02 将来は男になることが目標
03 同級生の男子に初めてのカミングアウト
04 実らなかった恋、初めての告白
05 1年間の東京暮らし
==================(後編)========================
06 LGBTを知らず、自分を “中性” と定義
07 人生を再考。25歳で航空自衛隊に入隊
08 自衛隊を辞めようと思った矢先に大震災
09 セクシー女優を追っかける
10 共同代表として秋田プライドマーチに参加
06 LGBTを知らず、自分を “中性” と定義
一粒で2度おいしい!?
彼とつき合い始めて分かったことがあった。
「男性とつき合うわけですから、当然、セックスはあるわけです。今まで、相手は女性と決めつけてたけど、自分は女としてもいけることが分かったんです」
これは大発見だった。
「一粒で2度おいしい、じゃないですけど、どっちにもなれるってすごいことだなって。私って、男と女のハーフなんじゃない? って思いました」
LGBTという言葉も知らないとき、自分は男性と女性の “中性” だと、勝手に新しいカテゴリーを作った。
しかし、男性と抱き合ったとしても、ドキドキとときめくことはなかった。胸のドキドキは、相手が女性でないとダメなのだとも知るきっかけにもなった。
「相手が、女性としての自分を求めてくれていることは理解してました。でも、失礼な話なんですけど、彼との関係が恋愛ではないことも分かりました。もちろん、人間的には尊敬してたし、愛情は感じてましたけど・・・・・・」
好きだから抱き合えるんだ、と自分にいい聞かせたこともある。
「つき合ってる間、本当は女性と恋愛がしたいということをフザけて話したりしてたので、彼も私の気持ちには気づいてたと思います」
4年つき合い、円満に別れる
お試し感覚でのつき合いは、なんと4年も続いた。
「だんだん、家族みたいな関係になりましたね。彼は結婚も考えてくれました。ただ、タイミングが合わなくて、最後は、もしチャンスがあったら、将来、またパートナーになろう! といって円満に別れました」
母親は結婚で苦労をした人で、世間体のために結婚をする必要はないと考えていた。
「結婚は、男が楽をする仕組みだってよくいってました(笑)。だから、彼との結婚を勧めることはありませんでした」
「誰とつき合おうが、あなたはあなただから」
「育ちゃんは、男女の枠にハマらない人。私はそう思っていた」
ともいわれた。
07人生を再考。25歳で航空自衛隊に入隊
姉の誘いで自衛隊に入る
気がつくと24歳になっていた。
相変わらずのフリーター生活。結婚を申し込んでくれた彼との関係も終わってしまった。
「このままじゃ、ヤバくない? って突然、はっとしました」
まだまだ人生は長い。こんなにチャランポランで、この先、いったいどうなるんだろう? 急に先の人生が不安になった。
「そんなときに、一番上の姉が、『今度、自衛隊で女性の枠が増えるから受けてみたら』って誘ってくれたんです」
姉は21歳で入隊して、すでに10年近く勤務していたときだった。しかし、自分には喘息があった。喘息持ちで、厳しい自衛隊の訓練に耐えられるとは思えない。
ダメ元、という気持ちで自主トレを開始。24歳の9月に自衛官採用試験を受けると、何と合格してしまった。
広報官の誘導で航空自衛隊へ
25歳で入隊が決まった。
その前に広報官が自宅まで来て、陸上・海上・航空のどれを受験するか選ぶ機会があった。
「まずは、陸上、海上、航空から選ぶんです。私は泥臭いのが好きで、匍匐前進なんかがしたかったので、陸がいいです! っていいました」
ところが、「陸上はやめておけ。泥まみれになる。女扱いされないぞ」と広報官に否定されてしまった。
「じゃあ、海上にします」というと、今度は「海上はやめておけ。規律が厳しくて、上下関係も厳しくてもたないぞ」と、またも拒否されてしまう。
「じゃあ、航空しかないじゃないですかっていうと、それだよって満足そうな顔をしました(笑)」
結局、なかば誘導される形で、姉と同じ航空自衛隊に入隊することになった。
200人の同志と3カ月の訓練
山口県にある防府南基地航空教育隊で、3カ月の訓練に参加した。航空女性自衛官はWAF(Woman of the Air Force)と呼ばれる。
「一緒に訓練を受けた同期だけでも200人くらいいました。年齢は高卒から27歳までで、いろいろな人がいましたね」
「何があっても、国に命を捧げます」という内容の誓約書にサインを求められる。それだけで辞めていく人もいた。
「訓練は、とにかく厳しかったですね。整列、敬礼だけでも0.1秒の精度を求められました。あれは一種の洗脳訓練です」
またしても女子だけの世界ではあったが、さすがに女子校の気楽さはなかった。
「一緒に訓練に臨む仲間って、あれは同じ苦しさを共有する同志ですね」
約5キロほどもある小銃を持って走る訓練は、特にキツかった。
「“物品愛護” といって、自分たちよりも小銃の方が大事だと、教育隊の班長からいわれたこともありました(笑)」
「当時は班長の体罰も普通にありました。でも、性格的にマゾなのか、苦しくても耐えられました」
08自衛隊を辞めようと思った矢先に大震災
同期の女性に実らない恋
教育隊の訓練が終わり、宮城県の松島基地整備補給群装備隊武器小隊への配属が決まった。
「松島に行く前に、武器小隊の勉強をするために、今度は浜松基地で6カ月の訓練がありました」
そこで一緒になった同期の女性に恋をする。
「性格が強い人でしたね。そういう強い人が好きなんです。半年もずっと一緒にいると悪いところも見えてくるんですけど、恋は盲目っていうんですか(笑)、どんどん好きになりました。きっと好きなことが、体から滲み出ていたでしょうね」
そして、ついに告白。「うれしいけど、今は業務に専念したい」というのが彼女の答えだった。
「告白っていうか、一方的に気持ちを伝えただけでしたね。お互いに頑張ろう! といってそれぞれの配属基地に向かいました」
上下関係の厳しい生活
配属された武器小隊は、想像以上に厳しい部署だった。武器を戦闘機に取りつけたり、ミサイルの分解や組み立てなどが業務だった。
「クルーでミサイルを持って戦闘機に取りつけるんですけど、身長が低いだけでハンデが大きいんです。脚立を持って仕事をしてました。厳しくて辞める率も高い部署でした」
住まいは6人部屋の寮。24時間、一緒に過ごす、プライバシーのない生活だった。
「当然、最初は一番下で、班長や先輩のいうことは絶対でした。でも、けっこう楽しかったですよ、1時間正座させられることもありましたけど(笑)」
上下関係の厳しい環境には耐えられたが、武器小隊の業務はどうしても好きになれなかった。3年勤めたら辞めようと思っていたとき、とんでもないことが起こった。
「ちょうど、自衛隊を辞めるつもりだった2011年3月に東日本大震災が起こりました。民間救助で目まぐるしい忙しさになって、とても辞められる状態ではなくなりました」
男性の隊員たちは、亡くなった人を背負って体育館に運んだり、信じられない環境で働き続けた。精神的に極限に追い込まれた人たちも多かった。
「女性隊員は現場で具合が悪くなったら困る、という理由で、基地の復興に専念しました」
いつ終わるか分からない作業で、あっという間に時間だけが経っていった。
09セクシー女優を追っかける
配属転換の希望が反故にされる
松島基地の復興に携わっている間に、5年、7年と時間が経過した。年齢は30歳を超えていた。
「とにかく武器小隊が嫌だったんで職種を変えてほしかったんです。班長に直訴すると、『三等空曹になったら考えてやってもいいぞ』っていうんです」
とにかく三等空佐に昇進するまでは頑張ろうと歯を食いしばったが、約束は果たされなかった。
「そういったじゃないですか」と食い下がると、「なれるかも、といっただけだ」とはぐらかされてしまった。
「いつまでも武器小隊にいるのかって思ったら、本当にやる気がなくなって」
本気で辞めたい気持ちが募り始めた。
AV女優の握手会
自衛官時代、映像のなかのある人に恋をした。AV界のアイドル的存在、波多野結衣さんだ。
「ケータイで偶然アダルトコンテンツに誘導されてしまったことがきっかけで、波多野さんを見つけて、こんなに可愛い人がAVやるの? ってビックリ」
波多野さんの握手会があると知り、秋葉原まで出かけていった。当然、集まっているのはAVファンの男ばかり。
「最初に会ったときは波多野さん本人も驚いていて『間違えてない? 大丈夫?』って何度も確認されました(笑)」
「大丈夫です。大ファンなんです!!」というと、「女の子が来てくれるなんてうれしい。らっしーさん、また来てね」と親しくしてくれた。
「DVDを1枚買ったら握手、2枚買ったらツーショット、3枚買ったら水着でツーショットなんですよ。多いときは、月に4回行ったこともありました。けっこう、お金も使いましたね(笑)」
カミングアウトに沸いたスピーチ
自衛隊では、数百人の隊員の前で自分の考えを話すスピーチの場がある。ある日、上官に自分と波多野さんの交流を話してもいいか、お伺いをたてた。
「俺からダメだとはいえない。でも、後で面倒なことになるかもしれないぞ。よく考えて話せって認めてくれました」
いざ、スピーチを始めると、すぐに会場がざわざわとした。
「自分のセクシュアリティについては、はっきり喋りませんでしたけど、ネタが面白かったんで、かなりインパクトがありました。スピーチが終わってから、知らない隊員が何人も話しかけて来ました(笑)」
世の中、男と女だけじゃない。いろいろな人がいるんだよ、というメッセージを投げることができた。
10共同代表として秋田プライドマーチに参加
秋田をPRするブログの立ち上げ
2019年3月、11年勤務した自衛隊を辞め、故郷の秋田に戻った。両親とは適当な距離を置くため、クルマで10分くらいのところに一人暮らしをした。
「戻ってみて、秋田の町にあまりに活気がないことが心配になりました。町を歩いてる人が、本当に少ないんです。この状況をなんとかできないか、って考えました」
思いついたのは、秋田県のことを世界に向けて発信する『秋田ブロガー、らっしー』だった。
「県内のことだったら、食べ物でも観光地でもなんでもいいことにして、とにかく1日1本、投稿することをノルマにしました」
続けるうちに、秋田でこんなことをやっているヤツがいる、と評判になり、ファンもつき始めた。まさに継続は力なり、だ。
「せっかく私の活動を見てくれるなら、セクシュアリティもオープンにしようと思って、中性、Xジェンダーとプロフィールに入れました」
秋田は保守的でクローズな印象があるが、SNSを通して、「会って相談したい」など、すぐに反応があった。
マイノリティを可視化したい
「しばらくして、秋田プライドマーチの活動団体の方から連絡があって、一緒に活動しませんか、とお誘いをいただきました。いっすよ〜、とふたつ返事をしました」
2カ月後には講演をしてほしいと頼まれ、「秋田でLGBTQとして生きていく」をテーマに話をした。
そして、2022年5月、第1回秋田プライドマーチが開催される。テーマは、「ここにいるよ/We are here」だ。
「110人が参加してくれました。100人を超えると思っていなかったので、大成功じゃん! って、みんなで喜びました」
なんだか分からないけど、面白そうだ、といってパレードに参加してくれた人もいた。
「県外やアライの人の参加もあって、手応えを感じましたね。性的マイノリティは見えないだけで、秋田にもいる。それを可視化する、という目標は達成できたと思います」
第2回秋田プライドマーチには共同代表として参加。パレードは2023年5月20日に行われた。
「警察には上限200人で申請したんですが、185人の参加がありました。今後は、この季節になったら、秋田のパレードだね、といわれる存在にしたいですね」
450回続いた人気ブログはいったん区切りをつけ、yahooの記事に移行した。
「月に10本、20本とアップしています。私の記事を見て、秋田を好きになる人が増えれば、本当にうれしいです」
秋田親善大使として、秋田プライドマーチの共同代表として、充実した日々が続いている。