02 自分を形成する両親の教え
03 突然目の前に現れた “夢”
04 苦手なことに立ち向かう意味
05 トランスジェンダーである自分の未来
==================(後編)========================
06 隠し続けた女性である自分
07 女性として生きるための過程
08 性別を変える覚悟と最初の一歩
09 普通の女子大生で生きていくこと
10 “女子大生・楓ちゃん” の日常
01女子に囲まれて育った幼少期
リボン集めに交換日記
京都生まれ、福岡育ち。
父の転勤に合わせて、3歳で福岡県北九州市に移り住み、小学4年生で福岡市に引っ越した。
「京都生まれって言うとかっこいいけど、記憶はまったくないです(笑)」
1歳上の姉とは、いつも一緒に遊んでいた。
「北九州にいる頃は、いつも姉の友だちと遊んでいました」
「小学生になってからは、休み時間のたびに、姉の教室に遊びに行っていましたね」
姉の友だちは、全員女子。
シールやリボンを集めたり、交換日記をしたり、自然と女子の輪の中に入っていた。
「姉と競うように、シールとかリボン、おもちゃの宝石を集めていました」
「同級生の男の子と秘密基地を作ったこともあったけど、率先して一緒に遊ぶことはなかったです」
休み時間を、自分の教室で過ごす時は、ずっと絵を描いていた。
「教室の隅にいるような、地味な子だったかな」
「ずっと絵を描いていて、話しかけないでくれ、ってオーラを放っていたと思います(笑)」
幾何学的なラクガキ
幼い頃から、幾何学的な模様を描くことが好き。
ひたすらに三角形を描き続けたり、細かい模様を描いたり、抽象的な絵が多かった。
「幼稚園くらいの頃から、個性的な絵を描いていたみたいです」
「一見しただけだと、ラクガキっていう感じ(苦笑)」
「今でも、絵を描くことは好きです」
油絵具とポスカを使って描いた幾何学的な絵を、部屋に置いている。
幼い頃から目指している夢は「建築家になること」。
大学に入ってから驚いたことがある。
「昔描いていたラクガキと、建築の図面を描くプロセスが似ていて、びっくりしました」
大きな枠を描いてから、細かいところを詰めていくという進め方。
「ラクガキは、大きな四角を描いてから、細かい図形の向きや位置を決めていたんです」
「図面もグリッドを引いてから、どこを壁にするか、ドアにするか、決めていきます」
幼い頃、無意識にしていたことが、今役立っている。
02自分を形成する両親の教え
将来を考えたしつけ
両親は、厳しい人だった。
「食事の時に、ご飯茶碗を右側に置くと、すごく怒られました」
「味噌汁のお椀も、『持つ時は下に手を添えなさい』って言われていましたね」
ご飯粒を残すと、「自分が作った立場だったら嫌でしょ」と指摘された。
背筋が曲がっていると、「まっすぐにしなさい」と背中に定規を入れられた。
アニメ、漫画、ゲームは禁止されていた。
「厳しかったけど、ガミガミ言われる感じではなかったです」
「ダラッとしていると、ピシッと言われる感じでした(笑)」
両親は「きちっとしている方が、社会的に損しないからね」と、厳しくする理由を教えてくれた。
「私も、その言葉で納得していました」
「だから、反抗期もなかったです」
「昔は肘をつきながら本を読んだり、勉強をしたりしていたけど、今は絶対にしないですね」
「両親の教えのおかげだと思います」
文化的な母の影響
「母は、すごく教養のある人です」
母は高校卒業後、陶芸家の元で働いた経験があり、文化的なことに関心が高い。
幼い頃、休日には、よく美術館に連れていってくれた。
「その影響で、私も美術品を見ることが好きになりました」
「母が、お世話になった陶芸家さんの作品を大切にしている姿を見て、器にも興味を持ちました」
「普通のサラリーマン家庭なんですけど、美術館に行く機会は他の子より多かったですね」
「だから、絵を描くことも好きだったんだと思います」
「何かのタイミングが違っていたら、建築が趣味で、絵が本業になっていてもおかしくなかったかな」
心に刺さった父の一言
父は寡黙で、少し慣習的な人。
「息子は、父がいない時の大黒柱だ」と考える、古風なところがあった。
母の手伝いをするためにキッチンに立つと、「男子厨房に入るべからず」と言われた。
「普段は何も言わないんですけど、ときどき『男らしくしなさい』って言われました」
「ジェンダー的な意味ではなくて、『シャキッとしなさい』くらいの気持ちだったと思います」
「父の言葉は、あまり気にしていませんでした」
一つだけ、嫌な思い出として、心に残っていることがある。
小学校低学年の頃、父にキャッチボールに誘われた。
ほとんどスポーツの経験がなかった自分は、うまくボールをつかめなかった。
父に言われた、「男の子なんだから、キャッチボールくらい根性出して練習しなさい」と。
「結構キツい口調で言われたので、野球やキャッチボールに嫌悪感を抱いてしまいました」
「試合のテレビ中継を見るだけでも、嫌な気分になるんです(苦笑)」
その後も何度か父にキャッチボールに誘われたが、応えることはなかった。
03突然目の前に現れた “夢”
衝撃的な建物との出会い
小学2年生の時、子ども新聞に掲載されていた建物の写真に、目を奪われた。
黒川紀章が設計した中銀カプセルタワービル。
「東京に建っているへんてこなマンションなんですけど、老朽化とメンテナンスについて議論が起こっていたんです」
「私もマンションに住んでいたので、マンションにこんな可能性があるんだ、って感動しました」
両親に「すごく面白いマンションがある!」と、子ども新聞の記事を見せた。
「興味を持ったのなら、ちゃんと調べなさい」と、黒川紀章に関する書籍を買ってくれた。
「その本には、中銀カプセルタワービルがあの形をしているロジックが、書いてあったんです」
読み進めていくと、ユニークさやインパクトを求めて、建てられたわけではないことがわかった。
時代背景、土地の状況、条件を考慮して作られた結果、特殊な形になっていったのだ。
「大人向けの小難しい本でしたけど、センスだけの世界ではないことを知りました」
「自分の描いていたラクガキと共鳴するところもあって、建築に興味が湧いたんです」
明確に思い描いた目標
漫画は禁止されていたが、漫画以外の書籍は両親にたくさん買ってもらえた。
自然と、建築に関連した書籍や建築物の写真集を、読み漁るようになっていく。
「親にお願いして、黒川紀章が設計した福岡銀行の本社に連れていってもらったこともあります」
「中銀カプセルタワービルとは、見た目が全然違ったんです」
「同じ人が同じ感性で建てても、ロジックが違えば別の形になることに感動しました」
小学校の卒業文集には、「一級建築士の資格を取る」と書いた。
「建築家になること」が、夢になった。
建築家になるための準備
お正月にもらうお年玉をコツコツと貯めると、小学6年生の時点で11万円に達していた。
「中学に上がるタイミングで、iMacを買いました」
「パソコンが欲しかったわけではなくて、建築家のマネをしたかったんです」
雑誌や書籍に掲載されている建築家の写真の多くには、iMacが映り込んでいたのだ。
「形から入るタイプで、iMacを部屋に置けば建築家になれるんじゃないかなって(笑)」
パソコンの使い方は、まったく知らなかった。
とりあえず、フォトショップやイラストレーターなど、「建築家が使っているらしい」と聞いたソフトをダウンロード。
「最初はラクガキの延長線上みたいなお絵かきをしていたんですけど、触っているうちにハマりました」
「中学生の頃から使っていたので、大学に入る時点でかなり使えるようになっていて、得しましたね」
インターネットで、建築家になる方法も検索した。
「親に『大学では学びきれないらしくて、大学院まで行くから覚悟しといて』って言っていました」
「両親は『先生って呼ばれる職業だから、いいんじゃない』って肯定的でしたね(笑)」
04苦手なことに立ち向かう意味
衝撃の男友だちデビュー
小学3年生から4年生に上がる時、北九州市から福岡市に引っ越した。
転校し、交友関係ががらりと変わった。
「学校の雰囲気的に、姉の教室に遊びに行きづらかったんです」
同級生と仲良くなる以外の方法が、見つからなかった。
「気づくと、周りの友だちが男の子ばかりで、衝撃が大きかったです」
「遊戯王のカードゲームで遊ぶことも、ニンテンドーDSで対戦することも、知らないことばかりでした」
男子から「野球行こうぜ」と誘われるようになった。
しかし、自分はスポーツの経験がほとんどなく、道具も持っていない。
「バッドの持ち方もわからないし、ボールも投げられないから、だんだん誘われなくなりました」
自分のポジション
幼い頃、父から「スポーツの一つくらいしなさい」と言われたことがある。
その言葉がずっと引っかかり、自分の中でも「このままだとヤバい」という焦燥感があった。
「何かしら男の子の遊びを習得しないと、周りに馴染めない、って思っていたんです」
「スポーツもできないし、言葉もうまくなかったので、いじる対象になりやすかったんですよね」
クラスメートにからかわれていると、いつもかばってくれる同級生の男子がいた。
「その子に『スポーツができないから、一つくらいできるようになりたい』って打ち明けたんです」
「彼は地域のラグビーチームに入っていて、『最悪マネージャーでもいいから、入ってみないか』って誘ってくれたんです」
背中を押されて、ラグビーチームに入ったものの、ボールを投げることさえできず、落ち込んだ。
「コーチから『トロトロするな!』って怒鳴られていました(苦笑)」
「ただ、球技は苦手だったけど、足は速かったんです」
次第に足の速さが求められるフォワードを、任されるようになる。
「上半身は鍛えるな、速くなれ」と指導され、自分のポジションを見つけられた気がした。
チームに貢献するという快感
「それでも、私は何回もチームを辞めようとしたんです」
「そのたびに、誘ってくれた友だちが『足速くなってるんだから、続けよう』って励ましてくれました」
ラグビーは、中学3年生まで続けた。
しかし、フォワードしかできない自分は、他のポジションでは使いものにならない。
チームメイトに疎ましく思われないため、うまく立ち回らないといけない、と思った。
気づけば、副部長になり、練習メニューや戦略などを考える役割を担っていた。
ラグビーチームに入るまでは、会話が苦手だった。
「でも、意識的に周りとコミュニケーションを図るようにしていたら、マネージャーみたいな役割を任されたんです」
「選手としては最後までヘタだったので、よく辞めなかったなって思います」
中学最後の試合には、自分も出場し、見事優勝。
「自分が考えた作戦でチームが動いて、トーナメントを勝ち進んでいくことが快感でしたね」
05トランスジェンダーである自分の未来
男社会に対する違和感
北九州市にいた頃は、自分の性別について考えたことはなかった。
転校し、交友関係が男友だちだけになった時、初めて違和感を覚えたのだ。
「強制的に、男社会に放り込まれた感じでしたね」
「野球に誘われるのは嫌だったけど、行かないと『面白くないやつ』ってイジメの対象になるから、ついていきました」
「セクシュアリティとかはわからなかったけど、なんとなく違和感があったんですよね」
「男の子が嫌だったわけではなくて、自分が属する文化ではないって感じたんです」
姉と一緒にリボンやおもちゃの宝石を集める方が、楽しかった。
しかし、新しい環境で女友だちを作るという方法は、選ばなかった。
「女の子と一緒にいると『転校生は女たらしだ』みたいに言われちゃうので、踏み出せなかったです」
女子に話しかけただけで、「ヒューヒュー」とからかわれる環境。
いじられる対象になることは、避けたかった。
トランスジェンダーである気づき
小学生の頃、テレビではトランスジェンダーの芸能人が活躍していた。
はるな愛や椿彩奈を見て、自分もこの分類の子なんだ、とうっすら感じ始める。
ある時、一緒にテレビを見ていた父に、「・・・・・・こういう人になりそうだよな」と冗談交じりに言われた。
「父の言葉に傷ついたというか、言い出しにくくなってしまいました」
母や姉も「確かに、ちょっとナヨナヨしてるしね」と笑っていた。
「きっと両親も姉も、そんなことはないと思っているから、笑っていたんだと思います」
次第に、自宅のパソコンでトランスジェンダーについて調べるようになった。
男性から女性になっていく過程や、手術の方法などを、知ることができた。
「自分が誰なのかわかって、ホッとした気持ちでしたね」
「芸能人ばかりじゃないこともわかったし、違和感を抱いているのは自分だけじゃないんだって」
「具体的な方法を見つけられて、どんな方向で進めればいいか考えられました」
「女の子になりたい」という欲求
治療法を知ることで、先が見えた気がしたが、新たな疑問が生じ始める。
インターネットを通じて見たMTFは、「女の子になることが夢」という印象だった。
自分はそうではない、と明確に感じた。
「女の子になることって、コンディションの話だと思ったんです」
「『服を着たい』『メガネを掛けたい』に近いんじゃないかなって」
自分の夢である「建築家になりたい」とは、違う次元の欲求だと思った。
「『女の子になること』を夢にしているロールモデルには、違和感を覚えました」
女性として生きていきたいと強く感じたが、人生のテーマにしようとは思わなかった。
女性として生きながら、「建築家になりたい」という夢を実現させたい。
<<<後編 2018/01/19/Fri>>>
INDEX
06 隠し続けた女性である自分
07 女性として生きるための過程
08 性別を変える覚悟と最初の一歩
09 普通の女子大生で生きていくこと
10 “女子大生・楓ちゃん” の日常