02 女子校で青春を謳歌
03 必要なのは妥協と主張のバランス
04 激務の日々で“突然の発病”
05 忘れちゃいけない“命”のコト
==================(後編)========================
06 絶望と生への執着心
07 自己破産からの完全復帰
08 妻がくれた治療のチャンス
09 結婚しても何も変わらない
10 誰もがフリーダムに生きるために
06絶望と生への執着心
自分を責め続け、自傷行為を
中絶手術の前だったか後だったか、記憶が曖昧だというが、派遣会社を退社し本格的に家に引きこもるようになってしまった。一年半の間、何もできなかったのだ。
「やはりいつ発作が起こるかわからない恐怖があって、外に出るのがコワくなってしまったんですよ。医者に処方された精神安定剤を飲むと心は落ち着くんだけど、体がもうダルくてダルくて。夜は発作の恐怖で眠れず、朝方になってウトウトして昼も起き上がれない。さらには、自分がこんなパニック障害で苦しんでることも、受け入れきれなかったんですよ」
“男は仕事ができてナンボ” という考えが根底にあるが故に、いつ発作が発症するかわからない怖さを抱えながらも「仕事ができない自分は、男として最低だ」という想いがあったのだ。
「そうやって自分を責めていくうちに、やり場のない苛立ちや悲しみ、苦しさで毎日毎日、寝ているか泣いているかって状態になっちゃって。その感情を自分の体にぶつけるように、自傷行為を始めてしまったんです。腕や足、お腹、あらゆるところを切りつけました」
生きたい、もう戻れないのか!?
自傷行為をしてしまう人の心理にはいろいろあるというが、大川さんはあくまで “生への執着心だった” という。
「単純に、感情の矛先が自分の体以外になかったというのが大きい。でも、やっぱりどこかで家族や友達、もしくは元カノでも誰でも気を引きたかった気持ちも強かったですね。それに、切ったあとに血がドバドバ出るのを見ていると、生きている感じもした。とにかく、毎日いろいろなところを切りつけながら、また前みたいに戻りたい、でも戻れない、どうすればいいんだと、悶々としていました」
しかし、その悶々としたなかに、以前は強く願っていた「男としてバリバリ働きたい」という想いは、もはやなかった。
「その時にはもう、鬱病も併発していつ起こるかわからない発作に怯えていたんです。毎日死の恐怖を抱えていたので、仕事どころじゃなかった。安定剤をわざといっぱい飲んで緊急搬送をされたり、人としてどん底まで落ちたという感じ。でもいつか戻れるはず、どうやったら戻れるんだろうと、ボンヤリとした頭で考えていました」
そんな絶望の淵で、救いの手が差し伸べられた。中学時代の後輩のお母さんからもらった連絡だった。
07自己破産からの完全復帰
施設ではギャンブル依存に
「中学の後輩のお母さんからの勧めで “現代の駆け込み寺” って呼ばれている施設に入ったんですよ。そこでの尼さんとの出会いが、オレの完全復活のキッカケとなったんです」
最初は施設の規則正しい生活についていけなかったが、次第に朝も起きられるようになった。他の入所者と一緒に、朝のお経を唱えられるようになっていった。また、尼さんにお経の意味を教えてもらい、お釈迦様の素晴らしさを少しずつ理解できるようにもなった。
「そういう規則正しい生活を送るうちに、発作も起きなくなって、働く意欲もわいてきたんですよ。ちょっとアルバイトもしたりしてね。でもやっぱり、不安定な気持ちがよみがえることもあって、自傷行為をしちゃったり安定剤を飲み過ぎたりも。そのうちスロットにドップリとハマり始めちゃったんです」
「バイトに行く」と、嘘をついてスロットに行き、金融会社からお金を借りては返しての繰り返し。借金は雪だるま式に膨れ上がり、最終的に400万円くらいになってしまった。
「そのうち施設に督促状が届くようになっちゃって。そこで尼さんが『もう返せないでしょう、自己破産しなさい』と。オレを見捨てることなく、どこまでもオレを見守ってくれるんだと、改めて尼さんを尊敬しました。それと同時に、もう一度、オレはこの人に認められる人間になるんだ、とも思いました」
男と認めてくれた上司からの喝
20代半ばから30代前半にかけて、本当にさまざまな困難があった。
自己破産も体験して、あとはもう這い上がるしかなかった。
「その頃はようやく “性同一性障害” という言葉も知った時期だったので、ただ漠然と、再び都内に出ればオレと同じような仲間もいるかもしれないと思い立った。“次は東京で就職先を探そう” と。そこで見つけたのが、あるIT企業だったんです」
派遣会社で働いていた時のように、「男性として働きたい」とアピールして採用決定。
ある時、仕事で失敗していてヘコんでいたら、尊敬する上司に言われた言葉が印象的だったという。
「その上司は、オレがゆくゆくは性同一性障害の治療を考えていることを知っていました。仕事のミスでヘコんでると『そんなにウジウジしてるなら、女のまま生きろ。その方がラクだ』と言われたんです。男だと認めてくれた発言だったから嬉しかった。だからそれ以降、オレはセクシュアリティがどうのこうの言うよりも、ちゃんとやるべきことをやろうと、強く思うようになったんです」
08妻がくれた治療のチャンス
第一印象は “スカした女”
IT企業で一年ほど働いたあと、実家のある静岡県にふたたび帰って、医療事務の仕事をしていた時のこと。取引先の会社に勤めていたひとみさんと出会ったのだ。
「妻の第一印象は最悪。自分が下請け会社で働いていたので『こっちは作業服着てシンドい仕事もあるのに、あの女は高い給料もらってチャラチャラした服着やがって(笑)』みたいに思って、感じの悪い女性だと決めつけていたんですよね。でも、たまたま仕事で関わって話をするようになったら、オレら下請け会社のことも、ちゃんと考えてくれる良い人だって気づいて。オレ、仕事ができてめっちゃシッカリしてる女性が好みだから(笑)」
ひとみさんの印象がガラリと変わってからは、好きになるのも早かった。
「オレって、好きだと思ったらすぐ告白しちゃうんです。でも最初は『付き合うことはない』って断られて。その後、何度も呼び出していろんな話をしました。絶対に落としたるって思いで(笑)。そして、しばらくして妻から『一緒にいて楽しければいいかな』って言葉をもらったんです。それからすぐに付き合いましたよ」
治療費を出してくれた妻
付き合いだして1ヶ月ちょっとくらい。
「オレはいずれ性別適合手術をして結婚したいと思ってる」と、思い切って打ち明けた。
「そうしたら、妻は治療のことを自分のことのように考えてくれて、『費用を立て替えてもイイよ』とまで言ってくれたんです。情けない話だと思いますが、オレはどうしても男になりたかった。何を言われようと、妻がくれたチャンスを逃したくなかったんです」
そして2012年、性別変更に向けて治療を開始。
海外での手術は日本語が通じないことへの恐怖や手術料金が格安であるがゆえの危険性も考え、どうしても国内で手術をしたかったという。
日本では現在も、ホルモン治療や手術ができる病院の選択肢は少ない。大川さんは日本でも最も執刀経験数が多いといわれている病院を選択した。
カウンセリングを受けて心理検査をしたあと、ホルモン注射をして乳房切除、卵巣と子宮を摘出するFTM性別適合手術を受けた。
「妻には頭が上がりません。本当に感謝しています。彼女がいなければ、手術を受けることはなかったかもしれない」
手術を終え、戸籍上の性別も女から男に正式に変更し、2013年8月12日に入籍。そして9月4に結婚式を挙げた。最高に幸せだった。
09結婚しても何も変わらない
もとは女だった事実は消せない
結婚して何を得たか?
「それは家族です」と即答する大川さん。一方で、何か変わったか? という問いには「何も変わってない」と答えた。
「戸籍上では男に変わったけど、かつては女だった事実が、周囲にバレずに済むことは今もないから。例えば、病院でカルテは男でも、裸になれば元々は女だったとバレる。これはつい最近の話だけど、人間ドックを受けようとクリニックに問い合わせて、オレは男性がん検診と女性がん検診のどっちを受ければ良いんだ、とかね。子宮も卵巣も胸もないから、それに関するがんのリスクはないけど、前立腺もない。クリニックからは『折り返し回答いたします』と言われたきり、まだ電話はありません」
続けて、断言した。
「治療したって全部がしっくりすることなんかない」と。公共の男性トイレに入って立ちションはできるのか、銭湯に堂々と行けるのか、日常生活のなかでは女であった事実に直面することもある。
また、こんな意見も聞かせてくれた。
「オレは治療した側の人間ではあるけど、安易な治療には反対です。治療する前から男として生きて行ける環境を構築した上で受けるべき。環境づくりとは、周囲へのカミングアウトはもちろん、職場への説明が大切です。そのような環境をつくらないまま、治療に踏み切ってしまったら、就職先が見つからずアルバイトにしか就けないような事態に陥ることもあります。望まない状況があるなら、それは避けたい」
そして、こうも続けた。
「あ、変わったことあるわ。男性ホルモンを打ち続けてるから髪が抜けて、オデコが広がってきた(笑)。ヒゲも生えたり白髪も増えたり、日々オッサン化してますよ」と豪快に笑う。
夫婦で話し合った子どものこと
「子どものことも、ものすごく考えました。オレらの場合、特に妻が子どもを欲しいと思っていたから。そこは結婚前からずいぶん話し合いました。妻は率先して大学の先生に人工授精に関する話を聞きに行き、真剣に考えました。でも妻も40代で、妊娠出産するには高齢だし、あらゆるリスクを考えて断念したんです。妻はオレのしたいことを実現してくれたのに、オレは妻の夢を叶えられない。悔しくて、申し訳ない想いもある。とりあえずは、オレの妹の子どもが3人いるから、その甥っ子たちをかわいがろうと。たまに子育てにも参加させていただこう、って話に着地したんです」
また、こんな想いもあるという。
「将来目指す仕事に向けて、まだオレが準備をしている段階ですから、子どもを養えるほどの収入はない。だから今後もし、どうしても子供がほしくなったら・・・・・・ その時は養子をもらってもいいんじゃないかって」
10誰もがフリーダムに生きるために
大切なのは、実社会で居場所を得ること
「こんなこと言うとブーイングが起こるかもしれないけど」と添えたあと、静かに続けた。
「オレはLGBT系のNPOには属していないんです。もちろんオレも、LGBTの理解が深まる社会になれば嬉しいと思ってるけど、自分がしたいこと、実現したいことに近づくために団体に所属するっていうのは、必要ないと感じているんです」
LGBTへの理解を深めるための動きは、今すでに実名も顔もオープンにして、ブログをはじめとした活動をしている。
「自信を失くしてしまっているかもしれないLGBTたちを勇気づけることも大事だけど、ちゃんと社会に出ていけるように、それぞれが自立することも大事なんだと思います」
しかし、自己を確立させた大人であればいいが、自分への自信を失い、苦しみ悶える10代のLGBTERたちにとって、同じ悩みを抱える人たちのコミュニティに参加することは、得られる安心感や生きる力を取り戻すキッカケになることも確かだ。
「若い時の居場所探しとしてのコミュニティは良いと思う。『この悩みを抱えるのは自分だけじゃない』と安心したり、勇気づけられたりすると思う。だけど、この世の中で生きて行く以上は、どうしたって実社会に適応できる能力、例えば定職に就くとか、世の中に認められるとか、が絶対に必要です。自分のセクシュアリティを社会に認めて欲しいと権利ばかりを主張する前に、認められる人間になるための行動をしなければ、と思うんです」
実社会での安定した居場所があってこそ、LGBTコミュニティでの心地よさも心底感じられるのではないかという。
オレ流カウンセリングの構築
大川さんは今、カウンセラーやコーチング、トレーナーとして独立するために勉強中だ。
「すでに、カウンセリングというか悩み相談をやっているんです。ここ1、2年は経験を積む意味でも無料でやってきたけど、今後は有料化したいと思っています。カウンセリング資格にはいろいろありますが、自分はそこにこだわってはいません。現在受けているコーチングの師匠が、もともとはある裏社会にいた方なんですが、やはり教本上ではわからないことがたくさんあると教えてくれました。オレは実践的なカウンセリングがしたい。今、そのオレ流を構築している最中なんです」
目指すのは、セクシュアリティの垣根なく、誰もが受けられるカウンセリングだ。
「今はLGBTの方が多いけど、将来的に対象者にはこだわってはいません。オレのモットーは『誰もが自分らしく生きていくことのできる社会をつくる』こと。そこに、男も女もセクシュアリティも関係ないでしょう!」
ハキハキと話し、時に豪快に笑う。まるで少年のよう。
ランドセルに違和感を感じた幼少期から、「イヤだと不平を言うよりも、毎日が楽しくてランドセルの色なんて忘れてしまってた」という明るさや、社会人のスタートだったスイミングスクール入社の時も「女性用水着は着るのがイヤだったけど、自分が就きたい職業だったから」と、自ら心に折り合いをつける柔軟さをもつ。
“動かないと答えはでない” “やると決めて自分を動かす” どれも、ひたむきに重ねた大川さんの歴史だ。目の前の人ととことん向き合いながら、時に熱い火を注ぎ入れ、そして穏やかに包み込む。そんな大川さんに心を打ち明け、課題を乗り越えたいと訪れる人が、これからも待っている。