02 ラグビーと競技スキーに励んだ高校時代
03 女装クラブとは対極にある現実
04 単なる女装趣味ではなく性同一性障害
05 妻へのカミングアウト
==================(後編)========================
06 仕事は実績か、それとも世間体か?
07 家族を養っていくという責任
08 埋没せずトランス女性として生きる
09 真面目に生きていたら、きっと理解が
10 自分の経験は必ず誰かの助けになる
06仕事は実績か、それとも世間体か
ときには周りの意見を無視してでも
博子さんにカミングアウトしてからは、ユニセックスな服を好んで着るようになり、ローヒールのパンプスをはいて出社することもあった。
そして、ひとり暮らしを始めてからは、メンズライクな女性用の服を着たり、ファンデーションを薄く塗ったりするようになった。
「弟からは『化粧してくんな!』って怒られましたね。でもね、トランスは周りの理解を得てからでは進まへんのよ」
「母からは『勝手にそんなことして!』『なんで言ってくれへんかったん!』って言われたけど、そんなん言うたら、母のことやから精神病院にでも入れられたでしょって思います(苦笑)」
「家族には知られないように、進めるしかない・・・・・・。ときには周りの意見を無視してでも突っ走らなあかん時期もあると思うんです」
母や弟は「社長が性同一性障害では会社の信用を失う」「融資が受けられなくなる」と、しきりに心配した。
「それで私、京都で一番の有力銀行の支店長にね、ちょうど3000万の設備資金を借りるために伺ったときに、直接きいてみたんですよ」
「噂なんてすぐ広まるもんやし、いろいろ聞いてはると思いますけど、私、こういう生き方しようと思ってるんです、身内には信用がなくなるとか言われたんですけど、銀行さん的にはどう思いますか? って」
「そしたら『今西さん、心配しなくていいですよ。銀行は数字しか見ませんから』って言われたんですよ」
「仕事は結果がすべてなんや。結果を残してたら、社長のセクシュアリティがどうとか、関係ないとわかってうれしかったですね」
その言葉に、自分の生き方をあと押ししてもらった気がした。
カミングアウトから10年かけて
仕事で結果さえ残していたら、いつかはトランスして女性として生きていけるかもしれない。そう思うことができた。
しかし会社は、そのまま社長でいることを許さなかった。
「株主とか取締役とかの反対にあって、最後は社長辞任のハンコを押さざるを得ぇへんかったですよ。それが2014年。性別適合手術の翌月です」
「2012年には離婚してたんです。私のことを嫌いなわけじゃないけど、博子さんの女としてのプライドが許せない、みたいなことを言われて」
「別居してましたし、離婚しましたけど、相変わらず生計は一緒のまま。私、博子さんにはだまされても本望やって気持ちで、通帳も実印も全部、彼女に渡してました」
「誰よりも信頼してましたからね」
カミングアウトから別居、離婚、性別適合手術、改名、社長辞任・・・・・・。
10年ほどかけて体も名前も、生活も大きく変わったが、家族を想う気持ちだけは変わらなかった。
07家族を養っていくという責任
離婚後に養子縁組を
「私はずっと男性として生きてきて、結婚もしてね、子どもも2人いてる。家族のことを想うと、やっぱり男性なんでしょうね、養っていかなあかんという気持ちがあるんですよ(笑)」
「こういう生き方を選んだとしても、この命がある以上、その責任は背負わなあかんと思ってます」
好きになる相手の性別は問わなかったことを考えると、自分はバイセクシュアルなのだろうと思う。しかし、あえてアセクシュアルとしておきたい。
他者に対して恋愛感情や性的欲求を抱かない自分でありたい。
「博子さん以外の人を好きになってしまう自分が怖いんですよ・・・・・・」
離婚後、「もしも将来、同性婚が法制化されたら、再婚してもいいと思っている」と伝えた。しかし、「それはあり得ない」と言われた。
それでも家族というかたちは保ちたい。
「離婚した状態では、なにかあったとき博子さんに残せるもんも残してあげられへんし・・・・・・。養子縁組をしようと。でも博子さんが養女になったら、子ども2人と遺産を分割するから1/3ずつになってしまう」
「だから、妻だったときの1/2になるように公正証書を作ったんですよ」
“ちひろ” の “ひろ” は博子さんから
性別適合手術を終えたあと、すぐに名前を「千尋(ちひろ)」に変えた。
「姉が千恵っていうんですよ。だから私が次女だったら、母は私の名前にも千の字を使ったかなって勝手に思って(笑)」
「そして、“ひろ” はもちろん博子さんから」
「それから、私の生き方が、もしも身内のみならず、会社の従業員にまで迷惑をかけることになったら、立ち戻らなあかんと思ってましたんで、男性でも通用する名前にしたんです」
妻も子どももいる状況で性別移行するのは難しい、とトランスジェンダー当事者に言われたことがある。
「確かに難しいけれども、恵まれている部分もありました」
「当事者から『社長やし、お給料もそれなりにもらってるから、性別適合手術ができたんでしょ』って言われました。確かにそれもあるな、って」
「でも、やっぱり、博子さんが、いろいろあっても最終的に理解してくれて、背中を押してくれたのが、ありがたかったですね」
08埋没せずトランス女性として生きる
だんだんと理解して飲み込んでくれて
カミングアウト後に別居したとき、まだ小さかった子どもたちには、その理由を直接話すことはなかった。
「博子さんが『ある年齢がきたら、私の口から話す』って言って。徐々に説明してくれていったんやと思います」
別居してしばらく経って、息子は小学校4年生のとき、自己免疫疾患のために全身の毛が抜けてしまった。
「髪の毛だけじゃなく、眉毛も睫毛も抜けてしまってね・・・・・・」
「中学生のときは周りの理解もあって、帽子をかぶって授業を受けてたんやけど、高校に行ったらいじめられたみたいで・・・・・・」
「私のしんどさよりも、息子のしんどさのほうが・・・・・・、うーん・・・・・・、重かったと思いますよ」
高校は1年で通信制に転校。
息子は卒業後、ファッション系の専門学校に進学した。
「2022年に結婚したんですけどね、お嫁ちゃんと出会ってからは、まぁ、自信がついたんやろね、ウィッグも外して、ちょっと生えてきてた髪の毛もきれいに剃って、堂々としてますね」
娘は、別居してしばらくは口をきいてくれなかった。
「やっと、小学校高学年くらいかな、娘と一緒に、撤去された自転車を取りに行ったとき、係のおじさんが私を『お母さん』って呼んだら、娘が『あのおっさん、間違うてる』ってケラケラわろて・・・・・・。それくらいからやと思います、話してくれるようになったんは」
「いまは娘も大学生になって、福祉の仕事を目指してます。大学のゼミでは、教授に私のドキュメンタリー番組の話をしたそうで、みんなで観たらしいんです。そうやって、私のこと、だんだんと理解していって、飲み込んでくれていってるんやと思いますよ」
家族がいるからトランス後も安心して生きられる
「そんな家族のことを想うと、いくらトランスして女性として生きていこうと思っても、勝手なことはできないですよね」
「私は、ひとりじゃないから。家族のこともあるし、会社のこともある」
周りへの責任が、ときに足枷となり、トランスを躊躇することもあった。
その躊躇が良かったとも悪かったとも思える。
「そもそも、もしひとりだったら、ここまで伸び伸びと生きられていたかなって思うんですよ。将来がイメージできなかったかもしれない」
「トランスの過程って、みんなしんどいと思う。それはトランスしたあとの将来がイメージできないから。私は、仕事を辞めなくてもよかったし、家族もいる。男性のまま、生きてるしね」
トランスジェンダー当事者のなかには、トランス後はトランスした性別として埋没して生きていきたいと願う人が多い。
例えば、多くのトランスジェンダー女性・MTFは、女性として奇異の目にさられることなく社会に馴染むように生きていきたいと願う。
「私はね、ぜんぜん埋没してないですよ」
「でも、埋没して生きていかなくても、家族の支えに助けられますよね、やっぱり。家族がいるっていう安心感があるから、いまもこうやって生きてられるんやろなぁっていうのはあります」
09真面目に生きていたら、きっと理解が
母親ではなく父親である女性
「私はただ『女性として生きていきたい』ってだけで、『実は男性が好きだった』ってこともないので、博子さんと結婚したのは自然なことやと思ってるし、彼女の優しさも、私の人生を支えてくれました」
「だから、博子さんのことは決して裏切れへん。もちろん子どもたちも」
女性として生きるいま、子どもにとって「お父さんなのか、お母さんなのか?」と周囲からきかれることがある。
「こんな姿であっても、子どもにとったら父親以外の何者でもない」
「お母さんは博子さんだけ」
男性として生きてきたことも、夫であったことも、父親であることも、すべて背負って女性として生きていく。
焦ってどうにかなるわけでもない
「ただ、私の母は、いまだに近所の商店街とかで会っても、知らんふりするんですよ(苦笑)。実家に帰るときも、近所の人に見られんように夜に帰ってきて、って言います」
「いまだに私のこと、男性のときの名前で呼びますしね(笑)」
「でも、近所の人にバレてへんって思てんのは母だけ。周りはみんな、私のこと応援してくれてます。みんな気ぃ遣って、母に言わへんだけ(笑)」
「母は、仕事のこととか家のことは、私に相談してきます。私をいつまでも長男やと思てるから・・・・・・」
「それでも、私が着付け教室行って、着物をきっちり着れるようになったら、『きれいに着てんなぁ』って言うてくれました。ほんで、着物のことも私に相談するようになりました(笑)」
LGBTに関する知識はない。理解しようともしなかった。
そんな母も、少しずつ女性である “息子” を受け入れ始めている。
「時間がね、解決することもあると思う」
「カミングアウトしたとき、トランスしているとき、そのときしんどくても、社会で真面目に生きてたらね、時間をかけて周りもだんだんと理解していくんやろなって」
「静かな水面に石を投げたら、波紋がバーッと広がるけど、それもだんだんなくなっていく。そんなもんちゃうかなって思う」
「焦ってどうにかなるわけでもないしねぇ・・・・・・。女性ホルモンの薬も、焦って倍量飲んだとしても早く女性化するわけでもないし」
「大切なのは、トランスした先のビジョンをもって生きることやと思うんですよ」
どうしても焦ってしまって、つらくなってしまったら。
「ちょっと休んだら? って言いたいですね」
10自分の経験は必ず誰かの助けになる
100人のうち1人でも助けられたら
これまでの人生で、もっとも苦しかったのは、自分でホルモン治療を進めていて、心と体を壊しかけてしまったとき。
「トランスジェンダーのしんどさの一番は、トランスしたあとの将来がイメージできないこと。将来が見えないと自己否定につながってしまうし」
「そこをどう乗り越えていくかっていうのが課題なんやろなって思います。でも、生きている環境はみんな違いますからね。私が歩いた道が、その人にとって正解かというと、そうでもないし」
「そもそも、トランスジェンダーの歩く道は、ずっと茨の道やから・・・・・・」
「ただね、先に茨の道を歩いてる者として、自分の体験を発信することで、誰かの助けになるんやったら、積極的に発信していきたいと思ってます」
「100人いて100人全員は助けられない。1人でも助けられたらいいです。1人でも、必ず、誰かの助けになってるって気持ちで発信してます」
トランスすることがメガネをかける程度のものに
中小企業の経営者の集まりで、LGBTに関するセミナーがあった。
その場でディスカッションを行った6人中2人が「LGBTという言葉を知ったのは最近です」と話していた。
「驚きましたけど、やっぱり身近に当事者がおらへんかったら、そういう話題も耳に入ってこないよなぁって」
「だからこそ、発信できる人が発信していかないと、って思うんですよ」
2023年7月の人気タレントryuchellの死をはじめ、トランスジェンダーは社会の理解を得られにくい可能性があり、差別や偏見に晒されることによって希死念慮につながるケースも多いといわれる。
でも、茨の道の先にあるのが死だけではないと知ってほしい。
「私の生き方のすべてを真似する必要はないけど、言葉とか行動とか、なにかひとつでも、その人の人生に落とし込めることがあればいいなと思います。そのために、これからも発信していく意義はありますね」
「いつか、トランスすることが、メガネをかけるとか、髪の毛を茶色くするとか、その程度のもんになってくれたら・・・・・・」
「差別が完全になくなるのは難しいかもしれへんけど、10年・・・・・・20年くらいしたら、『あぁ、そんなことあったよね』って言えるような社会になってほしいですね」