01エリートコースを行く兄の陰で
── 学生時代に心理学や哲学を学び、IT業界やインテリア業界、デザイン業界など幅広い分野で経験を積まれていますが、子どもの頃から好奇心旺盛で勉強熱心だったのでしょうか?
とんでもないです(笑)。
4つ上と8つ上の兄貴たちは、小学校から受験して私立に入って、トップクラスの国公立大学に合格して・・・・・・っていう、絵に描いたようなエリートコースを進んだんですが、僕は出来が悪くて。
それがずっとコンプレックスでしたし、自分だけが両親から愛されていないんだと、思っていた時期もありました。
教育にもしつけにも厳しい家だったこともあって、ピアノとか水泳とか、習いごともいろいろやらされていたんですが、全然続かなくて(笑)。
唯一、小学校から高校まで続けられたのはサッカーだけかな。
── サッカー好きの活発な少年という感じでした?
それが幼い頃は、女の子と一緒にシルバニアファミリーやセーラームーンごっこをするのが好きな子だったんですよ。男の子の友だちとの会話についていくために、ドラゴンボールやスラムダンクを見てはいるけど、ママレード・ボーイや金魚注意報をこっそり見ているような・・・・・・。
中学生までは、見た目で女の子に間違えられることも多くて。
「かわいいね」とか「お嬢ちゃん」とか言われても不思議とイヤじゃなくて、むしろうれしかったんですよね。
でも子どもながらに、そういうのはおかしいし、恥ずかしいことだと思っていたので、表面には出さないようにしていました。
僕、小学校くらいから、「人に嫌われたくない」「好かれたい」って気持ちがすごく強かったんですよ。
── 何かきっかけがあったんでしょうか?
幼稚園のときに仲良くしていた友だちが、本当は自分のことを好きじゃなかったってことを、ふとしたきっかけから知ってしまったんです。
それから、人と接するのがちょっと怖くなって。
あんまり自分らしく振る舞えなくなって、「嫌われないように嫌われないように」と周りに気を遣いすぎるようになっちゃったんですよね。
同時に「人に好かれたい」という気持ちも、すごく強くなって。
サッカーを続けていたのも、輪のなかに入っていたかったからかも。おかげで、なんとかスクールカーストの上のほうにいられた気がします。
そうやって処世術を身につけていった、というのはありますね。
02 「我々は何者か」
── その処世術のおかげで、学校では人気者だったのでは?
正直、モテるタイプでした(笑)。
でも、クラスのモテる男子のランキングでは3番目くらいですけどね。恋とか性の目覚めみたいなのも、早いほうだったと思います。
恋愛対象は、いまも昔も完全に女性なんですが、10年ほど前に友人が「好きな女の子のタイプは年齢を重ねる中で変化していく。
だから、そのタイプがいつか女性から男性に変わる可能性もゼロじゃないと思う」という話をしていて、その考えに対して妙に納得した覚えもあります。
誰かを好きになるとき、女性だから、男性だから、という理由で好きになったとはまったく思わなくて、僕は、いま、たまたま女性という存在が好きなだけ、かもしれないと。
もっと言えば、僕は自分を男性とも女性とも、日本人とも欧米人とも、人間とも思っていない。カテゴリーに当てはめて考えていないんです。
なんか、かっこつけてるみたいですが(笑)
── いまはヘテロセクシュアルだけど、ホモセクシュアルになる可能性もあるということですか?
絶対ないとは言い切れないですよね。
小学校から「人に嫌われたくない」「好かれたい」って、人の目をすごく気にするようになったせいか、僕、温泉とかも入らなかったんです。
周りの男性の目が気になって・・・・・・。家族旅行で温泉旅館に行っても、僕だけ部屋のお風呂に入ったりして。
誰も、お前のことなんか見てへんわって感じですよね(笑)。
そのへんは、いまはもう克服して、銭湯とかも入れてますけど。
高校生の頃には、「女っぽい」とか「なよなよしてる」とか言われるのがイヤになってきて、少しでも男らしくなろうと格闘技を始めた反面、『3年B組金八先生』に出てきたトランスジェンダーの生徒に自分を重ねたり、デビッド・ボウイの中性的な魅力に憧れたりしていました。
── 自分には、いろんな側面があるのだと受け入れていると。
そうですね。自分は何者なんだろうって、すごい考えた時期があって。
僕、ゴーギャンの『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』という作品がすごく好きなんです。
我々は何者か・・・・・・。
僕は、ずっと何者かになりたかったんです。
両親に認められる息子になりたかったし、誰からも好かれる存在でありたかった。
でも、考えて考えて、考えすぎたら、もうなんでもいいやって(笑)。
息子とか、友人とか、男性とか女性とか。
カテゴライズされることが、とても面倒なことに思えたんです。
どこから来てもいいし、何者でもいいし、どこに行ってもいい。
それが自分のテーマみたいなものになっています。
03苦手だった勉強、その楽しさに目覚めて
── 我々は何者かを考えるって、とても哲学的ですね。
そうなんです。そこから哲学とか心理学に興味をもって、大学に通っているときには専門学校にも行きました。
小学校も中学校も受験に失敗したんですが、めっちゃ勉強して、高校はまぁまぁいいところに入ったんですよ。これ唯一の自慢です(笑)。
でも、高校に入ったら、全く勉強しなかったんですよ。
将来は俳優になるからとか、バンドやってミュージシャンになるからとか言って、大学には別に行かなくてもいいわって。
そしたら、本当に大学に行けなかった(笑)。
とにかく勉強が苦手なんですよ。
兄ふたりが、なんでそんなにできるのかワケがわからないです。
ご近所さんに「お兄ちゃんたちが優秀だから、ひろちゃんは東大に行くしかないね」って言われたりするのが、すごいプレッシャーでしたね・・・・・・。
そんなん無理やし、っていじけそうになりながらも、なんとかがんばって、一浪して大学に入ることができました。
── 大学では、英米文化を学んだんですよね。
そうです、専攻は英語英米文化。で、選択授業で以前から興味のあった哲学や心理学をとったら面白くて、もっと学びたいと思って。
編入することを考え、心理学を学ぶために専門学校に通ったんです。
ちょうど、付き合っていた彼女と別れて、もう勉強するしかないわって感じになっていたんで(笑)。心理学の学校とはタイミングをずらして、映像を学ぶために別の専門学校にも行きました。
その後、大阪の梅田駅でスカウトされて、俳優として事務所に所属することになったので、演技のレッスンも受けていました。あと、内緒で芸大の授業にも忍び込んだり(笑)。
── 大学4年間で、大学の他に4つの学校に通っていたと。
そう、その頃やっと勉強に目覚めたんです(笑)。
結局、編入はしなかったんですけど、やっぱり学歴コンプレックスは、ずっとあって。とにかく、いろいろ学びました。
なかでも一番興味があったのは俳優の道。若いうちは俳優をやって、ある程度のポジションまで行き着いたら、脚本家とか映画監督とかをやりたい、とか考えてましたね。いま口にすると恥ずかしいですが・・・・・・。
でも、そっちには進めなかった。大学3年生のときから付き合っていた子と、卒業したら結婚しようと思っていたから。
結婚するなら、ちゃんと収入が安定している会社に就職しないと。
だから、新卒でIT系の会社に入ったんです。
04夢に向かって少しずつ前へ
── 就職したIT系の会社では、どんな仕事を担当していたんですか?
営業です。でも僕、もともと話すのがすごい苦手だったんですよ。
高校のときは、友だちが通訳のように僕の言いたいことを整理して、別の友だちに説明してくれてたくらい(笑)。
それが変わったのは、俳優を目指して、演技を学んでから。
お世話になった脚本家のかたが「演技を勉強すれば、社会に必要なスキルは全部身につく」って仰っていたんですが、本当にそうだな、と。
営業の仕事に就いてからは、とにかくマニュアルをまる覚えして、壁に向かってセールストークを練習したりして、書いてあることをひたすら実行していました。
マニュアルは台本、自分はスーパー営業マンの役、という設定で。
そしたら、営業成績でトップになれて、就職して1年で最年少マネージャーになることもできました。
でも、その会社は2年で辞めたんです。
── 他に、やりたい仕事があったと。
そうですね。
大学を卒業してすぐ結婚して、翌年には子どもも生まれていましたし、もともと家族を支えるためには安定した仕事を、ということで就職した会社だったので、いつまでもここにいるつもりはない、と。
次の昇格のタイミングで退職したんです。目指していたポジションにも就くことができて、自分のなかで決心がついたというか。
で、次に就職したのがインテリアの会社。
俳優として身を立てる夢も捨ててはいませんでしたが、もうひとつやりたいことのひとつにデザイン関係の仕事があって。だから、大学在学中に芸大にも通っていたんです。
コーディネーターとして、お客様の家づくりをお手伝いするという仕事は、空間をデザインするという意味では、やりたい仕事に近づきましたが、続けていくうちに、疑問が湧いてきてしまったんです。
自分は、お客様に本当に素晴らしいものを提供できているのか、子どもに心から誇れる仕事ができているんだろうか。そう考えだすと、必ずしも「できている」と言えないな、と。
そうこうしているうちに、東京への異動の話があって。
いつかは東京に行きたいという気持ちがあったので、その話を受けたんですが、2011年の3月11日に東日本大震災が起きて・・・・・・。家族を連れて行くわけにはいかなくなってしまって、単身で上京しました。
子どもに会えないのはつらいけれど、東京にはいろんな人がいて、関西にいたときよりも、ずっとたくさんのビジネスチャンスがありました。
── そのチャンスを活かして、起業されたんですね。
僕は、学歴コンプレックスがあったぶん、絶対に成り上がってやる、という気持ちも強かったんです。それで、知り合いから声をかけられて、一緒にIT系の会社を立ち上げました。
と同時に、自分のやりたいこともかたちにしようと、いよいよデザインの仕事を始めたんですよ。
友だちに頼まれて、ホームページとかをデザインすることはありましたが、これからはプロとして仕事をできるように、改めて勉強しながら、仕事をいただけるように、がんばって営業しました。
そしてようやく、少しずつ仕事をもらえるようになってから、「デザインの仕事に集中させてほしい」と立ち上げた会社は辞め、ついにデザインコンサルティング会社をつくって、憧れの社長になることができたんです。
05 LGBTに限らず、カテゴリーは関係ない
── 株式会社KASIKAとの出会いは?
僕、原宿の大規模なシェアハウスに住んでたんですよ。そこにはいろんな面白い人が集まっていて、すごい出会いがいっぱいあったんですけど、その繋がりでKASIKAの代表取締役社長、藤原聖仁と知り合ったんです。
たまに会って飲むような仲だったんですけど、僕は前々からKASIKAに注目していて、一緒に仕事できたらいいなぁって思ってて。
そしたら、なんかの拍子に「うぶちゃん、うち来たらええやん」って言われて、「行きます!」と即答して入社しました(笑)。
それからはずっと、別で役員を務めている会社と二足の草鞋を続けています。
仕事量もほぼ倍になって大変だったのですが、それだけKASIKAの仕事は面白かったんです。
自由な社風も、自分に合ってました。
髪型や服装は、もちろんなんでもOKですし、僕を信じてくれて、自由に仕事をさせてもらえるのが、なによりも嬉しかったですね。
藤原がいつも言ってるのが「社員も、パートナーのかたがたも、KASIKAに関わっている人がみんな、自分らしく、楽しく、幸せでいてほしい」ってことなんですよ。
めちゃめちゃ愛があって・・・・・・。そういうところに僕は惚れ込んでいます。
── いま、KASIKAが力を入れている事業はなんですか?
ウェブ制作やプロダクトデザイン、空間デザインなど、企画からコンサルティング、デザインまでトータルに手掛けているんですが、いまはクリエイターのための情報共有や意見交換を行うオンラインサロン「CREA/Meet up(クリーミー)」や、そのサロンから生まれたワークショップなどのイベントもやっています。
あとは、ホテル全体をキャンバスに見立てて新鋭アーティストがコミュニケーションアートを体現する、ということをやっているんですが、そういった施設や建物、街のアートプロデュースにも力を入れています。
オンラインサロンには、デザイナーやイラストレーター、スタイリスト、カメラマン・・・・・・多種多様なクリエイターが参加しているんですが、セクシュアリティもいろいろですよ。
オープンにされているかたも、そうでないかたも、本当にいろいろ。もはや、セクシュアリティも国籍も職種も、カテゴリーは関係ないんです。
そういう意味では、KASIKAはLGBTフレンドリーというより、ヒューマンフレンドリーって感じなのかも。
── カテゴリーは関係なく、大事なのはその人自身ということですね。「我々は何者か」を考えたら、「我々は何者でもいい」に行き着いたことにも通じます。
人をカテゴライズすることって、本当に意味がないと思います。
カテゴリーがあることによって、その人が自分より上か下かって考えて、相手を下げることで自分が上がった気持ちになって、得意になったり・・・・・・。そういうの大嫌いですね。
どこの誰とかじゃなくて、その人自身が尊重されるべき。
そのあたり、もっとフラットな社会になればいいなって思います。
06クリエイティブの力で日本の課題に挑む
── オンラインサロンは、時流にあった事業として注目を集めていますが、どういった経緯でスタートされたのでしょうか?
藤原と、同じくKASIKAの共同代表である小林が、前身となる「CREA/Me(クリーム)」を立ち上げたのが4年前。
芸術系の専門学校や大学で学んでも就職すら難しい学生たちのために、真のクリエイターを育てる学校をつくろうという想いから始めたものでした。
はじめは生徒数10名だったんですが、学費を抑え、全国から受講できるようにして、さらに若い才能をメンバーとして迎えようということで、オンラインサロン「CREA/Meet up(クリーミー)」を立ち上げました。
全国で、ひとりでがんばっているようなクリエイターと出会い、応援していきたいという気持ちで続けています。
── 実際に、どのような活動を行っているのでしょう?
大阪にある就労インバウンドトレーニング施設「YOLO BASE」を、総勢100名のアーティストの作品で彩ったり、ゴミを拾いながらゴミ箱をペイントしたアート作品を巡り、お気に入り作品に投票するイベント「ごみゼロアートウォーク」を行ったり。
先ほどお話しした、ホテル全体をキャンバスに見立ててアートを体現するというプロジェクトも、サロンとしての活動のひとつです。
そのほか、キャンプなどのレクレーションを開催したり、撮影用の機材の貸し出しをしたり、毎月1冊ほしい本をオーダーできたり、サロンとの関わり方、利用の仕方はさまざまです。
メンバー同士で、ポスターデザインやロゴ作成といった仕事のやりとりも日々行われています。
── そんなオンラインサロンのように、新しい切り口を次々と展開していくアイデアとパワーこそが、KASIKAの強みだと感じました。
人の心の内側にある想いを “可視化” することこそクリエイターの本分として、活動を続けています。
そのなかで、「日本のクリエイターの悩み」「日本の職人の悩み」「日本の地方における悩み」など、日本が抱える課題をエンターテインメントという切り口で解決していこうと考えました。
例えば、後継者がいない職人の問題をテーマに掲げた「KRAFKA」というイベントでは、子どもたちが職人技に遭遇する機会をつくって、将来の職業の選択肢に職人を加えることを狙いとしています。
そういった問題や困難な状況も、新しい切り口によって笑顔に変えていけるような活動をしていきたいと思っています。
KASIKAが目指すのは、日本のクリエイティブを中心としたグランドデザインです。
07美しく愛おしい景色をつくりたい
── これからの展望について教えてください。
僕たちがいつも話しているのは、「いままで見たこともないような、美しい景色をつくりたい」「誰も見たことがない美しいものを可視化(KASIKA)したい」ということです。
それがどんな景色なのか、どんなものなのかは、僕たち自身もまだわかりません。でも、それが美しくて、愛おしいものだといいなって思います。
KASIKAがデザインしたものが、誰かを笑顔にして、「今日は楽しかったな」って思っていただけたらなって。
・・・・・・言葉にすると、なんだかキレイゴトを言っているように聞こえるかもしれませんが、むしろキレイゴトの何が悪いんだ、と(笑)。
人生、どれだけ笑ったか、ワクワクしたかで決まると思うんですよ。
一回でも多く笑えたら最高。
── 空間や物体をデザインするだけではなく、言ってみれば、時間や人の感情までもデザインする仕事ですね。
例えばホテルのお仕事でも、空間をデザインすることから、そこで過ごす時間までもデザインすることにつなげていくので、僕たちは“時空間”をプロデュースしているのだと考えています。
あるいは、人と人のあいだをデザインするという意味で、メディアデザインとかコミュニティーデザインを超えた“人間デザイン”とか。
・・・・・・かっこつけすぎですかね(笑)。
── いえ、人間の本質に響くような美しさ、あるいは楽しさを目指していらっしゃるのだとイメージできます。
ありがとうございます!
最近では、さまざまな職人が集まるイベント「KRAFKA」や、鉄道会社や行政からのお仕事で、街と街をつなぐようなプロジェクトをやらせていただいたり、僕たちがやっていることを面白がってくださっているかたが、いろんな方面に広がっているように感じています。
これからも、そんなワクワクドキドキするような景色をつくっていきたいと思っています。
あ、もちろん、大規模なものだけでなく、宣伝用ツールなどの制作もお受けしていますので、よろしくお願いします(笑)!