INTERVIEW
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当時の自分に、今悩む子に「逃げる場所はあるよ」と伝えたい【前編】

曽方晴希さんは、終始はにかむような笑顔を見せながら、つらい過去から現在の活動まで、さまざまなことについて語ってくれた。「昔は人と関わるのが怖かったし、誰にも自分の気持ちを打ち明けられなかった」という。人生の転機は、高校時代。そして、いつも曇っていた心に、母と祖母が晴れを連れてきてくれた。

2020/07/30/Thu
Photo : Tomoki Suzuki Text : Koharu Dosaka
曽方 晴希 / Haruki Sogata

1989年、熊本県生まれ。第二次性徴期を迎えて以来、性別について深く悩むように。同時期にいじめに遭い、中学校卒業まで不登校が続く。20歳のときにホルモン治療を開始。その後、改名、性別適合手術を受けた。現在は「ダイバーシティ WakuWaku」に所属し、LGBTに関する講演等をおこなっている。

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INDEX
01 一人称は「僕」のやんちゃ坊主
02 小学校でぶつかった壁
03 とにかく、学校には行きたくない
04 LGBT当事者との出会い
05 「あの子に変わりはないとだけん」
==================(後編)========================
06 仕事で学んだ「人と関わる楽しさ」
07 「晴希」としての人生がスタート
08 人生を変えた熊本地震の経験
09 ようやく取り戻した “男の体”
10 LGBTの子どもたちの力になりたい

01 一人称は「僕」のやんちゃ坊主

曽方家の長女「美希」として生まれる

「生まれたときは『美希』って名前でした。美しく、希望を持った子に、って願いを込めて名付けられたらしいです」

22歳のときに改名し、現在の名前は「晴希」。

「家族は父親、母親、兄と妹。3人きょうだいの真ん中です。今はバラバラだけど、昔は5人で住んでました」

両親は、自分が中学生のときに離婚。
現在は離れて暮らしているが、未だに家族仲はいい。

「福岡に住む妹が帰省したときは、両親揃って車で送ってあげたりしてますね」

たとえ離れていても、家族の一人ひとりが自分にとって大切な存在だ。

女の人が好きで活発な子

幼稚園の頃は、木登りやトランポリンで遊ぶ活発な子だった。
自分を男の子だと思っており、一人称も「僕」。

素直に甘えるのは苦手だったが、自分なりにアピールしたくて、気になる女の子にちょっかいをかけては怒られた。

「ちっちゃい頃から、とにかく女の人が好きでした(笑)」

「大好きな女の先生が、ブランコに乗って膝の上にのせてくれたことがあったんですよ。それが幼稚園のときの、一番嬉しかった思い出かな」

スカートが大嫌いで、一年中ズボンで過ごした。

「お母さんからは『女の子なんだからスカート履きなさい』って言われたけど、嫌だ! って拒否してました」

「『これはパンツだからスカートじゃないよ』って説得されて、キュロットスカートを1回だけ履かされましたけど(笑)」

男性器も、「いつか生えてくるもの」だと考えていたその頃。

自分の性別について悩むようになるのは、もう少し先だった。

02小学校でぶつかった壁

「どうして自分は女の子なんだろう」

小学校に進学しても、活発な性格は健在。親からも「言うことを聞かない、やんちゃな子」だと言われていた。

「外でサッカーしたり、雨が降っていてもおかまいなしでセミ獲りしたり」

「自転車さえあれば、どこにでも行ってました」

「おばあちゃんの家が自転車で1時間くらいのところにあるんですけど、そこでお祭りがあったので、妹を連れて勝手に行ったり」

「母親からは『なにやってんの、危ないでしょ!』って怒られましたけどね(笑)」

だが、そんな性格は4年生のときに一変する。
きっかけは体の変化と、同級生からのいじめだった。

「月経が始まって、衝撃を受けました。胸もどんどん膨らんでくるし・・・・・・」

子どもの頃から抱いていた「人とは違う」という違和感が、第二次性徴期を迎えたことで、大きな悩みに変わった。

「どうして自分は女の子なんだろう、お兄ちゃんは男なのにって」

体が大きくなって、いじめやからかいを受けるようにもなる。

「体育の授業で走ってるときに、何人もの男子が、すれ違いざまに『デブ』って言ってくるんです」

「女の子からも、ちょっとしたことでクスクス笑われるようになって」

「誰かがこっちを向いただけで、自分の悪口を言われてるんじゃないか、って妄想するようになりました」

小学校4年生で不登校に

次第に人と喋るのが怖くなり、学校に行けなくなる。
だが、親には、いじめられていると打ち明けることはできなかった。

「どうして行かないの?」と訊かれても、ただ「行きたくない」と答えるだけ。

「すごく嫌だと思ってると、体に反応が出てくるんですよね。本当にお腹が痛くなって、朝から泣きながら登校することもありました」

そんな状態が続くうちに、いつからか「学校に行きなさい」と言われることはなくなる。

その代わり、母からは「休むなら自分で電話しなさい」と言われるように。
子どもの自主性に任せる、という教育方針によるものだった。

数年前、親子でインタビューを受けたときに、母は当時を振り返って「子どもの自主性を尊重しようとしていた」と話した。

「そのときに初めて知りましたね。大人になったら、自分のことは自分でしなくちゃいけないんだから、って」

「もちろん当時は、そんなこと理解できなかった。自分で電話すると、先生から『来なさい』って言われるから嫌でした(苦笑)」

だが、学校に行くことを強制されないのはありがたかった。

兄と妹も不登校だったため、自宅ではきょうだいと過ごす。

「家にいるときは、布団の中に引きこもってひたすら本を読んだり、母親に『家事くらいはしなさい』って言われて洗濯したりしてました」

「兄も妹もいたから、罪悪感というか、心の負担が少し軽減されてた部分はあったかな」

03とにかく、学校には行きたくない

つらかった中学校生活

中学校に進学するときには、母とひと悶着あった。

「制服はブレザーだったんですけど、下がスカートなのがすごく嫌だった」

「母親に『スカートは嫌だ。学ランがいい!』って言ったら、『あんたは女の子なんだから、我慢しなさい』って言われて」

しぶしぶ作った女子生徒の制服。
そのまま着るのが苦痛で、いつも体操服のズボンを下に履いていた。

「入学した当初は、頑張って通ってました。でも、小学校でいじめてきた子とクラスが一緒で、またからかわれて・・・・・・」

「からかわれなくても、やっぱり人の目が怖くて。だんだん教室に行けなくなりました」

学校を休んだり、カウンセリング室や保健室に登校したりする日々。
そんな中でも、部活は唯一の楽しみだった。

「吹奏楽部でトランペットをやってました。楽器は楽しかったし、女の子に囲まれた環境が嬉しくて(笑)。なんとか行ってました」

部活仲間は学校を休みがちな自分を気遣い、たびたび家に迎えに来てくれた。

「昼休みに数人で来て、チャイム鳴らして『いるんでしょー!?』『部活だけは来て!』って」

「気に掛けてくれたのは嬉しかったけど、その反面で怖かった」

友だちってなんだろう、どうしてこんな自分に優しくしてくれるんだろう、と考え込むことが多くなった。

打ち明けられない気持ち

性別について悩んでいる、いじめのトラウマで人が怖い。当時は、そんな気持ちを打ち明けられる人はいなかった。

「どう思われるのかが怖くて、誰にも話せなかった」

「同級生が迎えに来て『行こうよ~!なんで行かんと?』って訊いてくれても、『行きたくない』としか言えないこともあったし、泣きながらテーブルに頭を打ちつけてたこともありましたね」

「それ以上は何も訊かずに、『わかった、また来るけんね』って言ってくれて。申し訳ない気持ちでいっぱいでしたね」

母とも何度か話し合うが、やはり本音は言えない。

「実は、小学生の頃にたまたまテレビで見て知ってから、自分は性同一性障害なのかもしれないってずっと思ってました」

「でも、親に言ったら見捨てられるんじゃないかって思って・・・・・・」

「本当は自分について知ってほしかったけど、何も言えない。その葛藤がすごくつらくて、苦しさを紛らすためにリストカットしてました」

将来に希望を見いだすのも難しい状況だった。

「教科書を開くことさえなかったから、行ける高校がほとんどなくて。パンフレット見てるといいなって思うこともあったけど、自分には無理だった」

「けど、定時制高校なら入れるし、学費も安いし、授業は夜からだし。なにより、制服がないのが良くて、進学を決めました」

04 LGBT当事者との出会い

定時制高校で実感した “多様性”

中学までとは打って変わって、高校生活は楽しかった。

「入ってみたら、社会人で入学したおじさんおばさんも、自分みたいな不登校の子も、ヤンキーもいて。いろんな人と関わって、視野が広がりました」

進学した定時制高校には、いろんな境遇の人がいて当たり前という空気があった。そのため、「人とは違う」と気にすることがぐっと少なくなる。

「当時流行ってたBボーイみたいなダボダボの私服で登校してたけど、何も言われなかった」

「髪が短くても、スカートを履かなくても誰も気にしない。気楽でしたね」

周囲からは性格が変わった、明るくなったと言われるようになる。

生徒会に所属し、最高学年のときには副会長に就任した。

しかし、完全に「元気になった」とは言いきれない側面もあった。

「コンビニでバイトしてたんですけど、オーナーからひどいことを言われたのがショックで、リストカットが再発してしまって・・・・・・」

「明るくなりつつはあったけど、まだ情緒不安定でした」

LGBT当事者と出会って訪れた変化

性別についての悩みも、決してなくなったわけではない。

「前より自由に振る舞えるようになっても、なんで男じゃないんだろう?ってモヤモヤは消えませんでした」

初めて買った携帯電話を使い、性同一性障害についてひたすら調べた。
ネットの掲示板にアクセスし、LGBT当事者と連絡を取るようにもなる。

「高1くらいだったかな、FTMの人に初めて会いました。騙されてたらどうしようってドキドキだったけど、本当に会えた」

「ホルモン注射してる方だったので、見た目も声も男性で驚きましたね」

「いつか体を変えたい、戸籍を変えたいと思ってたので、どんな手順を踏めばいいか、熊本ではどの病院に行けばいいか、その先輩に全部教えてもらいました」

その後は、ネットを介してさまざまなセクシュアリティの人と会うようになる。

自分と同じトランスジェンダーの人もいれば、レズビアンの人もいた。

「小中学生の頃は、自分みたいな人って他にいるのかなと思ってたんです。いたとしても、結局テレビの中や都会の話だ、こんな田舎にはいないって」

「でも、実際には熊本にもたくさんいた。当事者同士のつながりができたことで、すごく安心しました」

たくさんのLGBT当事者と関わるうちに、いつしか「自分はひとりじゃない」と思えるようになった。

05「あの子に変わりはないとだけん」

初めてのカミングアウト

高校2年生の頃、母にセクシュアリティのことをカミングアウトする。

「当時は家庭の事情も複雑で、ある日、もう何もかもが嫌だ~! ってパニックになっちゃって」

「衝動に任せて、泣きながら母親宛ての手紙を書きました」

「なんでこんな体に産んだの?」「男になりたい」など、これまで溜め込んできた思いの丈を、すべて手紙にぶつける。

「もうどうなってもいい! って勢いで手紙を書いたけど、やっぱり直接渡すことはできなくて・・・・・・」

「母親の枕元に置いて、その後は何もなかったように過ごしました」

次の日に確かめると、手紙はなくなっていた。
母が読んだのは間違いなさそうだが、しばらく経っても何も言われない。

「やっちゃった、どうしよう、ってすごく不安でした」

「どう思われてるんだろう? って気になったし、嫌な展開を想像したりもして、母親の顔を見たくなかったですね」

家族の理解

数日後、勇気を出して母に「読んだ?」と訊いたところ、答えが返ってきた。

「お母さんもどうしていいかわからなくて、おばあちゃんに相談してたんだよ、って」

「そしたら、おばあちゃんはあまり驚いてなかったみたいで」

「『ちっちゃい頃から自分のことを僕って言ってたし、いつかこうなると思ってた』って言ったらしいです」

そのとき、祖母が言っていたと母から聞かされた言葉が、今でも胸に残っている。

「おばあちゃんは、『あの子に変わりはないとだけん、よかたい』って・・・・・・」

「その言葉を聞いて、母親も『性別が違っても、自分の子には変わりはない。美希がいいならいい』って思ってくれたみたい」

「びっくりでした。自分のことをちゃんと見ててくれた人がいたんだな、って嬉しかった」

父に打ち明けるのには抵抗があり、母が代わりに伝える。
きょうだいにも別のかたちで伝えたが、みんな自然に受け止めてくれた。

家族に受け入れてもらえたことで、胸のつかえが一気に取れる。

「母親には、ホルモン注射するけん、そのうち声が変わるよ。名前も変えるし、手術もするよって話もしました」

「手術に関しては心配してたけど、理解してくれて、頑張れって応援してくれました」

カミングアウトを機に、母とはなんでも話せる、なんでも相談できる関係になった。

「昔は『あんたは何考えとるかわからん』って言われてたけど、今は抱きついちゃうくらい仲良しです(笑)」

自由で楽しい学校生活、LGBT当事者たちとの出会い、家族の理解。
さまざまな変化によって、心の曇り空はいつしか晴れつつあった。

 

<<<後編 2020/08/06/Thu>>>
INDEX

06 仕事で学んだ「人と関わる楽しさ」
07 「晴希」としての人生がスタート
08 人生を変えた熊本地震の経験
09 ようやく取り戻した “男の体”
10 LGBTの子どもたちの力になりたい

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