INTERVIEW
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ボロボロだった自分でも、見方を変えたら幸せになれた【前編】

話を掘り下げていくにつれ、河合さんはトランスジェンダーの悩みよりも、幼い頃から抱えていた家族に対する悩みの方がより大きかったのではという印象を受けた。「18歳の時に家族を捨ててひとりで生きていくという道もあった」、「だけど今は本当に家族が大好き」。30年間抱えていた家族への不信感を、最近になってようやく払拭することができたという河合さん。ネガティブからポジティブへ、どのようにして心のスイッチを切り替えたのだろうか。

2017/04/01/Sat
Photo : Mayumi Suzuki  Text : Mana Kono
河合 純 / Jun Kawai

1984年、東京都生まれ。短大のクラフトデザイン科を卒業し、木工職人を目指すために伝統工芸を学ぶ。しかし、「自分に職人は向いていない」と感じてその夢を断念。しばらくはイベント業界のスタッフ業務などに従事するも、学生時代の学童保育でのアルバイト経験から、保育の道を志すように。その後、幼稚園教諭第二種と保育士の資格を取得。現在はフリーランスのベビーシッターとして働いている。

USERS LOVED LOVE IT! 37
INDEX
01 内弁慶な幼少期
02 みんなの輪に入れない
03 男の体になりたい
04 過保護な母への不満
05 親に内緒でホルモン治療をスタート
==================(後編)========================
06 彼女と同棲した3年間
07 ピースボートで得たもの
08 見方を変えることで広がる世界
09 自分らしくいられる仕事
10 人生は捨てたもんじゃない

01内弁慶な幼少期

1

共働きの両親

幼い時は、両親と4歳年上の兄、祖父母との6人暮らし。

でも、物心ついた頃から、家には毎日のようにベビーシッターさんが来ていた。

「両親は共働きだったから、あまり家にいなかったんです」

商社で働いている父は、海外に飛びっぱなしだった。

「父が海外から帰ってくる時に、いつもお土産を買ってくれていたのを覚えています」

母は退職後、自宅で造形教室を開いていたほか、フラワーアレンジメントやインテリアコーディネーターの仕事もしていたため、とても忙しかった。

「小さい頃は、おませさんでかわいくなかったらしいってよくまわりに言われていました(笑)」

「今思えば、両親と過ごせない寂しさだったんでしょうね」

家では強気、幼稚園では無口

「兄にはめちゃめちゃかわいがってもらいました」

「でも、自分は女の子なのにものすごくボーイッシュだったから、兄も徐々に『あれ?おかしいな』って違和感を持つようになっていったみたいです」

幼い頃は、自分でもまだはっきりと性別の違和に気づいていたわけではなかった。

「スカートは、履いていてなんだかすごくスースーするなとは思ってました」

「でも、スコットランドでは男性もスカートを履く伝統があるって知っていたので、そんなに抵抗はなかったです」

だけど、幼ながらに「おかしいな」と思ったことはある。

「幼稚園で『男の子は青、女の子はピンク』ってわけられてしまうのが嫌だなっていうのは、なんとなく感じていました」

自分は女の子だけど、青が好きだったから。

初恋と言えるほどのものではないけれど、はじめて特別な感情を抱いた相手も女の子だった。

「一緒にいてすごく楽しくて、親友みたいな存在でした」

自分とは違って、キラキラした太陽みたいな女の子。

「自分は、幼稚園ではすごいおとなしかったんです」

家族の前ではやんちゃだけど、幼稚園ではとにかく無口だった。

「家で強気なことは言うけど、実のところは小心者でしたね」

「人見知りというか、人を絶対信用していませんでした」

相手が子どもだからといって、大人がすごく近い距離にくることが怖かった。自分のテリトリーに入られるのが嫌だった。

02みんなの輪に入れない

学校に行きたくないのに

「自分がみんなと違うなってはっきりと自覚したのは、小3くらいでした」

徐々に体が成長しはじめるタイミングで、男女を意識するようになったのだ。

体育の時間に、男女別に着替えをすることに対して「なんでだろう?」と疑問に思ったことを覚えている。

「小学校は私立の共学だったんですけど、ランドセルの色が男女関係なく黒だったことに一番救われました」

だけど、学校では友達があまりできなかった。

「やっぱり、自分はちょっとおかしかったんでしょうね(笑)普通の人と比べたら、ネジが3本くらい抜けてたっていうか」

「うちにはテレビがなかったこともあって、みんなの話についていけなかったりもしました」

その頃から、みんなが右向け右、迷わずマジョリティを選択するような雰囲気に疑問を感じていた。

そんな中で自分は「変な人」「おかしい人」と思われて、みんなの輪から排除されていたように思う。

「学校では孤立していたけど、楽だったかな・・・・・・あんまり気にしてなかったと思います」

お昼休みも、だいたいいつもひとりでご飯を食べていた。

自分はひとりでも全然平気なのに、先生に心配されて構われたりするのがわずらわしかった。

「ご飯をひとりで食べるのはさみしいことだ、っていう考えがすごく嫌でした」

だけど、いつもひとりでいたかったわけじゃない。

「本当は、休み時間にみんなで一緒に遊んだりしたいって思いもあったんだと思います」

でも、実際にみんなの輪に入ろうとすると、なかなかうまくいかない。

「みんなと行動を共にすると面倒なこともいろいろあるから、それならいいやって思って、輪に入ることを自分から諦めちゃってたんです」

そうしているうちに、気づいたらのけ者にされていたり、まわりから無視されるようになっていた。

「4年くらいの頃から、いじめっぽい感じになってきていましたね」

でも、その時にはもう孤立することに慣れていたから、「また始まったな」ぐらいにしか思わなかった。

「だから、いじめてる相手もあまりいじめがいがなかったと思います(笑)」

そうやっていじめられている中でも、小学校は皆勤賞だった。

「親が、特にお母さんがすっごい厳しかったから、たとえいじめられていても学校に行かないという選択肢がなかったんです」

「いじめられている、だから学校に行きたくない」ということは、両親にも話していた。

「お父さんは『行きたくないなら別に行かなくていい』って言ってくれていたんです」

「でも、お母さんは厳しくて、『体に悪いところがあるわけでもないんだから早く行きなさい!』という感じでした」

朝、ふさぎ込んで寝ていても、すぐ母に布団をはがされてしまう。

なら、学校に行くしかない。

「家にいて親に怒られてつらい思いをするのか、学校で心が痛い思いをするのかの違いだったんです」

おばあちゃんが友達代わり

「小学校に入ってからも、内弁慶なのは相変わらずでした。それは18歳くらいまで続いたと思います」

学校でつねにひとりぼっちだったことへのフラストレーションを、家で発散していたんだと思う。

小学校に上がってからは、シッターさんに代わっておばあちゃんに面倒を見てもらっていた。

「いつもおばあちゃんの隣にいて、おばあちゃんが友達みたいな感じでした」

学校でのフラストレーションを消化してくれるのは、いつもおばあちゃんだった。

同年代の友達と話していても全然楽しくないけれど、物知りなおばあちゃんと話すのはとても楽しい。

「長く生きているぶん、やっぱり知識も多いじゃないですか。一緒に水戸黄門とか時代劇を見たり、演劇を観にいったりもしていました」

当時は、本当におばあちゃんに救われていた。

「でも、同世代とどうやって付き合えばいいのか向き合ってこなかったので、年齢が上がるにつれて結構困りましたね・・・・・・」

03男の体になりたい

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親は自分を助けてくれない

小学校から大学までエスカレーターの学校だったから、中学に進学してからもいじめは続いた。

「中学は、またひどいところでしたね・・・・・・」

学校では財布を隠されたり、お金を盗まれるようなこともあった。

「精神的苦痛はとても大きかったです」

「でも、それを親に言っても何も変わらないから、なるべく気にしないようにしていました」

親は自分を助けてくれない、と思っていた。

「だから、家族が大っ嫌いでした」

友達の家に遊びにいって、楽しそうな親子の会話を目の当たりにすることもあった。

「なんて素敵な家族なんだろうって思いました。うちとは全然違うなって」

男の体になって、男として死にたい

自分の中で、性に対する違和感が確信に変わったのは中学1年の時だった。

「うちの家は、携帯やパソコンの導入が早かったんです。それで、ネットで色々と調べたんですよ」

両親が寝静まった23時頃、こっそりとパソコンに向かう。

そして、「女だけど女の子が好き」、そういったキーワードを夜な夜な検索していた。

「自分でも賢いなって思うんですけど、家族共有のパソコンだったから、両親にバレないように履歴をちゃんと全部消していたんです(笑)」

その時に知ったのが、カルーセル麻紀さんや虎井まさ衛さんの存在だ。

「自分に虎井さんと似ている部分があるように思って、彼の書籍を取り寄せて読んだんです。これこれ!ってなりました」

「ほかにも、マイノリティの人たちが集まるようなネットの掲示板でチャットもしていました」

その掲示板で知り合った人に、はじめて「性同一性障害」という言葉を教えてもらった。

そうか、自分は性同一性障害だったんだ。

これまでチグハグだったパズルのピースが、ガッチリとハマったような気がした。

「その時に、自分と同じような境遇の人を紹介してもらったり、性転換手術するならどこの病院がいいとかも全部教えてもらいました」

「それで、いつか絶対に手術をしようと思いました。いつかおっぱいを取るんだって」

でも、当時はまだ情報も少なく、手術の環境も良いものではなかった。

リスクもわかっていたから、最悪の事態を考慮すると、大好きなおばあちゃんが健在なうちは手術できないと思っていた。

「それでも、ゆくゆく目指すは手術だって思ってました。その頃から、死に対する価値観が変わったかもしれないですね」

手術をすれば、最悪命を落としてしまうかもしれない。

「でも、もしも今交通事故にあったとして、女の子の体で死ぬのは絶対に嫌だって思ったんです」

「だったら、もし死んでしまうとしても、男の体になって男として死にたい。そしたらすっごい幸せじゃん!って思いました」

いつか、男性の体になりたい。いや、なるんだ。

夢ができたことで、未来への希望が見えてきた。

「だから、学校でのまわりの雑音とかも全然気にならなくなりました」

04過保護な母への不満

母の過干渉

年齢を重ねるにつれ、母の過干渉はさらにヒートアップしていった。

「門限も厳しくて、17時までには帰るように言われていました」

「自分はもちろん守っていなかったんですけど、兄は優等生だったから、ちゃんと17時前には帰ってくるんですよ」

友達の家に泊まりに行く時にも、ちゃんと相手の家の電話番号や住所などを教えて出かける必要があった。

ある日、友達と夜遊んでいた時に、母からの留守番電話が何十件も入っていたこともあった。

年頃の女の子だから、親もある程度厳しくするのはわかる。

でも、母の過保護っぷりには周囲の友達も呆れてしまうほどだった。

高校卒業後の進路

「音楽が好きだったから、中学でギターをはじめたんです。これでデビューするんだ!って思ってました」

19やゆずなどの弾き語りアーティストがブーム真っ只だった頃。

「ゆずと同じモデルのギターを買って、渋谷の路上で弾き語りをやったりしてました」

音楽でデビューしたら、自分らしく生きることができるんじゃないか。自分の存在価値が見出せるんじゃないか。そう思った。

だから、高校卒業後も音楽の学校に進みたいと思った。

「でも、母はすっごいシビアだったんですよ」

「音楽は趣味でやりなさい」という母の言葉。

「『あなたには音楽の才能がないから、とりあえずものづくりに行きなさい』って言われて、クラフトデザインの短大に進むことにしました」

当時は真面目に勉強をしていたわけでもなかったから、推薦なんて取れないし、一般入試にも間に合わない。

だからといって、社会人になるのも無理だと思った。

「中3の時に、学校で文系、理系、美術系で授業を選択することになって、美術を選んでいたんです」

「美術が好きっていうよりも、勉強がしたくなかった、ってだけなんですけどね(笑)だからデッサンも苦手でした」

それでも多少は美術の素養があるから、デザイン方面には進めるかもしれない。

短期間で受験向けのデッサンを叩きこんでなんとか無事入試をパスし、高校を卒業した。

05親に内緒でホルモン治療をスタート

5

不本意な形でのカミングアウト

「実は、高校を卒業した時点で、親に内緒でホルモン治療をスタートさせていたんです」

当時は怖いもの知らずだった。

「中学生の時からずっと体を変えたいと思っていたこともあって、ホルモン注射に対する恐怖はありませんでした」

だが、注射の影響もあって、声もかなり低くなっていた。

「何かおかしい」と、母もいぶかしく思っていたようだ。

当時、過干渉で勝手に部屋に入ってくることも多かった母。

18歳の時に、部屋にあったホルモン注射の明細書を母に見つけられてしまったのだ。

「だから、僕からちゃんとカミングアウトをしたわけではないんですよ」

息子に性同一性障害の “疑い” があるということで、その後開かれた家族会議。

「どういう会話をしたかしっかりとは覚えてないんですけど、その時、母にマグカップを投げた記憶はあります(苦笑)」

きちんと専門家に診てもらおうという結論にはなったものの、「家族には受け入れてもらえなかった」と感じたことは覚えている。

家族会議以降、両親はもちろん、それまで仲が良かった兄との関係もギクシャクするようになってしまった。

「みんな、腫れものを扱うみたいな感じでしたね」

「父もすごくショックだったみたいです。それからは喧嘩もすごく増えました」

GIDという病院からの診断が下りても、家族からの理解を得ることはできなった。

「それから3年間は実家暮らしでしたが、その間はめちゃくちゃ荒れてましたね」

やりたいことがわからない

家ではとにかく息が詰まるような生活だったものの、進学したクラフトデザインの学校はとても居心地が良かった。

「美術系ということもあってか、自分よりも変わった人?個性的な人?がたくさんいてすごく過ごしやすかったんです」

しかし、無事進学したものの、再び進路に悩むこととなる。

1年間の留年を経て短大を卒業後、さらに別の専門学校と短大に通ったのだ。

「そして来月から、4つ目の学校に行くんですけど(笑)」

クラフトデザインの短大を卒業後は、一度社会人として仕事をしていた。

「でも、短大で学べなかったことをちゃんと学びたいと思って、伝統工芸の専門学校に再入学することにしたんです」

ふたつ目の学校は京都にあったため、念願だったはじめての一人暮らしも経験した。

「京都の学校には2年通いましたが、いざ入ってみると、『自分が進みたい道はこれだ!』とは思えませんでした」


<<<後編 2017/04/03/Mon>>>
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06 彼女と同棲した3年間
07 ピースボートで得たもの
08 見方を変えることで広がる世界
09 自分らしくいられる仕事
10 人生は捨てたもんじゃない

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