02 遺伝子学者の父と心理科学者の母
03 瞑想して45秒でゲイだと自覚
04 自由に動けない “ロボット生活”
05 永遠に恋愛ができないから
==================(後編)========================
06 自分にも恋愛はできるんだ
07 国際交流員として日本へ
08 日本と海外、LGBTにまつわる共通点と相違点
09 世界がより良い方向へと向かうために
10 差別禁止法が存在しない日本で
01言語が変わると視点も変わる
ルールを学び、正しく使えたときの達成感
日本で暮らし始めて3年。
しかし、たった3年とは思えないほど日本語が堪能だ。
「15歳のときから日本語に興味があって、独学で学んでたんです」
「言語学・・・・・・特に文法が好きで。ウィキペディアとかで、文法の概念について調べてて、日本の文法はすごく独特だなって思って」
「独学で学びながら日本語の塾にも通ってて。あとは、18歳のときにスペインに渡って英語教師として働いてから、またオーストラリアに戻って、大学でも日本語を学びました」
母国語である英語、大学で専攻した日本語とスペイン語、そしてポルトガル語も学び、4つの言語を話せる。
「言語のシステムやルールがおもしろいんです。ルールを学んでは練習して、学んでは練習して、を繰り返して、正しく使えるようになると達成感がありますね。自分には、どこか完璧主義なところがあって(笑)」
「人とのコミュニケーションも大好きですし」
新しい言語は新しいメガネ
言語が変わると、視点までも変わるのがまたおもしろい。
「すでに知っている事柄でも、新しいメガネで見る感じ」
「たとえば、英語で『私は転職します』って言う場合でも、日本語では『転職することになりました』って言うことがありますよね」
「転職することに決めたのは誰ですか? って感じで(笑)」
「そういうふうに、話し手も聞き手もセンスによって、表現の仕方や感じ方が違うところがおもしろいなぁって」
出身はメルボルン。
いろんな言語を母国語とする移民の国、オーストラリアの第二の都市だ。
友だちが集まれば、それぞれ出身が異なるのは当たり前。カルチャーもミックスされ、多彩で賑やかな街である。
「でも僕が生まれたのは中央区から車で1時間くらいの田舎です。自宅の庭も大きくて・・・・・・庭っていうか、もう森みたいな感じでした(笑)」
「森で遊ぶよりも、本を読んでいるほうが好きでしたけどね」
02遺伝子学者の父と心理科学者の母
科学者だけが入れるエリアへ
父は、研究所の所長を務める遺伝子学者。
母は、セラピーで人の心を癒す心理科学者。
そんなふたりのもとで、ひとりっ子として育つ。
「きょうだいもいないし、田舎だから友だちの家も遠いし、あんまり遊びに行けなくて。金曜の夜になると、『今週末もまた予定がない』『寂しい』と思って、すごく孤独を感じてたのを覚えてます」
「僕は、あんまり田舎に向いてなかったかな(笑)」
しかし、父と出かける山歩きは楽しかった。
「毎年1回、山の生態系を調べるため、科学者だけが入れるエリアへ、父に連れて行ってもらってたんです」
「そこに生息するポッサム(フクロギツネ)を見つけて、妊娠しているかどうか、太っているかどうか、目は見えているかどうかを確認したり、エコシステムの健康・環境ストレスを計るために、植物の葉を数えて生育状況を調べたりしました」
「その山での活動が、すごく楽しくて。いまも、山は大好きです」
何をしてもいい、世界を変えるなら
仕事が忙しく、帰宅してからも自室で机に向かっているような父だったが、子どもと過ごす時間は大切にしてくれていた。
「父は優しいんですが・・・・・・“基準” はちょっと高い(笑)」
「僕が16歳になったときに言われたのが、『何をしてもいいよ。世界を変えるなら』って!」
母は、セラピストであるために、常に自己分析をしていた。特に母自身の欠点については、いつも考えているようだった。
「僕の行動を見て、『あなたのこの部分が、私から受け継がれていて、ごめんね』とか、『私たち親が、こうしたから、あなたはこうなったんだね』とか、僕のことも分析してました」
「そんなに自分を責めなくてもいいのに、って思う反面、たまに『そのとおりだな』って思うこともありました(笑)」
「言い返したりはしませんでしたよ。彼女は、僕に対して、本当に精一杯がんばってくれていたので、ありがたいと思っています」
03瞑想して45秒でゲイだと自覚
山寺での生活に興味をもって
学校ではクラスのみんなと仲が良く、授業には積極的に参加する模範的な生徒だった。
「授業中はいつも、先生に気に入られるように『ハイッ! ハイッ!』って挙手してました(笑)」
そんななか、「周りと自分はなんだか違う」と違和感を感じ始める。
「もしかしたら、自分たちが移民してきた家族だからかな、と考えていたこともあるんですが、ほかの移民してきた家族を見ると、『この違和感は、移民してきたからじゃないな』と気づきました」
しかし違和感の正体はわからないまま。
11歳のとき、仏門に入って寺で暮らす、父の知り合いを訪ねた。
「山の中にある寺での生活に、すごく興味をもって」
「最初は、家族3人で訪れたんですが、そのあとに僕1人だけ、父の知り合いと2人で、しばらく寺で過ごすことにしたんです」
「一緒に、朝6時に起きて、厨房で野菜を切ったりとかもしてましたよ。そして、これから自分も仏教徒になるんだ、と考えて瞑想したら、始めて45秒で、『あ、僕はゲイなんだ』って自覚したんです」
ゲイだと自覚して落胆
実は、同級生の男の子に恋をしていた。
「もう、クラッシュって感じ」
「でも、男の子が好きだと認めると自分はゲイになってしまう、同性愛者になるんだ、って思いたくなくて、ずっと考えないようにしてました」
「考えないようにしていたけれど、違和感として、なんとなく気づいていたことが、瞑想したことで、バンッとわかったというか」
「しまった、がっかりした、困る・・・・・・って感じでした」
ゲイという言葉の意味も、同性愛者の存在も瞑想するより以前から知ってはいた。
しかし、地元の子どもたちのあいだでは、「アホやなぁ」「バカだね」と相手を軽くけなすときや、つまらないもの、ダサいもの対して、“ゲイ” という言葉をネガティブな意味を込めて使っていたのだ。
自分がゲイであることが、周りにバレてはいけない。
秘密にしなければ。
ゲイであることを自覚してすぐ、落胆すると同時に、自分のなかに “大きな隠しごと” ができた。
04自由に動けない “ロボット生活”
カミングアウトするしかない
「自分がゲイだということが周りに知られたら、大変なことになるから、絶対にバレたくなくて、秘密にしているのが本当にしんどかった」
「声とか、手の動きとか、歩き方とか、自分の言動でバレたんじゃないかと常にヒヤヒヤしていて・・・・・・」
友だちに「おまえ、ホモなんじゃないの?」と言われても、それが冗談なのか、本気で疑っているのか、わからない。
「毎日家に帰ってから、あれをやってバレたんじゃないか、これをやってバレたんじゃないかって、思い返しては自分を責めてました」
「手がひらひら動いたりしないように注意したり、自由に話せず、動けず、歩けず、表現できなかったり、まるでロボットのような生活で」
「それが、だんだんだんだんつらくなっていって・・・・・・。あるとき、そうやって自分で自分を苦しめていることに気づいたんです」
このままでは、永遠に本当の自分を表現できないまま、自分自身を潰してしまって、“ダメ人間” になってしまうかもしれない。
もう、カミングアウトするしかない。
そう思った。
「友だちにカミングアウトしたら、反応は “ふつう” でした」
「あ、でも、ひとりの友だちからは、『そんなこと言われたら、こっちが困る』って感じのことを言われたんです」
「困ってるのはあんたじゃなくて僕だよって思ったんですけど、実はあとで、その友だちはトランスジェンダーの女性だったと知りました(笑)」
自分を守るために “ゲイキャラ” を演じて
カミングアウトしたことで傷つくこともあったが、してもしなくても苦しい毎日だったので、カミングアウトしたほうがマシだった。
「暴力を伴うようないじめがなかっただけ、ラッキーだったと思います」
しかし、その後数年間は、まだ本当の自分を表現できないまま。
今度はロボットではなく、“ゲイキャラ” を演じるようになっていた。
「テレビに出てるような、ステレオタイプなゲイを演じてました。日本でいうと、マツコデラックスさんみたいな感じかな・・・・・・」
「自分を守るために、演じてました」
「もしも、そのキャラクターが誰かに嫌われてしまっても、本当の自分とは違うので、傷つかなくて済むので」
「でも、演じるのもしんどいし、秘密にしておくのもしんどい。どちらにしても、やっぱりしんどかったですね(苦笑)」
その頃はまだ周りに、自分のほかにカミングアウトしている人もおらず、参考にできるような存在は、テレビに出ているゲイやゲイキャラだけ。
どうやって振る舞えばいいか、どうやって生きていけばいいか。
未来を見ようとしても、どうしても見通せなかった。
05永遠に恋愛ができないから
ゲイは一時的なもの?
初めて、自分以外のLGBT当事者に出会ったのは、15歳のとき。
学校のカウンセラーがゲイだった。
「でも、そんなにウマが合わなかった。あんまり信頼できなかったかな」
「なんか、学校のPRになるから、テレビの取材を受けましょうって言って・・・・・・。僕としては、すごくしんどい時期だったので、取材で質問されても、『この学校にいたら安心です! 最高です!』なんて言えないし」
「嘘をつきたくもないし・・・・・・すごくイヤでした」
その頃は、自分がゲイであることは、ほぼオープンな状態。
もちろん、両親にもカミングアウトしていた。
それでも、テレビで見せものにされることを望むはずがない。
「母には、13歳のときに伝えました」
「ゲイです、って。母と大喧嘩していた、一番悪いタイミングで(笑)」
「お互いに、すでに泣いている状態でカミングアウトしたから、母の涙がカミングアウトのせいなのかどうかもわかんない感じ」
それでも、泣きながら母は、「あなたが自分のことをゲイだと思うのは、一時的なものだろう」と答えた。
「それは、ゲイとして生きていくのは難しいから、本当はゲイじゃないほうがいいな、という期待からくる答えだったんだと思います」
僕はずっとひとりぼっち
父には、出かけた先の車中で伝えた。
「男に興味がある、とか、そういうふうに言いました」
「父の反応はふつうでしたね(笑)。いい言葉も悪い言葉もなかった。あ、そうですか、って感じで」
両親にカミングアウトしなきゃよかった、と思うようなことはなかった。
しかし、ゲイであると周りに伝え、自覚を強めていくなかで、「こうあるべき」という決まりをつくり、自らを縛り付けるようになっていく。
「たとえば、自分はゲイだから、永遠に恋愛ができないから、ずっとひとりぼっちだから、すごく偉くならなきゃいけない、みたいな」
「逆に、みんなは恋愛して、結婚して、家族ができたら、移住とかは難しいけれど、僕はひとりぼっちだから、いろんな国で生活することができるんだ、と思うこともありました」
「いずれにせよ、ずっとひとりで生きていくと思ってました。恋愛や結婚なんて、その頃は想像がつかなかったですね」
LGBT関連の情報は、主にTumblrから拾っていた。
「SNSとはいえ、Tumblrでつながって友だちになるようなことはなかったです。情報がとにかく大量に流れてくる感じで」
「でも、共感できる投稿もあったし、僕の投稿も理解されていると思えたので、友だちができなくても、得るものはあったと思います」
<<<後編 2023/01/14/Sat>>>
INDEX
06 自分にも恋愛はできるんだ
07 国際交流員として日本へ
08 日本と海外、LGBTにまつわる共通点と相違点
09 世界がより良い方向へと向かうために
10 差別禁止法が存在しない日本で