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愛と仕事を両立させた同性パートナーとの32年間【後編】

愛と仕事を両立させた同性パートナーとの32年間【前編】はこちら

2024/03/02/Sat
Photo : Miho Eguchi Text : Shintaro Makino
ジョージ・チェン / George Chen

1963年、台湾生まれ。台湾人の両親の間に生まれた。22歳のときに日本に移住、言葉を学びながらコンピューターの専門学校に通う。東京で出会ったニュージーランド人のパートナーとの生活を育みながら、エンジニアとしてのキャリアをスタート。日本、中国、オーストラリア、そしてシンガポール。波乱万丈の人生は、まだ進行中だ。

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INDEX
01 お母さんは台湾のボーリング選手
02 22歳で日本へ旅立つ
03 バイトと勉強の日々
04 自分がゲイだと気がついたのは高校のとき
05 包丁を持って追い回されたカミングアウト
==================(後編)========================
06 中国、日本、そしてオーストラリアへ
07 やりがいのある仕事を捨てて、ふたりの生活を優先
08 ついにプロポーズ!!
09 長続きする秘訣は許容と教育
10 外見だけで判断しちゃダメ。心が一番大切

06中国、日本、そしてオーストラリアへ

ラブレターの束

彼のカミングアウトから2、3年後、彼のお母さんは理解してくれて、私たちはようやく両方の家族公認の仲になった。

晴れて一緒に暮らし始めたが、半年後に転機がおとずれる。

「今度は彼が勉強のために1年間、イギリスに行くというんです。寂しくて、お互いに毎日、手紙を書きましたよ」

「Eメールなんてない時代から、エアメール。手紙の束がすごい厚くなりました(笑)」

そのラブレターの束が、後にオーストラリアで永住ビザを申請して認めてもらう際の「証拠」になった。

手紙の束を見た担当官が「もう、わかった」と書類にハンコを押してくれたのだった。

彼がイギリスから戻ってふたりの生活が再開。

すると今度はドイツの掃除機メーカーの中国の支店長というポストが、彼にオファーされた。

「彼が行きたいっていうんです。でも、私はABBでいい給料をもらっていて、仕事もやりがいがあったんで迷ったんです・・・・・・」

彼を中国へ先に行かせたが、やはり別々の暮らしは耐えられなかった。1995年、仕事を辞め、彼の後を追って上海に渡った。

彼の仕事について中国へ

上海で仕事を探したが、当時の中国では希望の給料とのギャップが大きすぎた。

「最初に提示された給料は、月に1万円ですよ。どんなに粘っても5万円まででした」

それならやらないほうがいいと考えて、2年間、鍼灸の学校に通って技術を身につける。

「彼の仕事の関係で北京に移ったとき、私は中国の陶器や文芸品などを買いつけて、コンテナでイギリスに送る仕事の手伝いをしました」

計4年間の中国暮らし。正直なところ、自分の求める仕事ができないことにストレスを感じる日々だった。

「彼の転勤で日本へ帰ることなったときは、うれしかったですね。私は、またABBに戻りました」

それから3年間、ふたりで一生懸命に仕事をした。気がつくと、銀行口座にはまとまったお金が貯まっていた。

「お金もあるし、ふたりで引退して、のんびり暮らそうという話になったんです」

行き先はオーストラリアのメルボルン。
2002年、夕日がきれいに見えるビーチの近くに家を買い、優雅なセカンド・ライフが始まった。

07やりがいのある仕事を捨てて、ふたりの生活を優先

いい街だけど、仕事はない

オーストラリアにいる間に英語の勉強に精を出した。

「私は中国語と日本語を話せましたが、やっぱり英語を覚えたいという気持ちが強かったんです。それまで、彼とは日本語で話してましたけど、今は英語で話しています」

英会話学校に通うかたわら、ビジネスのキャリアを上げようとマスターもふたつ修得した。

「メルボルンはいい街でした。自由があって、経済もいい。街はきれいだし、ペンギンが住む自然もある。移民にもやさしいし、安全。海外から移住好感度はナンバーワンですよ」

イギリスのエコノミスト誌が発表した「世界でもっとも住みやすい都市ランキング」では、2011年から7年連続で1位だったのだ。

それほど素晴らしい街だが、ひとつだけ足りないものがあった。

「仕事がないんです。自分に能力があって、マスターも取ったのに仕事がない。国内での経験と実績がないと評価されないのが、オーストラリアでした」

海外での実績は評価されない社会に嫌気がさして、再びふたりで日本に戻ることにした。

シンガポールで仕事に没頭

2007年、みたび日本に戻ってきた。

5年間、体を休め、オーストラリアで取得したマスターと英語力を生かしてバリバリと仕事をすると決める。

「産業用コンピューターのトップメーカーに就職しました。2012年からはシンガポールの社長になって、毎週10カ国を飛び回る生活が始まりました」

まさに水を得た魚のように仕事に没頭した。しかし、東京にいた彼は幸せではなかった。

「遠距離が我慢できないというんです。彼は友だちが少ないんだよね(笑)」

愛する人と一緒に暮らしたい。
「結婚」という法律で守られた関係ではないから、いつかどこかにいなくなってしまうかもしれない。

そんな不安が彼を襲っていた。

「それまで彼が中国やオーストラリアに赴任したときは、私はついていきました。そこでの生活に満足できなくても我慢しました」

実際、オーストラリアでは、彼だけが仕事を見つけて羽振りがよく、収入がない自分は惨めな思いもした。

「遠距離が嫌なら、彼がシンガポールに来る選択もあったんです。彼はそれをしないで、私に不満をいったんです」

一時はケンカもしたが、結局、彼の希望を聞いて日本に帰ることにした。ふたりの生活は自分にとっても最優先すべきことだったからだ。

「会社には、自分のパートナーが男性だとはいってませんでした。私の奥さんの希望と伝えて、日本に転勤させてもらいました」

2015年3月、日本に帰った。しかし、その年の12月いっぱいで仕事の契約は打ち切りになってしまう。

「人事で無理をいうと、こういうことになるんです。愛情を優先するか、仕事を優先するか、ということです・・・・・・。彼の犠牲になった部分もありましたね」

08ついにプロポーズ!!

パートナーの50歳の誕生日にプロポーズ

2014年にはふたりにとって、うれしいことがあった。

「彼が50歳になったときに、私が結婚してください! ってプロポーズをしたんです。それを彼が了承してくれて、ニュージーランドのウエリントンで結婚式を挙げることになりました」

ちょうど、彼のお母さんの80歳の誕生日パーティーをすることになっていて、親戚がみんな集まる段取りができていた。結婚式は、その翌日7月14日に行うことになった。

「集まった親戚がみんな参加して、大勢に祝ってもらいました」

彼のお母さんからのプレゼントは、派手なピンク色のハマー「ストレッチ・リムジン」の送迎サービスだった。

「お母さんの家に泊まった翌朝、部屋の窓を開けたら、そのクルマが迎えにきていたんです。私は内心、何これ、やりすぎじゃない? って思いましたけど(笑)。立派なアルバムも作って、思い出に残る一日になりました」

そして、長年、いつかは女性と結婚して欲しい、と心の底で思っていた私のお母さんも「幸せになってよかったね!」と、心から認めてくれた。

同性婚が法制化されたオーストラリアだけど・・・

2017年に同性婚が法制化されたオーストラリア。

法律が整備されているオーストラリアは同性愛者について寛容なイメージがあるが、実際はそうでもなかった。

「教会の力が強いんです。ジーザスはゲイを認めていないといって、当時は保守的なキリスト教の人たちが同性愛に反対していたんです。変わるのは遅かったです。男同士で手をつないで歩けるようになったのも、つい最近です」

メルボルンにいたころ、彼の妹が私たちにペアルックのセーターをプレゼントしてくれたことがあった。

「そのセーターを着て、売ってるデパートに行ったんです。そうしたら、その売り場の人がゲイを冷やかすような、失礼なことをいったんです」

怒った彼がマネージャーを呼び出して、「何か問題がありますか!?」と怒鳴りつけた。

「かわいそうに、マネージャーは、すみません、すみませんって平謝りでした(笑)」

しかし、そのようにセクシュアリティを主張できるのも、法律があってのことだ。
オーストラリアでも法律ができる前だったら、大ぴらに主張することはできなかっただろう。

「日本はまだ同性婚とか、LGBTに関する法律がほとんどないから、大きな声で主張することはできません。私も『ゲイですか?』と聞かれれば、そうだと答えますけど、あえて自分からいうことはありません」

09長続きする秘訣は許容と教育

メルボルンで観光ガイドに挑戦

結婚はふたりの生活をステップアップしてくれたが、シンガポールから日本に戻ってからの暮らしは順調とはいえなかった。

「アメリカの万年筆の会社の日本支社長をしていた彼も私も、同じ年にクビになっちゃったんです。ふたりで仕事がなくなって、どうする? ってなりました(笑)」

結局、2016年、家があるメルボルンに戻ることになった。運よく、彼がオーストラリア政府の仕事を見つけて収入を確保した。

「彼はビジネスマンの家系ですから、センスがいいんです。政府が理論的な行動ができる人物を探していたところに、ピタッとハマった感じです。その一方で、私は自分で貿易の仕事をしようとしましたが、それはうまくいきませんでした」

すると、旅行代理店をしていた友人から「正月はガイドが足りないから、やってくれないか」という依頼があった。

「観光客にメルボルンの街を案内するガイドの仕事でした。そんなことやったことがないからどうしようかと思ったんですけど、1、2回ならいいや、と引き受けました」

ところが、やってみると、これが面白い。勉強にもなると、続けることにした。

「観光バスに20人くらいのお客さんを乗せて、全員の顔と名前を覚えなくちゃいけないんですよ。お客さん同士の関係も大切です。最初は難しかったですけど、だんだんできるようになりました。3、4年、続けました」

しかし、2020年、コロナ禍に見舞われ、メルボルンの観光業界も開店休業。ちょうど日本に転勤になった彼とふたりで、またも日本に移ることになった。

バンコクで豪華な還暦パーティー

2023年の今年で、ふたりのつき合いは32年になった。

「一般的にゲイにしてもれずビアンにしても、同性のカップルは長く続かない人が多いって感じてます。そのなかで、私たちは特別だと思います」

長続きの秘訣は、相手のいうことをなるべく受け入れてあげることだと考えている。

「自分と意見が違うことは必ずあります。でも、80%は受け入れてあげることが大事です。あとの20%は、うまく対処すること。我慢も必要になります」

でも、どうしても我慢できないときは、相手に意見を変えてもらうことになる。これは教育ということ。相手が知らないことを教えてあげることも大切だ。

「許容と教育のバランスが、つき合ううえで大切です。私たちはお互いに個性が強いから、若いときはよくケンカもしましたよ。でも、今はもうケンカなんてめったにしません(笑)」

2023年、60歳の誕生日に、彼が盛大なパーティーを企画してくれた。

「バンコクのクルーズ船を借り切って、世界中から友だちを呼んだんです。思い出に残る1日になりました」

10外見だけで判断しちゃダメ。心が一番大切

何も知らないのに不快なことをいう人

ゲイであることで嫌な顔をされたり不愉快な思いをしたことが、これまで何度もあった。

「ゲイだと知った瞬間に、ステレオタイプの反応をする人が多いんです。ゲイのことを何も知らないのに、なんですぐにダメだって思うんですか!? あなたには関係ないことでしょ、といいたいです」

知らないことは、何でも学ぶべき。学んで、よくわかってから意見をいってほしいと思う。

「ゲイだからって、男性だったら誰でも恋愛対象になるわけじゃないんです。異性愛者に好き嫌いがあるのと同じで、男同士、女同士にも好き嫌いがあるんです。知ろうとしない人のなかには、そんな簡単なことすらわからない人もいます」

多くの人は目で見て判断しようとする。そして、それがすべてだと思い込んでしまう。

「外見だけ見て男であれば、内面も男だと思っちゃう。でも、それは正しくないことがある。心で見て判断することが大事なんです」

仏教に「心経」という言葉がある。色や形を持って現れているものは、実体ではない。実体は心の中にあるという意味だ。

「目に見えるものは紛らわしいんです。目に頼るんじゃなくて、心で判断することを勉強したほうがいいです」

カミングアウトは自然にまかせる

自分自身も、パートナーの彼もカミングアウトには苦労した。

「カミングアウトは個人のバックグラウンドによるところが大きいんです。思い切っていうか、いわなくてもいいか、それぞれ違います。自然にまかせたほうがいい、というのが私の意見です」

たとえば、55歳のゲイで台湾人の友人がいる。

「もう、パートナーができて20年ですよ。でも、友だちはお母さんに、まだカミングアウトしていない。高齢で病気のお母さんに、いまさらカミングアウトする必要がありますか? びっくりして倒れちゃうかもしれませんよ(笑)」

悲しいこともあった。
金銭的につらいときもあった。
いろいろな国に行き、たくさんの人と出会った。

今は、最愛のパートナーと人生をともに歩んでいる。

「日本は自由に生きたいと思っても、不自由な人が多いかもしれませんね。でも、自分らしく生きることをいつも考えて進めば、道は開かれていくと思いますよ」

あとがき
前衛的な絵画に骨董品、お母さんの写真。おしゃれなジョージさん宅でのインタビューは、あたたかな交流と冒険心に満ちたエピソードが続いた。何ごとにも臆せず飛び込んでいくジョージさん。いや、気おくれしてもせっかくなら楽しもう! と一歩踏み出すのが上手なんだと思う■♪友だち100人できるかな♪ の歌 に、迷いなく「Yes」と答えるだろう。愛され、慕われ、日本での生活も忙しい。大切なパートナーと家族、世界中の友だちがジョージさんの活力なんだね。(編集部)

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