02 同性を好きになっていいなんて知らなかった
03 コンプレックスから拒食気味に
04 自分の心に向き合って
05 ニュージーランドでの出会い
==================(後編)========================
06 第3者からのカミングアウト
07 心のバランスを求めて
08 自分の現状を受け入れる
09 セクシュアリティはまだ探求中
10 自分も他者も癒し続けるのがライフワーク
01多様性に囲まれて
ニュージーランド人の父と日本人の母
ニュージーランド人の父は、たまたまフラリと日本を旅している時に日本人の母と出会い、ふたりは国際結婚をした。
顔にひげがあり、周囲からは「おもしろいお父さんだね」と言われることが多かった父。
「父はユーモアがあるけど厳しいところもあって、反抗したりすると手が出るような人だったんです」
もちろん、DVというほど大げさなものではない。父にぶたれた時には、負けん気を発揮して自分もやり返すことだってあったくらいだ。
「基本的には兄弟ゲンカみたいな感じでしたけど、やっぱり、たまに怖いなと思うことはありましたね」
「それでも、お父さんのことは好きでした」
父は日本語がペラペラだったから、家庭内での会話は日本語だった。
「母は、すごく情に厚くて芯も強い女性でした」
「両親の時代には、まだ日本で国際結婚はそれほど一般的ではなかったんです」
「でも、自立していた母だったからこそ、ふたりは結ばれて結婚に踏み切ることができたんだと思います」
そんな両親のもとに生まれ、20歳になるまで日本で過ごした。
「小学校ぐらいになると、私がハーフだということでちょっかいを出してくるような男の子たちも多かったです」
「でも、いじめってほどではなくて、軽いからかいみたいな感じでした。そういう男子とも仲良く一緒に遊んでました」
日本では、ハーフというだけでいじめられてしまうような子どももまだ多い。
しかし、自分が幼い頃はそういった経験はなかった。
「ただ、小学生の頃にニュージーランドを旅行した時に、現地の人に『あなたは日本人だね』って言われたんです」
「なのに、日本に帰国したら今度は『外国人だよね』って言われて、戸惑ったのを覚えています」
そこから、自分探しのようなものがはじまったと思う。
課外活動への参加
「小学校高学年の時には、ガールスカウトに入っていたんです。そこでの経験は、人格形成にかなり影響したように思います」
YMCAのキャンプにも参加したし、家族みんなで山登りに行くこともあった。
特に父は、「いろんな経験をしてほしい」と思っていたようで、海外にもよく連れていってもらった。
また、「バイカルチャーチルドレン」と呼ばれている、ハーフや海外経験のある子どもたちの集まりにも頻繁に参加していたのを覚えている。
そこにはいろいろな国籍の人たちが集まっていたから、肌の色も人それぞれだった。
ある時、ひとりの子どもが「肌色って、なんで “肌” 色っていうの?」と発言したことがある。
「今は正式名称では “うすだいだい” になっていますが、“肌色” って、よく考えればかなり差別的ですよね」
多くの日本人は「肌の色=うすだいだい」と即座にイメージするだろうし、それを肌色と呼ぶことが差別につながるとも考えたりしないだろう。
「でも、日本で暮らしていたら仕方ないですよね。異なる文化に接してみないとわからないこともあるよなと思います」
その点、自分は小さい頃から人種の多様性に触れる機会があって、恵まれていたと思う。
02同性を好きになっていいなんて知らなかった
女の子はあくまで “親友”
初恋は小学生の頃。
「私、同じクラスに好きな男子が4人いたんですよ(笑)」
20歳になるまで、恋心を抱くのは全員男性だった。
「女の子のことも好きといえば好きだったんですけど、やっぱり当時は “親友” だと思っていたんです」
「でも、もし今の心のまま学生時代をやり直すとしたら、もっと自由に恋愛してたんじゃないかなって思います」
女性同士が恋愛関係になることがあるなんて知らなかった。
知らなかったからこそ、考えることもなかったのだ。
「だから、20歳になるまではヘテロセクシュアルとして生きていました」
部活動にどっぷり
中学は公立校に進学。部活は吹奏楽部に入った。
「もともと音楽が好きだったし、ブラスバンドへの憧れがあったんです」
「本当はフルートかクラリネットが良かったんですけど、背が高かったから、半ば無理やりトロンボーンにされちゃいました(笑)」
中学時代は、部活一色といってもいいほど。
「ある時、私が下校時刻を過ぎても校内に残っていたことがあって、それが原因で部活動がしばらく停止になっちゃったんです」
その時、顧問の先生にひどく怒られたのだが、仲の良かった部員たちは自分をかばってくれた。
「ものすごくありがたくて、その時は泣いてしまいましたね。友達には恵まれていました」
「でも、中1の時に、私に向かってわざと悪口を言ったり、あからさまに嫌な態度を取るような男子がひとりだけいたんです」
“いじめ” だったのだと思う。
でも、自分がその男子からいじめられていたことは、友達にも両親にも言えなかった。
勇気を出して唯一先生に訴えたのだが、「その程度の軽いものなら問題ないよ」と、まったく取り合ってもらえなかった。
「その時の経験があるから、今いじめを受けている人たちに対して、自分が何か役に立てないかなとも思っています」
03コンプレックスから拒食気味に
自分に自信が持てない
初潮は遅く、高校生になってからのことだった。
「というのも、当時すごく痩せていて、身長が173センチなのに体重が40キロくらいしかなかったんです」
あまりに生理がくるのが遅かったから、婦人科でホルモン剤や漢方薬を処方してもらうこともあったほどだ。
「実は、その頃拒食気味だったんです」
中学生になった頃から、自分の外見に自信が持てなくなっていたのだ。
「もっと痩せなきゃ」という思いから、食事を拒みがちに。
「小学生の時にはすごく活発だったんですけど、中学生時代の写真を見返すと、すごく表情が暗いなって今でも思います」
外見以外にも、父が外国人ということで思い悩んだ時期もある。
「私はほかの家の子たちとは違うんだ」という思いから、父を許せなく感じていたのだ。
「自分の顔がほかの子と違うことが、コンプレックスでした」
でも、悩みの根源は外見よりももっと深い部分にあったように思う。
「思春期だったこともあって、何か孤独のようなものも感じていたんです」
「悩みの種は何かひとつだったというよりも、複合的にからまりあっていた感じでした」
そのあたりから、自分の存在自体を否定するような悪い癖がついてしまった。
新たなチャレンジ
「高校は進学校だったから、いじめとかはまったくなかったです。本当に自分の可能性を伸ばした時期だったと思いますね」
部活はこれまで文化系に入っていたが、思い切って陸上部に入部。
「運動ができたらいいなって思っていて、チアリーディングか陸上かで迷っていたんです」
「でも、中学時代ほとんど男子の友達がいなかったから、男友達もできるかなと思って陸上部にしました」
いろいろなことにチャレンジするうちに、落ち気味だったメンタルも少しずつ上向きになっていった。
食事も採れるようになり、少なかった体重も徐々に増えていった。
「ご飯を食べられるようになったのは、どうしてだろうな・・・・・・。『こういう自分でもいいんだ』って、自分をちょっと許せるようになったのかもしれないです」
高校時代、どの教科も成績は平均的だった。
「もともと大学受験は決めていて、教育学部に進もうと思っていたんです」
「両親に負担をかけたくなかったので、絶対に国立に行こうと思って、勉強はかなりがんばりました」
仮に不合格だったら浪人するつもりでいたが、猛勉強の甲斐あって、無事千葉大学に合格した。
04自分の心に向き合って
痛みが感じられない
事件が起きたのは、大学入学を控えた春休みのこと。
「たまたま家にひとりでいた時、床に落ちていたマチ針を踏んでしまったんです」
普通なら「痛い!」と大きいリアクションを取るのだろうが、その時、自分は「マチ針がささった」と客観的に認識しただけだった。
痛覚が麻痺していて、痛みを感じられなかったのだ。
「それで、自分でも『やばい』ってわかったんです」
メンタルに支障をきたしているのだろうと思い、カウンセリングを受けることにした。
「いざカウンセラーさんに話しはじめたら、涙が止まらなくなって・・・・・・」
受験勉強のストレスももちろんあった。
しかし、中学生の時に抱えていた得体の知れない孤独感が、その時も根底に眠っていたのだと思う。
「表向きには、国立大学に合格して両親も円満で恵まれているんですけど、自分の中にはずっと孤独を抱えていたんです」
両親に本音を話せなかったことも、孤独感を増長させていたのだろう。
「小さい頃からいろんなことに挑戦させてもらっていたから、これ以上不満を言ってはいけないって思ったんです」
でも、できることなら両親にもっと甘えたかった。
「あなたは特別な子だよ」「生まれてきてくれてありがとう」と、言葉で言ってほしかった。
両親には存分に愛情を注いでもらったと、わかってはいるけれど・・・・・・。
多忙な大学生活
何回かカウンセリングに通った結果、メンタルは快方へと向かった。
「そのことがきっかけになって、カウンセラーになりたいと思うようになったんです」
そうして、大学に入学。
学校には有名な臨床心理学の教授がいたため、心理学系の集まりに参加することもあった。
勉強をこなしながら、アルバイトも3つ掛け持ちしていた。家庭教師、水泳のコーチ、夏はキャンプ場で住み込みの仕事。
「高校の時に陸上部で体力がついていたんでしょうね」
「忙しさがストレスになることもなかったし、大学生活は本当に楽しかったです」
大学でも、最初は陸上部に入っていた。
「でも、教育学部ということで、体育の先生になるために入っている子も多かったんですよ。だから足の速い子が多くて、限界を感じて半年でやめてしまいました」
そうして、新歓時に興味を持った演劇サークルに入ることにした。
「先輩たちの雰囲気がすごく良かったんです」
「サークル活動は比較的ゆるい感じだったんですけど、すごい面白くて活動にのめり込んでいきました」
05ニュージーランドでの出会い
ニュージーランドへ
2年次が終わる頃、1年間休学をして父の母国・ニュージーランドへ渡航することになった。
もともとは、「今行っておかないと、きっと今後長期で訪れる機会はなくなってしまうだろう」という父のすすめだった。
「でも、当時サークルに好きな先輩がいたし、アルバイトにも慣れてきた頃だったから、本当は行きたくなかったんです」
だが、父には反抗できなかった。
「やっぱり厳格で、一度彼が決めたことはある意味絶対みたいなところがあったんです」
それに、これまでずっと父のアドバイスを受けて育ってきたから、自分でもどこかで父の言うことを信頼していたのだと思う。
そうして、ニュージーランド行きを決意した。
最初の2週間は家族3人で渡航し、その後両親は帰国。ひとりでホームステイをすることになった。
だが、ホームステイ先にはなかなか馴染めなかった。
「それまでずっと家族と一緒にいてツーカーで伝わっていたことが、まったく通じなくなってしまったんです。食事が合わないこともストレスでした」
「向こうだと、人と人との距離が遠いというか、ゆったりしているんです。お互いあんまり干渉しあわないし、それぞれがやりたいことをやればいいという空気で」
「最初はそれでも良かったんですけど、ある種のカルチャーショックというか、だんだんつらくなってきてしまって・・・・・・」
ストレスから、過食に走ってしまったこともある。
深夜3時にクッキーを焼いてしまい、ホストファミリーに「おかしいんじゃないの?」と言われたこともある。
ホームステイは10代の子どもが多いため、自分のような20代の大人に対してどう接すればいいのか、ホストファミリーたちも戸惑っていたのだろう。
そうして、ホームステイ先ではぎくしゃくしてしまい、すぐに引っ越しをすることになった。
はじめて女性に恋をする
ニュージーランドに渡ってしばらくの間は、日本でいう専門学校のようなところに通っていた。
1年単位で履修を選ぶことができたため、1年目は語学を学び、2年目で調理師免許を取得。
その後大学にも通い、ニュージーランドの先住民族であるマオリの言語と文化を2年間学んだ。
当初は1年ポッキリのつもりだったニュージーランド生活だったが、とある出会いがきっかけで、4年もの間滞在することとなったのだ。
彼女と出会ったのは、肌寒い日のことだった。
「私は、スリットのあるスカートを履いて自転車に乗っていたんです」
そうしたら、通りすがりの女性に「Aren‘t you cold?(寒くない?)」と声をかけられたのだ。
彼女とはそこから親しくなり、学校の論文やメールのチェックをしてもらうようになった。
どちらかから「付き合おう」という言葉が出たわけではなかったが、徐々にお互い惹かれていって、気づけば恋人関係に。
そう、彼女はレズビアンだったのだ。
これまでずっと男性を好きになっていたが、20歳になってはじめて女性に恋をした。
「だから、当時は自分のことをバイセクシュアルだと思っていたんです」
<<<後編 2017/08/29/Tue>>>
INDEX
06 第3者からのカミングアウト
07 心のバランスを求めて
08 自分の現状を受け入れる
09 セクシュアリティはまだ探求中
10 自分も他者も癒し続けるのがライフワーク