02 最初で最後。男子との淡い恋愛
03 親友への ”想い” を圧し殺した高校3年間
04 親から逃れたくて
05 大きな宿題を抱えた予備校時代
==================(後編)========================
06 自分探しの大学生活
07 キツいひと言がキッカケで
08 初めての、男と男の約束
09 男性として受け入れられるということ
10 若いふたりに突きつけられた現実
06自分探しの大学生活
男性グループに振り分けられる
中学、高校とハンドボール部で活躍した多和田さんは、将来はスポーツトレーナーの仕事をしたいと思い、理学療法士の資格を目指して、栃木県にある国際医療福祉大学に入学した。
「オリエンテーションで、集合写真を撮ることになったんです。男性はこちら、女性はこちらと振り分けられる時に、僕を見た振分係りの人が、『あ、男性はこちらです』って。否定するのも面倒臭かったので、そのまま男性のグループのほうに並びました(笑)」
男性用のスーツを着るほどの勇気はまだない。その頃は、まだ女性のファッションだったが、男性に振り分けられるほど、見分けがつかなかったということだろう。
大学生になってからは、胸を押さえつけるスポーツブラのような、いわゆるナベシャツを着るようにもなっていた。
大学生活では、特にこれといって熱中したものはない。
日々の生活費のために、居酒屋のバイトに明け暮れる毎日だった。
「学校に行って勉強して、終わったら居酒屋にバイトに行くという毎日でした。自分のセクシュアリティが何なのかわからないので、けっこう内向的になっていたと思います。外に遊びに行くことも、あまりなかったですね」
ネットワーク作りと自分探し
ただ、LGBTに関わるネットワーク作りには熱心だった。ブログを検索しては、会いたい人にコンタクトを取っていた。
「いろんな立場の人の話を聞いてみたいと思っていました。大学生活を謳歌するといった感じではなく、ネットワークを広げて、ひたすら、”自分探し” をしていたんだと思います。1年生の頃は、心も男寄りになってきてはいるものの、まだ覚悟ができていなかった。男になりたいけれど、足踏みしている感じだったと思います」
大学1年の夏頃から、仲のいい女友達に少しずつカミングアウトを始めた。
「2人っきりになったときに『実はさあ・・・・・・』っていう感じで切り出してカミングアウトしていました。その頃はもう、どんどん言っちゃおうと決めて話していたけれど、ある女友達の子が、話したとたん、ビックリしちゃったみたいで泣いてしまったんです。本当は全員に打ち明けるつもりだったけれど、やっぱり、全員に言うのは無理なんだなって思いました」
それでも、その頃から打ち明けても大丈夫そうだなと思ったら、個人的にカミングアウトをするようになっていった。
「カミングアウトし続けたのは、たぶん、自分が楽になりたかったんです。隠しておくのも面倒くさいし。やっぱり、隠し続けるのは、精神的にも辛かったですから」
07キツいひと言がキッカケで
彼女のひと言で目が覚めた
大学2年になる頃には、GID(性同一性障害)診断のためのカウンセリングに通っていたが、次第に診察から足が遠のくようになっていった。
「その頃はまだ、僕自身の性自認も曖昧だったし、踏ん切りも付いていなかった。だから、先生は、カウンセリングをしてもGIDの診断を下せなかったんじゃないでしょうか。でも、当時はそこまで思いを巡らせることができなかったので、『本当にこの先生は診断書を出してくれるんだろうか?』と不信感もあって、行かなくなったんです」
他者からは、男性として見られたいと思う反面、自分が本当にGIDなのかについては、しばらく揺れたまま時は過ぎた。
それでも、大学時代に3人の女性と付き合った。3人とも、多和田さんのことを男性としてみてくれた。
大学3年生の頃、4歳年下の社会人の女性と付き合った。過去にもFTMと付き合ったことのある、沖縄在住の女性だ。長期休みで帰省したときに会うといった感じの遠距離恋愛だった。
「今思えば、僕は口だけだったのかもしれない。男になりたいだとか、男として結婚もしたいよねっていう話を彼女によくしていたんです。でも、そのために何も動こうとしない僕を見て、愛想尽かしたんでしょう」
彼女にガツンときつい一言を言われた。
「いつも男になりたい、なりたいって言っているけど、まあくんはただ、夢を語ってるだけだよね・・・・・・」
目が覚めた気がした。
男になろうと決心をする
「それまで覚悟が決まらなかった理由は、手術をしたら、もう女性に戻れない、取り返しがつかないと思ったからです。でも、男になりたいっていう気持ちは変わらないから、性別適合手術を受けて男になろうと決心しました」
気がかりなことがもうひとつ。
母親の気持ちだ。すでにカミングアウトしていたが、なかなか受け入れてはもらえなかったのだ。
「最初、メールで母に告白したら『全然、いいと思うよ』という返事でした。それで、実際に帰省したときに面と向かって伝えたら、母親はどうしても受け入れなくて、泣いちゃったんですよね。『戸惑う気持ちも仕方がないけど、でも面倒くさいなあ』っていうのが正直な気持ちでした」
中学3年生の頃、両親はケンカばかりしていて、その度に部屋に籠もっていた。母親から後で聞いた話だが、「母親としてダメな部分をたくさん見せてしまったせいで、男になろうと思うようになったんじゃないか」と、自分を責めていたという。
「僕としては、そんなことは全く関係ないと思ったんですけどね。当初母は、性別適合手術に反対でした。男として生きていくことは認めるけれど、身体にメスを入れるのだけはやめて欲しいと。でも、押し切ったという感じで、最終的に渋々、OKしてくれました」
それからというもの、足が遠のいていたカウンセリングもきちんと通うようになる。
大学4年の春頃から再開したカウンセリングもトントン拍子で進み、同年の秋頃には性同一性障害という診断書を出してもらうことができた。
「カウンセリングが進まなかった時期を振り返って思うんです。迷いがあった様子を見て、“自分自身と向き合いなさい” と先生が時間をくれたのかな、と。でも、男になろうと決まっちゃえば早かったですね。僕は、決めるまでが長いっていうタイプなのかもしれない(笑)」
診断書が出るのと同時に治療も始まった。
男性ホルモンの注射を打つと、身体にも変化が出てくる。
「顔がだいぶ、脂っぽくなりました(笑)。ニキビがすごいんですよ。ちょっと男っぽい感じなってきたのが嬉しい半面、脂っぽいのが嫌だなあとか。あとは毛深くなりました」
でも、もう何の迷いもなかった。
08初めての、男と男の約束
太陽のような存在の先輩
大学3年の終わりから1年間ほど、車椅子バスケットボールのサークルに所属していた。
そのサークルに入ったきっかけは、憧れの先輩がいて、一度、話をしてみたいと思ったからだ。それが、大蔵先輩だった。
「彼は骨肉腫という病気を抱えていました。それでも、車イスで日本一周したりと話題になっていた人です。すごい人がいるんだなあって思った。それで、大蔵先輩と話してみたい一心で入部しました」
サークル内でも常にムードメーカーで、いつも人の輪の真ん中にいるような存在。
積極的にボランティア活動もするなど、行動力のある人だった。頼りになる兄貴的存在でもあり、何でも相談に乗ってくれる。
「自分が性別適合手術を受けるという話をした時も、親身になって相談に乗ってくれました。ずっと憧れの人であって、僕にとっては太陽みたいな存在でしたね。先輩の座右の銘は『夢はでっかく、己は小さく、心は広く』というものだったんですが、その座右の銘のごとく、何事にもチャレンジしていくような人でした」
先輩と原っぱに寝転がって、空を眺めながら話をしたことを、今でも忘れない。
約束を果たすために
その後、性別適合手術の費用を稼ぐために、夏休みに猛烈にアルバイトを開始する。
「めっちゃ、ヤバいくらい働きました。朝の6時から昼12時まで牧場で乳搾りをして、牛の糞の掃除もする。で、昼から夕方6時まではアウトレットのショッピングモールでかき氷を売ったり、別のショップで働いたり。それから、夜中の12時まではいつもの居酒屋です。朝から夜中まで働いて、手術費用の足しになるよう、70万円を貯めました」
そして、手術のためにタイへ渡る直前のこと。
先輩が音頭をとって、車椅子バスケットボールのメンバーがカンパを集めていたのだ。
そして、10万円を渡してくれた大蔵先輩は言った。
「頑張ってこい。ちゃんと男になって帰って来いよ!」
大蔵先輩との約束は、初めての ”男と男の約束” だった。
このサークルは、男女10人ほどの小さなサークルだったが、みんなが自分を男として見てくれる ”居場所” で、今でも大切な仲間だ。
先輩との約束を果たすべく、大学卒業後、すぐにタイに渡る。11泊の滞在スケジュールで性別適合手術が行われた。
「迷いはまったくなかったけれども、手術への不安はありましたね。乳房と乳腺、それに子宮と卵巣も取りましたから、術後は激痛があって、なかなか起き上がれなかった。これまであったものがなくなったという意味では、戸惑いもありましたが、逆にホッとしました。これまでナベシャツを着てると圧迫されてキツいんですけど、それがなくなったので、精神的にも身体的にも楽になりました」
晴れて男性となって帰国した時、先輩の症状は進行していた。
報告がてら見舞いに向かったその姿を見て、先輩は笑顔で言った。
「ああ、格好良くなったな!」
大蔵先輩との約束を果たした瞬間だった。
それから約1年後のこと。先輩は骨肉腫の症状が悪化して亡くなった。
葬儀の祭壇脇に飾られていた座右の銘「夢はでっかく、己は小さく、心は広く」の文字を、その目にしっかりと焼き付けた。
「憧れだった大蔵先輩に少しでも近づけるように、もっと自分を磨いていきたいと思っています」
09男性として受け入れられるということ
男性として就職を果たす
大学卒業と同時に理学療法士の資格を無事取得。
就職面接に挑んだ。それはまだ、性別適合手術を受ける前のことだった。
「面接の時に、『今は女性として生きているけれども、そのうち、性転換手術をしたいんです』ということを、前もって打ち明けた上で採用してもらいました」
第1希望の就職先は、大学関連病院。
医療関係の職場には、LGBTに対する理解者が多いことを知っていたからだ。
「僕はけっこう安全な道を選びたがる人なんです(笑)。まず、事前に大学の学科長へ『ここに就職したいけど、私は性同一性障害なので、そのことを面接時どのように話したら良いか』と相談してから、面接に臨んだんです」
結果は、採用。見事、第1希望の就職先に内定した。
「LGBTにとって、医療関係への就職はおすすめかもしれないですね。今は転職して介護施設で働いていますが、LGBTに対して嫌悪感を持ってる人は、それほどいないと実感しています。僕の場合、普通に男性として働いていますし、職場仲間にはすべて打ち明けています。オープンにしても問題ないんじゃないかなって、個人的には思うようになりました。でも、それは今だから言えることであって、つい最近までは人にどう思われるのか不安でしたけどね(笑)」
両親や親戚の温かさ
これまで、男っぽくなっていく自分を親戚には見せられないと、会わないでいたが、祖父の葬儀に参列するため、帰省することになった。
気にしていた容姿や性同一性障害のことは、母親が親戚にあらかじめ、伝えておいてくれたのだ。
「いつも帰省したら必ず挨拶に行っていた祖父母に『大学に入ったらぜんぜん真希は来なくなったけど、どうしたの?』と、母親は聞かれていたそうです。そこで、祖父の葬儀を機に、母親が泣きながら話してくれました。親戚にも、両親から伝えてもらいました」
その話を聞いた親戚はこう言った。
「みんなで支えてあげるから、帰っておいで」
すっかり男性となって帰省した姿を見て、親戚みんなが「変わったねー
!」と笑って出迎えてくれたことが、とても嬉しかった。
「ホッとしました。ずっと仲の良かったいとこにも、大学に入ってからはぜんぜん会えなくて疎遠になっていたんですけど、久しぶりに会えました。『前よりもっと仲良くなれたよね』と言ってくれたのも嬉しかったですね」
90歳を超えて、今は介護施設に入所しているおばあの元にも会いにいった。
「高校以来だから、8年ぶりだったかな。すっかり顔つきも変わったし、声変わりもしているというのに、何事もなかったかのように喜んでくれました」
帰り際に「明日、東京に戻るから、おばあも元気でね」と言うと、おばあは、いつもの明るい笑顔をふりまきながら、こう返した。
「おばあはさぁ、もう、真希ちゃんがお嫁に行くまで死ねないさぁ〜!」
知ってか知らずかわからない。
おばあのその言葉に、両親と一緒に爆笑するしかなかった。
「ドキっとしましたけどね(笑)。とりあえず、『うん、わかった!』って返事しながらも、『おばあ、それだと不死身にならないといけないなあ』って、心のなかで叫びました(笑)」
まさか、これほど早く、両親や祖父母の前で笑い会える日が来るとは思っていなかった。
この日は、忘れられない1日となった。
10若いふたりに突きつけられた現実
ストレートの女性との恋愛
戸籍は男性に変更したが、名前はそのままにした。
現在、最初の職場で出会った看護師の女性とお付き合いをしている。
彼女は、初めてお付き合いするストレートの女性だ。
「飲み会などでよく会っていた女の子でした。お互いに何となく惹かれ合っていたんでしょうね。ボクが前の職場を辞めるときに同僚たちが送別会を開いてくれて、その時にも一緒に飲みました。しかし、彼女には当時、ストレートの男性の彼氏がいたんです」
それでも、どんどん彼女に惹かれていった。
「彼女の笑顔がすっごい好きで。実は外見はそんなにタイプじゃないんですけど(笑)、いつも楽しそうに笑う子だなあ、いいなあと思っていました」
その後、中途半端な感じで2人は別れる、別れないと揺れ動く状態が3か月ほど続いたのだという。
どうしようもできないこと
「なんだか、本当にグダグダした関係が続いてしまったんです。実は、彼女は子どもが好きで、中学生くらいからママになるのが夢だったんです。子どもが欲しいというのが、彼女の願いなんです。それは、僕にはどうしようもできないですからね・・・・・・」
晴れて男性となれたのに、恋愛中に突きつけられた現実は厳しいものだった。
「2人の相性は何の問題もない。そこだけが問題というか……。でも、彼女のためにも、中途半端なまんまだと良くないから、僕のほうから別れを切り出したんです」
最終的に彼女も、前からの彼氏と付き合っていくと結論を出した。
そして、最後の日。
話しをしたのは、江戸川の河川敷。いつも2人で散歩したり遊んだ思い出の場所だ。
寒い日だったが、2人は河川敷に座って話をした。
本当は、彼女と別れたくはない。でも、自分にはどうにもできないこともあるのだから、仕方なかった。
「君の笑顔は大好きだけど、出産ということは僕にはどうしても叶えてあげられないから……。でも、僕の今の気持ちはずっと変わらないから、待っているよ」
覚悟を決め、吹っ切れた笑顔でそう伝えると、彼女は号泣しながら言った。
「やっぱり真希とは別れられない!」
多和田さんと歩んで行く道を選んだ。
「子どもは欲しいけれど、それは今のところ、諦めたのかな? その後、すぐに犬を飼うようになって、そっちに走っちゃってますけど(笑)」
<壁を乗り越えた先にあるものは>
来月からは、一緒に住むことになった。
「まだお互いに若いので、どうなるのかはわからないし、結婚っていうことはまだ具体的には考えていません。ただ、もう少しお金を貯めたら、広い家に住みたいなと思っています」
彼女の両親には、既に挨拶を済ませている。
最初は、特にお母さんが混乱したが、今回の同棲に関しては一応許可が出た。
これから先のことは、誰にもわからない。
「どんなセクシュアリティでも、それはひとつの個性だと思っています。いつでも ”自分らしさ” を失わずにいたいし、笑って過ごしていきたい。完璧な男にはなれないけれど、男としてカッコ良くありたいという気持ちは忘れないでいたいですね!」
最高に ”男前” な笑顔が、そこにはあった。