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97%の秘めた力でどんな悩みも乗り越えられる。【前編】

「人間は3%の力しか使っていない。どんなにつらいことがあっても、残り97%の力を信じれば、笑顔で乗り切ることができる」と話す髙橋博光さん。自ら未知のドアを叩き、進む道を切り拓いてきた人の言葉には説得力がある。中・高は応援団長。自分で生き方のお手本を見せながら、子どもやLGBTに力強いエールを送り続けている。

2019/08/12/Mon
Photo : Taku Katayama Text : Shintaro Makino
髙橋 博光 / Hiromitsu Takahashi

1965年、岩手県生まれ。小学4年生でブルース・リーに憧れ、通信教育で中国武術を学ぶ。高校卒業後、千葉真一率いるJACに入門、その後、香港で本場の武術を修行する。36歳のときに「マッスルミュージカル」に総合リーダーとして参加。超一流のパフォーマンスと前代未聞の演出が一世を風靡する。現在、治療院を経営しながら、「ハッスル☆︎マッスル」の構成・総合演出・プロデュースを務めている。

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INDEX
01 負けず嫌いは母譲り
02 修行僧のストイックな姿に感動
03 故郷を出てアクションの世界へ
04 ヒーローショーに見切りをつけて香港を目指す
05 本場の中国武術に入門
==================(後編)========================
06 天才プロデューサーとの出会い
07 伝説のイベントの総合リーダー
08 新たなチャレンジ、ハッスル☆︎マッスル
09 ショービジネスとLGBTの密接な関係
10 力の97%は、まだ残っている

01負けず嫌いは母譲り

小4で中国武術の通信教育を始める

出身は岩手県一関市。高校卒業まで一関で暮らした。

「まあ、田舎の町ですよ。兄と姉がいましてね、母親は離婚していたので、女手ひとつで3人を育ててくれました」

母親は自営で生活費を稼いでいた。

「自営といっても、ミシンで服を縫ったり、布団を作ったりね。自分の人生を犠牲にして3人の子どもを育てたようなものです」

「昔の人は本当にすごいですね」

大変な苦労をして育ててくれた母親に感謝し、見習う部分も多かった。

「とにかく負けず嫌い。何があってもくじけないぞ、という反骨精神は母親譲りでしょうね(笑)」

小学校からサッカー部に所属し、体力には自信があった。

「あるときブルース・リーの『燃えよドラゴン』を観て、感動したんです」

感動すると、のめり込む性格だ。

すぐに中国武術を志すが、岩手の田舎町に道場などなかった。情報が少ない時代で、どうしたらいいか分からない。

「いろいろと調べてみると通信教育があることを知って、とりあえず、それから始めることにしました」

送られてきたのは、形意拳という中国武術の指南書だった。

「自分でいうのも何なんですが、けっこう努力家なんですよ(笑)。教科書を見ながら練習を繰り返して、型を覚えました。ヌンチャクなんかは独学ですね」

次第に本場、中国の少林寺に行って修行するのが夢になった。

「まったくの自己流でトレーニングをするから、加減が分からないでしょ。しょっちゅう体を傷めてマッサージや治療院によく通いましたね」

体を壊しては治療する。

それが後で役に立つとは思わなかった。

もしかしたら相撲取りだった?

その後もいろいろなことに興味を持った。

「とにかくやりたいことが多くて、一つには決められませんでした」

中学のころ、ジャッキー・チェンが出てきてヒーローに憧れたかと思うと、プロレスに心を奪われ、アントニオ猪木やミル・マスカラスに憧れた時期もあった。

「人数が足りなくて、相撲大会の助っ人に駆り出されることもありました」

相撲でそこそこの成績を収めていると・・・・・・。

「イベントで来ていたプロの力士と相撲を取ることになり、どういうはずみか、勝ってしまったんですよ。子ども相手に、気を抜いていただけでしょうけど」

なんと、中学卒業時に宮城野部屋からスカウトが訪れた。

「太るのが嫌で断りましたけど、下手をしたら相撲取りになっていたかもしれませんね(笑)」

中学、高校では応援団長を務めた。
学ラン姿で行う、伝統的な応援スタイルが性に合った。

「後輩でグレているヤツをつかまえてきては、応援団に入部させて鍛え直したりしました」

ところが、「ハッスル☆マッスル」の被災者支援公演のときに、今度はそのいじめた後輩の世話になることに・・・・・・。

「30年ぶりに会って、助けてもらいました。人生なんてそんなものですよ」

02修行僧のストイックな姿に感動

持ち前の反骨精神で希望の高校に合格

一生懸命にやったのは、スポーツや応援団ばかりではなかった。

「信用できる先生、ついていけると思った先生の授業はしっかり勉強しましたよ」

特にストイックな授業をしていた社会の先生が好きだった。

「授業のときに竹刀のような棒を持ってね、39度くらいの熱じゃ、休ませてくれないんですよ。今の世の中じゃ、考えられませんよね(笑)」

逆に、えこひいきをしていた数学の先生の授業は、なかばボイコットをした。

「テストでわざと0点を取ってやったんですよ」

ところが、その先生から「この成績では志望校の受験は絶対に無理」と、鼻で笑われた。

「カチンときて、毎日12時間の猛勉強をしました」

持ち前の反骨精神を発揮して見事、合格。

「胸がスカッとしましたね」

テレビで観た千日回峰行

中学生のときに見た、あるテレビ番組に心の底から感動した。NHK特集『行~比叡山・千日回峰~』だった。

「比叡山延暦寺の酒井大阿闍梨という人の特集でね、千日回峰行に挑むドキュメンタリーだったんです」

千日回峰行とは、7年間に渡って行う厳しい修行。

修行を続けられないときに自害するための短剣と縄を腰につけて行う。命をかけるほどの決意に心打たれた。

「最後は『堂入り』といって、9日間、断食・断水・断眠・断臥をするんです。普通の人間では死んでしまいますよ」

しかも、酒井大阿闍梨は生涯に2度、千日回峰行を行なっている。

「1000年を超える比叡山の歴史の中で、2回達成した人は3人しかいないんですよ」

厳しい修行に臨む姿。何があってもやり続ける精神に、深い感銘を受けた。

「自分の前世は修行僧だと信じましたね(笑)」

「それ以来、自分のトレーニングは千日回峰行だと思って、真面目に取り組むようにしています」

練習に対する妥協を許さない姿勢は、このときに生まれた。

03故郷を出てアクションの世界へ

目指したのはスタントマン

高校に進学した後も、サッカーと応援団の活動に打ち込んだ。

「いろいろなことに憧れて、いろいろなことをやりたいという気持ちは続いていましたね」

5歳年上でパイロット志望だった兄の影響も受けた。

そして、いよいよ高校卒業が近づく。

「千葉真一さんがやっていたJAC(ジャック)に入ることにしました」

目指したのは、映画のスタントマンだった。

「ハリウッド映画のカーチェイスがかっこよくて。特にバート・レイノルズが大好きでしたね」

当時のJACは、真田広之、志穂美悦子など、そうそうたるアクション・スターを擁していた。

「千葉さんは海外でも活躍する大スターでしたからね。スタントマンになるなら、JAC以外に考えられませんでした」

しかし、高校の先生に相談しても、どうしたら入れるか、教えてもらえるはずもない。

「千葉真一さんの事務所を電話帳で調べて、一人で東京に出ていきました」

人気絶頂のJACに入門

当たって砕けろ作戦が成功して入門が決まると、母親がお金を工面してくれた。

「兄も姉もすでに家を出ていましたから、ぼくがいなくなると一人切りになってしまう。それでも、お金を借りて送り出してくれました」

家計が楽でないことは、もちろん知っていた。

習い事に払う5000円の月謝も厳しい。それを察して、自分でも新聞配達でフォローしていたこともある。

「母親の気持ちを無駄にできないという気持ちは大きかったですね」

入門してみると、当時のJACの人気が半端でないことを思い知った。

「1回のオーディションで700人も取るんですよ。ところが、最初のレッスンで半分が脱落。1カ月後に残っているのは、30人だけでした」

それくらい、厳しいレッスンだったのだ。

「たとえば、腕立て伏せを100回というなら分かるんですよ。JACでは、当時100回の腕立て伏せを10セットですからね。通常の10倍は厳しかったということです」

今はCGでどんなに激しい映像も作れるが、当時はすべてアナログだ。

「走っているクルマから転げ落ちるような演技は普通にやっていました。あの世界観が廃れてしまったのは寂しいですね」

岩手で鍛えた自分の身体能力を、はるかに越える人がいることを知る。

04ヒーローショーに見切りをつけて香港を目指す

子どもたちのヒーロー

自分で選んだ道。厳しい練習には耐えることができた。

「でも、回ってくる仕事は、仮面ライダーだとか、子ども向けのアトラクションばかりだったんです」

日本でアクションといえば、アトラクションのことだった。

結局、映画のスタントは一度もできずに、後楽園やデパートの屋上で演技をする日々。

「子どもたちには人気者ですよ。あの仕事は、仕事で難しいんですよ。でも、それがぼくには合わなかった」

しかも、ほとんど無給の下積み生活だ。

「ギャラはなし。せっかく見つけたアルバイトも、舞台が入るとその都度やめなくちゃいけない。急なオーデションとか仕事とか、職場はOKしてくれないですからね」

結局、アルバイトとヒーローショーの繰り返し。

「アルバイトは200くらいやりましたね(笑)」

食べていくのが、本当に厳しかった。

JACには3年間、お世話になり、次の夢を追って前進することにした。

言葉も通じない街

21歳で向かった先は香港だった。

小学校のころから憧れていた、中国武術を本格的に習いたいという気持ちを抑えきれなかった。

「ジャッキー・チェンの師匠でリー先生という人がいましてね、その人に師事するつもりで渡航しました」

初めての海外で、出入国カードの書き方すら分からなかった。

「もちろん、言葉もできないし、先生の居場所すら知らなかったんです」

見も知らない空港でウロウロしていると、客引きに声をかけられて安宿に連れていかれた。

「1泊2000円くらいでしたかね。2畳ほどの狭くて暗い部屋でした」

翌日から先生を探して街に出た。

「いろいろな道場を訪ねて、この人を知りませんか? と、リー先生のことを聞いて歩きました」

そして、ようやく憧れの人の家を探し当てた。

05本場の中国武術を習う

老師とのマンツーマン訓練

またしても、当たって砕けろ作戦が成功し、めでたくリー先生に弟子入りが許された。

「先生は、長拳、蟷螂拳、京劇を教えることができましたが、すでに80歳くらいの高齢でした」

道場はなく、稽古はマンツーマン。それも家の近くの公園が稽古場だった。

「日本の感覚だと奇妙かもしれませんが、中国だと公園や道端で稽古をするのが当たり前なんですよ」

まさに、ジャッキー・チェンが主演した映画「ベスト・キッド」の世界だ。

「実際に稽古を受けてみて、中国のすごさが分かりました」

丸太を何本も立てて、その上を歩き回る訓練。その丸太の上で6時間も過ごす訓練。

「JACで1000回だった腕立て伏せが、1万回になりました(笑)」

「まっすぐに伸ばした両腕の上に大きな壺を置かれて、そのまま1時間耐えるなんていう訓練もありました」

のちに何度も出演する 「SASUKE」 の原点ともいえる体験だった。

日本と香港の往復

希望通り、中国武術のすごさに接する経験だったが、いいことばかりではなかった。

「まずは、ビザの問題ですね。当時、香港はまだ中国に返還される前で、イギリス領でした」

イギリス大使館に掛け合ったりもしたが、長期間の滞在ビザの取得は叶わなかった。

「香港と日本を往復する生活になりました」

日本に帰ったときは、その日暮らしのアルバイト生活だ。その合間に先生に教えてもらった練習メニューを黙々と実践した。

しばらく遠距離修行は続いたが、先生がオーストラリアに移住することになり、稽古は打ち切りとなる。

「24歳まで、3年間、香港に通いました。本当にいい経験になりました」

 

<<<後編 2019/08/15/Thu>>>
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06 天才プロデューサーとの出会い
07 伝説のイベントの総合リーダー
08 新たなチャレンジ、ハッスル☆︎マッスル
09 ショービジネスとLGBTの密接な関係
10 力の97%は、まだ残っている

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