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おなべとして、追いかけているのは父親の背中【後編】

おなべとして、追いかけているのは父親の背中【前編】はこちら

2017/03/10/Fri
Photo : Mayumi Suzuki Text : Junko Kobayashi
安藤 奏汰 / Kanata Ando

1990年、東京都生まれ。日本体育大学を卒業後、静岡のショーパブ等に勤務、今年肉体パフォーマンス舞台、ハッスルマッスル出演決定。19歳でGIDと診断され、大学卒業後にタイで性別適合手術をうける。日体大には女子として入学し、大学で初めて男子学生への変更が認められる。所属したスポーツ競技ダブルダッチで、2011年度の世界大会で優勝。現在は、東京で体育の派遣教師をする他、LGBTの啓発活動に励む。

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INDEX
01 小さな時から、男の子でした
02 性自認と体罰と
03 辛いとか、感情を持つのは負け
04 男の子の遊びと、女の子の体
05 20才まで生きる自分が想像できない
==================(後編)========================
06 男として生きる!
07 男社会の洗礼
08 カミングアウト後も揺れ続ける心
09 おなべこそ、自分
10 歩くカミングアウトとして

06男として生きる!

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ダブルダッチとの出会い

入学した日本体育大学で、ダブルダッチという競技に出会う。

ダブルダッチは、2本の長縄を2人が回し、その中でジャンパーが技を交えながら跳ぶ競技。ダンス、音楽、縄、アクロバットなどで構成され、3分間の演技をして点数を競い合う。

「男女混合の競技であることや、自分を表現できることが魅力でした」

入学してすぐにGIDと診断され、ステップにのっとってカウンセリングはスタートしていた。

見た目や声はボーイッシュな女子だけど、男子として生きていく決意はすでに固まっていた。

「一緒に跳ぶチームを先輩が編成してくれるんですけど、チームには男子も女子もいるんです。僕はとにかく、チーム内の男子に認めてもらいたいという思いが強かったですね」

サークルは100名が所属する大所帯。

「入部当初、僕がGIDであることは、知ってくれる人が知ってくれれば良いと思っていました。はじめから全員に理解してもらうのは難しいですし」

ダブルダッチは男女混合なので、あまり男女の区別はない。性別というより、体育会系らしく人として厳しく教えられたのが嬉しかった。

「そんな雰囲気のサークルだったので、この人たちなら僕を受け入れてくれると、だんだん思えるようになったんです」

大学3年生の時、100人のメンバーの前でGIDであることをカミングアウトする。

「メンバーには『やっと言ってくれたね』って、温かく受け入れてもらいました。ダブルダッチをやっていて良かった、このメンバーに出会えて本当に良かったと思いました」

そして、カミングアウトをして臨んだ2011年度のダブルダッチ世界大会。

NYアポロシアターの会場を沸かし、見事、優勝を飾る。

両親へのカミングアウト

20才になったら、両親にカミングアウトしようと決めていた。

躾に厳しい両親で、父親とはまともに会話もしていない。面と向かって告げる勇気は、とてもなかった。

「今までのことを、ルーズリーフ10枚にまとめ、バーンと置いて出ていきました」

小さい時からカエルを追いかけたり、女の子があまりしないような遊びをして行儀が悪いと叱られていた。

そういうことも、実はGIDが原因であるということや、自分の経験を綴った。

「正直、認めてくれないだろうと思っていました。とにかく、女らしくしろと言う、頑固な父親です。褒められたことなんて一度もないんです。バスケの試合に応援に来てくれたこともないし、勝てないのならやめろみたいなことも言われたし」

ただ、どこかで親に理解して欲しいという気持ちもあった。

自分を認めて欲しいと。

「もし、こんな僕を受け入れてくれるなら、改名する男性名をつけてください。受け入れてもらえないのなら、家をでますと」

母親から「お父さんが2人で飲みたいと言っている」、ともかく帰ってきなさいと連絡があった。

「びっくりしましたよ。お父さんとはまともに話した記憶すらないです。話そうと言われたことだけで、動揺です」

受け入れてくれるのか、どんな話になるか全く考えが及ばぬまま、約束の居酒屋に向かう。

「僕が店で待っていると『おぉ』みたいに、入ってきました。『何か飲むか』と聞かれ、とりあえず乾杯して、、、しばらくして『読んだぞ』って言われました」

父親は教師なので、いろいろな生徒を見てきているんだぞ、ということをボソッと語った。

「とりあえず、生きたいようにしなさい」みたいなことを言われように記憶している。

他愛もない話をして、その日はさらっと終わった。

「特に突っ込んだ話もせず、今までの事をお互いに責めることもせず、そこはノータッチでした、でも、お父さんと一緒にいたその空間が暖かかったんですよね」

カミングアウト後、「奏汰」という名前は母が寝ずに考えてくれた名前だ。

07男社会の洗礼

日体大で初めての性別変更

父親と2人で話した時「これからどうしたいんだ」と聞かれ、SRSをして戸籍変更まで考えていることをドギマギしながら伝えた。

「SRSを知った時点でやろうと。それが、僕の人生だと思っていました」

まずは、大学に自分を男子学生として受け入れてもらえるよう、2年生の終わりから申請準備を開始する。

「日体大って実技があって、男子クラスと女子クラスに分かれているんです。僕は自分を男子として自覚しているのに、女子クラスにいる。そんな僕自身を疑いはじめたんです」

男子として生きていこうと決めたのに、実際にいるのは女子クラスという違和感。

学内でも、男子の中でやっていきたいと思った。

「カウンセリングもはじめていたし、両親にカミングアウトもして、改名もすませていました。名前が変わったことで、周りに言える段階になっていたんです」

日体大で初めてとなる、生徒の性別変更。

前例がないだけに、申請書類すらなく、何もかもが初めてづくしだった。

「実技の男子テストについていけるかとか、実習や遠征、更衣室、トイレの問題とか、、、本当にいろいろなことを1つ1つ説得していきました」

戸籍は女性、ホルモン注射もしていないので、見た目はあきらかに女子。大学側には、「あなたが傷つくんじゃない?」と心配された。

でも、自分は男性社会でやっていくと決めたので突破するしかない。

男で生きる本当の意味を知る

申請開始から1年かかり、日体大初となる学生の性別変更が認められた。

「担任の先生や、学務課・ゼミの先生が一生懸命説明してくれて、時間はかかりましたが、温かく受け入れてもらいました」

女子が男子になる。

日体大のように実技があるケースでは、書類上だけの問題ではなく、体も男子と同レベルのパフォーマンスを要求されることになる。

「女子の中ではスポーツ万能だったので、成績もトップにいたんですけど、男子の中に入ったら、かなりの勢いでランクが下がり、底辺になってしまいました(笑)」

それで同情され、特別扱いをされるのは本末転倒。

男子として生きるということは、男子に求められるものをクリアすることでもある。

「男子として扱って下さいとお願いしたのは僕です。そして、僕は男性社会でやっていくと決意した。だったら、社会人になる前に男子の中で苦労することを経験したいと思ったんです」

男になることしか考えられなかった。一生懸命に男に近づこうとした。

「気づいたのは、女性社会と男性社会は全く違うということです」

「女子は、できなくても許される雰囲気があるんです。でも、男子は許されない。やれと言われたら、やらざるを得ない環境にいる。それが男なんだって、身をもって体験しました」

乱暴な言葉を使い、ガニ股で歩くのだけが男ではない。男性社会でもまれ、場数を踏まないと本当の男になれないと思った。

08カミングアウト後も揺れ続ける心

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男になろうとする虚勢

ダブルダッチで優勝した後、ガイドラインに従いホルモン治療を開始する。

カミングアウトをしてから、とにかく男になろうと必死でもがき続けていた。

「例えば、ダブルダッチで100%自分を表現できていたかと問われると、まだ殻に閉じこもっていた僕がいました」

「チームメイトの男子の方がアクロバットもダンスも、僕よりスキルが上。だからと言って、女子のレベルで判断されるのも嫌。じゃあ、僕には何があるのか」

女子の中では、男子っぽさが自分の個性でもあったのに、いざ男子の中に入った時、自分とはなにか、自分らしさが見えなくなってしまった。

「一生懸命に男子になろうとしている、僕を、僕らしくは思えなくなったんです」

男になったが故に、自分がわからなくなってしまったジレンマ。

それは、ダブルダッチの世界大会で優勝し、みんなに賞賛された時に特に強く感じた。

「みんなに凄い凄いと言われ、どんどん戸惑いました。女子の枠にはめられるのが嫌だった僕なのに、今度は僕自身を男子の枠にはめようとして苦しんでいるんです」

どうしても自分の色がわからず、不安定だった。

「大学生の時に彼女がいたんですけど、一番近くの存在の人には冷たくあたってしまいました。感情を押し殺してきた人間ですし、心に余裕がないというか、男としても、FTMとしても、全てにおいて自信がない僕だったんです。未熟でした」

男なんだから、こうだろうと強要されることもあった。

「骨格がそんなに男らしくないし、実は女々しいところもあるんです。可愛いものも好きですしそんな自分のキャラを無視して、男のイメージを押し付けられるのは嫌でした」

まずは、自分という人間を知ってもらうこと。それを頑張ろうと思うようになった。

男として頑張るのではなく、自分という人間を高める必要があるんだと。

性別適合手術

子どもにスポーツを教えることに興味があったので、就活では子どものスポーツ育成をする会社の面接を受けた。

「隠すのも嫌だったので、面接官にカミングアウトした。すると、子どもをキャンプや海に連れていった時に、手術の傷跡を子どもが怖がったら困るみたいなことを言われたんです」

就職後にSRSを考えていたので、入社1年目で手術休暇の取得は難しいとも言われ、就職先を考え直す。

昔、実家の向かいに住んでいた人が、ニューハーフとして静岡でショーパブを経営していたので、卒業後は静岡に引っ越し、その店で働きはじめた。

「ショーもあるし、ダンスもあるし、ダブルダッチで経験したことをいかせると思ったんです。自分に自信がなく、出し切れなかった自分を磨くための修行感覚でもありました」

ショーパブなので上半身裸になることもあり、働きはじめてすぐにタイで乳腺摘出と子宮卵巣摘出手術をした。

両親にカミングアウトとした時、母親から「・・・・・・でも、手術だけはやめてね」と言われたが、最終的には理解してくれた。

父親は手術に関しては何も言わなかった。

「GIDやSRSに関する本が置いてあったので、お父さんなりに勉強したんだと思います。黙ったままだったけど、理解しようと努力してくれているんだって思いました」

母親から手術に同行しようか聞かれたが断り、タイで手術を受ける。

「手術に対する不安はなかったです。胸をとれる喜びの方が大きくて、もともと胸があった方ではないんですけど(笑)」

手術前は猫背だったのが、胸を張って歩けるようになった。

「嬉しかったですね。海で海パン一丁になりたかったし、こうあるべきだったと」。

さまざまな努力を重ね、ついに手術にたどり着けたことが自信につながってきた。

09おなべこそ、自分

ショーパブが教えてくれたこと

静岡のショーパブで働くようになって、「おなべ」という生き方を知る。

「FTMは、男として生まれるはずだったのに、間違って女の体で生まれてしまったと思うんです。おなべと自称する人は、女であったことを受け入れ、その上で自分が男性になったことを出すんです」

過去を受け入れた上で、男として生きようとする。

「やりたければ戸籍変更まですれば良いし、戸籍を変えずにおなべとして生きるのもあり。その違いを知らず、差別用語と思っていたのですが、おなべって凄くしっくりきたんです」

おなべの生き方に惹かれたのは、本来の自分を見失い、もともと男性だったかのように生きようともがいていたからかもしれない。

「僕は男だ、男として扱えないのは、お前に偏見があるんだろうみたいに、辛い理由を相手に押し付けていました」

「僕が、僕自身を受け入れていなかった」

「それなのに、周りに求めるばかりで、何もせずにただ苦しんでいただけなんです」

ショーパブで働くようになり、いろいろなことがわかった。

まず、女性であったことを受け入れる。そして、それをネタにするところまで割り切ることができれば、自分という人間に自信が持てると思った。

自分は、男性に見せたいプライドが先走り、自分を大きく見せたいと見栄を張ることがあった。

それが、年上の男性には気に食わないと思われたり、女性からは何言ってるのと冷ややかに見られることも。

「叩かれたりして、心が折れそうになったこともあります。でも、その都度、謙虚に受け止めようとしました」

「等身大の僕を出すことが大事で、見栄を張るのは逆効果ということを学びました」

嫌いな自分を認めたから、吹っ切れた

ショーパブに来るお客様は、おなべやニューハーフの会話やショーで楽しみたいから訪れる。

「それなのに『俺、男だぜ!』とやっても、何も面白くないですよね。女だったことをあえて出して『私、女だったのよ』と過去を受け止め明るく前向きに主張にすることで、喜んでもらえるんです」

そのためには、ネタにできないくらい悩んでいた部分に向き合い、しっかりと受け入れないといけない。ある意味、辛いことでもあった。

「僕は、一番嫌いだった女としての自分を認め、そこから這い上がったことで、変われました」自分を全てさらけ出すことで、お客さまは楽しんでくれる」

「他にも、僕は女子力が高いと言われるところがあるので(笑)可愛い物を作ったり。男になりたいのに、あえて女を見せたりすると反応が良かったです」

コンプレックスをあえて出す。コンプレックスを魅力に転換できたことが自信に繋がった。

場数を重ねるごとに、ショーパブでの人気は高まった。

父親、ダブルダッチ・・・・・・ 。厳しさが優しさだった。

静岡のショーバブもまた、体育会のノリで自分を鍛えてくれる場所だった。

10歩くカミングアウトとして

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枠にとらわれない生き方

性同一性障害であることを隠したいと思う人もいる。

また、LGBTの中でも互いに偏見を持つことがある。

「FTMはおなべを、おなべはFTMを差別したり、病気と言ったりすることがあるんです」

「僕は、同じ悩みを抱えた人たちの間で、そういうことがなくなればいいと思っています」

おなべを差別用語だという人もいるが、ひとつの名称として自分に合った呼び方を選べば良いと思う。
「勿論おなべを使用することを嫌がる人もいますが、いろいろな性の受け止め方があるということが広まることを望んでいます。」

「静岡で働く前まで、僕もおなべと言われるのが嫌でした。でも今、僕が腑に落ちるのはおなべって言葉なんです」

「男になりたいと悩む自分を乗り越え、 おなべ と言えるようになりました」

昨年、お世話になった静岡のショーパブが閉店し、東京に戻ってきた。

現在は、体育の家庭教師をやりながら、LGBTの枠にとらわれない自由な生き方を発信する活動を行なっている。

「おなべやニューハーフ、ゲイ、レズビアンなどいろいろな立場の人が、トーク番組や討論会をしたら絶対に楽しいと思うんです。視聴者に同じおなべ(FTM)でも、実はいろいろな人がいるということを伝えたいですね」

小さな頃は、20才まで生きる自分を想像することはできなかった。

でも、今は20年後の自分をしっかりと考えることができる。

「20年後は、自由でありたいです。枠に縛られたり、何かを強要されたり、周りからの目を気にして小さくなってきた人生だったから、その枠を取っ払った僕として、いろいろな事と関わって沢山挑戦していきたいです」

固定概念や先入観に縛られない状態で、自分はこういう人間と主張する。

そんな姿を、はっきり想像することができる。

家族への感謝

中学生前後の家族との関係は最悪で、生きている感覚すらない生活が続いた。

高校生でGIDを知り、自分らしく生きる道を見つける。

男性として生きようとする自分を一番応援してくれたのが、実は家族だった。
「姉にカミングアウトするのは早かったですよ。中性に関する知識があって、僕が高校生の時に『あんた、そうなんじゃない』とか言われました」

姉は、親にカミングアウトする時に、応援して背中を押してくれた。

「妹は意外と理解が早くて、すぐに『お兄ちゃん』と呼んでくれたんです」

親戚からも「もっと早く言ってくれれば良いのに」と言われた。

「僕は、本当に恵まれました。今となっては、親族は何よりも大切な存在です」

今ではたまに、父親の晩酌に付き合う。「たいした会話はしないですよ。それでも通じ合えていると感じるんです」

最近の自分は、父親に似ているところがあると思いはじめている。そして、父親の後ろ姿を追っていると気づいた。

「お父さんと趣味が同じなんです。お父さんは昔ながらの物(骨董品やブリキ)が好きなんですが、僕もそう。不器用で素直じゃないから伝わりづらいけど、お父さんの考え方も尊敬しているんです」

親と衝突し、暗闇にいた時代には想像もつかなかった家族の姿。「その頃の僕に、こんな未来が待っているから大丈夫!と、言ってあげたい」

あとがき
披露されたダブルダッチのポーズは、なんとも軽快。おみごと!街ゆく人々の目をさらった■男子生まれの仲間と過ごせる時間、突きつけられた違い。The 男子にはめ込もうとした課題。自分で貼ったレッテルに向き合った時代。何が起こって、何を感じたのか、奏汰さんはとても鮮明に伝えてくれる■どのメッセージにも丁寧にそえられる「ありがとうございます」の言葉、大胆さやご機嫌な雰囲気・・・10代の奏汰さんとその頃のご家族にも届けたい。(編集部)

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