02 父が死んでよかった
03 母がいたから、いまの自分がある
04 話す代わりに書いて伝える
05 うつ病と上手く付き合いながら
==================(後編)========================
06 性同一性障害は体の障害
07 欠けた部分を取り戻す
08 運命の人には一生会わない
09 地元の性的マイノリティのために
10 困ったら、食べて寝ること
06性同一性障害は体の障害
女性から男性へ
自分は女ではない。なのに、女として扱われる。
「そのことにずっと違和感を感じていましたが、どうしようもないと思っていたんです」
「男性から女性への性別移行は可能でも、女性から男性は不可能だと信じ込んでいたので」
「子どもの頃、カルーセル麻紀さんをテレビで家族と観ていて、そのときに、父が『いまの医学では女性が男性になるための手術は不可能』と。いま思うとソースがどこにあるのかわからないことを言ったのですが、私はそれを何の根拠もなく鵜呑みにしていたんです」
「この未確認情報によって私は、女性として生まれた者が男性として生きるのは不可能なことなんだ、と思いこんでいました」
しかし1996年に日本精神神経学会が「性同一性障害に関する答申と提言」を発表したことを受け、当事者のドキュメンタリー番組を観た。
その番組内で女性から男性に移行した人が紹介され、女性として生まれた人が、男性として実際に生活しているという事実を知った。
「そんなことが実際にできるんだとわかり、できるのならやろう、と思いました。生まれたときに体が女性のかたちをしていただけで、私はずっと男性だったんです」
「性同一性障害は体の障害だと思っています。一種の奇形だと。その奇形が、ある性別として正常だから奇形だと思われないだけ」
「心ではなく、体が間違っているんです」
あとに続く人のための情報を
地元の和歌山県内に性的マイノリティのための自助グループを求めたが存在しなかったため、性同一性障害の当事者や研究者、支援者のためのミニコミ誌『FTM日本』を購読し、情報を集めた。
「男性として生きる道がある、手術によって体の形を変えることができると知って、一気に世界が開けた感じがしました」
そして1998年、28歳のときに日本で乳房切除術を受けた。
その後、タイで内性器摘出術、尿道延長術、陰茎形成術を受けた。
なかには、麻酔が効かないまま手術が行われるなど“とても痛い”経験もあった。
「自分が手術したいと思ったときに情報が少なくて困ったので、自分のように情報を必要としている人がたくさんいることはわかっていました」
「だから覚えているうちに書いておかないと、と思ってホームページに記録を残すことにしたんです」
その詳細な情報は、いまも多くのFTMの人の助けになっている。
07欠けた部分を取り戻す
うつ病を抱えながらの治療
ホルモン注射をスタートした1997年頃は、性同一性障害があまり知られていなかった時代。
そのため、あらゆる情報が乏しく、どこで治療が受けられるのかわからないまま、まだインターネットも普及していない頃だったので、電話帳を見て片っ端から産婦人科に電話をかけた。
「女性の体に男性ホルモンを注射する治療をやってますか、と訊ねました。そう言った途端に電話を切られたこともありました」
当時は、医者でさえ『性同一性障害』という言葉を知らない人の方が多かったので、違法なことをさせられると思ったのかもしれない。
「やっとの思いで見つけても、注射が一本4000円とか、かなり高価なものでした。聞いた話では数万円取るような病院もあったようです。健康保険が使えない治療なので、ほぼ病院側の言い値になります」
さらに治療を進める上で辛かったことのひとつが、性別適合手術を受ける直前、少なくとも1ヶ月はうつ病の薬を中断しなければならないことだった。
性別適合手術を受ける際にはうつ病の薬だけではなく、薬に類するものはすべて、サプリメントなども服用をやめなくてはならない。
どの薬が手術の際に用いる薬剤と効果がぶつかり合ってしまうかわからず、薬が互いに影響し合うことで思わぬ効果が及ぶ可能性があるためだ。
うつ病の薬がのめないせいで、手術前も手術後も“ふらふらの状態”だった。
あるべきものがなかった
ところで、戸籍を女性から男性に訂正するための身体に関する条件のひとつは、内性器を摘出することである。
つまり、社会的に男性として生きるためには尿道延長および陰茎形成は必須ではない。
しかし、2005年に子宮・卵巣摘出術を受け、2008年に戸籍を変更したあと、その先の手術、陰茎形成術とその前段階である尿道延長術に進むことに迷いはなかった。
「エピテーゼ(欠損部を自然に見せるための補填物)で補う方法もありますが、私はそれではなく、自分の血が通っている男性器がほしかった」
「小さい頃からずっと自分の体に欠けた部分があるという不安がありました。あるべきものがなかったんです」
「男性器をつくるには、腕にカテーテルを通して穴を形成し、そこから皮弁を採取して、移植することになります」
そのため、一生消えない大きな傷痕が腕に残る。
それでも、必要だった。
「手術したところで立ち小便ができるようになっただけなんですが、欠けた部分があるという不安はなくなり、やっと落ち着いた感じです」
いまの医療技術では、完全に男性の体として機能させることはできない。中途半端にかたちを変えるくらいなら手術をしないという人もいるだろう。
「でも、私にとっての落としどころはココだと思っています。機能するものがつくれるようになる日を手術せずに待ってるなんてこと、私にはできなかったんですから」
08運命の人には一生会わない
小さい頃からそうだった
家族に自分が性同一性障害であることを伝えたのは、うつ病で入院したとき。
うつ病と性同一性障害の両方について、精神科の主治医から家族に説明してもらった。
しかし、先にカミングアウトをした友人たち同様、家族からも何の反応もなかった。
「その後しばらく経ってから、性同一性障害について聞いてびっくりしなかったか、と母に訊いたら、『あんた、小さい頃からそうだったじゃない』と言って、別にびっくりすることもなかったそうです(笑)」
自分の娘が性同一性障害だと言われて、にわかに信じられないのは当然のことだと思っていた。
性同一性障害について、ほんとうに理解しているのかどうかは定かではない。
しかし確かに、母はあっさりと受け入れてくれたのである。
恋愛をしない人間
「私は恵まれているんだと思います」
「ボーイッシュな格好をしていて周りから心ない言葉を投げかけられたこともないし、自分の性別について悩んだこともなかった。嫌だったのは女の子として扱われて、スカートの制服を着ることになったことくらい」
スカートの制服を着ていた思春期、恋をすることはなかった。
「年頃になったら良い人が現れて、お付き合いするようになったら、女の子らしくなるよ」と周りから言われ、自分もそうなのかなと思って、その時を待っていた。
「でも、そんなことは今まで一度もない。私は恋愛をしない人間なんです」
「そう言うと、『運命の人に巡り会ってないだけだよ』という人もいるのですが、たぶんそんな人には一生巡り会わないと思う」
「私もね、実は30歳まで自分はヘテロセクシュアルだと思っていたんです。女の子を見て、かわいいと思うこともあったから」
でも、それは恋愛感情ではなかった。
「その『かわいい』というのは、ファンシーなキャラクターや犬や猫を見たときに思う『かわいい』と同じだったんです」
また、性指向を再確認したのも同じ時期だった。
「アダルトビデオを見ていて、女性が映るとなんだか嫌でした。むしろ男性だけのほうがよかった」
「その後、ゲイ雑誌を読む機会があって、やっと、ああこれだ、と思えたんです。それがきっかけで、今ではゲイ雑誌で小説を書くようになりました」
しかし、相手が男性であっても恋人としては好きになれない。どんなに好きな人でも、いつも一緒にいたいとは思わない。
他人に恋愛感情を感じないタイプの人・・・・・・、アロマンティックなのだ。
09地元の性的マイノリティのために
和歌山に自助グループを
トランス男性、ゲイ、アロマンティック。
自分のセクシュアリティをさらけ出し、地元和歌山県の性的マイノリティの人たちの助けになるようにと、2004年12月に「チーム紀伊水道」を設立した。
「きっかけになったのは、2004年に私の精神科の主治医から『うちの患者にあなたと同じFTMの人がいるから、相談にのってほしい』と言われたことです」
「つまり、私が1996年に地元で探していたときからそれまでの間に、誰も自助グループをつくらなかったということ」
「必要としている人がいるのに誰もつくらないなら私がつくろう、そこから始まりました」
2003年辺りから、各都道府県別に分かれたFTMのためのインターネット掲示板の、和歌山県掲示板の管理人を務めていた。
はじめはそこに書き込む人たちに声をかけ、メンバーを募っていった。
現在は、当事者も当事者でない人も集う交流会を定期的に開催し、トランスジェンダーだけでなく、ほかのセクシュアリティの人も参加している。
当事者が安心できる場所
「ときに、若いトランスジェンダーの方がお母さんと一緒に交流会にいらっしゃることがあります。お母さんが全然理解してくれないからって」
「自分と同じセクシュアリティの人を探すけれど、いままで見つからなかったという人から、よく問い合わせがあります」
「そういった人たちが、セクシュアリティについての知識を得たり相談したり、自分だけではないと安心感を得られる場所として、『チーム紀伊水道』は必要だと思っています」
和歌山県議会では2016年の3月に初めて、他の自治体による同性パートナーシップ制度に絡めて県内のセクシュアルマイノリティについての話し合いがなされた。
それまでは、県内にセクシュアルマイノリティが存在しているかどうかさえも、自治体や議会は把握していない状態だった。
「いまは、これまでいないものとされていた私たちセクシュアルマイノリティが確かにいるんだとわかってくれたので、大きな一歩を踏み出したところだと思っています」
「チーム紀伊水道」では、地元の人に向けて街頭でメッセージを投げかけることもあるが、その反応は概ねあたたかいものだ。
「和歌山の人は、南国的な大らかさがあって、『おおそうか、がんばれよ』と応援してくださいます」
「でもそれは、『お前らがんばれよ、おれには関係ないけど』ということであって、まだまだ多くの人が自分とは関係のないことと思っています」
「セクシュアリティの問題は誰にも関係があるみんなの問題だということを、どうやって伝えていくかが、これからの課題です」
現在では、「LGBTと愉快な仲間たち」「5931(ゴクサイ)」「ハッピーママライフ」といった地元のほかのグループとも繋がりをもち、ときにイベントを共同開催するなどして活動を進めている。
10困ったら、食べて寝ること
人生のターニングポイント
現在は和歌山市内で一人暮らし。
父親が亡くなったあと、母は生後半年の頃に預かった男の子と一緒に暮らしている。男の子もいまでは立派な勤労青年だ。
ここへくるまでの大きなターニングポイントは、やはり、うつ病で倒れたときだ。
「そこで以前の自分は死んで、考え方が変わりました。頑張らなくたって全然いいんだと。ゆるい考え方ができるようになりました」
「ちょうど30歳のときに倒れてしまったんですが、それ以前の自分は気付かないうちにすごく頑張ってたんじゃないかな」
「きちんとやらなきゃいけない、迷惑かけちゃいけない、失敗しちゃいけないって、ずっと思っていたし、自分だけではなくほかの人に対してもそう思っていました」
「でも、いまでは、諦めてもいいし、失敗してもいいし、失敗を繰り返してもいい」
「誰かに迷惑をかけてしまったら、お詫びして、そのぶんを別のことでお返しすればいい。そう思っています」
そう考えられるようになると同時に、自分を許すことができ、他者を許すことができるようになった。
「一番大切なのは、頑張らないことです。楽しく、適当にやればいい」
「それは『チーム紀伊水道』の方針でもあります。やりたい人がやりたいことをやりたいようにやる。やりたくない活動はやらなくてもいい。嫌なことはしない。やりたい人があまりいないので、現在はほとんどのことを私がやってますけどね(笑)」
「適当っていうのは、いい加減にやるってことじゃない。適切に行うっていうことです」
「この適切に、というのが肝心。特別に立派なものをつくろうとしなくてもいいんですよ。自分ができることを、自分ができる分だけやればいいんです」
何を言われても自分は変わらない
「それでも、悩んだり困ったり苦しかったりしたら、一度寝ましょう。困るというのは考えが行き詰まっている状態。疲れているんだから、休まないとどうにもなりません。寝ないと死にます」
「悩んだり困ったりしたら、おいしいものを食べて、寝ること。腹が減っていると人間はろくなことを考えませんから、腹を満たすことは大事です。そして、眠ることで自分を苦悩から一時的にでも解放してやる。しんどいことをいくらやっても、しんどいだけです」
「あとで困ることはあとで困ればいい。いま困らなくてもいいんです」
「『男性が好きなら、わざわざ男性にならなくていいんじゃないか』とか『男の格好をしていても所詮は女じゃないか』とか、人はいろんなことを言ってきます」
「でも例えば、『所詮は女じゃないか』と言われることによって、男性である私が実際に女性に変化してしまうことはありません。誰かが何かを言ったところで、世界がその通りに変えられてしまうことはないんです」
「誰かを悪しざまに言う人もいます。そういう人はそういうことを言わないと不安なんです。きっとその人は何かを怖がっていて、怖さから逃れるために言うんです。誰だって怖いのは嫌ですよね」
「だから、自分が辛くないなら言わせてあげたらいい。それでその人が少しでも安らぐのであれば。頑張ってムキになって、言い返さなくても大丈夫」
「誰かの勝手な一言で、自分が変えられてしまうことはないから」