02 5歳のときに、「男の子になりたい!」
03 レオタードとリボンで選手コースを断念
04 ソフトボールに打ち込んだ中学時代
05 いつか、男子を好きにならな、あかんな
==================(後編)========================
06 初めて好きになった人は、慕ってくれた他校のソフト選手
07 女の子が好きなんだから、レズビアンなのか?
08 FTMと分かって、スッキリとつじつまが合った
09 振袖姿は、娘としての最後のお務め
10 Freedom詩人、講演、そして奈良レインボーフェスタ
06初めて好きになった子は、慕ってくれた他校のソフト選手
胸にコルセットを装着
中学の制服はセーラー服だった。
「とにかく制服がイヤで、入学式の写真は不機嫌でふてぶてしい顔で写っていました」
特にリボンが嫌いで、結ぶのも苦手だった。
「でも、取ってしまうと怒られるんで、イヤイヤつけていました」
自分の体が女性らしく変化することにも戸惑った。
「胸が出てくるのがイヤで、コルセットを巻いていました」
部活で腰を痛めたときに使用していたコルセットを、胸とダブルで巻いたりした。
「生理痛がきつかったので、保健室の先生によく相談してました」
自分は女のはずだけど、将来、どうにかなるのか・・・・・・。
答えが見つかりそうもない悩みは、ソフトボールのハード練習の合間に、時折顔を出した。
制服で高校を選ぶ
ソフトボール部は近畿大会に出場。
そこでのプレーが認められ、高校を決めた。
「先生からの推薦とはいえ、試験がありました。滑り止めの高校は、キリスト教系で制服が最悪だったんです」
「アルプスの少女ハイジ」に出てくるようなワンピースと靴。それを身につける自分が想像できなかった。
「一生懸命勉強して、第一希望の天理高校に入学できました。制服はブレザーでした」
ブレザーは、まだいい。しかし、スカートを履かなくてはならない。
「また、スカートの下に短パンを履いていました」
「あんまり短くすると短パンが見えてしまうので、膝より少し長くして隠していましたね」
憧れの先輩と慕われた
天理高校ソフトボール部は、全国インターハイに出場する強豪校だ。
「体育の先生になる夢に向かって、スポーツは一生懸命取り組みました」
そんなとき、他校の女子選手からよく手紙が届くようになった。
「ソフト部の遠征でよく会う、1年下の子でした」
それまでもお守りをくれたり、「頑張れ」と書いたタオルをくれたりしていた。
「ソフトが上手な先輩として、慕ってくれたんでしょうね」
自然な流れで、仲良くなっていく。
「『憧れの先輩と後輩』止まりでしたけど、あの子が最初の好きな人でしたね」
07女の子が好きなんだから、レズビアンなのか?
失敗したカミングアウト
初めてできたカノジョのことを、オープンにするつもりはなかった。
「でも、一番仲のよかった子には分かってもらえると思って、カミングアウトしたんです」
同じソフトボール部で、親友と呼べる子だった。打ち明けるなら、この子以外にいない、と信じていた。
「遠征に行くバスの中で話しました」
ところが、反応は厳しかった。
「それって、レズやで。気持ちワルっ!」
分かってくれると思っていただけに、ショックを受けた。
「ほかのクラスに行って、『あいつ、レズやで』と、いいふらしたり・・・・・・」
手帳をカバンから抜き出して、カノジョとの約束を書いたところに大きなバツ印をつけられたことも。
「いつも試合前にキャッチボールをする相手でしたが、それもしてくれなくなりました」
「親友を取られたという、カノジョの一種のヤキモチだったんでしょうか」
二人目は同じ学校の後輩
二人目のカノジョは、同じソフトボール部の後輩だった。
「高3のときでした。一人目のときにカミングアウトをしてつらい目にあったので、今度は隠しておくつもりでした」
一緒に記念日のお祝いをしたり、お互いの家に遊びにいったりもした。
「親には仲のいい後輩なんだ、と紹介しました」
しかし、同じ部活でつき合っていれば、すぐにバレてしまう。
「いつもその子と帰っていたので、今度はその子の親友に疑われたんです」
「何で、ひかる先輩とばかり帰るん?」と詰問された。またも「親友のヤキモチ」の餌食となり、つき合いは公然の秘密となった。
レズビアンなのか?
高校生のときは、性同一性障害という言葉も知らなかった。
「自分が何なのか分かりませんでしたね。女の子のことしか好きにならないんだから、レズビアンなのかな、と思ってました」
教科書に書いてあったように男の子を好きにはならないが、隣にいるだけでイヤ、というわけでもない。
ポツポツと友だちに相談することもあった。
「なかには、理解してくれる子もいました」
「ひかるはひかるなんやから、それでいいんやない」といわれると、少し勇気も出た。
「でも、お母さんはもちろん、何でも相談できたおばあちゃんにも言えませんでした」
性の悩みはモヤモヤとしたまま、高校卒業を迎えることになった。
08FTMと分かって、スッキリとつじつまが合った
目標を保育士に変更
体育教師を目指していたので、進学は体育大を希望する。
「でも、下に二人も弟がいるから4年制の大学は行かせられへん、とお母さんにいわれました」
進路を変更し、短大で臨床保育を学ぶことにした。
「下の弟がADHDと診断されていたので、もっと弟のことを知りたいという思いもありました」
発達障害のことを勉強して、保育士になる。それが新しい目標になる。
「コンプレックスがあった苦手なピアノも、なんとか克服しました(笑)」
フットサルで、水を得た魚
短大生活はあまり居心地がよくなかった。
「クラスには『ギャル』と『女子』しかいないんですよ(笑)」
しかも、またしても制服があった。
「ちんちくりんな髪の毛なのに、制服とパンプスですからね。似合わないですよ」
着なければいけない授業が決まっていたので、家から持っていって、学校で着替えていた。
「よかったのは、フットサル部があったことです」
ようやく、堂々とボールが蹴られるようになった。
「女子チームのキャプテンになりました。フットサルは楽しかったですね」
自分が何か、ようやく分かった
高3からつき合った後輩とは、別れることになった。
「結婚をして子どもを産みたい。だから、将来を考えると・・・・・・と、いわれました」
「子どもが欲しい」といわれると、どうにもならない。
「仲のいい兄妹みたいになろう、といって別れました」
性同一性障害を知ったのも、その頃だった。
「フットサルの仲間に、自分のセクシュアリティをカミングアウトしている子がいたんです」
インターネットを使って調べると、次々と知りたいことが表れた。
「これや、トランスジェンダーのFTMなんや!」
「自分がFTMと知ったときは、スッキリとしました」
それまで「レズビアン???」と思いつつも違和感を感じていた。そのモヤモヤが晴れて、つじつまがピタリと合ったのだ。
「新しい友だちとの繋がりもできて、少しずつカミングアウトもするようになりました」
09振袖姿は、娘としての最後のお務め
両親へのカミングアウト
ネットで交友関係を広げるうちに、新しいカノジョができた。
「九州に住んでいる、5歳下の女の子でした」
月に一度、九州に遊びに行くようになり、現地のFTMやレズビアンと遊ぶようになる。
「カノジョは、家族にオープンにしてました」
家に遊びに行くと、カノジョの弟から「お兄ちゃん」と呼ばれた。
「カノジョのお母さんに、『家の人は知っているの?』と聞かれたんです」
「話していない」というと、「ちゃんと話さないと、つき合いは許せないよ」と、ぴしゃりと釘を刺された。
「それが、お母さんにカミングアウトするきっかけになりました」
九州にカノジョがいる。
女の子が好き。
将来は手術をしたい。
一気にすべてを告白した。
お母さんは認めてくれたうえで、「手術はそんなに簡単じゃないよ。手術をしないで済むなら、そのほうがいいよ」と、諭してくれた。
「お母さんは看護学校の先生をしていましたから、手術の難しさをよく知ってたんだと思います」
両親からの強い希望
父親はかなりショックを受けたようだった。
「初めて抱いた自分の子どもを娘としか思えない。でも、認めなくてはいけない。そんな複雑な気持ちだったみたいです」
両親には、願いにも似た強い希望があった。
「成人式で振袖を着て欲しいというんです」
「大切にしてくれたおばあちゃんに、振袖姿を見せてあげて」。それが唯一の希望といわれると断りきれなかった。
「親孝行、おばあちゃん孝行と思って納得しました」
短かった髪の毛は、つけ毛でカバーした。かなりおかしな格好だった思うが、ともかく娘としての最後のお務めは完了できた。
大阪で初めての一人暮らし
短大卒業後、大阪国際大学スポーツ行動学科に編入することができた。
「地元にいたら親に迷惑がかかるかもしれないので、カミングアウトをしたら家を出るつもりでした」
「やっぱり体育の先生になりたい、という気持ちもまた強くなりました」
大阪での初めての一人暮らし。さまざまな不安もあったが・・・・・・。
「入学してみたら、クラスの3分の1がFTM、3分の1がFTMとつき合っている子、残り3分の1がストレートという感じでした」
ついに念願のサッカー部にも入部。サッカーをしている自分が、一番自分らしいと感じた。
「入学前に相談していたFTMの友人がホルモン治療を始めたこともあって、いろいろなことが現実的になりました」
当面はサッカーに専念する。治療は計画的に進め、最終的には戸籍を変えたい、と未来も明るく思えた。
「すっかり悩みもなくなって、自分らしく大学生活を送ることができましたね」
10 Freedom詩人、講演、そして奈良レインボーフェスタ
裸での風呂掃除に耐えられない
大学に2年通って、中・高の保健体育の教員免許を取得した。
「もちろん、教師になりたかったんですが、レディーススーツを着ないと採用されないとか、いろいろ問題がありました」
結局、教員になるのは、戸籍を変えてからのほうがいいだろう、ということになり、奈良に戻って児童養護施設に就職する道を選ぶ。
職場には、一人、FTMの先輩がいた。
「その先輩に職場でカミングアウトしたほうがいいか、相談しました」
先輩の答えは、「しないほうがいいだろう」だった。
その職場はFTMにとって辛いところだった。
「子どもたちと一緒にお風呂に入るんですよ。それが苦痛でした」
スキンシップだといわれれば、逆らいようがなかった。しかも、裸で風呂掃除をしなければならない。
「惨めやな」という苦い思いが込み上げた。
「耐えきれなくて、施設長に風呂掃除を免除してもらえないか、と交渉しました」
すでに診断書をもらい、ホルモン治療も開始していた。
すると、「一人だけ特別扱いはできないから、職員全員の前で説明して」と、求められる。
「晒し者になったみたいで、精神的な苦痛を強いられました」
FTMに対して理解もなく、笑いのネタにするような職場だった。
子どもたちから、「先生、どっちなの?」と聞かれると、「どっちでもいいじゃないか」と素っ気なく答えた日々。
陰でコソコソと噂される声も聞こえるようになり、3年間勤めた職場を辞めることにした。
おばあちゃんが背中を押してくれた
男性として働ける職場を求めて、大阪に戻った。
「履歴書にも男性と書きました。仕事は放課後等デイサービスの職員でした」
しかし、その職場もLGBTに対する理解は低かった。しかも、勤務時間外に行っていた活動を咎められてしまった。
「大学のときに知り合ったLGBTの仲間たちと、ブライダルイベントや恋活イベントをしてたんです」
LGBTと繋がりたい、関西で盛り上げたい、と始めた活動だった。それが、職場の規約に違反するという。
職場の環境も合わず、1年間で退職となってしまった。
奈良に戻り、産休中の教師の代わりに、保健体育の講師として勤務。その夏休みを利用して、SRSに踏み切った。
「ところが、手術を予定していたタイミングで、おばあちゃんが脳梗塞で倒れてしまったんです」
生死を彷徨うおばあちゃんの側にいてあげたい、という気持ちも強かったが、手術の日程をずらすことはできなかった。
葛藤の末、手術を決行した。
「目が覚めたとき、おばあちゃんが亡くなったことを聞かされました。痛いのと悲しいので、つらかったですね」
大好きなおばあちゃんが勇気をくれ、命がけで背中を押してくれたと思っている。
あえて地元でイベント開催
大阪で行なっていた活動で、特に好評だったのが、高3のときに独学で始めた筆文字だった。
「筆文字でポップやハガキを書いているうちに楽しくなって、ポエムを綴るようになりました」
どこでもできる書家でありたい、という気持ちから「Freedom詩人」と名乗った。
「喜んでくれる人がいれば、どこでも何にでも書くようにしています」
25歳からは、行政、小・中学校、大学などでLGBTに関する講演活動を行なっている。テーマは「保育現場から見るLGBT」「自分らしく生きるトランスジェンダー」などだ。
「誰にも相談できなくて、悩んでいる人がたくさんいるはずです。自分の体験が助けになってくれれば、と願っています」
2018年10月28日、「奈良レインボーフェスタ」を主催。
「あえて地元の法隆寺で行いました」
かつては、当事者と知られるのが怖くて敬遠してきた町だ。
しかし、苦しさを克服し、自分に自信を持つことができた今は、空気が違った。
「空気がおいしいというか、すっと息が吸えた感じでした」
300人の動員を目標にしたが、東京や九州からの応援者を含め、2000人が集まる大成功となった。
手術に大反対だったお父さんも、イベントTシャツを着て手伝ってくれた。ADHDで悩んだ弟もパティシエとなって活躍できた。
「地元密着にしたのがよかったですね。第2回は、さらに居心地のいいイベントを目指します」
第2回奈良レインボーフェスタのキャッチフレーズは「奈良レインボーフェスタに行く鹿ない!」。
そして現在は、大阪市で仲間と共に立ち上げた、児童発達支援放課後等デイサービス「ぐりったぁー」の児童発達支援の管理責任者としての重責も担う。
戸籍を変更したときに、名前を『ひかる』から『輝(ひかる)』に変えている。
「自分だけが光っているんじゃなくて、みんなを輝かせる人になりたいという願いを込めました」
自分らしく歩めば、自分なりの道ができる(Freedom詩人 輝・ヒカル)。
そして、誰でも、きっと輝くことができる。