02 両親が期待する男らしさって?
03 一番ではなく、二番、三番でもいい
04 優等生キャラを演じながら
05 色を持たない高校時代の記憶
==================(後編)========================
06 大学で知った、この世界の広さ
07 与えられた仕事を淡々と
08 青年の叫びに、心惹かれて
09 大人になって訪れた青春
10 LGBTの問題を超えて
01お母さんに甘えていたかった
父との思い出
26歳でゲイだと気づいてから、小さな頃の自分を思い出してみた。
「幼い頃に、周りへの違和感や差異みたいなものは、なかったような気がします」
実家は祖母の代から大阪市内で続く酒屋だ。
5つ上と3つ上の姉がいて、店を切り盛りするチャキチャキの母親も。
女系家族で育った。
「ただし、父親は決して母の尻に敷かれたり、姉たち可愛さにほだされるようなタイプではありませんでした。厳格でしつけにもうるさかったんです」
決して、とっつきにくいわけではない。
しかし気安さが前面に出るようなタイプの父ではなかった。
ゆえに小さな頃から、あまり父とは会話をせずに育った。
今も少し距離感を感じるから、実家から至近の場所に暮らして頻繁に顔を合わせていても、言葉を交わすことはほとんどない。
「40歳を迎えた今、家族にきちんとカミングアウトしたいと考えています」
「母親は実家の離れで、パートナーと僕が寝ているところを見ても何も言わないから、なんとなくわかっている気がするけれど、それでもいまだに告白できないでいます」
「さらに父にカミングアウトとなると・・・・・・」
「かなりハードルが高いと感じています」
とはいえ、幼い頃の父との思い出が全くない、というわけでもない。
休みの日には、大阪の淀川へ、よく遊びに連れて行ってもらったからだ。
「父は釣りが大好きだったんです。連れて行かれるたび、僕もどんどん自然の中で遊ぶ楽しさに目覚めていきました」
休日の夕方、言葉少なではあるけれど、淀川沿いで釣竿を抱えて、家路に着いた。
父との間にも、日常の幸せがきちんとあった。
チャキチャキした母
厳格な一面のある父親だったが、夫婦仲は良かった。
商売をしているため、両親は毎日ずっと一緒。
母が持ち前の明るい性格で店を切り盛りし、父親を支えた。
幼い頃の自分の目には、そう映っていた。
「厳しい父親なのに、商売に関してはどこか楽観的に見えたのは、母の頑張り、支えによるところが大きかったのだと思います」
実家の酒屋は店先で小売をおこなうほか、地元の飲食店やスナックなどにも商品を卸していた。
一方でお店には、あれこれつまみながら立ち飲みできるスペース、いわゆる「角打ち」が存在した。
昭和50年代に「立ち飲み」といえば、繁華街で中年男性が集う店か、こういった酒屋の「角打ち」を指すことが多かった。
「店内で買ったお酒をその場で飲めるように、軒先には簡易カウンターのようなものが。つまみは、昼間は客が少ないから、スルメのような乾き物しか出さないけど、夕方からはおでんなど温かいものも提供していました」
その「角打ち」の切り盛りも、母の仕事だった。
おでんの食材を調達するために、毎日2回、母は近くにある鶴橋市場へ足を運んでいた。
そのおつかいへ一緒に行くのが、何よりの楽しみだった。
「歩きながら、母の手や足にまとわりついて甘えました」
「両親はずっと商売にかかりっきりで、だから迷惑をかけちゃいけないって、子どもながらに普段は我慢していたんだと思うんです」
「だから甘えられるときは、思いっきり甘えたかったのかな、と」
「『あんた、邪魔やで。ちょっとどいて!』と買い物中、母に注意されても、そこはぎゅっと足にしがみついて、離さなかったこともあります」
母親と二人でいられる数少ない時間だからこそ、子供らしく甘えたかった。
「そういえば。今、思い返したら、1年のうち半分くらい、うちの夕食はおでんだったかもしれません(笑)」
「子どもってカレーやハンバーグを食べたがるものだと思うんですけど、うちはあれが日常食だったなぁ、とふと思いました」
母親が手間ひまかけて引いたダシで煮込んだおでんは、何よりのご馳走だった。
02両親が期待する男らしさって?
酒場の人間模様
酒屋の角打ちには、近所の人もよく来店した。
母親の顔が見たくて、たまに2階の母屋からひょっこり、1階に足を運ぶこともあった。
「『おお、酒屋のボン、元気にしとるか?』と、わしゃわしゃ頭を撫でてくるお客さんもいました」
「大阪人って、いい意味で人との距離が近いんです(笑)。そうやって周りに住む人たちが、僕のことを可愛がってくれました」
まだ頰がうっすらピンク色の客、もっともっと酔いの深い客。
酒屋の角打ちには、地域のさまざまな人々が集まり、銘々に楽しんでいた。
折を見て、こうした大人たちの姿を見続けてきたことも、自らの人格形成に大きな影響を与えているのかもしれない。
大人を見ても、あまり怖がらなくなった。いい意味で、度胸がついたとも言える。
そんな酒を愛でるお客たちの真ん中にいて、いつも笑顔でテキパキ店をさばいていたのが母親だった。
仕事中だとわかっていたから甘えなかったけれど、やはり毎日、鶴橋市場へ買い物に行くときには、ベタベタとくっついて歩いてしまう。
「父はそんな僕と母を見て、内心、良くは思っていなかったようです」
兄弟の上ふたりが女の子なので、末っ子の長男はたくましく育って欲しい。
そういう思いが父親にはあった。
「母の後を追いかけ回していると、『そんなにお母さんにくっつくんやない!甘えるんやない!』「男らしく、しゃんとせい!」と父に怒られるようになりました」
「毎日1回、母にくっついて買い物に行くのが何よりの楽しみだったので。それがしづらくなって、本当に悲しかったです」
こうして母親離れを強制されることになった。
父親にしたら、母にベタベタする自分が、どこか女の子のように見えたのかもしれない。
競争が苦手
悪いことはさらに重なる。
加えて、小さな悲劇が訪れたのだ。
「今度は母の出番です。『男の子らしく育って欲しいから』と、幼稚園の年長組の頃から僕をサッカー教室に通わせ始めたんです」
「連れて行かれるたびに、嫌で嫌で仕方がありませんでした」
決して外で遊ぶことが嫌いなわけではない。友達との外遊びも、父親といく釣りも大好きだった。
「大人になった今でもそうなのですが、人と競争することが大の苦手なんです」
「怪我をさせない程度に、たとえ同級生を振り切ってでも、なりふり構わずボールを追い続けなければならない。サッカーの競技性が自分には向いていなかったんですよね(笑)」
小学校高学年になって練習が週2回に増えた。
本心では、ますますサッカーを嫌になっていたけれど「通うのをやめたい」、そう母に切り出すことはできなかった。
自分の置かれた状況は、ある程度、受け止めなければならない。
昔からどこかでそう思い、ある範囲までは辛抱はできる子どもだった。
選抜チームに入ることはできなかったけれど、一般チームで少しは気楽にボールを蹴る。
嫌々ながらも、サッカーの練習には通い続けた。
03一番ではなく、二番、三番でもいい
1学年30人
生まれ育ったのは大阪市の中心部だったが、小学校は1学年1クラス、30人。
東名阪の都市圏も、今でこそ都心でのマンション需要が旺盛だが、昭和50年代から60年代にかけては、逆に庭付きの一戸建てを求めて人々が郊外に引っ越す時代だった。
「『大阪の中心に住んでいたのに、そんなに同級生が少なかったの?』と、よく驚かれます。小学校に入学すると、男子10人、女子20人の1クラスだけ。6年生までそのまま、クラス替えなしで一緒に過ごします」
長い期間、同級生と一緒にいると、お互いを家族のように思う感覚が育まれるようになった。
ゆえに同学年は皆、仲良しだ。
「どちらかというと、男の子と連んでいることの方が多かったですね。お互いの家を行き来して、ファミコンで遊んだり」
「あとは父と淀川に行って釣ってきた魚、鯉とかフナ、ブルーギルを育てることに熱中していました」
メインは張らずとも
ただ目立つタイプの子どもではなかった。
「そもそも競争嫌いな性格だったし。二番手、三番手だけど、なんとなくみんなを引っ張っていく存在でした」
そんな自分の性格が垣間見えるエピソードがある。小学生のとき、保健の先生の仕事をよく手伝っていた。
「年配の女の先生でしたが、まるで母親になつくかのように、よく保健室に行っていました」
「怪我をした子の応急処置のときに消毒液を差し出したり、身体測定のデータをまとめる手伝いをしていました」
保健の先生を手伝うことで誰かの役に立っているような気がして、嬉しかったのかもしれない。
加えて小学3年生のときのことだ。
グループでの交換日記を通して、相手の女の子に淡い恋心を抱いた。
あくまで淡く、程度は軽い。
「当時、カルーセル真紀さんやおすぎとピーコさんのようなオネエキャラが、テレビに出ていたと思います」
「でも自分とは結びつけられなかったし、ゲイというアイデンティティも知らなかった」
「だから、これが初恋かなと幼いながらに考えていました」
自分の真のセクシュアリティとの出会いは、まだまだ先の話だった。
04優等生キャラを演じながら
姉には負けない
家庭での日々も楽しかったが、3つ上の2番目の姉とは、喧嘩が絶えなかった。
「ささいなことで、いつもいがみ合っていました」
あまりにも激しく争ったときなどは、階下の角打ちにまで互いの怒声が響き、駆けつけた母親によく怒られた。
当時は目の上のタンコブ的な姉だったが、自分の中学生活に大きな影響を与えることになる。
「中学校に入学したら。『お前、ナツコ(姉の名前)の弟か。ほな勉強できるな』と先生に言われたんです」
姉は口も立つけど、勉強もよくできた。
同じように自分も優秀なはずだ、と教師に勘ぐられたのだ。
「それなら勉強もできるようにならなきゃ、と思いました。姉に負けたくない、という気持ちもあったのかもしれません」
「一生懸命頑張ったら、中学の3年間ずっと学年で1位でした」
結果良ければ全て良し。
だがなんとなく、先生にはめられた、そんな気もしている。
キャラを作る
一方で、人間関係には迷いがあった。
「小学校は1学年1クラスだったのが、急に人数が増えて。萎縮しました」
部活は陸上部に入ったが、これもしっくりこなかった。
そのうち膝を怪我して、退部してしまう。
「だから勉強ができる、優等生キャラとして集団へ溶け込もうと思いました。小5から、塾で先取り学習していたから、成績をキープすることもできたんです」
そんな自分に、勉強で勝負を仕掛けてくる同級生はいた。
でも相変わらず、競争は嫌いだった。
「1位になりたかったら、どうぞ」と、何食わぬ顔で過ごすことにしていた。
05色を持たない高校時代の記憶
友達を取られる
勉学に励み、高校は地元の進学校に入学した。
「あまりに平凡すぎて、高校時代の記憶がほとんどないんです(笑)。バイトも部活もしなかったんですよね」
「仲の良かった友達と、放課後にボーリングやカラオケに寄ったり、旅行をしたり。そんな思い出ばかりです」
恋愛もなかった。
女子を好きになることも、好きになられることも。
男の子に焦がれることも、高校生活では経験しなかった。
「けれど今思えば、当時の男友達は皆、僕の好みのタイプばかりでした(笑)。無意識のうちに顔で選んでいたみたいです」
もちろん、その時は親友だと思っていた。
でも本当は、そこに恋心があったのかもしれない。
「友達から『彼女ができた』と告げられた時は、なんとなく男友達を取られてしまったような錯覚に陥りましたね」
「これは単純に、友達の時間を取られたっていう打算的な気持ちなんだと、当時は割り切って考えていましたけれど」
友達とじゃれあって、ふいに股間を触ってしまい、嫌がられる。
自覚的ではないが、そこに手が入ってしまうこともあった。あまりやりすぎないように、とは思いながら。
しかし冗談でそうするだけで、特段おかしなこととも思わなかった。
まだ自分が、幼すぎたのかもしれない。
そういう人間なんだ
「友達が恋愛相談や、具体的に彼女とのセックスの話をしているのを耳にすることはありました」
「そのたびに、ああ自分は話に入っていけないな、と感じていました」
かといって、そこに違和感はなかった。
ただ自分は恋愛にもセックスにも興味がないだけなのだ。そしてだからといって、自身に何かが欠けているとも思わなかった。
「自分はそういう人間なんだろうと達観していただけでした」
こうして3年間の高校生活は終わった。
京都の大学へ進学が決まり、大阪から通うことになる。
そこには色を持たない今までの3年間とは違った、鮮やかな毎日が待ち受けていた。
<<<後編 2017/08/23/Wed>>>
INDEX
06 大学で知った、この世界の広さ
07 与えられた仕事を淡々と
08 青年の叫びに、心惹かれて
09 大人になって訪れた青春
10 LGBTの問題を超えて