02 家族至上主義より、友だち至上主義
03 網谷家のオキテ、その社交術
04 性指向に気づいた中学時代
05 憧れの先輩を追いかけて
==================(後編)========================
06 カミングアウトしても、同じにはなれない
07 俺がルール。そんな男に成長する
08 心のなかに引っかかる、母親の存在
09 もっと強くなりたいから、受け止めたいから
10 今、必要なのは、カミングアウトの構造分析
06カミングアウトしても、同じにはなれない
カミングアウトは手紙で
憧れの先輩を追いかけて、同じ高校へ進学した。
やがて、高2のときに、クラスに好きな人ができた。
「それは男子でした。女子にも好きな子はいたんですけど、なんかそのへん、ぐっちゃぐちゃですよ(笑)」
「何が本当に好きだったかもわからないけど。とにかくモーレツに好きな男子がいて、その人には確か高3で告白したかな・・・・・・」
初めてカミングアウトしたのは、高校時代。
相手は、幼稚園からの幼馴染だった。
そして、2回目のカミングアウトは、中学の同級生に。
「中学の同級生には、高校になって告げました。その頃、高校の友だちに言っていく中で、その何人目かが、好きになったクラスメートの彼だったと思います」
クラスメートの彼へのカミングアウトは、手紙を使った。
当時、クラスの中で、手紙を回すことが流行っていたのだ。
あなたが好きです、という趣旨のことを、手紙に書いた。
「5限目、最後の授業中に書いていたものを、その子の机の上に置いて、渡して」
「僕、授業の途中で出てっちゃったから、渡し逃げみたいな(笑)」
「当日だったかは忘れたけど、彼から電話があって『読んだよ』とか『付き合えないけど友だちでいたいから、変わらずにいたいね』みたいな、なんかいいことを言ってくれたかな」
深まる孤独、友だち至上主義からの乖離
その頃には、自分は男子が好きなんだと、自覚していた。
友だちの恋愛話も、共感しながら聞くことができなくなっていた。
「女が好き、っていうテイを作らないといけない。そんな嘘をつきたくなかったんですよね」
「男同士なのに盛り上がれる話に、乗れない。自分が友だちとは違う存在なのも辛くて」
「みんなと同じじゃないのも嫌で、寂しかった」
ずっとみんなと同じがいいな、と思っていた高校時代。
友だち至上主義のはずなのに、この寂しさをどう埋めればいいのか。
「カミングアウトしても同じになれない。それも辛かった。自分がみんなと違う人生を歩んでしまうのではないかという不安もありました」
表明したところで、ゲイである事実は変わらない。
カミングアウトしてもすぐ、世界が一変するわけではなかった。
自分は、みんなとは違う。
そんな認識ばかりが、強くなっていく。
「孤独感です。自分がどれだけ友だちのことを好きでも、ずっと分かり合えないと思いました」
「友だちこそが大切な存在である、とする自分としては、どうやって生きていったらいいか、わからなくなって・・・・・・」
自分の掲げてきた、友だち至上主義との乖離が突きつけられる。
高校の頃はずっとそういうことを考えていた。
07俺がルール。そんな男に成長する
社会は全部、嘘でできている
「悶々としていました。死にたい、死にたいってずっと言っていました」
「中学生の途中まではそんなことなかったから、一番鬱々としていたのは高校時代かな」
その一方で、「ゲイを異常だ」と見做す社会に対して攻撃的な気持ちにもなっていた。
発端は、辞書で見た同性愛に関する “あの記述 ”だ。
「世の中で常識とされていることは全て嘘だって、中学生くらいから思うようにしていました」
「自分の価値観は、自分で作ってきたんです」
他の人がいいと思っていても、それをいいと思うかどうかは、ほかでもない、自分が決める。そんな風に成長していった。
「世の中のルールとか常識とかマナーとか、全部嫌いだったんです」
「そういうルールやマナー、常識を採用するかは俺が決める、ってなるから、今でもあまり常識的な動きができないんですよ(笑)」
社会は全部、嘘でできている。
そう、思っていた。
ゲイとしての居場所探し
付属の高校から、そのまま大学に進学した。
その頃、女性とも付き合ってみたが、傷つけてしまったという苦い思いが残った。
「僕は、ゲイの好みにも入らない。女性のほうがチヤホヤしてくれました(笑)」
「今は早めにゲイであることをオープンにしているから、最近はもう、なくなりましたけど」
信頼できるゲイの友だちができたのは、二十歳を過ぎてからだ。
それまでの中学生や高校生時代は、雑誌の交流欄を使ったこともあったが、自分が求める出会いとは、なにか違っていた。
「ゲイだからって仲間になれるかというと、そうじゃない。友だちになりたい人って、別にセクシュアリティは関係ないんです」
それでも、ちゃんとゲイの友だちができた。
「自分にもゲイの友だちもできるんだって思える出会いがあって、それまではゲイの中でも居場所がなかったですね」
学業の傍ら、創成期のITコールセンター業界でアルバイトをしていた。
やがて大学を辞め、アルバイトを本業として、真剣に取り組む日々が始まる。
08心のなかに引っかかる、母親の存在
母へのカミングアウト、失敗!?
大学4年、22歳のとき。両親にカミングアウトをした。
「ある程度、自分の周りには言い終わっていて、親がラスボスっぽい感じだったので、クリアしておきたいと」
「あまり覚えていないんですけど、時が来た、という感じでした」
中学生の時からの同級生、親友にも同席を頼んだ。両親もよく知っている友だちだから、心強い。
二人して、両親の帰宅を待つ。
先に父親が帰宅、自分がゲイであることを告げた。
「父親は『知ってたよ』って。ゲイ雑誌がバレてたんです(笑)」
次に、母親が帰宅。
父親は、ゲイ雑誌のことは心に秘めていたから、母親はなにも知る由もなかった。
そしてカミングアウト・・・・・・。
しかし、母親の反応に戸惑ってしまう。
「『あんたそんなことより、大学はどうするの?』ってなっちゃって」
ゲイであること、カミングアウトしたことに対する母からのリアクションは、一切なし。
なぜか、今後の進路のことで揉めてしまう。
「そのまま、大学を辞める、辞めない、の議論になってしまって」
実際、大学を4年で中退することになる。
「これがわだかまりになったのか、20代は僕、母親とあまり口を聞かなくなって。父親とはたまに飲みにいって遊んでたんですけどね」
とりあえず両親へのカミングアウトは済ませた。
それでよかった。
「ある意味、言ったという事実を作ったので、その時はそれでもよかった」
「僕、この4年後に『ニューズウィーク日本版』の表紙にゲイとして出たんですけど、そういう時に迷わなくて済む。『親に言ってないからどうしよう』とか思わないで済む。そんなベースを作れていたんです」
人材育成に目覚める、熱血社会人時代
ゲイであることをオープンにし、そのままがむしゃらに突っ走った20代。
本業の会社員に加え、学生時代から続けていたイベント、インディーズバンドのマネージャーと、3足のわらじを履いていた。
29歳のときに、転職。
地方のコールセンターの新規立ち上げ、人材育成に携わることとなる。
がんばっている後輩たちの話を努めて聞くよう心がけ、彼らが抱く複雑な感情の綾を丁寧にほどき、受け止めた。
時に無慈悲になる組織から彼らを守ることも、自分の仕事だと思った。
「こんなに頑張っているのに、なんでそんな言い方されないといけないのか、と怒るときは怒るし、褒めるときは褒める。攻撃対象になっている人がいれば、守る。よくない環境を変えようとしたり」
仕事で育まれた人間関係は、自分への気づきを幾度となくもたらす。
「ある部下と向き合っていたときに、ふと自分の中の父性と母性について、考えたんですよね。その人にとって自分は上司であり、友だちでもあるし、ちゃんと育てたかったんです」
でも、自分にそんな資格はあるのか?
「その時、自分はまだ、親のことが片付いていないと気づいて。この人を育てていく上で僕がまずスッキリしないと、ちゃんと向き合えないじゃないか」
「この人に言う前に、自分にはやることがあるって」
それは、母親という、ある種の、やり残した宿題だった。
09もっと強くなりたいから、受け止めたいから
ふたたび、のカミングアウト
一時帰京したとき、さっそく両親に会いに実家に行った。
「あの時のあの態度はなんだったんだって、母親に喧嘩をふっかけに(笑)」
「そのあとは『自分は生まれてきてよかったし、産んでくれてありがとう』って言おうと決めていて、そこで一回、スッキリしました」
いつもどこか、シニカルに構えていたはずの自分。
その思いがけない言葉に、両親は泣いた。
「恐竜が咆えるみたいに、すごいワンワン泣いて。僕が『生まれてきてよかった』と言うなんて、思ってなかったようで」
ふたりが、自分を受けて入れてくれたことは、わかっていた。
2016年には、代表を務めているNPOで、「カミングアウトデー」のイベントを企画。
両親をゲストに、自らトークセッションを敢行した。
「僕が母親を、誤解していたくらいでした。僕がどれだけ母親の連絡を無視していても、実際には全然気にしなかったらしいんです」
トークセッションで、母親の気持ちを初めて知った。
むしろ、自分が母親を誤解していた。
「母親は基本的にいつも同じスタンスで、僕のことが大好きだった。そこは僕も母親とよく似ていて、自分が好きだったらそれでいい。そこはよくわかる」
母親との間にあったかもしれない、ある種の “わだかまり” 。
それは自分が、「あるかもしれない」と思い込んでいただけのものだった。
もっと強くなりたい、もっと受け止めたい
やっぱり、家族よりも友だちだ。
その考えは揺るがない。
「もっと大事にしなければいけない人が、世の中にはいっぱいいる。
そっちに時間を割きたいんです」
そんな人たちのために、自分はどうあるべきなのか。
「もっと強くなりたかった。強くなりたいと思いながらずっと生きてきた。まだ強くなりたいし、もっと強くなれると思っている」
「それは、もっと受け止めたいからなんです」
「人の悲しみや苦しみって、もう膨大な数があって、出会っていけば出会っていくほど、そこに触れることが多くなる」
「でも、向き合っていく中で、僕がその人より強くないと、僕が疲れちゃうし、受け止めきれなくなる。だから僕はずっと強くなりたいって思って生きてきたんですよね」
人が強くなる過程の中で大切なことは、「自分をもっとちゃんと肯定すること」だった。
その人と向き合うために、もっと強くなりたい。
その気持ちが自分を、自分の家族へと向かわせた。
「基本的に、友だちに救われながら生きてきたから」
「僕が死なないでいたのは、友だちのおかげ。友だちとうまくいってなかったら、たぶん、死んじゃってたって思います」
10今、必要なのは、カミングアウトの構造分析
誰もが何かの当事者だ
今はもっと深く、カミングアウトを捉えたい。
その構造を知りたい。
「例えば、『児童養護施設で暮らしている』という話が、一段階目のカミングアウトだとすると、2段階目は『なぜそこで暮らしてたの』となるわけで、入所理由の話になる。そこには、親から虐待されていたなど、複雑で痛みを伴う理由があります」
このタイプのカミングアウトが内在させる2段階の構造は、同性愛者のカミングアウトには、あまりないものだ。
「たとえばゲイのカミングアウトの場合、『なんでゲイなの?』ってなっても、『理由がないから』と、1段階で終わるんですよね」
「カミングアウトに段階があるということも、それぞれの属性を知ったからこそ、わかったことです」
その人が抱えている体験や属性によって、カミングアウトの構造はまったく異なる。
NPOバブリングを、いろんな人たちの思いを個別に捉える団体にしたい。
だからこそ、もっと詳しく知りたいのだ。
そんなカミングアウトについての知見も、伝えていきたい。
学校の先生や児童養護施設の職員といった、実際に子どもたちと関わる大人たちに、だ。
子どもたちの生が、もっと生きやすくなるように。
時に生き方が露呈する彼らの無意識的な発言にも耳を傾け、そこに多様性はあるのか、見極めていく責務が彼らにはある。
「カミングアウトっていろいろあるよね、っていうところに気づいたけど、それを段階としてちゃんと認識していくプロセスって、まだ難しい」
「体験的にはわかっていても、言語化するまで、僕もまだできていないんです」
そこで重要なのは、むしろカミングアウトを受ける人々だ。当事者のカミングアウトに対し、非当事者はどう配慮すべきか。
これを突き詰めていくと、当事者と非当事者の明確な境界線はなくなっていく。
結局、誰もが当事者で、非当事者は存在しないという話になってくる。
「みんな何かを抱え、何かしらの立場でいえば誰もが当事者」
「その人しか持っていない経験、ストーリーがあって、それを言うか言わないかを無意識に選んでいる」
自分は普通だと思わされる社会の中で、自分のなかの当事者性に蓋をしている気がする。
自分らしく生きるためのカミングアウト
カミングアウトには振り幅があり、その人に委ねられている。
「誰かに言ったきり、その人とだけ共有して生き続けるというケースもあるし、結婚するときにどうしても言わなきゃいけない人もいるかもしれない」
「言わないまま死んでいく人もいるだろうと思う。どこまで開示するかは、その人の裁量次第だと思います」
ただ、そこで鍵となるのは、その関係をどうとらえているのかということだ。
相手のことをどう思っているか、その関係性いかんで、自己開示のあり方も変わってくるだろう。
どんな自己開示がいかにその関係に影響を与えるのかは、自分自身に委ねられている。
迷ったときは、シンプルな愛の強さを、原点にすればいい。
無償の愛とか、そんな高尚なことは思っていない。
「その人を好きだってことは、誰かに影響されるものではない。自分で自信が持ちやすいと思うんです。ただ自分が、その人のことを好き。そのことについての自信は、とにかく揺るぎない。ただそれだけ。だってそれは、自分で決められることですから」