INTERVIEW
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虐待や貧困からサバイブして、「自分が性同一性障害だったから得られた」と誇れるもの。【前編】

「勤めていた運送会社を僕が辞めたあと、『玉田さんが辞めるなら』とほかのスタッフも辞めてしまって。なんとか知り合いの会社に、そのスタッフたちを雇ってやってほしいと頼んで、受け入れてもらったんですけど、自分はどうしよう? って(苦笑)」。自分のことよりもまず、困っている人をほうっておけない。それは、いままでの人生、周りにいる人たちに助けられて生きてきたから、力になれることがあればしてあげたいからだと話す。

2024/05/12/Sun
Photo : Tomoki Suzuki Text : Kei Yoshida
玉田 陽 / Akira Tamada

1972年、大阪府生まれ。幼い頃から「自分は男性である」と確信しており、女性らしさを求められることも、女性である自分の体にも、嫌悪感をもっていた。虐待や貧困など深刻な問題を抱えていたこともあり、ジェンダーやセクシュアリティに関する情報に触れる機会が乏しかったが、二十歳を過ぎた頃に性同一性障害(性別違和/性別不合)やFTM(トランスジェンダー男性)の存在を知る。48歳のときに性別適合手術、戸籍の性別変更を果たした。現在は介護福祉士として、介護施設に15年勤め続けている。

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INDEX
01 自分を男だと信じて疑わなかった
02 両親からの虐待
03 生きるのに必死だった子ども時代
04 親に閉ざされた教師への道
05 肩代わりさせられた2500万もの借金
==================(後編)========================
06 二十歳でようやくFTMの存在を知った
07 性同一性障害だと説明したら怒鳴られて
08 性別関係なく “ひとりの人間” として
09 体力がある限りは介護福祉士を続ける
10 生まれ変わっても自分として生きたい

01自分を男だと信じて疑わなかった

赤いランドセルをぐしゃぐしゃに

父親は女の子がほしかったのだという。
自分はその待望の女の子として生まれた。

「でも、実は、家の事情がちょっとややこしくて」

父には、別に家庭があった。
腹違いの兄が2人いることも、のちに知った。

「母親はいわゆる愛人だったんです。本妻さんのところが男の子だけだったから、父親としては女の子がほしかったんでしょうね」

「僕が生まれて、待望の女の子だったはずなんですけど、なんでかわからないんですけど、僕は自分のことを男の子だと信じて疑わなかったんです」

物心がついた頃から、「女の子なんだから髪の毛を伸ばしなさい」「女の子らしく静かにしていなさい」との両親の言葉に反抗ばかりしていた。

「覚えてるのは、5歳のとき、ハサミで自分の髪の毛を切ったこと。男の子だから髪の毛は短くしないと、って考えていたんやと思います」

ほかにも不満があった。

「ランドセルって、いまはいろんな色がありますけど、僕らの時代は男の子は黒、女の子は赤って決まってたんですよ。そしたら僕には、親は赤を買ってくるじゃないですか・・・・・・それは僕からしたら屈辱的なことで」

「イヤでイヤで。ぐしゃぐしゃにして壊してしまったんです」

「親からしたら許せなかったんでしょうね・・・・・・」

「二号さんの子」とからかわれて

「2歳下の妹がいたんですけど、妹とはソリが合わなくて。妹からは『そんな髪の毛の短い女の子なんておかしい』『ズボンばっかりはいて恥ずかしいから一緒に歩かないで』って言われてました」

家庭の事情を知ったのは小学校に入学したくらいのとき。
クラスメイトに「二号さんの子」とからかわれたのがきっかけだった。

「最初は二号さんの意味がわからなくて。だんだんそれが愛人って意味なんやとわかって、そういえば、父親は毎日帰ってくるわけでもないな、と」

「そんななか、女の子らしくない僕に、両親はいらだったんでしょうね。小学校に入る前までは、僕が『自分は男の子だから』って言っても、親はなんとか更生できると思ってたんだと思います。でも、どうやっても言うことをきかない僕が、どうにも許せなかったのかもしれないです」

次第に両親から暴力を受けるようになっていった。

02両親からの虐待

家で寝ていると襲われる

「僕、小さいときは体が弱くて、喘息を患ってたんですけど、家の中で咳をしたら、父からも母からも『うるさい!』って殴られまくりました」

そのうちに、家に入れてもらえないことが増えていった。

「仕方なく公園とかで寝たりしてました。冬場は友だちの家に泊めてもらったりとかも。成長期だったんで、いつもお腹を空かせてましたね・・・・・・」

「小学5年生の頃だったかな、新聞配達を始めたんですよ。いまは、そんなに小さいときはアルバイトなんてできないかもしれませんが」

「その新聞配達したお金で食べ物を買って、なんとか生活してました」

そして、たとえ家に入れたとしても、外のほうがマシなようにも思えてくる。

「たまに家に帰っても、両親は口をきいてくれないし、ご飯もくれないです。それに、家だと眠れなかったんですよ」

「寝ているときに、突然ボコボコにされたりとかするので。外で寝ているほうが安心できました。両親に襲われることがないんで」

その頃に負った心の傷は、いまもまだ癒えることはない。
そばに人がいると、ストレスが手の震えとなって表れてしまう。

「ガタガタ震えてると『アル中か!』って思われちゃうんでね(笑)、人前に出るときは、震えないように痙攣発作を抑える薬を飲んでいます」

自分の成長が恐怖でしかない

不眠症にも長いあいだ悩まされている。

「精神科の先生には、子どもの頃からの不眠症なので、これは一生治らないだろうと言われてます。寝ると襲われるっていうのが、いまだに夢に出てきて、もう何十年も癖みたいになってしまってるんですよ」

「この心の傷は、もう自分が認知症にでもならない限りは治らないらしいですね(苦笑)。睡眠薬もなかなか効かなくて、一番強い薬を飲んで、ようやく3〜4時間寝られるくらいです」

自分に一生消えない深い傷を負わせた両親ではあるが、それでも、やっぱり、彼らから愛されたいという気持ちがあった。

「親から気に入られようと、顔色をうかがって・・・・・・。そういう時期も確かにありました。でも、いつかのタイミングで、僕も見限ったんでしょうね。あぁ、この人たちはダメだ、自分を愛してはくれないんだ、って」

虐待から解放されたのは中学を卒業してから。
高校からは一人暮らしを始めて、アルバイトで生計を立てた。

そんな状況のなかで、自分の体への嫌悪感も募らせていく。

「女性化していくじゃないですか、小学校高学年くらいから。自分は、どうなっていくんやろうという恐怖もありました」

「インターネットとかもない時代ですから、情報もなかったし、自分は何者なんだろう、自分になにが起きてるんだろう、なにもわからなくて」

「なんかもう、自分の成長が恐怖でしかなかったんです」

03生きるのに必死だった子ども時代

幼い頃から食費を稼いで

小学5年生から新聞配達を始め、中学生になると、放課後は喫茶店などでもアルバイトをして食費を稼いだ。

「学校には行ってましたけど、孤立してましたね」

「やっぱりスカートを受け入れられなくて、ジャージで登校していて。クラスメイトからも『あの子、女の子なのに変わってる』って言われてました」

「髪の毛は、ずっと短髪でした。相変わらず自分で切ってたんで、長さはバラバラでギザギザでしたけど(笑)」

教師からは、周りと異なる格好について何度も指導を受ける。

「先生たちは、僕が虐待を受けていることなんて気づいてなかったと思います。『あんなに素晴らしい両親なのに、どうしてお前はそうなんだ』って感じでいつも怒られてましたから」

「両親は、すごく外ヅラが良かったんですよね・・・・・・」

しかし学校には、寄り添ってくれる人たちもいた。

「なんていうか、やんちゃしている先輩が優しくしてくれましたね」

「思えば、先輩もどこかで傷ついてたのかも。タバコ吸ってみたり、バイク乗ってみたり、表現は下手だけど、“痛み” を抱えていたんかなって」

傷つけられ、痛みを抱えていた。
それは自分と同じ。
だからこそ、優しくしてくれたのかもしれない。

ひとりの人間として認めてくれた

「あと、保健の先生ですね。僕が初めて好きになった人です」

早朝から働き、昼間は学校に行って、夜もまた働く。
そんな生活のなかで、学校にいるあいだは保健室で休むこともあった。

「大学を卒業したばかりの若くてきれいな先生でした。僕を変な目で見ることもなく、いつもふつうに接してくれて」

「いつも保健室で寝てると、『あんた、いい加減にしーやー』って言いながらも、喘息の心配をしてくれてました。僕も、家のことや体のこと、自分が悩んでることを次第に相談するようになったんです」

「そのうち、『うちにご飯食べにおいで』って言ってくれるようになって」

性別だとか家庭環境だとか。
そうした背景は関係なく、ひとりの人間として認めてくれた最初の人だった。

「そういう人と出会えたのは、すごく大きな出来事でしたね」

「特に中学の頃は、自分の体を憎むというか、嫌悪感でいっぱいで、この体を消し去りたいと思ったことがないと言ったら嘘になります」

「でも、自分の体を嘆いたり、憎いからといって壊したりしても、人生は変わらないし・・・・・・。なにより、せめて自分だけは自分を愛してあげないと、あまりにも自分がかわいそうやんって思ったんです」

自分だけは自分を愛さないと。
幼い頃から食べていくために、生きるために必死だったからこそ、自分の人生を見限るようなことはしなかった。

04親に閉ざされた教師への道

どんな生徒でも受け入れる心をもつ教師に

家族は誰も助けてくれなかった。

「母方の祖父が気にかけてくれていたこともあったんですが、やっぱり『女の子やのに、なんでそんな格好してるんや?』って不思議がられて」

「僕が正直に『実はな、僕、自分のこと男やと思ってんねん』って言ったら『それはおかしい』って。それから、祖父は電話に出てくれなくなりました」

中学を卒業してからは、ひとりで生きていくことにした。

「文化住宅ってわかります? 木造2階建ての簡素なアパートなんですけど、高校からはそこを借りてひとり暮らしをしてました」

アルバイトをしながら高校へ行き、家賃も学費も自分で払っていた。

「将来は教師になりたいと思ってたんで、そのためには学校に行って勉強しなければ、とがんばってました」

教師になりたいと思ったのは、学校というものを変えたいと思ったから。
学校で孤立していた自身の経験がきっかけだった。

「教師は、男とか女とか関係なく、もっと言えば障がいをもってるとかもってないとか関係なく、どんな生徒でも受け入れる心がないと、と思って」

「そういう教師が僕の周りにはいなかったから、じゃ、自分がなってやる、自分が学校を変えるわ、って決心してたんです」

「カッコ悪いから絶対にやめて」

教員免許を取得するには大学を卒業しなければならない。
大学の高額な学費を自分ひとりで払うのは、さすがに難しい。

そこで奨学金制度を利用しようと考えた。

「それで、奨学金を申し込む直前まで進めたんですよ。もう最後は親のサインをもらうだけってところまで。でも親はサインしてくれなくて」

「親が言うには『奨学金はお金を借りるってこと。借金するってことは、うちが貧乏やってアピールしているようなものでしょ』って。カッコ悪いから絶対にやめて、恥を晒さんといて、って言うんですよ・・・・・・」

自分がお金を返す、奨学金のことは学校関係者しか知り得ないから、周りに家計の事情を知られることはないと話した。

しかし、どうしても教師になりたいから大学に行きたいと、どれほど説得を試みても、親がサインすることはなく。

諦めるしかなかった。

「目の前が真っ暗になった感じがしました。将来は教師しかないって思い込んでたので、高校を卒業して、なにしたらいいのかわからなくなっちゃって・・・・・・。しばらくはフリーターみたいなことをしてました」

「そうこうしているうちに、二十歳くらいのときですかね、親がものすごい借金をつくってきて、僕んとこに取り立てが来るようになったんです」

05肩代わりさせられた2500万もの借金

寝る間を惜しんで働いた

突然のことだった。

取り立てに来た人物に、親が2500万円の借金を抱えており、その名義が自分になっているのだと聞かされる。

「それからは、それこそ寝る間を惜しんで働きましたよ」

「朝は野菜の配達に行って、昼間はいろんなバイトを掛け持ちして、夜は当時のいわゆる “おなべバー” で働いて。警備員のバイトのときは休憩室で、仕事が始まる前の1〜2時間だけ寝させてもらったりしてました」

「若かったからなんとかなった感じですかね・・・・・・。4年もかからず返し切りましたわ。自分でも『ようやったな』って思います(苦笑)」

早く返さないと、また取り立てが来る。
一刻も早く返さないと。

その一心で猛然と働き、返済した。

「おなべバーで働いてはいましたけど、自分の体の治療のこととかは忘れてましたね。働くことに必死すぎて(笑)」

「ちょうどその頃、虎井まさ衛さんの『女から男になったワタシ』という本に出会って、FTM(トランスジェンダー男性)という言葉も知ったけど、どうにもできず」

しかも、親からの金の無心はその後も続いた。

血のつながりほど薄っぺらいものはない

母が60歳を超えたくらいの頃だった。
どうにかして電話番号を知った母から、電話がかかってきた。

「開口一番に『お金貸してくれへん?』って。歳とって体も弱ってきたし、ご飯も食べなあかんからって言うんですよ」

「いやいや、あなた、僕がご飯を食べたいって、お腹すかして泣いていたとき、なんかしてくれた? って感じですよね」

「そして、ことあるごとに『私は親なのに』って言うんです」

「僕は言いました。あなたが親として、ふつうに僕を育ててくれてたら、ご飯も食べさせてくれてたら、なにも言われなくても、どれだけでも、面倒を見てると思う、と」

「僕は、親でもなんでもない人たちに助けられて、ここまで生きてきた。血のつながりのない人たちが優しくしてくれて、ご飯を食べさせてくれた」

そんな経験から、血のつながりほど薄っぺらいものはないと思っている。

さらに、2500万円の借金のことなど、なかったかのような態度をとる母に、こう付け加えた。

「蒸し返して悪いけどな、あの借金を返したことで、産んでもらった恩を返したと思ってるからね。あなたたちが僕にしてくれたことは、僕を産んでくれたということだけ。その恩はもう、返したから。これ以上のことはなにもできないから。もう連絡してくるのはやめてもらっていいですか」

それでも、何度も何度も電話がかかってきた。

そのたびに、父親が亡くなった、腹違いの兄が亡くなったと聞かされ、続いて妹も亡くなり、母はとうとうひとりになってしまったのだという。

「そのうち、家賃を滞納していて追い出されそうだから、それだけでも払ってくれと言われました。僕はもう・・・・・・アドバイスだけしました」

「そんな駅前のマンションなんか住まんと、府営団地とかに住んで、生活保護を受けるしかないよ、と。それで電話を切って、着信はもう無視してます」

「最後もまた、『親なのに』って言ってました」

「僕は・・・・・・親とは思えない。だから、“お母さん” とも “お袋” とも呼べないんです。親なんですけど、血が繋がってるけど」

「悲しいです」

 

<<<後編 2024/05/15/Wed>>>

INDEX
06 二十歳でようやくFTMの存在を知った
07 性同一性障害だと説明したら怒鳴られて
08 性別関係なく “ひとりの人間” として
09 体力がある限りは介護福祉士を続ける
10 生まれ変わっても自分として生きたい

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