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かずえちゃんとして、YouTubeを通じて「LGBTは身近にいるんだよ」って伝えたい。【前編】

YouTuber・かずえちゃんとして活躍している藤原和士さん。物腰やわらかで人当たりもいい藤原さんだが、「昔はやんちゃだったんです(笑)」と意外な過去を語ってくれた。将来の夢はなく、瞬間瞬間を全力で楽しんでいた少年が、人知れず抱えていた心のモヤモヤ。すっきり晴れ渡るまでの道のりには、人を愛おしいと思う気持ちや海外での経験、家族の愛があった。

2018/12/20/Thu
Photo : Tomoki Suzuki Text : Ryosuke Aritake
藤原 和士 / Kazushi Fujihara

1982年、福井県生まれ。小学校低学年の頃から、同性に好意を抱くようになり、24歳の時に家族にカミングアウト。高校卒業後はブライダル関連企業に就職し、後に生命保険会社に転職。30歳でカナダ・バンクーバーに留学。帰国後はLGBTに関する情報を発信するため、YouTubeに自身のチャンネルを開設し、「かずえちゃん」として活動中。

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INDEX
01 “あなた” を肯定するための活動
02 あっけらかんとその場を楽しむ少年
03 人には言えなかった教師への好意
04 全力ですべてに向き合った思春期
05 やりがいを見出せた2つの仕事
==================(後編)========================
06 男性との交際とゲイを受け入れる時
07 未来を拓くためのカミングアウト
08 同性婚が認められた国での生活
09 全国に思いを発信していくツール
10 LGBT当事者のためにしたいこと

01 “あなた” を肯定するための活動

100人のカミングアウト

YouTuber・かずえちゃんとして初めての動画を上げてから、2年以上の時が経つ。

2017年10月11日、カミングアウトデーにLGBTQ100人のカミングアウト動画をアップした。

「1回きりじゃなくて、続けることが重要だと思うから、今年も動画を上げるために動いてます」

「8月ぐらいから、全国各地でLGBTQの人に会って、撮影してるんです」

100人のカミングアウト動画を撮ろうと思ったのは、当事者を肯定したかったから。

「YouTubeを始めて、『かずえちゃんが初めて会ったゲイの人』って言われるようになったんです」

「自分の周りにセクシュアルマイノリティはいなかった」と、コメントをもらうことも多い。

「実際は、LGBTっていないんじゃなくて、周囲に言えていないんですよね」

「だから、本当は身近なところにたくさんいるんだよ、って伝えたかったんです」

「小中学生とか若い世代の当事者の子に、これでいいんだ、って自分を肯定してほしかった」

そのために、大勢の当事者の声を、形にして届けようと考えた。

一歩を踏み出すきっかけ

カミングアウト動画撮影。

自分の中でのルールは、100人全員に直接会うこと。

「ゲイだけじゃなくて、レズビアンにもトランスジェンダーにも、全員に会いたかったんです」

「1人1人違うことを、直に感じたかったんですよね」

100人いれば100通りの考えがあるように、セクシュアリティも100通りあっていい。

撮影で会った人の中には、「動画に出るために、昨日お母さんにカミングアウトした」と話す人がいた。

その人は体に障がいを持ち、車椅子で生活していたため、撮影場所まで母親に車で送ってもらっていた。

連れてきてもらうために、セクシュアリティを打ち明けたのだ。

「カミングアウトを勧めるわけではないけど、その人が何かの一歩を踏み出すきっかけになれたらなって」

動画をアップすると、「自分は1人だと思ってたけど、いろんな人がいたんだ」というコメントが届いた。

僕らが動く意味

「100人と会ったことで、僕自身もいろんな人がいることを知れたんですよね」

ゲイの友だちはたくさんいるが、レズビアンやトランスジェンダー、クエスチョニングの人と会う機会は少なかった。

撮影を通じてさまざまな人と話すことで、さまざまなセクシュアリティがあることを実感できた。

「LGBTを広く知ってもらうには、カミングアウトできる人が動くことが大事だと思います」

「出せる人は声を出さないと、いないものとして見られてしまうから」

だから、動画にはいろんな人に出てもらいたい。

「僕個人のチャンネルじゃなくて、いろんな人を紹介していく場所にしていきたいんですよね」

02あっけらかんとその場を楽しむ少年

波長が合う相手=女の子

幼い頃の自分は、今の自分をそのまま子どもにした感じ。

「話し方も雰囲気も、今とあんまり変わってないと思う(笑)」

「男の子がするような野球やサッカー、バスケはできない子でした」

女の子の友だちが多かったせいか、同級生の男の子から「オカマ」と茶化されていた。

「いじめじゃなくて、からかう感じでしたけど、気持ちいいものではなかったですね」

ただ、男の子たちの言葉で、塞ぎ込むようなことはなかった。

だから、振る舞いは変えるという選択にも至らない。

「男の子といるのは嫌ではなかったけど、女の子といる方がラクだったな」

おままごとなどの遊びが、特に好きだったわけではない。

それでも、女の子とは波長が合った。

やさしい母と厳しい父

両親や祖父母から、「男らしくしなさい」と言われたことはない。

「僕のお母さんは、すごくやさしいの」

「『あなたの人生だから』って、僕の意見を尊重してくれるんです」

高校卒業後はすぐに働きたかったから、大学には進まなかった。

その時も、母は息子の意見を聞き、背中を押してくれた。

「妹が2人いるんだけど、お母さんから『長男らしくしなさい』って言われたこともないです」

一方、寡黙な父には、厳しい人という印象を抱いている。

「口うるさく怒られるとか殴られることはなかったけど、最後の砦ってイメージがあって」

静かに見守ってくれる両親に、反抗した時期もあった。

「中学高校くらいかな。親に盾つくことはなかったけど、学校でやんちゃしてたんです(笑)」

「親が学校に呼び出されて、迷惑をかけたこともありましたね(苦笑)」

考えすぎない性格

両親は共働きだったため、幼い頃は祖父母に面倒を見てもらっていた。

祖父によく言われていた言葉がある。

「人生っていいことも悪いこともあるから、気にすることはない」

その言葉がすべてではないが、自分の性格を形成した一つの要素になっていると思う。

「幼い頃から、物事を深く考えすぎない気がしますね」

「だからかわからないけど、将来の夢も特にない子どもでした(苦笑)」

「今とか近い未来のことは、どうしたら楽しくなるか考えるんですよ」

「でも、長い目で遠い未来を見ることは、得意じゃないかもしれないです」

03人には言えなかった教師への好意

男性に抱いた恋愛的 “好き”

小学4年生から6年生の3年間、クラスの担任は20代前半の男性教師だった。

「ほかの先生は年配の方が多かったせいか、気づくと担任を目で追ってました」

「かっこいいな、って思い始めて、好きになってたんですよね」

女性でも男性でも、人として好きな先生はいた。

しかし、担任に抱く好きは、異性を意識して抱くもの。

「男性を意識するようになったのは、その先生が最初だと思います」

「もちろん、まだ同性愛やゲイなんて言葉は知らなかったですよ」

当時、テレビ番組に保毛尾田保毛男(ほもおだほもお)というキャラクターが出ていた。

「僕も見ながら、笑ってました」

「でも同時に、男の子が男の子を好きって言ったら、笑われるんだって思ったの」

「その時に男性が好きなことはダメなこと、恥ずかしいことって認識したんだと思います」

理解できない男の子の感情

中学生になると、同級生の男の子たちが色恋に目覚め始める。

彼らは拾ってきたエロ本を回し読みし、「女の子とキスしたい」という話で盛り上がっていた。

「男の子たちの話をなんとなく聞いてはいたけど、僕はまったく理解できなかったの」

「女の子たちは友だちとして好きだけど、キスとかはしたくないな・・・・・・って」

「エロ本を見ても、まったく興味が湧かなかったんです」

むしろ、話しながら気になるのは、興奮している男の子たちの方だった。

エロ本を見れば、女性よりも、ときどき写り込んでいる男性が目に入った。

「『男の子が好き』なんて言ったら笑われるって思ってたから、そのことは誰にも言えなかった」

「友だちに本音を言えない状況は、多少しんどかったと思います」

「でも、学校に行けないとか生きていけないとか、そこまで落ち込むことはなかったな」

恋愛感情<性的欲求

男性を意識するようにはなっていたが、中学高校時代に好きな人はいなかった。

「かっこいいなって感じる人は、いっぱいいましたよ」

「でも、小学校の担任みたいに、1人を好きだと思うことはなかったです」

特定の誰かとつき合いたい、という思いは抱かなかった。

しかし、同級生の男の子が「女の子とキスしたい」と思うように、性的なことには興味があった。

「かっこいい人と手をつなぎたい、キスしたいって気持ちは自然と出てくるんですよ」

「でも、人には言えないから、1人で妄想する以外に発散する方法がないわけ(苦笑)」

男性とつき合ってみたいという気持ちは、社会人になっても芽生えることはなかった。

04全力ですべてに向き合った思春期

自然と踏み入れたやんちゃな世界

思春期の頃は、とにかくやんちゃだった。

中学3年生で、夜中に家を抜け出し、友だちと遊びに行った。

高校生になると、友だちのバイクに2人乗りして走った。

「中学も高校も、ヤンキーが多い学校だったんです(笑)」

「だから、自然とやんちゃな方向に進んでいた気がしますね」

「でも、誰かを殴るとか、ケンカすることはなかったですよ」

「授業中は常に眉毛抜いてて、超細眉で、パラパラをよく踊ってた(笑)」

クラスの中では、派手なグループに所属。

友だちと過ごす日々が楽しすぎて、将来のことを考えるヒマもなかった。

「学校は友だちと会えるから楽しかったし、ちゃんと通ってました」

時に校則を破り、両親が学校に呼び出されることも。

「お父さんは強く怒るわけじゃないけど、やっぱり怖かったです」

「お母さんは、怒りはしなかった。・・・・・・でも、泣くの」

「その姿を見たら、こんなことしてちゃダメだな、って反省しましたね」

親を泣かせてまで、することではないと思い知らされた。

変化を期待した交際

高校時代、女の子とつき合ったことがある。

女の子とカップルになれば、周りの男友だちと同じ感覚になれるんじゃないかと期待した。

「いつか女の子に恋愛感情を抱ける、ってずっと思ってましたね」

「でも、彼女のことは友だちとして好きでも、キスしたい、手をつなぎたいとは思わなかった」

「なかなかその先にいけない自分がいて、関係も長く続かなかったです」

何度か女の子との交際にチャレンジしたが、自分の感覚が変わることはなかった。

複合的に導き出した進路

高校は商業科で、テキスタイルのコースを専攻。

国語や数学の時間は寝ていたが、布の染色や編み物といった実技の授業は好きだった。

「自分で浴衣を染めたり、服をデザインしたりするのは、大好きでしたね」

「それが楽しくて、ちゃんと学校に通ってたのもあります」

卒業を目前に控えた時、教師が「美大やデザイン学校を受けたら?」と言ってくれた。

しかし、進学という将来はピンと来ない。

「将来の夢がないのに、親にお金を出してもらうのは悪いと思いましたね」

「それなら働こうかなって」

商業科だったこともあり、就職という道に進む同級生は多い。

その流れに乗るように、自分も社会人になる選択をした。

05やりがいを見出せた2つの仕事

感動の晴れ舞台に携わる仕事

高校を卒業し、就いた仕事はウエディングプランナー。

「実は、友だちが採用試験を受けるって聞いて、一緒に受けたのがきっかけ(笑)」

「いざ内定をもらって働き始めたら、すごく素敵で楽しい仕事でした」

最初は、結婚式で食器をサーブする仕事から始まった。

働いて2年が経つ頃、ようやくウエディングプランナーとして一人立ち。

「お客様と話すことが好きだったし、どんな提案をしたら喜んでもらえるかな、って考えるのが楽しかったの」

「提案が受け入れられて、実際に結婚式が行われると、すごくいい仕事だって実感しましたね」

プランナーとして携わった式は、すべて記憶の中で輝いている。

時には、辛く悲しいこともあった。

「担当していた新郎さんが、挙式の何週間か前に亡くなってしまったことがあるんです」

「何度も打ち合わせをしていたから、あまりにも衝撃で、今でも思い出しますね」

成果主義の新天地

24歳の時、ウエディングプランナーを辞め、転職した。

「僕の働いていた職場では、男性って30歳を超えるとウエディングプランナーを続けにくくなるんですよ」

女性は年齢を重ねるごとに、ベテランプランナーとして頼りがいが出てくる。

しかし、中年の男性プランナーは、担当している新郎新婦から「女性に変えてほしい」と言われることが少なくない。

「男性の先輩を見ていて、僕もプランナーを続けられなくなるんだろうな、ってわかったんです」

「男性プランナーだと、ウエディングドレスの試着に立ち会えなかったりするから」

23歳の頃、女性の先輩が保険会社に転職した。

1年後、その先輩から「仕事の話を聞いてみないか」と連絡が来る。

先輩から、保険会社は完全歩合制で、営業成績を上げた分、給料として返ってくると聞いた。

「話を聞いて、保険の仕事に興味が湧いたんです」

「ウエディングの仕事は素敵だけど、休みが取れない割に給料が見合わなかったんです」

「だから、歩合制の保険の仕事は、魅力的に見えましたね」

長年、保険の外交員をしていた母にも相談すると、こう言って背中を押してくれた。

「保険の営業は、大事な仕事。行くなら外資系にしなさい」

先輩の転職先はまさに外資系だったため、ウエディングプランナーを辞めることを決意。

散財せずに備えること

保険会社の仕事は向いていたようで、いい成績を上げられた。

「人と話すことが好きだったので、いっぱい売れたんですよ」

「ただ、一度入院して、仕事ができなかった時期があるんです」

社会人バドミントンに参加していて、足の靭帯を切ってしまった。

まるまる2カ月、仕事から離れた。

「その時の給料は、ひと月2~3万円くらいでした」

「仕事しないと入ってこないことを実感して、かえってやりがいを感じましたね」

ますます仕事に精を出し、給料の大半は貯金に回す生活。

「10万円で生活して、残りの給料はすべて貯金してました」

30歳で仕事を辞め、カナダに留学するが、その費用もすべて貯金からまかなった。

「この時に貯金していたから、今みたいな生活ができるんだと思います」


<<<後編 2018/12/22/Sat>>>
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06 男性との交際とゲイを受け入れる時
07 未来を拓くためのカミングアウト
08 同性婚が認められた国での生活
09 全国に思いを発信していくツール
10 LGBT当事者のためにしたいこと

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