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LGBTQ当事者ではないからこそ、できることがある【前編】

「若いころよりだいぶ落ち着きました」と笑いながらも、おしゃれな雰囲気を身にまとっている藤田美保さん。「当時、真面目ではありませんでした」と笑い飛ばしながら、そして我が子との別れについては涙をはらはらと流しながら、現在携わっているLGBTQ支援活動との出会いまでを語ってくれた。

2023/12/09/Sat
Photo : Yasuko Fujisawa Text : Hikari Katano
藤田 美保 / Miho Fujita

1972年、福井県生まれ。大阪で美容師としてキャリアを築いていたが、父の病気をきっかけに帰郷。結婚後に出産した第2子は数々の障がいを抱えていたが、懸命に寄り添って見届ける。現在はLGBTQ支援グループ「なろっさ! ALLYえちぜん」代表、および「なろっさ! ALLYふくい」のメンバーとしてボランティア活動を行っている。

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INDEX
01 親に認めてもらえない・・・
02 母に「不良の娘」と泣かれて
03 恋愛・おしゃれ活動に勤しむ
04 居心地のいい大阪
05 父の死に向き合って
==================(後編)========================
06 福井のいいところ
07 どんな子が生まれてくるのか
08 生まれてきてくれてありがとう
09 今までの経験があったからこそ、LGBTQのアライに
10 種をまき続けることの大切さ

01親に認めてもらえない・・・

どうしても母の「型」にはまれない

福井県・南越前町で、建設系の自営業を営む両親のもと、三人姉妹の末っ子として生まれる。

福井は教育熱心な家庭が多く、母も例外ではなかった。

「母親からは、勉強や行儀など、ああしなさい、こうしなさいってたくさん言われてきました。でも、どうしても言う通りにできなくて」

勉強以外のことで優秀な成績を収めたときでさえ、褒められた記憶がない。

「私は体を動かすことが好きで、特に好きだった水泳で賞を取ったことがあったんですけど、親に褒めてもらえませんでした・・・・・・」

姉2人は真面目で、頭もよかった分、母の言う通りにできない私はいつも比べられてきた。

「一番上の姉は、推薦で高校に進学。二番目の姉も進学校に進んでいます。でも、私はそのどちらでもなかったんです」

「親に認められたい、という気持ちは強かったです」

様々な経験をしてポジティブに生きられるようになった今でも、自己肯定感が育っていない感覚が残っている。

大好きだった父とも疎遠に

母とはなかなかうまくいかないと思っていた分、父には懐いていた。

「末っ子だったこともあって、父親にはかわいがってもらってました」

「父親はよく、私の大好きなピンクレディーの歌を歌ってくれたりしました(笑)」

でも、私が小4のころ、父は地元の町議会議員になった。多忙な毎日で、顔を合わせる機会が減ってしまった。

「ある日、父親に付いていこうとしたら、『今日は連れていけんよ』って言われたことを覚えてますね・・・・・・」

母は父の代わりに仕事をしなければならなくなり、身の回りのことは父方の祖母が世話をしてくれるようになった。

「母親は、早朝には仕事で出かけるから、朝食は祖母が用意してくれたものを食べて。夕飯も祖母が作ったものを食べて・・・・・・。だから、幼いころ、母親が作った料理を食べた記憶があまりないんです」

9つも年が離れている一番上の姉は、私が中学生のときには結婚して家を出て行った。二番目の姉は、反抗期の私を遠巻きに見ている年齢だった。

同じ家に住んでいるはずなのに、家族と疎遠な日々を過ごしているように感じていた。

02母に「不良の娘」と泣かれて

福井を出ておしゃれするぞ!

身体を動かすことが好きだったので、友だちと遊ぶといえばもっぱら外遊びだった。

「主に、鬼ごっこやかくれんぼをしてました。冬は雪がたくさん積もるので、そりや雪合戦をしてましたね」

一方、ファッションやおしゃれにも昔から興味があった。
でも、地元で好きな服装を楽しむにはハードルがあった。

「良くも悪くも、福井は都会と比べて他人に関心が向いてるんですよね」

地元で自分の好きな服装をしたら、周囲から浮き、異質な存在とみなされてしまう。

「だから、自分の好きなファッションを自由に楽しみたいと思ったら、福井じゃできないな、って思ってました」

中学生のときには、高校卒業後には地元を離れて美容師になると決めていた。

やんちゃが過ぎて

小学生のうちから宿題をやらずに母から怒られてばかりだったが、中学生になるとさらに大人への反抗がエスカレートする。

「小学生のときは先生のことが好きだったんですけど、中学では先生に意味もなく突っかかったりしてましたね(苦笑)」

「英語の授業中に友だちとずっとしゃべって授業を妨害したり、音楽の授業をボイコットしたり・・・・・・」

しょっちゅう先生に呼び出され、往復ビンタを食らったこともあった。

「テスト期間中は学校が早く終わるから、その時間を利用して友だちと繁華街に行くために電車に乗ろうとしてたところを、先生に見つかったこともありました(苦笑)」

学校を抜け出して友人の家で遊んでいたことが原因で、親が学校に呼び出されたこともあった。

「父親が学校に飛んできて、すみません! と謝ってました(苦笑)」

「家に帰ったら、母親に『なんであんたは言うことが聞けんの!』って泣かれて・・・・・・。ちょっと申し訳ないなとは思いましたね」

今なら母の涙の理由も推し量ることができる。

「姉2人は真面目に育ったのに末っ子だけ奔放だから、どう接すればいいのか分からなかったのかもしれません」

「それに、父の代わりにしてた仕事のせいで手いっぱい。母も精神的に余裕もなかったんだろうなと思います」

「ああしなさい、こうしなさい」と言われることが多かったのは、社会に順応しやすい「型」にはまっておいたほうが生きやすいから、子どもの幸せを思ってのことだったのだと、親になった今だから分かる。

「でも、親の心配や愛情は理解しつつも、LGBTQ支援の活動をし始めて、子どもを『型』にはめることが幸せにつながるとは限らない。自分らしくいられることが大事なんだって、考えが変わりました」

03恋愛・おしゃれ活動に勤しむ

勉強そっちのけで遊びまくる

高校生になると、やんちゃぶりはさらに増していった。

「相変わらず遅刻ばかりしてましたし、専門学校に進学するつもりだったので勉強もしませんでした」

「学校が終わったら喫茶店に行って友だちと話し込んだりしてました」

背伸びをして、社会人とお付き合いしたこともある。

「学校に車で迎えに来てもらったりしてましたね(笑)」

おしゃれを楽しむ

県立の商業高校に通っていたので、校則はあったが、先生に叱られない程度にファッションを楽しんだ。

制服の丈や型をいじる・・・・・・。それは今と同じく、当時も「自己主張」「個性」を表現したいことの表れだった。

「制服のスカートの丈を伸ばして、ブレザーの裾を短く改造してました」

「夏休みにアルバイトで小遣い稼ぎをして、そのお金でパーマを当ててました」

学校に行くときには、パーマのかかった髪を三つ編みでごまかしていた。

「でも、先がクルンとカールしてたのでバレバレでしたね(笑)」

「でも、先生からとがめられることもありませんでした。そういうやんちゃな子たちも少なくなかったので、見て見ぬふりをしてたんだと思います」

中学のときと比べて、母親とはあまり関わらなくなっていた。

「怒られる機会も減りましたね。もう諦めてたんじゃないかな・・・・・・」

高校卒業後は、中学からの希望通り、大阪の美容専門学校に進学した。

04居心地のいい大阪

だれにも、なにも言われない!

大阪では周りを気にせずに、自分の好きな服装、髪型を楽しむことができた。

「全身ピアス、タトゥーの人もいて、私がどんな格好をしていても、なにも言われない。『型』にはまってない人がたくさんいる場が、心地よかったです」

専門学校に進学するために、マンションでの一人暮らしがスタート。

すると、高校生のときには遅刻ばかりしていたことがウソのように、真面目な生活を送るようになった。

「自分のことは自分でしないといけないんだと自覚したら、ちゃんと一人で早起きして、自炊もするようになりました」

専門学校の授業も、常に教室の一番前の席でかぶりついて聞くほどだった。

「親にお金を払ってもらってる以上、授業は全部出席しようと決めました」

一人暮らしを通して、親への感謝の気持ちが芽生えた。

慣れない仕事で、マイナス5kg

無事に専門学校を卒業し、そのまま大阪で美容院に就職する。

「当時、福井に戻りたいって気持ちは1mmもありませんでしたね(笑)。親も、いずれは帰ってきてほしいけど、就職は大阪でもいいってスタンスでした」

憧れだった美容師の仕事は、実際にはかなりハードだった。

「働き始めは見習いなので、シャンプーくらいしかさせてもらえないんです」

でも、お客さんは経歴に関係なく、店員は皆プロだと思っている。

「常にプロとして演じないといけない。できなくても、できますって魅せないといけないと教えられて。緊張感がありました」

働き始めてすぐのころは、休憩のタイミングも計れなかった。

「状況を自分で判断して一瞬だけ休憩を取って、その間にお昼ご飯をかき込まないといけなかったんですけど、そのタイミングが分からなくて、お昼ご飯をよく食べ損ねてました・・・・・・」

様々な要因が重なり、働き始めてから5kgもやせてしまう。

激務ではあったが、でも仕事を辞めたい、福井に戻りたいとは思わなかった。

「大阪での生活自体は楽しかったし、スタッフや友人にも恵まれてたので、福井に帰りたいとは思いませんでした」

多忙な生活のなかでも、美容師のキャリアを順調に重ねていった。

05父の死に向き合って

父の看病で帰郷

25歳のとき、父ががんになった。

姉2人は結婚して子育ての真っ最中。母は父の代わりに会社を経営しないといけない。

「だから、私に看病をしてほしいと言われたんです」

もともと父親っ子だったこともあり、いったん福井に戻って父の世話をすることに。

当時の医療は、深刻な病状ほど本人にはあまり伝えられない時代。そして、必要に応じて家族が病院で24時間、親身に付き添うことが当たり前とされていた。

「父親が1週間入院することになったら、私も簡易ベッドで一緒に病院に寝泊まりしてました」

がんはすでにステージ4まで進行しており、病状はかなり悪かった。でも、見事に回復を果たす。

「肺に穴があいて、そこからの息もれを防ぐ大がかりな手術を予定してたんですけど、2番目の姉の結婚式に出席することがきっかけとなって、息もれがなくなって、手術不要になったんです」

1年後には、父は元気を取り戻した。

美容師としてまだ仕事を続けたいという思いもあり、再び大阪に戻って美容師の仕事を再開する。

「亡くなっていく姿をちゃんと見ておきなさい」

いったんは回復した父だったが、私が29歳のとき、がんが再発。今回は、脳まで転移していた。

父を看取るため、再び福井に戻る。

「亡くなる一週間前は、幻覚が見え始めたり、昔のことをいきなりバーッと話し出したりと、あまり意識がはっきりしてない様子でした」

最期は、父の息が徐々に浅くなっていく様子を家族全員で見届けた。そこには、父の母親にあたる祖母も同席していた。

「祖母からすれば息子に先立たれるわけだから、とてもつらかったと思うんです。でも、祖母はとても冷静で、『人が亡くなっていく姿を、ちゃんと見ておきなさい』って、私たちに言ったんです」

父の最後の一息まで立ち会ったことで、死生観が変わった。

「死ぬときにはなにも持っていけないから、生きているうちになにか残しておかなきゃいけないなって」

だれしも、いつ死ぬのか分からない。

だから、やれるうちにやりたいことをやっておかないといけない、と思うようになった。

 

<<<後編 2023/12/16/Sat>>>

INDEX
06 福井のいいところ
07 どんな子が生まれてくるのか
08 生まれてきてくれてありがとう
09 今までの経験があったからこそ、LGBTQのアライに
10 種をまき続けることの大切さ

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