02 末っ子として可愛がられた子ども時代
03 男子に敗北感を憶えた小学3年生の頃
04 憧れとはかけ離れていく自分の体
05 思いが溢れ出て、初めての告白を
==================(後編)========================
06 女子寮の大浴場で、体を見られることの耐えがたさ
07 レズビアンじゃない、性同一性障害なんだ
08 愛する人との出会い、交際、そして別れ
09 ようやく降りたGIDの診断
10 FTMとして、身近な人に積極的に情報発信したい
06女子寮の大浴場で、体を見られることの耐えがたさ
親元を離れ、家から離れた高専に進学
中学卒業後は、コミュニケーション情報学科のある高等専門学校に入学した。
パソコンを使ったデザインや情報処理のほか、ビジネス英語も学ぶことになる。
「中学3年生の頃、パソコンが世の中に浸透し始めて。自分もどうしても欲しかったんですよね」
「そんなときに高専の案内を見たんです。入学したらパソコンを買うことが絶対条件でした」
志望したのは、地元から離れたいわき市にある海の近くの学校。
「入学すれば、寮に入らなければならなかったけど、パソコンを買ってもらえるし、その上幼い頃から海に憧れていたので、高専の条件は願ったりかなったり(笑)」
反対する父親を説得し、受験。
無事合格する。
女子寮で「お風呂問題」に直面する
高専に入学して入った女子寮は2人部屋だった。
「ルームメイトは、あまり女の子っぽい人じゃなくって、そこがよかったんだろうと思います。って言うと、その人に失礼だけど(苦笑)」
「キャピキャピしてなくって読書したり絵を描いたり、淡々とした人。干渉してこない女の子でしたよ」
女子寮に入ってすぐに直面したのは「お風呂問題」。
風呂は大浴場。
女子寮なので当然女子と一緒に入浴しなければならない。
「自分の体を見られるのが嫌で苦痛でしかなかったです。だから毎日、なるべく最後のほう、人が少ない時間を狙って入りました」
中学時代は、水着になることさえ嫌で「生理中」「腹が痛い」と毎回嘘をついて水泳の時間をサボっていたのに。
風呂では水着どころか裸にならなければいけない。
耐えがたい辛さが積み重なっていく。
恋愛対象をルームメイトに告白
精神的に相当辛くなり、ある日入浴が苦痛であることをルームメイトに相談した。
それをきっかけに「どうも女の子が好きっぽいんだよね」と、自らの恋愛対象についても打ち明けるように。
「特に驚いた様子はなかったです、彼女。『そうなんだ~』『いいんじゃないの~』みたいな返答でした」
自分の恋愛対象が女の子であること。
実は中学の頃にこっそりと姉に打ち明けたこともある。
当時女子高に通っていた姉からは驚きも否定もなく。
「うちの学校にもそういう子、いるよ」と教えてくれた。
「そんなのおかしい」という否定的な言葉を、姉やルームメイトから投げられなくって良かったといまならわかる。
だけど、思春期は誰かからの愛が欲しくてたまらない時期だ。
ほしかったのはそういう反応じゃなかった。
「男として扱われたかったんでしょうね。『じゃあ頑張って告白しなよ』っていう背中を押す言葉や応援する姿勢を求めていたのかもしれません」
「だからそういう反応には納得できずに、ストレスも溜まっていって」
誰かとつきあいたい。
好きになってもらいたい。
成就しない恋愛に葛藤する日々の幕開けとなる。
07レズビアンじゃない、性同一性障害なんだ
自分はレズビアン。そう思いこんでいた時代
高校生では携帯を使って、出会い系サイトで相手探しを始めるようになる。
「自分はレズビアンだ、と思いこんでました。一度、レズビアンの女の子と写真を交換したことがあるんだけど、その子から『なっちは(レズビアンとは)違うと思うよ~』と言われて」
「『違うってなに?じゃあ自分はなに?』と戸惑って、また自分のことがわからなくなったり・・・・・・」
「好かれたい、つきあってみたいという気持ちが強くて。ものすごく苦しかったです。だから高校の頃のことって覚えてないことも多くって」
「辛すぎて、記憶を抹消してるみたいなんですよ、自分で」
自分の性別違和について考えるよりも、とにかく誰かと恋愛したい、その思いばかりが膨らんでいく。
「好き」という気持ちが止められなくなり、同じ高校の女の子に合計3回告白したこともあった。
「『好きだよ』っていうと、毎回『うん、私も好きだよ』って返される。どう頑張って思いを伝えても、結局は女同士の好きとしか受け取ってもらえなかったんです」
決して受け入れてもらえない気持ち。
だんだんと人を好きになることが怖くなっていった。
成就しない恋、体の悩み。ストレスに押しつぶされて・・・
あまりに毎日がつらかった。
学校内のカウンセリングルームに行ったこともあった。
性別違和、実らない恋愛、誰にも受け入れてもらえないんじゃないかという恐怖。
けれど、その先生には性別違和や性同一性障害についての知識がなかった。
そのため、何度カウンセリングを受けてもなにひとつ解決することはない。
ただ苦しくて苦しくて、辛くて。
神経がどんどん衰弱し、5年制の高専を3年で退学することを決断する。
『3年B組金八先生』で性同一性障害がテーマに
神経衰弱、うつに似た症状。
しばらくは実家から心療内科に通う日々を送った。
ちょうどその頃、テレビで連続ドラマ『3年B組金八先生』が放送されていた。
性同一性障害の鶴本直を演じた上戸彩を観ながら「自分も学ラン着て、卒業式に出席したかなぁ」と強く感じた。
ドラマを観て溢れ出た思いをきっかけに、母親に女の子であることの違和感を告白。
これまで感じてきた悩みや辛さ、気持ちをすべてさらけ出した。
「このあたりも記憶を抹消していて・・・・・・。詳細は思い出せないんですけど、母親が『体のオペはしてほしくない』と言ったことだけはなんとなく憶えてるかな」
性同一性障害・GID。
そのキーワードをもとに検索を繰り返して発見した、埼玉医科大学病院。
母親と共に通うことを決めた。
しかし、大学病院の診断はとても慎重で、長く時間がかかる。
通えども通えどもGIDの診断がおりないことに当時は耐え切れず、病院から帰ると母親にすべてのストレスをぶつけて当たり散らし、荒れた。
結局、18歳から2年通ったものの、短大生の頃にはいったん通院を中止することを決めた。
08愛する人との出会い、交際、そして別れ
両親と共に性別適合手術を行う病院へ
埼玉医科大学病院への通院を中止したあと、実際に性別適合手術(SRS)を行う病院の意見も訊いてみたいと、池袋のオペができる美容外科へ。
今度は両親が揃って病院に付き添ってくれた。
診断がおりてないので、もちろんオペはできない。
それでもその時に診てくれた先生は親身になって話を聴き、性同一性障害について書かれた一冊の本を勧めてくれた。
すぐにインターネットでその本を購入、父親に理解してもらうために「これ、読んで」と言って渡した。
「父親は『小さい頃から男の子っぽいところはあったかもしれないけど、男だと思ったことは一度もなかった』とカミングアウト直後は話してたんですけど。でも段々と理解してくれたみたいです」
3年前に結婚した奥さんとの出会い
SRSを行ったのは30歳を少しすぎた頃のことだ。
20歳で一度中断していた通院を再開した理由は、8歳年上の妻との長くて激しい恋愛が関係している。
「奥さんとは、最初の会社を辞めたときに通っていたポリティクスセンターで知り合ったんです」
「はじめの印象はあまりよくなかったんですよ。愛想笑いする人、みたいに思えて(笑)」
センター内で彼女はとにかくよくモテていた。
自分はそれを「あの愛想笑いを見抜けずに、あいつらバカだな」と、どこか冷めた目で見つめていた。
ある日、二人で話す機会があった。
「自分の姉がマツエクのサロンを開いてたんです。奥さんに何気なくその話をしたら、興味があるって言うから」
「『客をひとりキープできた』と思って(笑)。姉のサロンに連れていったんです。そのときに、初めて二人っきりでいろんな話をして」
「7年以上もパティシエとして頑張ってたって話を聞いて、急に見る目が変わったんですよ。『職人かよ、すげえっ!』って」
「その頃の自分は、カフェ経営に憧れてたこともあって話がはずんで。目の前の奥さんの笑顔を見て一気に好きになっちゃいました」
「それまでは愛想笑いと思ってたくせにね(笑)。一対一で笑顔を向けられると、もうコロっと」
彼女は男性としかつきあったことのないストレートの女性。
最初は自分のことを妹のように見ていたが、懸命に思いを伝えるうちに気持ちが通じ合うようになった。
好きな人とはじめて暮らす
ほどなくして彼女の実家の隣に部屋を借りて、同棲生活をスタートさせる。
実家にもたびたび遊びに行き、ご両親との仲も良好だった。
しかし、交際して2年が経ったあたり。ちょうど倦怠期も重なって激しい喧嘩を繰り返すようになる。
お互いが激しく怒鳴りあい、体力を消耗してへとへとになるような毎日。
「それでもそこから3年以上続いたんですけど・・・・・・。結局は別れることになって」
「原因はいろいろあるけど、向こうの親御さんに自分がきちんとカミングアウトしなかったことが大きいです」
ご両親は初対面から自分のことを、男性だと疑わずに接していたのだ。
彼女もいつも「男性だと思ってつきあってるよ」と話してくれていた。
だからこそ、ふたりの間では結婚の話も出ていたし、きちんとご両親にすべてを話してカミングアウトする約束も交わしていた。
でもいざとなると、どんな反応をされるのかという怖さが先に立ち、ご両親へのカミングアウトをためらい続けた。
その状態で5年が過ぎた。
「最後は双方の家族を巻き込んでの別れ話になっちゃって。けっこう大変でした(苦笑)。結局は向こうの親御さんにカミングアウトしないままで」
「でも、別れたあとに、このままじゃダメだ、自分のセクシュアリティともう一度ちゃんと向き合わないと、って思い直したんです」
今度こそ、の思いを胸に抱き、再び埼玉医科大学病院へ通院する日々が始まった。
09ようやく降りたGIDの診断
性同一性障害で悩む人たちの掲示板で受けたアドバイス
再び通い出した病院だったが、やはりGIDの診断はそう簡単におりなかった。
「診断がおりないことを掲示板で相談してたんです。そしたらある年下の人が『免許と同じだから、おろしてもらえばいいんですよ』とアドバイスをくれたんです」
「免許をとっても絶対に車に乗らなければならない、ってことはないですよね?つまりはそれと同じだと」
「診断ついたからって絶対に手術を受けなければならないことはない、と言われたんです」
その言葉がなぜかしっくり腑に落ちた。
「それでようやく先生にもはっきりと言えたんです、『先生、これだけ長く通っているんだから、そろそろ診断をおろしてください』と」
それをきっかけにGIDの診断がついた。
セカンドオピニオンを取ったのが、28歳の頃だった。
再び大きくなる彼女への思い
手術を受ける手配が整った頃、意を決して彼女の実家へ挨拶に行った。
結婚の許しを得るためだ。
「別れたあとも、彼女とはすっぱり縁が切れたわけじゃなかったんです。その当時の彼女の仕事を自分が手伝っていたこともあって、いろいろ頼りにされたり相談に乗ったりと」
「ところがあるとき、自分じゃない違う男との仲を相談されたんですよね」
別れたはずなのに、激しく気持ちが揺らいだ。
彼女を失いたくない・・・・・・。
その感情がどうしようもないほど大きく膨らんでいく。
30歳でSRSを受け、戸籍を変えて結婚へ
「今度こそ結婚しよう、やり直そうと言って。それでようやくSRSを受けられる、となったときに、すべてを話すために向こうの実家に行きました」
自分は女性であること、性同一性障害であること、それをお父さんお母さんに告白できなかったために一度は別れてしまったこと。
別れた後に通院して診断が降り、いま性別適合手術を受けるメドがついたこと。
すべて話した。
そして、手術を受けたら戸籍を変えてお嬢さんと結婚したい、とも。
「お父さんからはものすごく怒られました。それは実は女性だったから云々じゃなくって、一度別れると言ったのに陰でちょくちょく会ってた、というのが許せなかったみたいです」
「お父さんは優しく朗らかな人で、それまでは一度も叱られたことなんてなかったから、びっくりしました」
それでももう逃げるわけにはいかない。
平身低頭で言葉の限りを尽くし、説明と釈明を続けた。
晴れてお父さんの許しをもらい、結婚したのは2014年8月のことだった。
10FTMとして、身近な人に積極的に情報発信したい
「智子」ではなく「智」になります
手術が終わって、あんなにも自分を悩ませた胸の存在を気にしなくてよくなった。
大きなストレスからの解放だった。
小さな頃は大好きだったのに、体が成長するにつれて苦痛になったお風呂。
いまではまた大好きになり、温泉にものびのびと入れる。
もっと早く手術をして戸籍を変えたかったという後悔はある。
若いときに、男の子じゃないとできない経験はあったはずだから。
カミングアウトした当初はSRSを反対していた両親も、自分の話を聞き、病院の先生に説得されるうちに考えを変えてくれた。
いまは「智子」ではなく「智」と呼んでくれている。
ありがたい驚きもあった。
兄の結婚式の二次会で、家族・親戚一同が集まったその席で、姉が父親に後押しをしてくれたのだ。
「お父さんから、智子の手術のこと話してあげなよ」と。
父親はみんなの前で話した。
「智子は手術を受け、戸籍を変えて男になります。名前は『智』になります。これからはそう呼んでやってください」。
その日を境に、親戚中が「智」と呼んでくれるようになった。
異文化体験で実感できること
LGBTのことで悩んでる人、そうでない人にも、若い世代に伝えたいメッセージがある。
それは、チャンスがあれば海外に行ったり、海外に行かずとも外国の人となるべくたくさん接してほしい、ということだ。
「いま自分はゲストハウスを営んでいますが、海外からのゲストと接していると、世の中にはほんとにいろんな人がいるんだなと、しみじみ実感するんです」
「自分自身、過去に海外に留学したことで、自分は自分でいいんだ、誰とも比べなくてもいいんだ、と考えられるようになりました。大きな収穫でしたね」
「ぜひ、若い人たちにはどんどんそういう体験をしてほしいな」
こんな自分でもできることがあれば
いまはLGBT啓発のための活動も行っている。
3、40人の教育関係の人の前で講演をしたり、スクールカウンセラーを通して、学生の悩み相談を受けることもある。
「世の中には、カッコいいFTMの人がたくさんいる。でも自分はそんな風には生きられないと思うんですよ、けっこうポンコツだから(笑)」
「自分なんかが、表立って活動なんてしなくていいんじゃないかな、と葛藤したこともありましたけど・・・・・・」
「でも最近あるカメラマンの人に『セクシュアリティの話を聞かせて』と言われたことがあったんです」
「取材を受けたんですが、そのときにアウトプットすることの重要性を痛感しました。それをきっかけに、もっといろんなことを勉強したい、FTMとして発信もし続けたいと思うようになりました」
こんな自分でも、話をすることで誰かの背中を押してあげることができるかもしれない。
あまり立派なことは言えないかもしれないけれど、それでも発信し続けていくことに、きっと意味がある。いい男にならないとだめだ、なんて肩に力を入れてカッコつけなくてもいい。自分は自分のままでいい。悩みぬいた過去があったからこそ、いま心からそう思える。