01ずっと、憧れの存在だった
── もともと、LGBTに対してどんな印象を持っていたのでしょう?
僕が初めてLGBTの方に接したのは今から20年以上前、アパレル時代のこと。販売員をしていた友達が、ゲイでした。
彼は、ファッションセンスはもちろんいい。身につける洋服やアクセサリー、持っている物までとにかくカッコよくて、しかも似合っている。
もし僕がお客さんだったら、彼のようになりたいと思い、彼のアドバイスに従って洋服を選んでいたでしょう。販売員の鏡のような人でした。
お客様への対応の仕方もすばらしかったんです。
よけいなことを言わず、お客様が求めている言葉をお客様がかけてほしいと思っているタイミングで、かけていた。
相手の気持ちを察することができたんですね。
それは仲間に対しても同じでした。
だから、話をしたり一緒にご飯を食べていても、楽しい。
彼個人が持っている人間性の話とも言えますが(笑)。その頃から僕の中では、セクシュアル・マイノリティの方たちは「憧れの存在」になっていました。
── ファッション業界、デザイン業界にはLGBTの方が少なくない、と聞いています。
そうですね。
アパレルの販売員、バイヤー、デザイナー、ヘアメイク・・・・・・そして、クリエイティブの世界でも、第一線で活躍しているLGBTの方はたくさんいます。
僕の場合、友人知人にはゲイが多いのですが、ひと言で言ってしまうと彼らは感性が鋭く、かつ繊細なんです。
繊細=女性的と言っていいのかどうかわかりませんが、彼らが持っている感性は、少なくても僕が持っているような無骨さや力強さとは明らかに違います。
僕自身、クリエイティブな仕事をしようとする時には、自分の中に女性的な感性をすごく求めている。
ただ、悔しいことに僕はそういう繊細な感性を持ち合わせていないんですね。
ところが、ゲイの人たちは繊細さと無骨さの両方を持っていると感じます。それがうらやましい。
たまたまかもしれませんが、僕にとってはずっと、LGBTの人たち=才能あふれる人たち。
だから昨今問題になっているような、LGBTの人たちが生きづらさを抱えているということに、目を向けられていなかったんです。
── LGBTがマイノリティだという認識は、藤原さんの中にはなかった?
はい。
少なくても、彼らが差別を受けなければいけない存在だとは、思いもよらなかった。
友人たちは自らのセクシュアリティをカミングアウトし、それを誇りにしていましたから。
でも、僕の目にそう見えていただけで、ひょっとしたら違ったのかもしれない。
つらい体験や悲しい思いを抱えて、人知れず悩み苦しんでいたのかもしれないということに、後になって気づきました。
近年、LGBTの問題がマスコミなどで取り上げられるようになって、あらためてセクシュアル・マイノリティに関心を持ち、本を読んだりして自分なりに勉強してみたんです。
当事者の人たちのおかれている状況、周囲に認められないだけでなく自分で自分のことを認められずに苦しんでいる人が多いこと、そしてそれが自死につながるケースも少なくないということを知って、愕然としました。
実際、僕はゲイの友人から生きづらさを打ち明けられたり、相談されたことはなかったのですが、それはただ、彼らが「言えなかった」だけだったのかもしれない。
そんな状況を変えるために、自分にも何かできることはないだろうか、と考えるようになりました。
02応援者のひとりになれたら
── 自分にとって憧れの存在である人たちが、悩み苦しんでいるのだとしたら、放ってはおけないと?
そうなんです。
そしてもう一つ、とても気がかりなことがあって。
それは、LGBTの問題が子どもたちの間の「いじめ」とも結びついているということです。
僕の会社を含めたファミリー企業の一つに、福井県で事業を展開している会社があります。
創業したのは三兄妹なのですが、彼らは今「一途」というロックバンドを組み、全国の小中学校を回って心の絆の大切さやいじめや自殺の問題、夢の叶え方などをテーマにしたトーク&ライブを行っているんですね。
彼らの曲の作り方はユニークで、ほとんどが「一人のための一曲」。
一人の人にインタビューをして、その人の人生の中で起きた出来事や、人に伝えたいと思うメッセージを聞き出して、それを歌詞にしてメロディーをつけるというスタイルなんです。
そんな彼らが昨年、「LGBTの方にインタビューをして曲を作った」と。
その話を聞いた時、小中学校を回って命の大切さやいじめ撲滅の歌を歌っている彼らがそういう曲を作るということは、LGBTが子どもたちのいじめにも結びついているのではないかと思いました。
確かめると、やはりそうでした。
一つの個性であることが、子どもたちの間のいじめに結びついているのなら、よけいに黙っていられません。
子どもたちに、LGBTである友達を「いじめてはいけない」「差別してはいけない」と言うだけでなく、LGBTも君たちみんなと同じだよ、いや、むしろ才能あふれた尊敬すべき個性を持っているんだよ、と伝えたい。
当事者である子どもたちには、「自分は価値ある存在なんだ」ということを知ってほしい。
そのためにもまず、LGBTに対する偏見や差別のない社会をつくらないといけない。
自分も何かアクションを起こしたい、という思いが強くあるんです。
── 社会に貢献したい、子どもたちの力になりたい、という気持ちはもともとお持ちだったのでしょうか。
実は僕自身、小学校3年生くらいから長い間、いじめにあっていたんです。
何人かに意地悪をされたくらいなら、やり返すこともできたかもしれませんが、ほぼクラス全員に無視されてしまったので、完全にお手上げ状態。
親に心配をかけたくないから学校へは毎日行くけれど、どうやってやりすごすかそればかり考えて、なるべく目立たないようにしていました。
── 教師は、藤原さんがクラスの全員から無視されていることを知っていましたか?
気づいていませんでしたね。
僕からも、無視されていることを言い出さなかった。でも、先生は僕にとって唯一、話ができる存在でした。
幼い頃から絵を描くのが好きで、ある日、先生に「学級新聞に絵を描いてほしい」と頼まれたんです。
そうやって目立つと、またいじめの材料にされるから嫌だなと思いながらも、絵のことで先生とやりとりができるのがうれしかった。
結局、引き受けて絵を描いたような気がします。
── 無視される、何かきっかけとなるような出来事があったのでしょうか。
僕は周りの子たちよりも、ちょっとませていたんですね(笑)。
当時、バンドグループの「チェッカーズ」がはやっていたんですが、僕もカッコイイと思って、彼らの服装やヘアスタイルを真似していました。
その格好は明らかに周りの子たちとは「違う」。
すると、クラスで力を持っている男の子が「あいつ、なんか調子乗ってるぞ」と言い出し、みんながそれに従って・・・・・・という具合です。
自分たちと「違う」ものは排除しよう、という感覚でしょう。
それは、LGBTをめぐる今の社会の状況と同じかもしれませんね。
でも、無視が始まって1年くらい経った頃、ある女の子たちのグループが声をかけてくれて、遊んでくれるようになったんです。
なぜ突然、やさしくしてくれたのか理由はわかりませんが、僕は彼女たちのおかげで救われました。
もう、ひとりぼっちじゃないんだ、って。
どんなに苦しい状況にあっても、誰かひとりでも味方になってくれる人がいたら救われるし、心強い。
僕は自分の経験からそれを知っているから、もしセクシュアル・マイノリティであることで悩み苦み、孤独感に襲われている人がいたら応援したい。
味方のひとりになりたいと思っているんです。
03「知ってもらう」機会を作っていく
── この社会から、LGBTへの偏見や差別をなくすためには、何が必要だと思われますか?
そうですね、まずは、LGBTを「知ること」ではないでしょうか。
LGBTという言葉はだいぶ知れ渡りましたけど、当事者である彼らのことを正しく知らずに一つの側面だけを見て、あるいは又聞きした情報だけでジャッジしている人たちは、少なくないような気がしています。
LGBTのことを「知らない」のは、知ろうとしないからかもしれませんが、当事者の人たちが声を発したくても発せられない状況があるために、「知る機会が足りていない」のかもしれない。
それを考えると、LGBTの人たちの生の声に触れることができる、この「LGBTER」というサイトの意義はとても大きいと僕は思っているんです。
LGBTのことを知らない人にとって、そして、今まさに悩み苦しんでいるLGBT当事者の人たちにとっても。
だから僕も、LGBTについて知ることが大切、知ってほしいと言うだけでなく「知ってもらう機会」をどんどん作っていきたいと思っているんです。
── 藤原さんならではの方法をと考えると、デザインをはじめクリエイションの分野でその機会が作れそうですね。
はい、まずはLGBTのクリエイターたちのすぐれた、センスあふれる作品を紹介していきたいですね。
まずはLGBTの人たちの作品だということを明かさずに紹介して、それらを見た人たちが単純に「カッコイイ」「素敵」と感じ、よくよく見るとゲイの作品だったりレズビアンの作品だということを知る。
すると自然に、LGBTに対してその個性に憧れや尊敬の念が生まれる・・・・・・というような状況を、いろいろな場面で作りたいんです。
「セクシュアリティで苦労しているのに、こんなにがんばっていい作品を作っているのに」というような、ネガティブワードで人の気を引きつけるのではなくて、「すごいでしょ」「おもしろいよね」といったポジティブワードで彼らの作品を、展示なりイベントの中に取り入れるなどして紹介していく。
そうすれば、それらに触れた人たちのLGBTに対する見方、感じ方も自然とポジティブになっていくはずです。
04必要なのは ”まぜこぜの場”
── 現在、藤原さんの会社ではLGBT応援のプロジェクトが進んでいるとうかがっています。
そうなんです。
LGBTの人たちもそうでない人たちも、一緒に共同生活をしながらクリエイションやイベントを起こしていくような場所を作ろうとしています。
セクシュアリティは関係なく、ただクリエイティブな才能のある人が集まり、ディスカッションできる場所です。
── その狙いは?
その昔、僕がゲイの友人の感性に触れて感動したように、多くの人、クリエイターにLGBTの人たちが持っている才能や豊かな感性にダイレクトに触れてほしいんです。
先入観や偏見を持たず、それぞれにある感性をそのままに感じて欲しい。
それが刺激となって、自分の中の感性が呼び覚まされるかもしれない。共同生活の場で、伸び悩んでいた才能が開花する人もいるかもしれない。
また、LGBTの人たちは、そうでない人の問題を解決する力を持っていると、僕は思っています。
多くの人は「〜あるべき」「〜すべき」という常識にとらわれている。
比較的発想が自由だとされるクリエイターにしてもなかなかそこから逃れられず、自ら表現を制限してしまうケースが少なくないような気がします。
その点、LGBTの人たちはある意味、「〜あるべき」「〜すべき」という社会の当たり前とは違った視点も、持ち合わせていると感じるんです。
その視点に触れることで、常識の壁にぶち当たっていた人も壁をぶち壊すことができるのではないか。
LGBTの人たちも、そうやって自分の存在と才能を認められることで自分を肯定できるようになるのではないか、と思うんです。
── お互いに刺激し合い、補い合うことができると?
ええ、それを期待しています。
僕は以前、女優の東ちづるさんが立ち上げた「Get in touch」の活動に共感し応援していたことがあります。
「Get in touch」のコンセプトは、アートや音楽を通じて、誰もがそれぞれの個性を活かして豊かな人生を創造できる共生社会の実現。
それぞれの違いをおもしろがる社会、東さんはそれを「まぜこぜの社会」と言っていますが、僕がクリエイティブの場で求めているのも、まさに「まぜこぜの場」なんです。
それぞれが個性を発揮することで、お互いに刺激し合い、時には補い合える場。
そこでは「みんな違っていい」から一歩進んで、みんな違うからこそ、相乗効果でとてつもなくクリエイティビティに富んだものが生まれる。
そう信じています。
05若い人たちの中に希望を見る
── お話をうかがっていると、藤原さんは初めから「LGBT」という花を植えるのではなく、種をまいて、いろいろな人たちとの交わりを肥料にして育て、あとはLやG、B、Tそしてそのほかの花たちにも自由に咲いてもらい、その結果、美しいお花畑ができたら・・・・・・というイメージでしょうか。
はい。まさに、それが理想形です。
現実的には、やってみないとわからないことがたくさんあって、もしかすると夢物語で終わってしまうかもしれない。
でも、まずは理想を掲げ、「やってやろうじゃないか」という人間がひとりくらいいてもいいんじゃないかなあと(笑)。
── 周りの方たちの反応は、いかがですか?
”場” づくりの話にしても、最初は半信半疑だったり「きれいごとを言って」と思う人もいるようですけど、自分は何のためにこれをやりたいと思っているのか、とににかく熱く語って(笑)ひとつひとつアクションを起こしていくと、「よし、その話に乗った」「協力したい」と。
批判する人がいても、あまり気にしません。
批判するということは、イコール関心や興味があるということ。
実はそういう人たちこそ、たとえばLGBTの人たちと直接話をしたり実際に現場を見たりすると、考えや見方がガラリと変わる可能性がありますから。
── 社員の方たちは、会社の取り組みについてどう思っているのでしょう。
僕が常日頃、「LGBTというのは、ひとつの個性なんだ」「お互いの感性をぶつけ合うことで、クリエイティビティを高められるんだ」と大きな声で言っているせいか(笑)、彼らも賛同して、”場”づくりのプロジェクトには積極的に取り組んでくれています。
社員に限らず、最近の若い人たちはLGBTに理解がある、というよりも、自分とLGBTの方々との間に垣根がないようなんです。
きっと違いに価値を見出していて、より進化した人間のスタイルだと感じているのかもしれません。
そんな彼らの感性を、僕は信じています。
世間一般の「〜らしく」「〜べき」に縛られず、自分は自分のセクシュアリティに誇りを持って生きていく。となれば、「セクシュアル・マイノリティ」という言葉を使う必要がない。ひいてはそれは、お互いの「違い」を認め、理解しあえる社会の実現につながるのではないかと、僕は彼らの中に希望を見たような気がしています。