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今よりもっと、自分を好きになる生き方に挑戦したい。【後編】

今よりもっと、自分を好きになる生き方に挑戦したい。【前編】はこちら

2019/08/27/Tue
Photo : Taku Katayama Text : Satomi Fukuihara
加賀江 恭士 / Takato Kagae

1987年、愛知県生まれ。専門学校へ進学し進路を考えた頃、自身の性に疑問を抱き、診断を受けることを決意する。新しい生活を始めるために専門学校を中退し単身で上京、性同一性障害の診断を受けホルモン治療を開始。持ち前の人当たりの良さを生かし、接客販売をメインとした仕事に多く携ってきた。現在は地元に戻り、日本初の性同一性障害等のセクシュアルマイノリティの為の認可福祉施設で管理者を務めている。

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INDEX
01 やんちゃな幼少期
02 漠然とした違和感
03 人間不信に陥った高校生時代
04 初めての彼女
05 沸き上がる将来の不安
==================(後編)========================
06 自分が何者なのかを知りたい
07 好きになることから始める
08 僕は僕でいい
09 母親への想い
10 出来ない理由をFTMであることにしない

06自分が何者なのかを知りたい

彼女の存在

住む家と仕事を決め、いよいよ上京。

自分が何者なのかを知りたい欲求は、どんどん強くなっていく。

「自分に対しきちんと向き合いたかったので、ガイドラインに沿って治療を進めることにしました」

性同一性障害の診断書が出た時は「やっと診断書が出た!」と安堵した。

カウンセリングを始めてから、一年近く時間が経過していたからだ。

「これでホルモン注射を打てるし、先のことを考えられるんだと思うと、とっても嬉しかったですね」

でも、初めてホルモン注射を打った時は、罪悪感で胸がいっぱいになった。

「親からもらった身体に傷を付けてしまった、って思いました」

ここまで進めたことは、彼女のおかげだと感謝した。

気持ちを正直に表現できない自分とは正反対で、ストレートな彼女。
考え、悩み、一緒に道を探してくれた。

喧嘩をして言い負かされることはしょっちゅう。

でも喧嘩を重ねるうち、自分の気持ちを整理して言葉にすることが、少しずつ出来るようになっていった。

「その子のおかげで、ここまで進むことができました」

彼女とは4年間付き合い、最終的には家族のような関係になる。

「もう恋人じゃなくてもいいね」とお互い話し合いをして、別れることになった。

恋人という関係は解消したが、彼女とは未だに家族ぐるみで仲が良い。

彼女の母親から姉妹喧嘩の仲裁を頼まれ、家に呼び出されることもたびたびあるぐらいだ。

面接を受けて

20歳の頃、初めて男性として仕事の出来る職場に就くことが出来た。
キャラクターグッズを販売する仕事だ。

当時はまだ改名前だったので、履歴書の書き方をどうすればいいのか悩んだ。
インターネットで調べ、別名と通称名の2枚を用意した。

面接担当者に、「こういう持病があるんですが、男として働かせてください」
とおもいを伝えた。

1週間後、担当者から合格の連絡が入る。

「あなたが嫌な思いをしないために色々と準備をするので、もう少し出勤日を待ってください」と言ってもらえた。

当時、面接官の一人は別店舗に異動が決定していた。
しかし、採用会議で「あの子を入社させたほうがいい」と熱心に推薦してくれたのだという。

「結局一緒に働くことは無かったんですけど、その人がいてくれたから働けたんだと思います」

入社当初、セクシュアリティに関して気を遣わせてしまっている感じがあった。でも時間と共にそれは変化し、職場の同僚とは屈託の無い関係になっていった。

後から聞いた話だが「入ってみたら普通の男の子だったね」と、言われていたらしい。

その仕事に就いて一番嬉しかったことは、「LGBTとかそんなの関係なしで、あなたと一緒に働けて良かった。あなただから良かった」と仲間たちに言ってもらえたことだ。

自分の存在を認めてくれる仲間。かけがえのない経験ができた。

07好きになることから始める

人生の格言

今でこそ行動的で前向きに思われがちだが、本来の自分は自信がなく、引っ込み思案
な性格だ。

メンタルが強くなったきっかけは、自分のことを好きになるチャレンジをしてきたから
だと思う。

「すぐにへこんで、喋れない自分が凄く嫌だったんです。もっと自分の気持ちを
話せるようになりたかった」

「自分のことを、誰よりも好きになりたいっていうおもいが強かったんです」

胸のうちを言葉で表現できず、溜め込んで泣いてしまうタイプ。
そんな自分を変えたいと思ったきっかけは、2番目に付き合った彼女の存在だ。

彼女はとても自信家で、「可愛いね」と言うと「知ってる!」とすぐに返してくるような女の子だった。

あまりにも自信満々な彼女に、「なんでそんなに自分のことが大好きなの?」と疑問をぶつけたことがある。

「そしたら、『自分のことを嫌っているのに、誰かに好きになってもらおうって言うのは、むしが良すぎる』って彼女から返されました」

胸にガツンと響いた。

「ほんとにそうだ! って納得してしまって。それからは、自分の嫌いな所をひたすらしらみ潰しにして、好きになる努力をしました」

未だにその言葉は自分の人生の格言で、迷ったときは思い出す。

恋愛の出会いが教えてくれたことは数えきれない。

苦手なことにチャレンジしてみる

自分を好きになるチャレンジをしていた頃、苦手だと感じることに挑戦してみようと考えた。

「弱い自分に対して、あえて傷口に塩を塗ってみるというか、ネガティブなことにとことんチャレンジしてみたりしました」

「僕は面倒臭がりなんですけど、あえて面倒臭いことをやってみるキャンペーンをやりました(笑)」

キャンペーンの一環で、ボーイとして「おなべバー」で働いてみた。

当時、「おなべ」という言葉がどうしても受け入れがたかったので、苦手意識を克服したかったからだ。

お酒を飲むことは大好きだった。でも、知らない人と飲んでもつまらない。
昼夜逆転した生活もどうしても自分には合わなかったので、すぐに辞めた。

「でも、おなべとして仕事をしている人たちは自分を売りにしていて、いい意味で開き直っててカッコイイなって思いました」

変化することを恐れずにチャレンジを重ねてみて、色んなことが分かった。挑戦したことで苦手意識を克服できた気がする。

苦手である「自分の気持ちを表現する」努力にも励んだ。焦らず、言いたいことを心の中でゆっくりと整理する訓練だ。その甲斐あってか、想いを口に出すことが出来るようなっていた。

自信が無くて泣き虫だった過去の自分は、もうそこにいなかった。

08僕は僕でいい

FTMであること

男性としてとして生活してから、たびたび疑問を感じることがある。

「FTMであることにこだわりすぎて、それが理由で色んなことが上手くいかないと考えてしまう人がいますけど、それは違うんじゃないかって思います」

そう感じるようになったきっかけは、人との出会いによるものが大きい。

「25歳の頃、知人の紹介で『富士夢祭」のイベントに参加しました』

世界中の人々の夢が書かれた何千枚というハンカチを、富士山の頂上でリングにして火口を一周するという内容だ。

そのイベントがきっかけで出会った仲間たちは、「恭士は恭士だからいいよ」と、自分の性別を全く気にする素振りが無かった。

垣根を感じさせない人たち。

「性別は関係ない、僕は僕でいいんだ」と気づかされた。

おおらかな仲間たちは、良くも悪くも屈託が無い。

「こいつ、もと女なんだよ」とアウティングされることもたびたび。

あまりに続いたので「そういう紹介、嫌なんだけど」と怒ってしまったこともあったが、その後「本当にごめん」と平謝りされた。

悪気は全くないのだろう。

自分が元女性であることを言われたからといって、何かが変わるわけではない。
一つの話題提供をした。

少しずつそう思うようになっていった。

自分の居場所

自分は、パス度が低いと感じながら日々過ごしている。
彼女とのデート中、目前で彼女がナンパされたりしたこともたびたびあった。

でも、無理に男らしさの追求をしようとは思わない。

僕は僕でいいんだ、自分の好きなようにしようと考えた。

「そもそも、周りは他人のことって見てるようで見ていないですし。僕の中で揺るがないものがあるなら、周りの言葉なんて関係ないじゃないですか」

「頑張って男らしくふるまうってことが不自然ですよね」

男性生まれの男性が、性別を意識して生活を送っているようには思えない。

「男らしくしろ」とか「女らしくしろ」いう心ない言葉とは、距離をおけばいいのだ。

「仮に、そんな風に言われてしまうような環境にいるのであれば、言われないような環境に身を置けばいいと思うんです」

「できるできないじゃなくて、やるかやらないかの話なんじゃないかと」

なりたい自分になるため、今まで環境や交遊関係を変えて色んな挑戦をしてきた。

自分が自分らしくありたいのであれば、心地好い場所を探して作っていけばいい。
そう考えることができれば、生きていくことが少し楽になるのではないかと思う。

09母親への想い

思い悩んでいた母親

男性として生きる決意が固まった18歳の頃、母親に「男として生きたい」と直球で想いを伝えた。

「一人暮らしをして、修業してくる」。そう話したが、理解ができていなかったようだった。

兄からは「もう一回お母さんにどうしたいのかちゃんと言いな」と言われ、三人で急遽家族会議をすることに。

家族会議の2週間後、すぐに家を出た。
その後10年近く家を離れ、その間も年に一度帰るか帰らないかだった。

「僕が家を出ている間、母親は悩んでいたみたいですね。周囲から『あなたが思春期の時に一緒にいて話を聞いてあげなかったから、あのこがそうなっちゃったんだ』と責められたみたいです」

ある時期、少しの間実家で生活を共にすることになった。その時、母親にきちんと話をしておかなければならないと考えた。

「お母さんが育ててくれたから、今楽しく生きてるし、友だちもちゃんといるし、仕事だって困らない。だから、お母さんが悪いわけではないんだよ、って伝えました」

もし今度、母親を責める奴が出てきたら、話に行くから気にしなくていい、とも話した。

早くに実家を出てしまった自分に対し母親は、仕事はあるのか、友だちはいるのか、嫌な思いはしていないのかと色々な心配事を巡らせていたようだ。

母親に不安を与えないよう、実家に戻ってから3日後にバイトの面接を受けて仕事を決めた。

「ほら、ちゃんと仕事見つかったんだから。働くから大丈夫だよ。って伝えました」

「それからはあっけらかんとしていましたね」

葛藤を乗り越えて

ホルモン注射を打ち、男性として変化していく自分を見ても母親は驚いているようには見えなかった。
元から男性ホルモン値が高かったので、声音もそんなに変わっていなかったようだ。

「たまに母親に電話はしていたんですけど、ホルモン注射を打った1年後に、『そういえばなんかちょっと声が低くなった?」みたいな感じでしたね』

「高校の友だちと話してても、「声が変わったような気もするけど、よく分からない」と言われました」

顔つきや雰囲気は男性っぽくなっていったが、元々ボーイッシュだったので、周囲が目に見えて驚くような様子を見ることは無かった。

女の子が欲しくて不妊治療を続けていた母親は、その事が原因で自分が性同一性障害になったのではないかと思い、悩んだ時期があったらしい。

でも、今はその葛藤を乗り越えたようだ。

母親が育ててくれたから、自分は今まで楽しく生きていくことができた。現在も幸せに毎日を過ごせている。

10出来ない理由をFTMであることにしない

FTMであることにとらわれず、一人の人間でありたい

これまでの間、自分と同じFTMの友人を作ってこなかった。
枠にとらわれず、一人の人間でありたいと強く願ってきたからだ。

「僕はFTMですけど、別にそこは重要じゃなくて。社会的ジェンダ-の立場でいえば男性でいたいけど、僕は僕でいたいっていう気持ちがあります」

「性別「俺」でいたいんです」

FTMだから就職が上手くいかない、恋愛が出来ない、分かってもらえない。
そんな発言を耳にすると、「問題はそこじゃない」と思ってしまう。

「LGBTだろうがFTMだろうが、できない理由にはならないと思うんです」

今まで色んな仕事に就いてきたが、全てFTMであることをカミングアウトして働いてきた。
理解がある職場ばかりではなかったけれど、女性扱いをされたことは無い。

それなりの信頼や役職を得て、自分らしく生きてきた。

「自信がなくても思いきって出てみる、一歩を踏み出す、目をつぶってでも良いから飛び降りてみるのが凄く大事だと思うんです」
「他の人たちがどうなのか僕は全く知らないけど、こんな一例もあるって思ってもらえればいい」

周囲に理解が無いとか歎くよりも、自分で自分で居場所を見つけに行く。

それが一番重要なことだと思っている。

広い視野の中に身を置く

自分の性に疑問を感じたり、生きづらいと感じて悩む人は世の中に沢山いるだろう。
そんな時は悩んだままにしないで、まず動いてみたほうがいい。

「いろんな人と出会ったほうが良いですし、広い世界を絶対見たほうがいいと思います」

「自分の居場所のメインを、LGBTの世界のコミュニティに留めないことも重要かなぁ」

救いの場所を求めるあまり、自分を狭い世界に押し止めていたらもったいない。
視野を広くしてほしい。そう願う。

「僕は今まで、親にも『LGBTのことを知ってほしい』って一言も言ったことが無いんです。そんなんでも、自分らしくいることはできる。LGBTとかFTMとか関係ないって自分自身で証明できていると思います」

これまで、自分の居場所を自分で作るという強い意思で色々な挑戦をしてきた。

今現在の目標は「百歳までお酒を飲んで、自分の足で遊び回ること」だ。
昔も今も、外遊びが大好きなことは変わらない。

これからも、チャレンジは続けていく。
家族、恋人、友人。大切な人たちを守れるような人間に、なりたいと思う。

あとがき
はじめは少し緊張した様子の恭士さん。お話しには熱がこもる。“あの頃” に戻ったかのように、話題が変わるたびに表情も大きく変わった。誠実な人なのだと思った■新しいコトバを誰かから受け取ったとき、感じて、考えて変わっていく恭士さんの人生物語。今は「大切な人たちを守れるような・・・」と。大切な人を守るには覚悟がいる。自分一人のときからは想像もできないほど大きなもの? でも、恭士さんの語り口は[Take it easy!]だ。(編集部)

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