02 22歳で日本へ旅立つ
03 バイトと勉強の日々
04 自分がゲイだと気がついたのは高校のとき
05 包丁を持って追い回されたカミングアウト
==================(後編)========================
06 中国、日本、そしてオーストラリアへ
07 やりがいのある仕事を捨てて、ふたりの生活を優先
08 ついにプロポーズ!!
09 長続きする秘訣は許容と教育
10 外見だけで判断しちゃダメ。心が一番大切
01お母さんは台湾のボーリング選手
金持ちの男は “2号さん” が持てた時代
1963年、台湾で生まれた。お母さんと3つ違いのお兄ちゃんの3人家族だった。
「当時の台湾は、まだいろいろな意味で発展途上だったんです。お父さんとお母さんとは法律的に結婚していないカップルでした」
「当時、お金持ちの男は、2号さん、3号さんが持てたんですよ」
大きくなってから、お母さんに「なんでお父さんと結婚しなかったの?」と聞くと、はっきりとは答えず、「お父さんはすごくハンサムだった。そして、私のことをすごく愛していたんですよ」と教えてくれた。
「お父さんは、私が3歳のときに亡くなったんです。写真は見ましたけど、ほんの何枚かですよ。記憶は何もありません」
結局、お母さんは6歳と3歳の息子ふたりを、ひとりで育てることになった。
「でも、たくさん遺産をもらったので生活は苦しくはありませんでした。あのころ、お母さんがお金をきちんと管理したり、働いたりしていれば、その後、もっと楽だったと思いますけどね(笑)」
お母さんは、中華民国(台湾)のボーリングの代表選手で、おしゃれなお嬢さま。ハイカラで華やかな生活が好きだった。
もらったお金は使う一方で、貯金をしておくという発想はなかった。
「そのうちに新しい日本人男性とお母さんとの間に妹が生まれて、10歳のときから、私が妹の面倒をみるようになりました」
お兄ちゃんには3年前までいじめられた
お兄ちゃんは学校が忙しくて、ちょっと特別な存在。お母さんと妹とは仲よく暮らした。
「お兄ちゃんにはいつもいじめられて泣いてましたね(苦笑)。私は、とても泣き虫な子どもでした」
お兄ちゃんに、「ジョージ、あれやれ! これやれ!」と命令され、「ジョージ、ぐずぐずするな!!」と怒られた。
「その関係は大人になっても、ずっと変わらなかったんです。でも、3年前に頭にくることがあって、ついに私が怒ってきついことをいったんです」
「お兄ちゃんとの関係があるのは、お母さんがいるから。もし、お母さんがいなくなったら、もう関係はなくなるから!」と、はっきりと言い渡した。
「そうしたら、お兄ちゃんのイメージが変わって、やさしくなりました。私が57歳のときです。とても時間がかかりました(笑)」
絵を描いたり、ものを作るのが好き
3歳からバイオリンを習い、小学校の合唱団にも入った。
「40人の合唱団でしたけど、男は私ともうひとりだけでした。それだけでも学校で目立ってましたよ」
工作が得意で、絵を描いたり、彫刻を作るのも好きだった。
「人の話しはふつう、言葉でメモを取るでしょ。私は聞きながら、絵を描くんですよ」
聞いている内容を絵にして覚える。不思議な才能だった。
「だから、授業中も、先生がしゃべっているのを聞いて絵を描くんです。私のノートは絵ばっかりでしたよ(笑)」
02 22歳で日本へ旅立つ
お母さんは結婚して日本へ
お母さんは次に現れた日本人男性と結婚する。相手は銀行マンで、台湾支社の社長として駐在していた。
「一緒に住んでましたが、2年くらいして日本に戻ることになったんです。そのころは、もうひとり、妹が生まれてました」
いろいろ考えた末、両親は妹を連れて日本で生活をすることになった。
「私が14歳のときでした。私はお母さんの弟の家に預けられて、そこから高校に通いました」
おじさんの家はバス会社を営む裕福な一家だった。おじさんにかわいがられ、家を継ぐような話もあった。
「台湾では高校を卒業したあと、2年間、兵役につかなくてはいけないんです。その2年が終わって、家に戻ってみると、なんだか雰囲気が悪かったんです・・・・・・」
おじさんには好かれていたが、おばさんから「なんで私たちの家にいるんですか!?」と嫌味をいわれた。
「台湾はまだ経済が発展していなかったので、アメリカや日本に出ていく若者も多かったんです。お母さんから、日本に来たら、とずっといわれていたんで、私も思い切って日本に行くことにしました」
兵役が終わったのが22歳の5月。その8月には、日本に旅立っていた。
専門学校でソフトウエアを学ぶ
台湾でも少し日本語を勉強していたが、とても生活ができるレベルではなかった。1年間、日本語学校に通い、その後、都内にある専門学校に入学する。
「台湾の高校では製図を勉強しました。機械の絵を描くことが好きだったんです。なので日本の専門学校でもCADを勉強するつもりでした」
ところが、CADを学ぶクラスは、もう定員いっぱいで入学できないという。それは困る、と必死で頼み込んだ。
「そうしたら先生が、これからはコンピューターの時代。CADよりもソフトウエアを勉強したほうがいい、とアドバイスしてくれたんです」
まだ、マウスもキーボードも普及してない時代に雲をつかむような話だった。考えた末、その先生のアドバイスに従うことにした。
「結果的には、あのときの先生のアドバイスがその後の人生の支えになりました」
03バイトと勉強の日々
人生の踏ん張りどころ
まだ、日本語もうまく話せない。専門学校では、まったく初めてのプログラマーコース。このときが人生の一番の踏ん張りどころだった。
「ほかの学生は、みんな親が学費を払ってくれるでしょ。でも、私はバイトで稼がないと、払えないんですよ」
学校が終わると、夜10時までアルバイト。土日は、昼から夜まで一生懸命に働いた。
「銀座アスターのウエイターをしてました。きちっとした制服が好きでしたね。長く勤めたから、最後はマネージャーになって蝶ネクタイをしめてました。けっこう、カッコよかったんですよ(笑)」
頑張った甲斐があり、言葉も上達。最先端のプログラミングもどんどん覚えていった。
「まだ、バブル経済でしたから、就職もすぐに見つかりましたね」
1989年、システム開発の大手、富士ソフトに入社する。
「私は自分のことを ”チェン” ていってますが、漢字では “陳” なんです。だから、先輩からチン君、チン君って呼ばれてかわいがってもらいました」
同期入社の仲間は、みんな新卒だから自分より2、3歳若い。
「入社してすぐに、テレビ局のコマーシャルシステムという大きなプロジェクトのメンバーに入りました。仕事は楽しかったですが、プレッシャーも大きかったですね」
キャリアアップを目指して東京へ
入社して2年。プロジェクトリーダーになるという話が出始めていた。これ以上、勤めると辞められなくなりそうだった。
「ひとつの問題は会社がもともと神奈川県の厚木だったことなんです。遊ぶところがない(笑)。お金も手に入ったから、東京に出たくなりました」
コンピューターの技術があれば、いくらでも求人がある時代だった。
「ABBオートモーティブというヨーロッパの会社に入社しました。もともと興味があったロボットによるオートメーションの世界。給料もジャンプアップしましたよ!」
仕事も楽しく、生活も充実。
人生がどんどん楽しい方向に転がっていった。
04自分がゲイだと気がついたのは高校のとき
ゲイ? 女性に友だち以上の感情はわかない
住まいは東京都・大田区蒲田。ここでひとつの出会いがあった。
「週に3回、家の近くのプールに泳ぎに行ってたんです。そこにカッコいい男性が来ていたんです」
台湾にいるときから、恋愛の対象は男性だと気がついていた。
「女の子の友だちもたくさんいましたけど、セックスの対象としては、まったく考えられませんでした」
中学のときに、初めて好きな同級生ができた。
その子の家によく遊びに行った。
恋愛感情らしきものは自覚したが、まだ自分がゲイだという認識はなかった。
「自分がゲイだと気がついたのは高校のときです。つき合う相手はいませんでしたけど、興味の対象が男ばかりだったから、そうなんじゃないかと思ったんです」
女の子に言い寄られても、友だち以上の関係になりたいとは思わなかった。
「台湾から日本に追いかけて来た女性もいたんですよ。何日か一緒に過ごしたんですけど、急に結婚しましょう! っていわれて、それ以来、会うのをやめました(笑)」
グッピーを見に来ませんか
プールで見かけた男性と話をしたのは、1カ月も経ってからだった。
「水泳の後に、女の人も入れて何人かでおでんを食べたんです。ビールも飲んだりして。そのときに、その男の人がニュージーランド人だとわかりました」
彼は英語の教師として福岡に来た後、東京に移って不動産関係の会社で働いていた。
「トライアスロンをしているスポーツマンで、とてもカッコよかったですね」
台湾もゲイをオープンする社会ではない。誰にもいわずにじっと心に秘めていた熱い感情が花開いた。
「初めて家に誘ったのは、初めて話してからさらに3カ月後でした。『私の家にグッピーを見に来ませんか?』って。クラシックな誘い方でしょ(笑)」
テレビを見て、グッピーを見て、彼と一緒に楽しい時間を過ごした。これが最初のつき合いの始まりだった。
「それから、32年間も一緒にいるんですよ。すごいでしょ」
05包丁を持って追い回されたカミングアウト
「男が男を好きなんですか!?」
家族へのカミングアウトが難しいのは、日本だけではない。
台湾でも同性を好きになるのは、悪いことだという社会通念が今よりも色濃かった。
「彼とつき合い始めて1年くらいしたとき、ベッドの下に隠しておいたゲイ雑誌がお母さんに見つかったんです」
「何、あなた、男の写真ばっかり持っていて。どういうことなの??」そう詰問されたことがあった。
彼はよく家にも遊びに来ていて、お母さんとも仲がよかった。彼の妹が日本に遊びに来たときには、「あんた、彼女と結婚しなさい」とジョークでいうほどだった。
「あるとき、お母さんが勘づいたんです。あんた、まさかあの男性とつき合っているの!? って問い詰められて・・・・・・」
お母さんは台所にあった包丁を突きつけて、答えを要求した。
「仕方なく『そうですよ』って答えたら、私のことを追い回し始めたんです。男なのに男が好きってなんなんですか! って」
「興奮して声も大きくなって、ふたりでコタツの周りをぐるぐる回って。私はもうダメだと思って、外に逃げ出しました(笑)」
カミングアウトしたけれど「チャンスがあれば、女性と結婚して」
それから数日、家に帰らなかった。お母さんに会ったのは1週間くらい経ってからだった。
「ご飯を食べに来なさいよっていわれて、行ってみると、もう落ち着いて、もめた日の話は何もしませんでした。それが受け入れてくれた、っていう合図だと理解しました」
でも、お母さんは息子がゲイであることを100%受け入れたわけではなかった。
「私が男性を好きなのは、一時的なことだと思っていたというか、信じていたんでしょうね。チャンスがあれば、女の人と結婚したほうがいいよって、たまに思い出したようにいってましたから」
彼のカミングアウトも難産だった。
「彼のお母さんの70歳の誕生日に、お母さんを日本に招待したんです。そのときに、一緒に来ていた彼の妹が、私たちがハワイで作ったペアの指輪に気がついたんです」
彼女は、「ふたりがおそろいの指輪をしているよ」と、食事のときに悪気なく話した。
「そうしたら、その夜、別の部屋で誰かが泣いている声がするんです。起きてみると、彼のお母さんがシクシク、泣いていたんです」
彼が結婚して孫の顔を見せてくれるのを楽しみにしていたのだった。
彼が一生懸命になだめたが、お母さんのショックはいやされなかった。
彼がカミングアウトした夜、私からお母さんに宣言したことがある。
「もし彼が女の人を好きになって子どもが欲しいといったら、すぐに私は身を引きます。心配しないでください」
「でも次の日、お母さんは40万円のエアチケットを買って、ニュージーランドに帰ってしまいました」
<<<後編 2024/03/02/Sat>>>
INDEX
06 中国、日本、そしてオーストラリアへ
07 やりがいのある仕事を捨てて、ふたりの生活を優先
08 ついにプロポーズ!!
09 長続きする秘訣は許容と教育
10 外見だけで判断しちゃダメ。心が一番大切