02 3歳の頃から気づいていた性別違和
03 音楽と両親の厳しさが助けてくれた
04 つらいこと、楽しいことがあった高校生活
05 性同一性障害を知ったけれど・・・
==================(後編)========================
06 自分を全否定された悔しさ
07 ライブ活動の休止、そして再開
08 事実上のカミングアウト。性別違和とちゃんと向き合おう・・・
09 歌とLGBT講演の新しいステージに挑戦
10 呼吸するように歌い続ける
06自分を全否定された悔しさ
保育士をしながら歌のレッスン
3年かけて短大を卒業。幼児教育と保育士の資格を取得した。
「保育園に就職しました。でも、その園では先生たちみんなを敵に回してしまって、1年弱で辞めてしまいました」
4月に就職して、翌年のバレンタインデーに退職。ついでにインフルエンザにかかり、最悪な状態になった。
「それから次の園に就職して、そこには4年くらい勤めました」
面倒をみるのは0歳から2歳児の、いわゆる未満児。20人の子どもを2、3人の先生でみる、大変な仕事だ。
「必死で頑張らないと勤まらない仕事でしたね」
そうした余裕のない状況の中で希望を見出せる支えがあった。それは、やはり音楽だった。
「大学の終わりから、先生についてボイストレーニングに通い始めたんです」
初日のレッスンでは、好きな曲を歌ってみてといわれ、カラオケボックスで「ハナミズキ」を歌った。
「そのとき、本来の声じゃなくて、裏声で歌ったんです。でも、先生から、その声でやっていたら、いずれ躓くよっていわれて」
大嫌いな男の声。この低い声で歌わなくてはいけないのか。レッスン初日に夢を打ち砕かれた気持ちになった。
「低い声から高い声まで出せるアーティストを目指したらって先生に説得されて、とりあえず、レッスンは続けることにしました」
男性保育士になれ!
歌のレッスンを受けながら保育士の仕事を続けていたが、あるときとんでもない事件が起こってしまった。
「新しいクラスを担当することになったとき、ある子どもの親から、『あの先生は嫌。うちの子をあの先生に預けたくない』っていわれてしまったんです」
理由は、セクシュアリティのことだった。
「私、ファウンデーションを塗って、化粧をして職場にいってたんです。園長先生に呼ばれて、男性保育士として採用したんだから男らしくしろ。化粧はやめなさいと宣告されました」
眉毛を整え、マツエクでクリクリなまつ毛に。それまでも何度か注意は受けていたが、自分を変えることはできなかった。
「先生だって化粧をしないと外に出られないでしょ、私だって同じですよって、必死に抗議しました」
「そういう問題じゃない」
「いいえ、そういう問題ですよ」
言い合いは平行線のまま、解決するはずもない。しゃべり方、歩き方、服装。すべてを否定された気持ちになった。
「ワケが分からない! 悔しくて泣いてしまいました」
「音楽を仕事にしたいこともあって、結局、その園も辞めてしまいました」
07ライブ活動の休止、そして再開
オーディションの失敗が続く
保育士をしながら歌のレッスンを受けているとき、先生から「ライブに出てみたら?」と提案を受けた。
「歌と並行して作曲も教えてもらっていたんで、シンガーソングライターとして活動を始めました。今、聴くとすごく下手だったんですけど(笑)」
趣味の延長で始めたライブ活動だったが、いつか本業にしたいという夢は消えていなかった。
「続けるうちに、音楽で食べていきたいって思いが強くなっていきました。そのためには、メジャーデビューが必須だと考えました」
オーディションをいくつも受けたが、失敗の連続だった。
「そのうち、ようやく最終審査までいったことがあって、すごく期待したんですけど、結局、それもダメで・・・・・・。ガッカリしましたね」
先生に結果を報告すると、「落ち込んでいる場合じゃない。もっと練習しなさい」と発破をかけられる。
「そのとき、先生に反抗して、『私、この声が嫌いなんです』っていってしまったんです」
先生の答えは、「自分の声が嫌いなシンガーはいない。辞めたほうがいい」と厳しかった。
でも、辞めてしまったら、すべてが終わる。その結果、選んだ答えは「活動休止」だった。
「決まっていたライブもキャンセルにして、あえてピアノも弾かない、音楽も聴かないという生活を続けました」
サポートしてくれたマスターの死
活動を休止してから半年ほど経って “もう一度、やり直そうか” と考えているとき、突然、ライブのサポートをしてくれていたマスターの訃報が届いた。
「その人の店でするはずだったライブを、半年前にキャンセルしてしまったんです。大切にしてきたはずの音楽で迷惑をかけて中途半端にしてしまった。それを後悔しました」
残された奥さんからも「がんばれって、最期までいってたんだよ」と聞かされた。
そして、タイミングよく、ある病院から入院患者のためにライブを開いてくれないか、というオファーが舞い込んだ。
「もう一度、やってみようと思いました。マスターの死は大きかったですね。応援してくれる人を裏切ってはいけないという気持ちでした」
08事実上のカミングアウト。性別違和とちゃんと向き合おう・・・
性同一性障害の診断が下りて、ホルモン治療を開始
この頃、もうひとつ大きな変化があった。
「セクシュアリティのトラブルで保育園を辞めてから、このままだとまずい、と思うようになりました」
家では、ネイルや服装に危機感をもっていた父から「彼女を連れてきなさい」「早く結婚しなさいと」と言われ、「お父さんにそういうことをいわれると死にたくなる」と母に泣いて訴えた。
「お母さんも泣いてしまって・・・・・・。あれが事実上のカミングアウトでしたね」
病院に通い、性同一性障害の診断書が出たとき、母は「あんたのやりたいようにやれば」と、諦めたようにいった。
「ホルモン治療は、最初、飲み薬から始めました。1錠から始めて、効果がないので処方通りに4回にしたら、吐いて立てなくなってしまって」
先生に相談すると、「君には薬が合わないんだね」といわれ、塗り薬に変更した。
「でも、塗り薬だと効果が緩やかで、自分がなりたいようにならないんです。それで、1年前に注射に切り替えて、地元の婦人科で射ってもらってます」
今では体の変化を実感できるようになっている。
予期しなかった嫌悪の気持ち
病院に通い始めた頃、待合い室で予期しなかった感情が生まれてしまう。その人は年配の男性で、首から上はいわゆる “おじさん” のように見えたのだ。
「花柄の薄いワンピースを着て、薄い髪を長く伸ばしていたんです。その人を見たときに、ものすごいショックでした」
強く嫌悪する気持ちが噴出してしまった。
「若い頃は周囲に受け入れてもらえなくて、あの歳になって移行されようとしたのかもしれませんね。私、自分の感情が抑えられなくて、先生にも相談しました」
同じトランスジェンダー当事者として、理解を寄せることが大切だと分かっていたが、その時はいくらがんばっても「絶対に無理」と拒絶してしまったのだ。
強いショックからしばらくは、目を背けるように生きていた。
「そんな感覚がようやく変わったのは、私自身が性同一性障害とちゃんと向き合おうって覚悟を決めてからでした」
セクシュアリティはトランスジェンダーMTF
ホルモン治療を受け、生活や体が変わってくると、心にも変化が現れた。
「以前は何ごとにも余裕がなくて、必死だったんですよね。世の中を恨んでいたのかもしれません(苦笑)」
恋愛に興味が持てず、カップルがイチャイチャしているのを見ると、「チッ!」と舌打ちすることもあった。
「最近は、恋愛でないとなし得ないことがあるんだな、と理解できるようになりました。人並みに人を好きになることもできました」
恋をした相手は、男性。
「女として生きていて、恋愛の対象は男性です。LGBTの知識のない人には、ゲイと勘違いされることもあるけど、私は違うのでそうは思われたくないですね」
トランスジェンダーMTFの異性愛者。女性として生き、性的指向は男性だ。
「生きるのに必死だった頃は、女性より女性らしくなってやる、と気張ってましたけど、ホルモン治療を経験したら、元から女性に生まれた人には勝てないな、と気づきました」
お金をかけて手術をしても、変えられないものもある。それを知って絶望したという人の話も聞いた。
「今は8割は新しい私で、2割は男の子だったときの自分を受け入れることにしてます。ダメだった自分を認めることも大事だなって」
そんなふうに割り切れるようになってから、気持ちがとても楽になった。
09歌とLGBT講演の新しいステージに挑戦
コロナと大切な人の死
アーティストとしての活動が軌道に乗り始めたとき、コロナが蔓延し、ライブがまったくできなくなってしまった。そんな困難な状況で、またしても大切な人との別れがあった。
「仕事関係の上司でした。お酒で肝臓を壊してしまって。病院にお見舞いにいったときは、もう危険な状態でした。一旦、家に帰ったんですけど、翌朝、奥さんから電話があって・・・・・・」
慌てて病院に駆けつけたが、すでに命は消えかかっていた。
「心電図が弱くなっていくのを見ました。まるで、テレビドラマのワンシーンのようでした」
初めて人の死に立ち会ったショックは大きかった。
「何かあると、半年も無視するような人で、本当に大嫌いだったんです。でも、あの人がいなくなったんだ、と思うと悲しくて泣き続けました。そのショックで高い声が出なくなってしまいました」
ライブがなくなり、大切な人の死を目の当たりにし、再び気持ちは落ち込んだ。
「せっかく、やめないで頑張ろうと力をふりしぼっていたのに、やっぱり無理なのかな、と思っちゃいましたね」
長野県からLGBT講演の依頼
近年は、ピアノの弾き語り以外の活動もしている。
「長野県から、LGBTに関する講演をしてほしいといわれたんです」
長野県はLGBT支援を積極的に打ち出し、2021年4月には、松本市がパートナーシップ制度の導入を決めた。
「私はアーティストで研究者じゃないから、専門的な話はできませんよ、って伝えたんです。そうしたら、LGBT当事者としての経験を話しながら、歌も歌ってほしいというんです」
こうして、公立の学校や行政の職員を対象に、歌を含めた講演会というプログラムが出来上がった。
「県立高校の先生たち向けの講演が終わったあと、ひとりの女性の先生が控え室に入ってきたんです」
話を聞くと、担任をしているクラスにセクシュアリティについて悩みを抱える生徒がいるという。
「その子は登校拒否になってしまって、先生はどう対応したらいいか分からずに悩んでいたんです。ひよりさんの話を聞いて本当によかったって、涙を流してくれました」
そして、「いつまでも歌い続けてください」というメッセージをくれた。
「私の言葉が届いたんだって実感しました。自分も落ち込んでいたときだったから、本当にうれしかったですね。あの先生の言葉がなかったら、どうなっていたか分かりません」
1日でも長く歌い続けたい、という希望が再び湧いてきた。
10呼吸するように歌い続ける
高校生の反応にびっくり
初めて高校生の前で講演を行ったときは、不安な気持ちでいっぱい。ホールには700人の高校性が集まっていた。
「大人でもない、子どもでもない繊細な年ごろじゃないですか。それに、いろんな音楽を聞いているでしょう? 私のシンプルな弾き語りが受け入れられるかも心配でした」
講演は80分。自分の性のこと、人生などを40分話し、後半は歌を聴いてもらうという構成だ。
ところが、不安が吹っ飛ぶほど反応は大きかった。
「みんな真剣に聞いてくれたんです。それに、終わったあとのアンケートに、私はバイセクシュアルです、とか、レズビアンです、と書いた子もいたんです。本当に驚きました」
長野県でLGBTを理解してもらうのは、まだまだ難しいと思っていただけにうれしい誤算だった。
「別の高校では、講演の後に私とコミュニケーションを取る時間を設けたら、長蛇の列ができちゃったんですよ」
一緒に写真を撮ったり、自分の話を聞いてほしいという高校生が控え室にたくさんやってきた。これは大きな自信になった。
「『自分は男なんだけど、男のクラスメイトが好きになって、告白したけどダメでいじめられちゃった』って、打ち明けてくれるんですよ。たった80分しか一緒に過ごしていない私にそんな話をするって、すごくないですか?」
この子も一生懸命に生きているんだな、と思ったら、逆に勇気をもらった気がして涙が出た。
理解してほしいとはいいたくない
最近行っている講演のタイトルは「respirer~歌と私と僕」。フランス語で「呼吸」という意味だ。
「生き物は呼吸をしなければ生きていけませんよね。こんな私ですけど、音楽を聴きながら一緒に呼吸をしませんか、という気持ちを込めました」
私は性同一性障害で悩んだ。
みんな、それぞれの悩みを抱えている。
いろいろな生き方がある。
しばらくの間、一緒に呼吸をしてみよう。
「理解してください、とはいいたくないんです。LGBT当事者でも受け入れられないことがあるのに、そうじゃない人に押しつけるのは無理があります」
世の中には、いろいろな人がいて、いろいろな可能性があることを知ってもらえればいい。
「先日、改名が認められたんです。一歩前進ですね。名前は、歌の先生と一緒に考えました」
先生に「あなたは強く言い切る言葉は似合わない」といわれ、柔らかい音から探し始める。
「柔らかいといえば、はひふへほ? それなら、ひ?? ひ、ひよ、ひより???」
大切にしたのは意味よりも音だった。
伊藤ひより。先生も「あなたらしい」と賛成してくれた。
2022年、デビューして丸5年を迎える。
「伊藤ひよりというアーティストは、みんなに支えられて生きてきたんだって思ってます。ステージに立つのは私一人ですけど、家族やサポートしてくれる人がいつも一緒にいると感じてます」
これからの目標は、1日でも長く歌い続けること。
そして、いろいろな曲に挑戦し続けること。
自分の歌と言葉を大切に伝えることができたらいい。