20歳まではフリーターで社会勉強をすることにしたようです」
戸籍の性別も変えたけど、男というカテゴリーも嫌
当初の計画どおり、高校受験前の中学3年生のときに改名。18歳で胸オペ、20歳の誕生日を過ぎてすぐに性別適合手術を受け、戸籍も男性に変え、晴れて男性として生きていくはずだった。ところが・・・・・・。
「新しいバイト先で、『今度入った男の子のバイトです』って紹介されて、そのときに “ん?” って疑問が沸いたらしいんです」
その疑問とは、「なんで男ってつける必要があるのか?」。考え込むうちに、自分には性別という概念がないことに思い至った。
「男というカテゴリーに入れられるのも嫌だ、っていうんです。Xジェンダーっていうのも違うみたいで・・・・・・」
生物学上は「女性だった」、戸籍の性別は「男性」、性自認は「なし」。2度目のカミングアウトで、セクシュアリティはややこしくなった。
「でも、驚かなかったですね。へー、そうなんだ。いいんじゃないのって答えました(笑)」
縁があって映画監督の常井美幸さんと知り合い、15歳からの9年間の軌跡が『ぼくが性別「ゼロ」に戻るとき 空と木の実の9年間』というドキュメンタリー映画となり、話題になった。
10今、本当に幸せなんです
自分の体験を生かしたカウンセリング
一言でいえば、波乱万丈の人生。本当にいろいろなことがあった。
ネグレクトの母、4人の継母はDV、オーバードース、覚醒剤中毒、アルコール依存症。
「アスペルガー症候群と性同一性障害の子どもを母子家庭で育てるのって、すごいよ」「なんで、笑っていられるの?」と、人からよくいわれる。
「上の子も下の子も、ふたりは空から生まれる家を探していて、ああ、あの人なら大丈夫だって私のところに降りてきた」と冗談めかしてそう説明している。
「同じ母子家庭のお母さんでも、下を向いて落ち込んでいる人がいますよね。その人たちの相談に乗ってあげたいんです」
この試練を乗り越えるために自分は生まれた。自分が経験したことを誰かに伝えたい。小5のときに誓った思いは、今も持ち続けている。
「アダルトチルドレンになってしまった人も多いんです。子育てに悩んでいるのに、世間体を気にして誰にも相談できないとか。かわいそうなのは子どもですから、潰れてしまう前になんとか助けてあげたい」
今後もやっていきたい仕事は、カウンセラーだ。そのための資格もとり、ボランティアからスタートした。
「自分が体験してきたことを生かして、独自のアドバイスができればと思ってます。講座やセミナーを開いて、たくさんの人に話をしたいという希望もあります。やってみたいことや方向性は、これから変わるかもしれませんけど(笑)」
サザンビーチの近くに引っ越し
2000年からおつき合いを始めた人と、2017年に入籍。
「今、本当に幸せなんです。この人生を歩くために、あれだけのつらさが必要だったんだって、心から思うことができます」
どこかで投げ出したら、ふたりの子どもたちに会うこともできず、別の人生になっていただろう。
子どもの頃から好きだった絵を描くことも再開した。
「お地蔵さんの絵を描くワークショップをしているんです。お地蔵さんの絵を描くと、笑顔になるんですよ」
2016年、憧れだった茅ヶ崎に引っ越した。海までは、徒歩2分のロケーションだ。
「サザンです(笑)。彼も私もサザンが好きで、烏帽子岩が見えるところに、いつか住みたいな、と思っていて」
引っ越すためには、ふたりとも仕事を辞めなければいけなかった。
「でも、そんなことくらい、なんとかなるよって話し合って(笑)。何かに引き寄せられたのかもしれませんね」