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箱の底には希望が残った。傷だらけの手でつかんだ光【後編】

箱の底には希望が残った。傷だらけの手でつかんだ光【前編】はこちら

2019/09/12/Thu
Photo : Yoshihisa Miyazawa Text : Sui Toya
鈴木 翔也 / Shoya Suzuki

1992年、神奈川県生まれ。幼少期から性別違和があり、小学生のときにテレビドラマを見て性同一性障害を知る。複雑な家庭環境から、小学生の頃は、暴れたり教師に反抗したりすることが多かった。19歳のときに、FTM当事者であるいまの事業パートナーと出会い、24歳でFTM専用アンダーウェアのブランドを立ち上げる。現在は、建築業の傍ら、ブランドの認知拡大に向けて活動中。

USERS LOVED LOVE IT! 7
INDEX
01 名前の由来
02 壊れた家族
03 差し伸べられなかった手
04 強さと脆さ
05 孤独
==================(後編)========================
06 氷解
07 FTMのバスケコーチ
08 実力主義
09 人生最高の出会い
10 パンドラの箱

06氷解

将来の夢

小学生のとき、母が気まぐれに猫を拾ってきたことがある。

自分たちが暮らすのも精一杯なのに、猫なんて育てられない。
そう思ったけど、気づけば、猫はすっかり家族の一員になっていた。

「小5のとき、猫が部屋の隅でうずくまって、起き上がらなくなってたんです」

「よく見たら血を吐いてるし、ヤバいって思いました」

「母親に、病院に連れて行きたいって頼んだけど、お金がないから無理って言われて・・・・・・」

「土下座をして、『ご飯いらないから、病院に連れて行きたい。お願いします』って、頼み込みました」

病院に連れて行くと、獣医の先生から「あと数時間後だったら死んでたよ」と言われた。

人手が足りず、先生から「猫の体を押さえてて」と言われ、治療の様子を間近で見守った。

「こんなに大事に思ってるのに、自分は何もしてやれない」

「すごく悔しい気持ちでした」

「それがきっかけで、動物の命を助ける仕事をしたいと思うようになったんです」

黒髪のモヒカン

獣医になるには、学歴が必要。

そう考えて、奨学金を借り、私立の女子高校に進学した。

その高校を選んだ理由は2つある。

1つは、制服がスカートとズボンどちらも選べたから。
もう1つは、周りが女の子ばかりなら、男扱いをしてもらえるという期待があったからだ。

「中学生の頃から、重い物を動かしてほしいとか、虫が出たから退治してほしいとか、自分に頼んでくる女の子が多かったんです」

「男の子に頼むより、男っぽい自分に頼むほうが、気が楽なんですよね」

「『男扱いしてくれてる』って思えて、嬉しかったです」

男らしくなりたいと思い、高校進学後、髪はどんどん短髪に。左右を刈り上げて、モヒカンにしたこともある。

「先生には、何度も呼び出されました」

「でも、色を入れてるわけじゃないから、先生たちも怒りようがないんです」

「学校説明会とか、お客様が来るときだけは、教頭先生から『お前は絶対に出て来るなよ』って言われてました(笑)」

恋愛は一生しない

小学生のときに、性同一性障害という言葉を知ってから、自分の人生に恋愛は関係ないものだと思っていた。

中学では、3年間ずっと好きだった女の子がいたが、告白しようと考えたことはなかった。

「思い込むと頑固なんです。自分みたいな人間は、恋愛とは無縁だ、って勝手に思い込んでたんですよね」

「恋愛は、ちゃんとした体の男女がするもの、みたいな・・・・・・」

ところが、高2のとき、バスケ部の同級生の子に告白された。

女の子だった。

好きだと言われても、自分にはどうすることもできない。

「俺に構うな」と、ものすごい剣幕で怒った。

「泣きじゃくりながら、『私は手を離さないよ』って言われました」

「『私は異性愛者だよ。あなたのことは男として好きなんだ』って」

「男として見てるって伝えてくれたのは、彼女が初めてだったんですよ」

彼女とは、周りに内緒で付き合い始めた。

しかし、バスケ部の仲間にすぐバレてしまう。

「気持ち悪い、って言われました」

「部活を辞めろって詰め寄られて、2人とも退部したんです」

07 FTMのバスケコーチ

FTMかもしれない

仲間に受け入れてもらえなかったことは、悲しかった。

しかし、それほど悲観的にならなかったのは、バスケ部のコーチのおかげかもしれない。

「バスケ部のコーチをしていた方が、FTMだったんです」

「僕が入学したときに、全校集会でカミングアウトしたんですよね」

「学校の事務員として働いている方だったんですけど、カミングアウトと同時に、名前も変えたそうです」

「卒業してから『お前が入学して来たときに、今が言うタイミングだと思ったんだよね』って言われました」

コーチのおかげで、「この子もFTMかもしれない」と察してくれる先生が何人かいた。

中には、「鈴木くん」と呼ぶ先生も。

「授業中に、盲腸で倒れたことがあるんですけど、その先生が近くの病院まで連れて行ってくれたんです」

「先生が問診票を代筆してくれたんですけど、性別欄をよく見たら、男に丸がついてて」

「マジで鈴木くんだと思ってるのか・・・・・・って、痛みと笑いで、大変でした(笑)」

夢を叶えるために

高校を卒業したら、すぐに治療を受け始めようと思っていた。

「バスケ部のコーチから、病院を教えてもらっていたので、卒業と同時にカウンセリングの予約をしました」

「3月中に病院に行く予定だったんですけど、東日本大震災が起きてしまって・・・・・・」

「予約してからカウンセリングに通うまでは、少し時間がかかりましたね」

高校卒業後は、動物関係の仕事をするという夢を叶えるために、大学に進学した。

動物の看護や飼育について、総合的に学べる学校だった。

「大学が終わってから、夜中の2時までバイトしてました」

「休みは、月に1日あるかないか・・・・・・」

「奨学金も借りてましたが、学費がまかなえなかったんです」

我慢の決壊

18歳まで我慢すれば、好きなように生きられると思っていた。

しかし、学費と生活費にお金を回すと、治療はどんどん後回しになっていく。

「あるとき、何かがプツッと切れて、耐えきれなくなりました」

「道で普通に歩いているときに、涙が止まらなくなって、声が出なくなっちゃったんです」

結局、大学は1年も通わずに辞めてしまった。

「大学を辞めてから、2ヵ月くらい、布団から起き上がれずに泣いてたんです」

「今まで我慢してたのに、急にダムが決壊した感じでした」

「3ヵ月目になって、ようやく『やばい、このままじゃ食っていけなくて死んじゃう』と思って、仕事を始めました」

家には、自分以外に、まともに働ける人がいなかった。
生きるために、とにかく稼がなければいけない。

そう考えて就いたのが、鉄筋工の仕事だった。

08実力主義

男社会の中で

自分が男であるという認識に、ブレはない。

しかし、男として生きていく自信は、19歳の自分にはなかった。

「だったら、男の社会で揉まれてみればいいんじゃないか、って考えたんです」

「建築業は、きついイメージがあったから、その中でやっていけるなら、どこでもやっていけるんじゃないかなって」

採用試験を受けたときは、まだ改名する前だった。

女性が職人として入ることが、ほぼゼロに等しい業界だ。

「入社したときに、ほかの会社の人が見物に来るくらい、ちょっとした騒ぎになったんです」

「皆さん、今も僕のことを女性だと思ってるし、一時はセクハラまがいのことをされたこともありました」

「そのせいもあって、改名した今も、現場では女性名+ちゃん付けで呼ばれてます(笑)」

会社では常にマスクをして、ヒゲを隠している。

職人として技術が高ければ、性別によって何をする/しないというくくりは一切ない。

そういう意味では、自分に合っている業界なのかもしれないと思う。

「女の子なのに」

入社したての頃は「女の子なのにすごいね」と言われたこともある。

「女の子なのにこんな仕事をやってていいの?」と、おせっかいを焼く人もいれば、「女のくせにこんなの持てるの?」と感心する人もいた。

「男性として扱われないことに対して、モヤモヤはありましたね」

「だからなお、誰よりも仕事ができるようになってやる、って燃えることができたんだと思います」

「慣れてきた頃には、自分は女としての演技ができてるんだ、って面白がってたかも(笑)」

一生、この仕事を続けていこうとは思っていなかった。

同じ業種に就くとしても、一度会社を辞めて、誰も自分のことを知らない新しい場所で、男として働こうと思っていた。

そんな目論見を捨てたのは、19歳から26歳までのあいだに、さまざまな出会いがあったからだ。

09人生最高の出会い

FTMの当事者に会いたい

18歳のときに診断を受け、念願だった胸オペを終えたのは、19歳の冬。

理想に一歩近づいたとき、初めて「他のFTMの当事者に会ってみたい」という気持ちが芽生える。

「20歳になりたてのときに、初めて当事者のイベントに行きました」

「FTMの人たちが主催している、GRAMMY TOKYOっていうクラブイベントです」

新しい世界が開けるかもしれない。

そう思って会場に足を運んだが、人見知りが災いして、誰とも話ができなかった。

「人と話せるように特訓しなきゃという気持ちで、イベントに乗り込んだんです」

「でも結局は、会場の隅で、ずっと1人でポツンとしてました」

「人に絡めないのは自分のせいなのに、つまんねーってふてくされて、会場を出たんですよ」

1人で浴びるように飲み、渋谷の道路で寝ていたところ、「君、こんなところで寝ちゃダメだよ」と、警察に声を掛けられた。

ぼーっとしたまま起き上がる。

すると、横から「それ、僕のツレです。ごめんなさい〜!」と知らない声が聞こえた。

「大丈夫? 飲みに行こうね、この後」

そう行って、体を抱えてくれたのは、さっきの会場にいたFTMの人だった。

「その人とは初対面だったんですけど、助けてもらったことをきっかけに、仲良くなりました」

「それ以来、いろんなオフ会やイベントに誘ってくれるようになったんです」

あるとき、誘われて参加したイベントで、すごく男らしい人に出会った。

顔の彫りが深く、口の周りはヒゲだらけ。

「最初は、当事者じゃないと思って『当事者じゃないのに、なんで参加したんですか?』って声を掛けたんです」

「そうしたら『俺も当事者だよ!』って返されました」

「それが、いまアンダーウェアの事業を一緒にやっている、相方との出会いです」

お前を信じてるよ

イベントで出会って以来、相方とはよく遊ぶようになった。

しかし、どれだけ仲良くなっても、自分と相方とのあいだには、薄い壁があるように感じていた。

自分は、育ち方が普通じゃない・・・・・・。

「それがコンプレックスで、なかなか心を開けなかったんです」

「変な部分がバレないように、『家族仲良しで、ハッピー』みたいな嘘をついてました」

あるとき、相方から「お前は何を考えてるの? なんでそんな作り笑いするの?」と聞かれた。

頭を後ろからガツンと殴られたような気がした。
無意識のうちに、両目から涙があふれてきた。

「自分の生い立ちを、相方に洗いざらい話しました」

「両親の離婚のこと、虐待を受けたこと、自分の働きで家族を養っていること・・・・・・」

「誰かの前で、こんなに泣いたのは、小5のとき以来でした」

そうやって、壁を砕いてもらったにもかかわらず、相変わらず自分の中には頑固なしこりが残っていた。

2人で飲んでいたときに、相方に対して「俺を大事とか言われても、信じられないです。どうせ人は離れていきます」と、拒絶の言葉をぶつけたことがある。

「なんでそういうことを言うんだ」

「俺は大事だと思ってる。お前を信じてるよ」
「お前にそう言われたって手を離さないから」

泣きながらそう言われたときに、この人には絶対に勝てないと思った。

「強さは優しさだなって思いました」

「人に優しくできることが、強さなんだな、って」

「20年間かけて、ようやく学べたんです」

新しい家族

今まで、家族に誕生日を祝ってもらったことはない。
家族旅行にも行ったことがない。

普通の家族がどういうものか、映画やドラマでしか見たことがなかった。

「相方が、誕生日に『翔也、家に来いよ』って誘ってくれたことがあるんです」

「そのとき、相方は実家住まいだったんですけど、家には父ちゃんと姉ちゃんと弟がいて、『翔也、おめでとう!』と書かれたケーキが用意されてました」

「父ちゃんから『うちの新しい末っ子だな、お前は』って言われて、くすぐったい気持ちでしたね」

「家族って、こういうものなのかな、って思いました」

鉄筋工として働くようになってから、母や兄や弟を養うのは、自分の役目だと言い聞かせてきた。

自分がお金を稼げば、今からでも家族としてやり直せるかもしれない。

それを相方に話したら、「違うでしょ。愛は無償だよ」と静かに言われた。

役に立って愛されようとしたって、相手は変わらないよ。
縁を切りな、無理だよ。

「そう言われて、初めて、家族を諦めてもいいと思えたんです。俺は、俺の人生を生きていいんだ、って」

自分が22歳になったとき、弟が20歳になった。

初めて2人で飲みに行き、今まで家族に対して抱いていた思いを、弟にすべて打ち明けた。

「お母さんの嫌なところを見せないように、守ってくれてたこと、知ってたよ」

「俺はお母さんのことが好きだから、今度は俺に任せて」

「今までずっと守ってくれて、ありがとう」

今でも、母に対する恨みは消えない。
この先ずっと、許さなくてもいいと思っている。

でも、弟から「お母さんが好き」という言葉を聞いて、安心した。

自分は、弟をちゃんと守れていた。

「22歳のときに、弟以外の家族とは縁を切って、家を出ました」

「家族を捨てちゃいけないって、自分で呪いをかけてたんです」

「家を出て、本当に楽になりました」

10パンドラの箱

一緒にブランドをやらない?

相方と遊ぶようになってから、いろいろな話をしてきた。

くだらない話から、時には真剣な話も。

出会って3年目、23歳とき、相方から「実は、ずっとやりたいことがあったんだ」と言われた。

「FTM専用のアンダーウェアのブランドを立ち上げたい、って言われたんです」

「当事者1000人のうち、1人でも『これで生活が楽になった』と思ってくれたら、作る意味があると思うんだよね、って」

「お前がいたら頑張れると思うから、一緒にやらない? って誘われて、二つ返事で『やります』と答えました」

鉄筋工の仕事は楽しかった。

しかし、この先何十年も同じ仕事を続けている姿は、想像できなかった。

「相方の誘いは、将来に悩んでいた自分にとって、希望の光になったんです」

「自分と同じ当事者のために、役に立つ物を作れるのかもしれないって思うと、わくわくしました」

もう一度悲しんでもいい

相方と一緒に、ブランド「SOLUNA ESPERANZA」を立ち上げて3年。

今では、FTM専用のアンダーウェアだけでなく、レディース用のボクサーアンダーウェアや、Tシャツなどのアイテムも展開している。

「相方とは、事業を一緒にやってるから、ビジネスパートナーみたいに見られることが多いです」

「でも、自分にとっては、兄であり、恩人であり、人生のパートナーなんです」

「それくらい、大きい存在だと思ってます」

子どもの頃、18歳まで生き延びれば、その先は自由な世界が広がっていると思っていた。

ところが、自分の気持ちに向き合わない限り、過去の傷はどこまでも追いかけてきた。

痛い、寂しい、苦しい、どうして愛してくれないの・・・・・・?

「そういう思いに蓋をしたまま、ずっとしまっておくことはできないんです」

「蓋を開けて、ドロドロに腐った中身を見つめてみないと、いつまでたっても前には進めません」

「閉じていた蓋を開けられたのは、相方や、周りにいてくれた人のおかげです」

「大人になってから、もう一度悲しんでもいいんだよ、って気づかせてくれたんです」

どうにもならないことは、来世に期待

ニュースで、子どもの虐待死は頻繁に取り上げられる。

けれども、虐待から生き残った大人の証言は、ほとんどクローズアップされない。

「虐待を受けた人は、同じように虐待を受けたことがある人と、話をしたいと思うんです」

「それは、LGBT当事者が、ほかの当事者に会いたいっていう心理と同じだと思っています」

「だからLGBTERでは、セクシュアリティだけじゃなくて、親から虐待を受けたことも包み隠さず話そうと思っていました」

相方には、「お前の一番すごいところは、生きることをやめなかったことだよね」とよく言われる。

「死を選ばなかったのは、お前の強いところだよ」と。

生きていれば、誰かと出会い、人に救われる瞬間がある。
それは、自分が身を以て経験したことだ。

「僕らは手術をしたところで、男性に近くなれるだけで、100%の男性にはなれません」

「そういう、どうにもならないことは、来世に期待しようって、相方とよく話してます」

いま自分が持っている体で、日々を笑って生きていく。

人生の目標なんて、それくらいシンプルでいいんじゃないだろうか。

あとがき
“少数” のことは、誰かが話さない限り、いつまでも見えないまま。無いことになってしまう。それをしみじみと感じた。翔也さんは、荒ぶる感情をおさえて、話の終わりに必ず笑顔を添える。受け取る読者への配慮? そうでもしないと保てない翔也さん自身のおもいも滲んだ■相方さんが言った「お前の一番すごいところは、生きることをやめなかったことだよね」。取材する私たちも、それ以外の言葉は浮かばない。今日もこうして生きている。翔也さん、生きていることが目印になるよね。(編集部)

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