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カミングアウトの瞬間 心が脈を打った【前編】

中国のアンティークだという、金彩が施された朱色のキャビネットは、オリエンタルな家具が揃うファーブルさんのご自宅のインテリアのなかでも、ひときわ目を引いた。「これはたぶん、最初に買ったオリエンタルな家具じゃないかな。母に言わせると、僕のインテリアの趣味は母譲りらしいです(笑)。あ、この人形は母とのプラハ旅行で買った人形なんですよ」。8歳から母ひとり子ひとりで暮らしてきたファーブルさん。話の端々に、お母さんへの愛がにじみ出る。対して、お父さんには長く複雑な思いを抱いていたようだ。自分が、お父さんと同じゲイなのかもしれないと気づいてしまった瞬間から、強く。

2015/10/27/Tue
Photo : Mayumi Suzuki Text : Kei Yoshida
オリビエ・ファーブル / Olivier Fabre

1967年、パリにて日仏クオーターの母とフランス人の父との間に生まれる。2歳のときにインドへ移住したのち、8歳で両親の離婚をきっかけに母親とともに日本へ。12歳のときに、父がゲイであることを知る。高校卒業後、イギリスの大学に進学。卒業後はロンドンと東京の新聞社でアルバイトをしたのちに、東京の出版社に就職。現在はトムソン・ロイター・マーケッツにて、ロイター・テレビジョンのシニア・プロデューサーを務めている。

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INDEX
01 家族3人で暮らしたインド
02 もしかして男の子が好きなのかも
03 いじめられっこがモテモテに
04 サドゥーとなった父との再会
05 やっと出会えた“運命の女性”!?
==================(後編)========================
06 父と同じゲイにはなりたくない
07 心の扉を開くスイッチ
08 大好きな母へのカミングアウト
09 LGBTも働きやすい職場に
10 包み隠さず、自分は自分であれ

01家族3人で暮らしたインド

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思い出は楽しいことばかり

日本とフランスのクオーターのお母さん、フランス人のお父さん。パリで観光業に従事していたふたりの間に生まれたのがオリビエ・ファーブルさんだ。しかし1968年5月、1歳のときに五月革命が起こり、フランスの観光業は大打撃を受ける。職を失ってしまった一家は、インドへの移住を決めた。

当時は、ビートルズの『Sgt Pepper’s Lonely Hearts Club Band』に象徴されるヒッピーカルチャーが大流行。インドやアフリアなどの部族衣装のデザインを取り入れたファッションが、若者からの人気を博していた。かねてよりファッションに興味があったお父さんは、インドでアパレル業をスタートさせたのだ。

「2歳から8歳まで過ごしたインドの思い出は楽しかったことばかり。週末は誰もいない美しいビーチで泳いだりとか。南インドのチェンナイのあたりは穏やかな気質の方が多くて、とてものんびりしていたんですよ。あ、でも、ひとつだけ嫌な思い出がありました。通っていた学校では白人は僕だけだったので、目立っていたせいか、クラスの劇で女の子の役を演らされたんです。なんで僕が……って。今思い出すと笑っちゃうんですけど」

インドで過ごしたのは8歳まで。インドを離れることになった理由は両親の離婚だ。現地での生活に馴染めなかったお母さんが、とうとう我慢の限界に達してしまったのだという。

母ひとり子ひとりの東京での暮らし

まずはフランスへと戻った、お母さんとファーブルさん。しかし1975年当時のフランスはオイルショックの影響を受け、なかなか仕事が見つからない。そんなとき、日本に住む母方のお祖母さんから、インターナショナルスクールでの教師としての仕事を紹介してもらい、東京にやってくることとなった。

しばらくは、お祖母さんと、その再婚相手の男性と4人で暮らしていたが、やがてお母さんとふたり、六本木で住むことになった。

「そのころの六本木は、今のイメージとまったく違って、そのへんで普通に子どもが遊んでいたりしたんですよ。僕もよく道端で遊んでいました。小さな焚き火をつくったら、警察が来てしまってビックリしたりとか(笑)」

そして、都心のインターナショナルスクールに通い出し、さまざまな人と出会うなかで、いろんな思いが交錯する思春期が始まった。

02もしかして男の子が好きなのかも

ドキドキする気持ちを打ち消して

性に対する初めての違和感は12歳のころ。夏休みにフランスに行ったときのことだ。同年代の従兄弟と遊んでいるときに、ドキドキする感覚があった。

「エッ、なにコレ……って感じでした。自分は男の子なのに、男の子にドキドキするなんて。もしかして僕、男の子が好きなのかな。でも、この感覚はよくないものだという気持ちも強かったことを覚えています」

この感覚はよくないものだ、という気持ち。それは、あることに起因する。

「母が友だちを呼んで家飲みをしていたときに、話している内容が聞こえてしまったんです。父がゲイだってことを。母は決して父のことを悪く言いませんでしたが、僕のなかで父は、母を幸せにすることができずに悲しませた人。父のようになりたくないという想いが、常にあったんです。男の子が好きなのかもしれないと思ったときにヤバイと感じたのは、父と同じになってしまうことを恐れる気持ちがあったんだと思います」

しかし実は、インドを離れてからお父さんとファーブルさんは文通を続けていた。内容はおそらく取り留めのない日常の話。それでも、確かに親子をつないでいた絆だった。その文通も、お父さんへの拒否感が強まったこのころ、プッツリと途絶えてしまう。

さらにはある日、すこし年上の女の子から「胸が膨らんできたから触ってみて」と言われたときに、まったく興味がもてなかったという経験も、その拒否感を膨らませた。女の子に興味がもてなくて、男の子にドキドキする。それは、あってはならないことだった。

オカマと言われるたびに

そして中学校へと進学。容姿が目立つファーブルさんは、たびたびいじめの標的となった。

「まず、名前のことでからかわれましたね。オリビエという名前の男子がほかにいなかったこともあって、オリビアという女の子の名前で呼ばれたり。ファーブルという姓も発音しづらいので、ファブから転じてファグ(オカマ)って言われたり。そのたびに僕が大声で泣いたりするもんだから、余計に周りがエスカレートしちゃったみたいで。でも、友だちもいたので、ひとりで抱え込むこともしなくて済んで、救われた部分もありました」

お父さんと同じく同性が好きなのかもしれないという自分のなかの疑惑と、周囲の“オカマ”という言葉に対する反発。複雑な想いを抱えたまま、ファーブルさんは高校生となる。

03いじめられっこがモテモテに

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女の子と付き合わなければ!

高校生になった途端に、色恋に目覚め始める男子たち。お母さんが女子校に勤めていることから女子の知り合いが多いファーブルさんは、男子校の同級生に一目置かれる存在となっていた。同時に、いじめもパッタリと終了した。

女子から告白されることも何度かあった。「年頃の男子は女子と付き合うもの」という思い込みから付き合ったりもした。しかし、なかなか続かない。

「恋人として女子と付き合うというよりも、友だちとして普通に遊んでいる感じでした。一緒に買い物に行って、『このドレス、似合うけど、色はこっちじゃない?』とか」

なかでも仲がよかったのが、イギリス人とのハーフの同年代の女子。広尾の有栖川公園を散歩したり、渋谷のクラブに遊びに行ったりしていた。

「ある日のクラブからの帰り道で、彼女からキスをされたんです。だけど、お互いに、ン? なんか違うよね? って。仲はいいけど、恋愛対象じゃないなとふたりとも思ったんです。その後、彼女は高校卒業前にイギリスに帰ったんですが、僕がイギリスの大学に入ったので、また再会することになり、カミングアウトした今でも仲のいい友だちです」

女子に憧れる、でも男子も気になる

大好きな友だちだけど、恋人じゃない。その関係性を明確にする出来事がやがて起きる。

「実は、彼女もフランス人の女性とパックス(連帯市民協約)を結んだんです。パーティのときは、僕もお祝いのスピーチをしましたよ。『彼女は僕の最初の彼女で、これが僕の今の彼氏です』ってパートナーを紹介したりして。すごい複雑ですよね(笑)」

高校時代、その彼女以外にも好きになった女子がいた。生徒会長を務め、モデルもやっている彼女は、ファーブルさんの憧れの人だった。週末に一緒に出かけたり、詩を書いて彼女に贈ったり、甘酸っぱい関係だったが、結局告白することもなく終わった。

また、気になっていた男子もいた。しかし、やはり、その気持ちを認められない自分がいた。「彼が自分よりカッコイイから、僕は彼を妬んでいるんだ。妬んでいるから気になって仕方がないんだ」と、そう思い込むことでゲイかもしれない自分を否定していたのだ。

04サドゥーとなった父との再会

父の態度がすこしウザかった

高校を卒業して、イギリスの大学へと進学。お母さんの大親友とパリで再会したときに、お父さんの話になった。

「お父さんと最後に話したのはいつ? って聞かれて、12歳のころかなって答えたら、それはダメでしょって。その場で、おばさんは父に電話をかけて、僕にハイッて手渡したんですよ。出てみると、父とつながっていて。それで、久しぶりに会うことになったんです」

お父さんは今でも、インドでアパレル業に従事していて、同時にヒンドゥー教の修行僧サドゥーとしても活動している。離婚して、どん底に陥っていたときに、ヒンドゥーの教えに救われたのだそうだ。

お父さんの故郷である南フランスの街で再会したとき、久しぶりすぎてすぐにはお父さんとはわからなかったとファーブルさんは言う。しかも、会話はかなりギクシャクしていたと。

「僕がチョコレートを食べていたら、父が『チョコレート好きなの? 俺も大好き。やっぱり親子だね〜』って言ってくるんです。一生懸命歩み寄ろうとしてくれていたんだろうけど、僕にはそれが逆にウザくて」

それでも、別れるころにはどうにか打ち解け、その後も連絡をとりあうことになった。

父とインド人のボーイフレンド

「大学在学中に、父を訪ねてインドに行ったこともありました。インドで暮らす父の姿を見て、ようやく僕も、父は悪い人ではないと思えるようになりました。大人同士の事情も理解できるようになってきたこともあって。きっと、父は父で、母は母で、お互いに離婚してよかったんだろうなと納得したんです。長年抱えてきた自分のなかのモヤモヤが晴れた気がしました」

インドを訪れたとき、お父さんの横にはインド人の男性がいた。ボーイフレンドだった。やはりお父さんはゲイなのだと理解した。

お父さんへのわだかまりは解消されつつあったが、自分のセクシュアリティについては、まっすぐに受けとめることはできないままだった。

自分は男性が好きなわけではない。まだ、“運命の女性”に巡り会えていないだけなんだ。

05やっと出会えた“運命の女性”!?

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マスコミ業界の道へ

日本の新聞社でのインターンシップのために1年休学し、さらにフランスの徴兵制度のために1年間休学したのちに、大学を卒業。インターンシップの前にロンドンの新聞社でのアルバイトもしており、徐々に、マスコミ業界への興味が高まっていた。そこで、まずは東京の出版社に就職し、ビジネス誌の編集をすることになった。

海外記事の翻訳チェックや英語での原稿執筆を2年間担当したのちに、知り合いの女性が働く通信社のロイターへ転職することになった。

「ロイターを紹介してくれたのは、大学時代のクラスメイトだったんです。サバサバしていて、とっても負けず嫌いの人で。一緒にお酒を飲みながら、世界の首都をどれだけ多く言えるかを競うゲームをしていました。たいていは彼女が勝っていましたけどね(笑)。僕の母も彼女を気に入っていたんですよ。でも、僕がロイターに入って5年ほどで、彼女はウイーンに転勤することになったんです。彼女がいなくなってしまう、そう思うとたまらなく寂しくなって……。そうだ、彼女こそが“運命の女性”かもしれないと思って、お別れのときにキスをしました」

女性との初めての経験

自分はゲイじゃなくて、“運命の女性”に巡り会えていないだけ。ゲイかもしれないという疑惑を否定するためにも、ファーブルさんは“運命の女性”を追い求めていた。

そして、次の夏休みにウイーンまで彼女を追いかけていって、今度はキスだけではなく、さらに関係を深めたのだ。

「まったく心が入らなかったんです。感じたのは違和感ばかり。好きな女性なのに、何故なんだ。彼女がダメだったら、もう自分はダメだ。頭のなかが大混乱でした」

混乱のまま帰国し、彼女とはそれっきりになってしまった。

後編INDEX
06 父と同じゲイにはなりたくない
07 心の扉を開くスイッチ
08 大好きな母へのカミングアウト
09 LGBTも働きやすい職場に
10 包み隠さず、自分は自分であれ

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