02 秘めていた「男の子が好き」という気持ち
03 本能のときめきと理性の愛情
04 あふれ出しそうな思いと建前の交際
05 自分自身を誤魔化し偽るという苦しみ
==================(後編)========================
06 漠然と思い描いていた支援する仕事
07 自分を理解できず混沌としていた内側
08 ゲイである自分を受け入れてくれた場所
09 カミングアウトが導いてくれた今
10 立ち止まってこれまでを振り返る時期
06漠然と思い描いていた支援する仕事
偶然であり必然の福祉の道
福祉の道を選んだのは、自然な流れだった。
「お母さんが、介護の仕事をしていた時もあるんです」
「あと、小さい頃から、近所の子や同級生に障害がある人がいて、身近やったんですね」
福祉に関することには、ずっと興味があった。
高校1年で将来の夢を聞かれた時、漠然と「福祉の仕事がやりたい」と答えた。
「いろんな場所でいろんな人と出会うのは、縁やと思うんです」
「縁があったから、福祉の道を選んだし、今日ここに来ているんやと思います」
能動的に動いていく性分
漠然と「福祉の仕事」と考えていたものが、徐々に明確になっていった。
「高齢者や子どもの分野もあるけど、障害のある人たちを支援したいと思いました」
「小さい頃から障害のある人とのつき合いがあったし、アルバイトやボランティアでも関わることが多かったんです」
ふとした興味から、18歳から手話を習い始めた。
「自分で自治体主催の手話サークルを探して、通い始めて、そこで友だちもできました」
「友だちに別のサークルを紹介してもらって、輪が広がっていきましたね」
大阪府内の大学に通い始めてからは、授業を終えた足で、手話サークルに向かった。
サークルが終わってから、終電で和歌山の家に帰り、翌日また大学に行く日々。
「授業をサボって、怒られたこともありました(笑)」
07自分を理解できず混沌としていた内側
考えたくなかった自分のこと
高校生で携帯電話を持ち、セクシュアリティに関する知識が入ってくるようになる。
大学に進むと、他大学にはLGBTサークルがあることを知った。
しかし、行こうとは思えなかった。
「誰かに見られるかもしれないし、何より異性愛者になれる可能性がなくなる気がしたんです」
「親の願う自分に戻れないかもしれないと思ったら、怖くて行けなかったです」
親に背くことは、したらいけないと思っていた。
同じ頃、自分自身が何者であるかが、わからなくなっていた。
ずっと本質の自分を隠し、建前の自分で生きてしまったから。
「セクシュアリティに限らず、自分のアイデンティティがないように感じたんです」
「自分自身じゃない自分として生きていくのは、果たしていいのか? って思い始めて」
交わらない2人の自分に心はかき乱され、揺さぶられていた。
不安定な状態は、高校卒業時から社会に出るまで続いた。
「勉強やボランティア、仕事の予定を詰めて、忙しくしていました」
「暇がなければ自分のことを考えないから、ラクなんですよ」
「終電で帰る生活が続いたので、恋愛をするって状況でもなかったし」
時間が空いてしまうと、自分のことを考え、しんどさが増した。
興味よりも大きかった恐怖
高校でも大学でも、仲のいい友だちはいた。
しかし、自分の本質的な部分を打ち明けることはなかった。
「恋愛相談を受ける場面があったけど、建前の自分が話している感覚でした」
「自分の本質の部分は人に言うもんじゃない、って思っていたから」
「本当は話したかったけど、話せる場所がなかったですね・・・・・・」
和歌山に、LGBTに関する団体があることは知っていた。
しかし、LGBT団体で活動しているところを誰かに見られ、「津村さんとこの子、あんなとこ行ってたで」とウワサされることを恐れた。
大阪の堂山町に、ゲイバーが多いことも知っていた。
「自分にとってはミステリーの世界で、行くと何かに巻き込まれそうな気がして、行けなかったです」
何者かわからない自分に悩み、大学でも授業を休むことがあった。
「友だちから『来ないけど大丈夫?』って、心配してもらうことはありました」
「ただ、自分自身のことで悩んでいることに、気づく人はいなかったです」
「いろんな場所に行くことが好きやったんで、しんどくなったら旅行に出ていました」
見つからない解決策
大学には和歌山の実家から通っていたが、大学院の2年間は、大阪で1人暮らしをした。
「最初は、1人になって自由だ! って解放的な気持ちでした」
「でも、必然的に1人の時間ができてしまったんですよね」
自分のことを考える時間が増え、さらに落ち込みやすくなっていく。
「自分と向き合いたくないけど、向き合わないといけないのがしんどかったです」
「内面がずっと混沌としているから、解決法も見つからないんですよ」
「今みたいにセクシュアリティにプライドを持っていないから、親にも言えなかったし」
23歳になり、社会に出ていく同級生も多かった。
ちょうど同じ時期に、弟が結婚した。
親戚や近所の人から、「次はお前の番でしょ」という目で見られた。
「周りの人から期待されることが、すごく嫌でした」
08ゲイである自分を受け入れてくれた場所
LGBT当事者との触れ合い
大学院2回生の時、1つのターニングポイントを迎える。
当時、部屋に引きこもりかねないほど、自分自身のことで思い悩んでいた。
何気なく見たSNSで、「LGBT当事者のお茶会」が開催されることを知る。
「関西レインボーパレードのイベントの1つとして、告知されていたんです」
「これに行かないと自分は死ぬかもしれない、ぐらい切羽詰まっていました」
次のチャンスはないと思い、お茶会に参加した。
さまざまなセクシュアリティの人が来ていた。
「初めて人に言いますけど、男性が好きなんです」と、本当の自分のことを打ち明けた。
「和歌山から来ている人もいたし、悩んでいるのは自分だけじゃないってわかりました」
「自分を隠さないでも、受け入れてくれる場所があることを知って、肩の荷が下りた感じでしたね」
当事者の友だちができ、徐々に行ける場所も増えていった。
「自分らしくいられることがわかって、コミュニティに行く楽しみができました」
初めて赴いたお茶会で、「ボランティアしませんか?」と誘われる。
「ボランティア経験があったし、何よりコミュニティに行く理由にできると思ったんです」
知り合いや友だちに見られても、「ボランティアしてるだけ」と言えば、同性愛者であることは知られない。
「ボランティアとして参加している時に、友だちと遭遇したことがあるんですよ」
「その時は『なんでいてんの?』って聞かれたんで、『ボランティアしてる』って答えました」
「でも、2~3年後に、2人ともゲイだったことがわかって『そりゃいるわな』って(笑)」
イベントに行くようになり、心のモヤモヤが晴れた。
生きがいのようなものが見えた。
ゲイであることも、自分らしさもそのままに
「関西レインボーパレードには、大学院2回生の時から約4年間関わりました」
ボランティアから始め、実行委員も経験した。
「活動を続けていく中で、どんどん自分らしさを出せるようになっていきました」
LGBTの世界を知るきっかけは、関連団体のイベントに参加したこと。
SNSで当事者と知り合ったわけでも、ゲイバーに遊びに行ったわけでもない。
「だから、自分にとっては団体での活動が、落ち着ける場所なんです」
「他の場所は怖くて、いまだに行けなかったり(苦笑)」
「外からでも入りやすいところが、イベントのいいところやと思います」
外部からの批判的な意見が、ないわけではない。
「表現は自由やから強制はできないけど、しんどい時もあります」
「でも、自分は活動から入ったから、活動からすべてが始まるんです」
09カミングアウトが導いてくれた今
変化のために第一歩
LGBT関連団体での活動を通じて、本質の自分が出せるようになっていった。
「建前の “津村さん” はいらないかな、って思うようになっていったんです」
「周りの人にも、カミングアウトした方がいいのかなって」
当事者以外で初めて打ち明けた相手は、職場の後輩だった。
「その頃の自分は、平日は落ち込んでいるけど、休日に団体での活動をした直後は元気だったんです」
「その不安定な状態を見て、後輩は気にかけてくれていたんですよ」
「だから、最初に伝えようと思って、ご飯に誘いました」
いざカミングアウトすると、否定や拒絶の言葉はなく、「別にいいよ」と受け止めてくれた。
その後、後輩は「言動が変わって、明るくなったね」と変化に気づいてくれた。
あっさりしていた兄弟
後輩に伝えてから、弟と妹にも打ち明けた。
「弟は海外にいた時期があったので、同性愛に対する抵抗感は薄いかなと思ったんです」
「弟に言ったら、妹に言わないのも変やから、それぞれに伝えました」
2人とも「いいんじゃない」と、あっさりしていた。
同性愛者であることを伝えたからといって、関係性が変わることもなかった。
「打ち明けた後に、妹と2人で住んでいた時期があるんです」
「その時のルールは “男を家に上げたらダメ” でした(笑)」
「将来1人にならないでね」
兄弟には話せたが、両親にはなかなか言い出せなかった。
「自分らしく振る舞えるようになっても、親の思いを無下にすることはできなかったんです」
「結婚して家を継いでほしい」という願いを、叶えてあげられないことが申し訳なかった。
「もしカミングアウトしたら、『出ていけ』って言われると思ってました」
兄弟にカミングアウトしてから、3年ほどが経った頃。
地元の新聞に取材を受け、インタビュー記事が掲載されることになった。
妹から、「あの記事を両親に見せた」と聞いた。
「LGBT関連の取材だったので、両親はそこで僕のセクシュアリティについて知ったんです」
しかし、両親からのリアクションはなかった。
「自分が面と向かって伝えるのを、待っていたんだと思います」
それから1か月半後、意を決してゲイであることを伝えた。
両親は「いいよ」と言ってくれた。
自分が小さかった頃、両親はニューハーフを拒否していた。
しかし、それから30年近く経ち、時代とともに考え方が変わったのかもしれない。
「お母さんとお父さんから、『将来1人にならないでね』って言われました」
「一緒に将来を生きていきたい人がいたら、紹介してね」と、受け止めてくれた。
結婚という形にこだわらなくても良かったことを、両親が教えてくれた。
10立ち止まってこれまでを振り返る時期
個人的な夢を考える時間
初めて関西レインボーパレードのお茶会に参加してから、10年近く団体での活動を続けてきた。
「自分を認めてあげる機会が、どんどん増えていきましたね」
「日常生活の中で、男の人が好きなことにプライドを持てるようになりました」
「ただ、ずっと活動してきたから、自分のことは後回しで、周りのことを優先していたんです」
「自分自身の幸せについて、もっと考えてあげようかな、って最近は思ってます」
これまでは、周囲にお願いされたことに対して、「やったるねん」と動き回ってきた。
人との縁も広がり、楽しかったが、自分個人の目標がないことに気がついた。
「周りからも『忙しすぎるから、休んだ方がいいよ』って言われていたんです」
「今、そのタイミングが来たんやな、って感じています」
活動が占める割合を抑え、 “休活” しようと考えている。
「25年間ぐらい、建前の自分で生活してきたので、もっと自分らしさを素直に出したいです」
「そのために、今の自分を認めて、毎日を楽しむことが必要なんやろうなって」
無意識のうちに狭くなっていた視野を、再び広げていきたい。
多様なものの考え方を知ることができたら、余裕をもって生きていけるから。
「自分自身の成長がないと、これから困っていくやろうから」
「日々の活動だけじゃなくて、生活のための学びをしていきたいです」
団体の活動に対しては、一度客観的に見てみようと思っている。
“ぼちぼち” で生きていくこと
周囲から依頼が来れば、断りはしない。
「何事も、縁があれば続けていくと思います」
「2016年頃から、学校などでの講演をする機会をいただいて、続けていますね」
「休活中は自分から動くことはないと思うけど、声がかかれば行くかな」
「気の向くままに、って感じですね」
幼い頃から揺れ続けていた感情が、ようやく落ち着きそうな気配を感じている。
素直に自分を出せるようになり、ようやく幸せを見出すことを考え始めた。
「結婚して、子どもを生んで、家庭を築いている両親を見て、いいなと思う自分もいます」
「今の日本では制度上難しいけど、ごく当たり前に選択できる社会になったらいいな」
「ご近所さんとか周囲のコミュニティとのつき合いも、自然にできたらいいですよね」
やりたいことや願いはたくさんあるが、まずは自分と向き合い、自分を見つめ直したい。
「LGBTERにエントリーしたのも、自分を振り返りたかったからなんです」
「何年後かわからないけど、また活動に一生懸命になった時に読み返したいですね」
「当時はこんなことを考えていたけど今は変わったよ、って思えるようになっていたらいいかな」