02 小学校でぶつかった壁
03 とにかく、学校には行きたくない
04 LGBT当事者との出会い
05 「あの子に変わりはないとだけん」
==================(後編)========================
06 仕事で学んだ「人と関わる楽しさ」
07 「晴希」としての人生がスタート
08 人生を変えた熊本地震の経験
09 ようやく取り戻した “男の体”
10 LGBTの子どもたちの力になりたい
06仕事で学んだ「人と関わる楽しさ」
ホルモン治療を開始
高校を卒業し、成人になると同時に、ホルモン治療をスタートする。
「先輩に教わったガイドラインに沿って行動しました。まずは心療内科に行ってGIDの診断をもらってから、先輩の通ってるクリニックにホルモン注射を打ちに行って」
同時期に、カバンや雑貨などを扱う店でアルバイトを始めた。
「職場では、朝礼のときにセクシュアリティについてカミングアウトしました」
「どう思われるか不安だったけど、みんな『へー、そうなんだ!』って感じで、あんまり驚いてなかった」
「職場はほとんど30~40代の女性だったので、おばちゃん特有の質問攻めには遭いました(笑)。『どんな人がタイプなの?』『あのお客さん可愛くない?』って」
「でも、親しみを込めて話しかけてきてくれたので、全然嫌ではなかったです」
カミングアウトをしても、同僚たちは普通に接してくれる。
ありのままの自分を受け入れてもらえるのが嬉しかった。
接客を通して苦手を克服
販売員として働くうちに、内面にも大きな変化が生まれる。
「最初は緊張しちゃって、お客さんに喋りかけるのも怖かったんです」
「先輩たちにも『顔が怖いよ』『ちゃんと接客してね』って言われるんですけど、ちっちゃい声で、いらっしゃいませ・・・・・・、って言うのがやっとでした」
しかし、一生懸命仕事を続けるうちに、人と関わることへの苦手意識は徐々に薄れていった。
「接客を通して、人と接するのってこんなに楽しいんだな、って思えるようになったんです。慣れてからは、四六時中ずっとニコニコしてました(笑)」
かつて接客したお客さんが、自分に会うためにお店に来てくれたこともある。
「お孫さんのバッグを選ぶのを手伝ったお客さんが、また来てくれて、『今日はお店にいてよかった。あなたに会えるかと思って、この前も来たのよ』って言ってくれたんです。すごく嬉しかったですね」
07「晴希」としての人生がスタート
男子学生として進学
妹と一緒に福岡の専門学校に進学するタイミングで、「美希」から「晴希」に改名した。
「親がつけてくれた『希』の字は残したくて。これからも人生が晴れ渡るように、って思いで『晴希』にしました」
「もしまた学生生活を送るなら、次は男子学生として通いたい、って気持ちがずっとあって。学校に相談したら受け入れてもらえたので、男性らしい名前に変えました」
男子学生としてスタートを切った専門学校生活。
妹と2人暮らしをしながら、デザイン学科で服飾を学んだ。
「もともと何かをつくるのが好きだったので、授業は楽しかったです。夜遅くまでみんなで服をつくって、ファッションショーをやったりもして」
だが、そんな生活も長くは続かなかった。
専門学校で味わった “気まずさ”
「専門学校の友だちは、みんな自分のことを男だと思ってた。けど、やっぱり、いつ女性ってバレるか不安で・・・・・・」
「体験入学したときは昔の名前を使ってたから、入学してから『おかしいな』って顔をする先輩もいたんです」
「妹も、友だちに『お姉ちゃんと入学するんじゃなかったっけ?』って言われたって」
ホルモン治療の効果で姿や声は男性らしくなっていたが、数か月注射をしていなかった期間に、再び月経が来るようになってしまった。
「男子トイレを使ってたけど、いつも個室に入るし、他の人より時間もかかるし、みんな不思議に思ってたみたいです」
自分の性別について知られる不安と同時に、授業についていけない不安も感じるようになる。
「学校の中で一番授業のスピードが速かった学科なので、バイトとの両立が難しかったです」
「グループで作業してるので、自分ひとりが遅れるとみんなが遅れちゃうんですよ」
22歳で入学したため、他の生徒と年齢が離れていることもあり、次第に気まずさを感じるようになる。
結局、1年で中退し、アルバイトに専念することになった。
08人生を変えた熊本地震の経験
アルバイト先で地震を経験
妹が専門学校を卒業したのを機に、2人暮らしを解消して熊本に戻る。
かつて働いていたカバン屋で、再びアルバイトをするようになった。
そんなある日、生涯忘れられない出来事が起こる。
2016年の熊本地震だ。
「最初の地震が起きたのは、アルバイトが終わった直後でした。バックヤードでゆっくりしてたら、なんか揺れてるなって」
「しばらくしたら、ドドドドドって大きく揺れて。必死で逃げました」
「アルバイト先があったショッピングモールは、震源地のすぐ近くだったんです。天井裏の水道管が破裂して水があふれてくるし、ガラスがぐちゃぐちゃに割れてるし・・・・・・。本当に怖かった」
信号も街頭も消えた真っ暗な道を原付バイクで走り、なんとか自宅に戻る。
幸い自宅は無事だったが、電気も水道も止まり、しばらくは車中泊を余儀なくされた。
「ダイバーシティ WakuWaku」の結成
被災者の立場を経験し、風呂に入りたくても公共の浴場を使えないなど、性別に関連した不便さに改めて気付かされた。
そんなとき、被災地支援に来ていた、他県のLGBT団体の代表と出会う。
「その人は同い年のFTMで、講演とかLGBTの支援活動をしていて。介護に使うような風呂付きの車を買って、スタッフの人と熊本まで来てくれたんです」
「それまでずっとYouTubeで観てた人なんで、実際に会えて感激でしたね」
「話したら意気投合して、自分も何かできることをしたいな、と思うようになりました」
一緒に活動に参加させてもらったこともある。
「活動の当日になっていきなり、『今日、みんなの前で話してもらうことになってるから』って言われて(笑)」
「めちゃくちゃ緊張したけど、その経験をきっかけに、地元の熊本でも活動しようと決意しました」
熊本に戻り、地元のLGBTの友人たちと一緒に「ダイバーシティ WakuWaku」を結成した。
09ようやく取り戻した “男の体”
性別適合手術を受けにタイへ渡航
2019年10月に、タイで性別適合手術を受けることになった。
体にメスを入れることには不安があったが、自分以上に心配していたのが母だった。
「母親は、できれば国内で手術してほしいって言ってました。万が一何かあっても、すぐに飛んでいけるからって」
「でも、自分はタイで手術したかったし、海外にも行きたかった。最終的には納得してもらいました」
渡航当日は、両親が揃って空港まで見送りに来てくれる。
「父親が、何も言わずに肩をパンって叩いたんです。『頑張れよ』って感じで、言葉じゃなくて態度で示してくれました」
「父親とは、セクシュアリティについてしっかり話したことは、一度もありません。でも、そのときに、男として見てくれてるんだな、って実感できました」
「今では、晴希って自然に呼んでくれてます」
病院には、熊本で一緒に活動するLGBTの友だち2人が同行。日本語の通訳を介しても言葉がうまく通じない部分は、英語のできる友だちがフォローしてくれた。
「タイに着いても、わ~! 海外だ~! って感じで全然実感が湧かなくて。やっと実感が湧いたのは、手術の前日ですね」
「執刀医が胸にマジックで線を描きながら『こうやって切除します』って説明をしてくれるんですけど、あ、これが明日なくなるのか、って」
長らく必需品だった “ナベシャツ” とも、いよいよお別れだ。
母の顔を見てこぼれた涙
そして迎えた当日。2人の友だちに見守られながら、手術室に向かう。
「手術室に行く前に麻酔打たれて、朦朧とした状態で手術台に載せられて・・・・・・。気が付いたらすべて終わってました」
自分ではあっという間だと感じていたが、実際には、麻酔、手術、手術後の安静時間と、合計で7~8時間ほどかかっていた。
「友だちは2人で観光に行く予定だったんですけど、結局、待合室でずっと待っててくれたみたいです」
手術後は傷の痛みや暑さでよく眠れずに苦しんだが、「やっと終わった」という解放感もあった。
「4日ほど入院して、退院後は友だちと一緒にホテルで過ごしました。規則正しい生活を送らなきゃいけなかったけど、体に無理のない範囲で少し観光もできて、楽しかったです」
渡航から2週間後、日本に帰国。
空港で母の顔を見た途端、安心感から号泣してしまった。
「母親とはタイにいるときから電話してたんですけど、やっぱり声聞くと、早く帰りたい、家族に会いたいって気持ちになって」
「実際に会ったら、やっと帰って来られたんだって実感して、涙が出ましたね」
10 LGBTの子どもたちの力になりたい
LBGTに関する講演活動を実施
現在は「ダイバーシティ WakuWaku」のメンバーとして、主に学校教員向けの講演活動をおこなっている。
最初に講演したのは、母校である定時制高校だ。
「自分の母校からスタートしたいなと思っていたら、高校の先生が『今度、学校でLGBTの研修があるんだけど、よかったら話をしてくれませんか』って連絡をくれたんです」
「いずれ、自分の通っていた小中学校でも講演したいですね。生徒さんにも、『ここに通ってた当時はこんな気持ちだった』って話をしたい」
活動を通して、出身中学の教員と再会したこともある。
「講演が終わった後に、『気付かなくてごめんね』って言われて。先生には、『これからの子どもたちの力になってあげて下さい』って伝えました」
「自分にとっては、一番苦しかった時期が中学校時代でした。きっと今も、同じように悩んでる子はいっぱいいるはずだから」
あがり症で緊張はするが、人前で話をするのは楽しい。
「人と関わるのが怖いって言ってた中学生の自分が見たら、びっくりするでしょうね(笑)。こんなに変わるんだなって」
講演では「理解を求める」というよりも、まずはLGBTについて知ってもらう、身近に感じてもらうことを意識している。
「セクシュアリティが何であっても、人は人に変わりはない。だから、同じ人として共存していければと思ってます」
今後も、出会った一人ひとりに、少しずつ知ってもらうことを目指していきたい。
当事者も親もサポートしたい
講演先の教員から紹介された小中学生と個別に連絡を取り、相談に乗ることもある。
「子どもたちと接するときは、本人がどうしたいのかをじっくり聞くようにしてます」
「あくまでその子の人生なので、『こうしなよ』と押し付けることはできない。ただ、本人が望むことを実現するにはどんな手順を踏めばいいのか、一緒に考えるかたちでサポートしてます」
いつかは、LGBTの子どもを持つ親のサポートもしたい。
「本人も悩むけど、親御さんもすごく悩むんです。だから、親御さん同士の交流を深めるきっかけがつくれればいいなって」
「母親もすごく協力的で、『なんかあったら、お母さんも協力するからね』って言ってくれてます」
「昔は何も話せなかったけど、今はどんなことも相談できる。心から『家族だな』と思えるし、自分はすごく恵まれてるって実感してるし、感謝してますね」
人生は「逃げるが勝ち」
活動を通して自分より上の世代の当事者の話を聞くと、「そんなにいろいろ苦労していたんだ」と驚かされることも多い。
一方で、下の世代の子どもたちを見ていると、「昔より恵まれている」と感じる。
LGBTを取り巻く世間の空気は、確実に変化している。
その変化を、どうすれば未来に受け継ぐことができるのか。
それを考えるのが、今後の課題だ。
今まさに悩んでいる子どもたちには、こんなことを伝えたい。
「まず、『なるようになるよ』ってことですね。母親がよく、『そんなに悩んでもわからんけん。なるようになるけん』って言うんです」
「本当にそうだなと思うし、自分は実際になるようになってきたから」
「でも、『なるようになる』ってわかってても、今がつらくて仕方ない子もいると思う」
「そういう子には、まず、逃げられる場所があることを知ってほしいですね」
昔の自分には学校と家しか世界がなく、誰にも悩みを打ち明けられなかった。
逃げられる場所なんてない、と思い込んでいた。
しかし、高校進学を機に「世界は広い」「自分はひとりじゃない」と気付くことができた。
今は、LGBTをサポートする団体も増えつつある。
当時よりも、「逃げられる場所」は確実に増えている。
「世の中には、助けを求められずに苦しんで苦しんで、自ら命を絶ってしまう人もいる。けど、本当は逃げていい。逃げるが勝ちなんですよ」
「タイムマシンに乗って昔の自分に会えるなら、逃げていいんだよ、って教えてあげたいですね」
逃げられる場所があると伝えていく。逃げられる場所をつくっていく。
自分ができることを通して、かつての “美希”のように苦しむ子どもたちに、手を差し伸べ続けたい。