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スポーツをめぐるジェンダーの課題。医師として、いま自分ができること【前編】

サッカー女子U-14日本代表の帯同ドクターとして活動する、整形外科医の貞升彩さん。 14歳の頃に、サッカーのドクターになると決めてから、その道を一直線に突き進んできた。普段は大学病院で整形外科医として働きながら、休日や長期休暇を利用して、サッカーの仕事に携わっている。「私にあるのは、サッカーへの熱と根性だけ。だからこそ、ここまで続けてこられたんです」と話す貞升さんに、スポーツをめぐるジェンダー問題と、現在の取り組みについて聞いた。

2019/06/30/Sun
Photo : Mayumi Suzuki  Text : Sui Toya
貞升 彩 / Aya Sadamasu

1984年、東京都生まれ。3人兄弟の長女として生まれる。10代の頃からサッカーファンであり、サッカーのドクターを目指して岐阜大学医学部に進学。千葉大学整形外科に入局し、整形外科医として勤務する傍ら、2012年から女子サッカーのドクターとして活動を始める。性同一性障害の治療と競技の両立がうまくできず、悩む選手が少なくないことから、トランスジェンダーに関する調査も進めている。

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INDEX
01 女子サッカーとLGBT
02 才能の有無
03 サッカーだけが救いだった
04 HIVウイルスの授業
05 理想と現実
==================(後編)========================
06 サッカードクターの責任
07 気づき
08 新たな取り組み
09 FTMのサッカー選手が競技を続けるには?
10 世界に目を向けて

01女子サッカーとLGBT

サッカーの魔法にかけられて

子どもの頃からサッカーを観るのが好きだった。

弟がクラブチームに入っていたため、テレビでJリーグの試合を観ることも多かった。

しかし当時は、「サッカーは男の子の競技」というイメージを持っていた。

13歳のとき、初めて国立競技場でサッカー日本代表の試合を観戦した。対中国戦だ。

感動した。

こんな世界があるんだ、と感じた。

「特に感動したのは、ミッドフィールダーとして活躍していた名波浩選手のプレーです」

「名波選手がワールドカップの代表に選ばれたときは、興奮しましたね」

「大好きで、ポスターも持ってました(笑)」

医師を目指した理由

14歳のときにFIFAワールドカップが開催された。

それをきっかけに、将来はサッカーに関わる仕事をしたいと考え始める。

「私はサッカーをやっていなかったし、プレーヤー向きでもないと思っていました」

「だから、ベンチに入るような仕事がないか探したんです」

当時はインターネットがなかったため、情報源はスポーツ新聞やスポーツ誌。

記事を読み、スポーツドクターという仕事があることを知って、医者を目指そうと決めた。

「サッカーって、貧しい国でもできるスポーツなんです」

「世界共通のスポーツであり、世界中どこへ行ってもサッカーの話ができる」

「それが、サッカーの一番の魅力だと思います」

性同一性障害に悩む選手たち

女子サッカーのドクターとして活動をスタートしたのは2012年。

その前年に、女子日本代表チーム「なでしこジャパン」がFIFA女子ワールドカップで優勝。女子サッカーの人気が高まりつつあった。

「活動を始めてから、女子サッカーには性別違和に悩むプレイヤーが少なくないと気づいたんです」

「選手から直接相談を受けたわけではなかったんですけど・・・・・・」

「話している内容を聞いて、あれ? と思う瞬間が何度かあったんですよね」

「ホルモン治療を受けたい」という理由で辞める選手もいる。

監督やコーチなど、指導者の知り合いが増えると、そういった相談を受ける機会も増えた。

「ホルモン治療について、スポーツ界では、指針やルールがまだはっきりとは決められていません」

「スポーツに取り組む権利は、誰にでも平等にあるものです」

「選手の性が揺らいでいる時期に、性同一性障害の治療とドーピングについて考えていくのも、医師の仕事だと思っています」

02才能の有無

将棋の妹とサッカーの弟

3兄弟の長女として、東京都府中市に生まれた。妹とは2歳、弟とは4歳離れている。

妹は中学生の頃から将棋の大会に出ており、弟は小学生の頃からサッカーのクラブチームに入っていた。

「妹は女流育成会に入っていましたし、夏休みは大会に出るため地方に遠征することもありました」

「弟もそこそこ強いチームに入っていたので、遠征することが多かったんですよね」

両親は、妹や弟の付き添いで精一杯。

「週末に家族そろって過ごすことは、ほとんどありませんでした」

自分には、何かずば抜けてできることがひとつもなかった。
才能がなければ続けなくていい、というのが両親の考え方。

中学生のときに入部した吹奏楽部も、母の言葉に従い途中で辞めた。

「お金と時間の無駄だからやめなさい、って母に言われたんです」

「普通ならそこで、『私の可能性を奪った』って反発心が芽生えますよね」

「だけど、弟と妹を見ていると『・・・・・・そうだよな』って納得できちゃったんです」

「自分には何もないなと思って」

何かひとつ、熱くなれるもの

妹は勉強ができるほうではない。しかし、「ぷよぷよ」などのパズルゲームをやらせると、すさまじく強かった。

「勝とうっていう気になれないくらい、頭のつくりが違うんです」

「妹を見ていて、何かひとつでもずば抜けたものがあるといいなって思ったんですよね」

何かひとつ熱くなれるものを探そう。
そう考えて、たどり着いた答えが、サッカードクターの仕事だった。

「母からは、医者になることを反対されていました」

「働き始めてからも、『早く仕事を辞めて、結婚しなさい』ってずっと言われていたんです」

「いわゆる “女性としての幸せ” を、つかんでほしいと思っていたのかもしれません」

「最近は、仕事を応援してくれますけどね(笑)」

母とは逆に、父は最初からサッカードクターになるという夢を応援してくれた。

「地方までサッカーを観に連れて行ってくれたこともありました」

「父とは、いまでも一緒にサッカーを観に行くことがあります」

03サッカーだけが救いだった

問題児クラス

小学校に入学するとき、ピンク色のランドセルをねだった。

「子どもの頃から、背がとても小さかったんです」

「ピンク色のランドセルなんて背負ったら、絶対にいじめられると母に言われました」

女の子は赤色のランドセル、という考え方が当たり前だった時代。

それでも、ピンクじゃなきゃ絶対に嫌だと母に訴えた。

幸いなことに、いじめに遭うこともなく、小4までは穏やかな日々を送っていた。

しかし、小5のときにクラス替えがあり、問題児ばかりが集まるクラスに。

「クラスに入った瞬間に、これは完全にいじめられると思いました」

「ところが、問題児たちと仲良くなって、気づいたら私も一緒にはしゃいでたんです(笑)」

「学校で音も消さずにたまごっちをやっていて、怒られたり殴られたりしたこともあります」

その頃、母は学校から頻繁に呼び出しを受けていた。

最初はその度に母から怒られていたが、そのうち「先生がムカつくなら、勉強で見返しなさい」と言われるようになった。

成績が良ければ、先生だって何も言えないだろう。

そう考え、コツコツ勉強に取り組んだ。

私もワールドカップに行く

中学生になっても、成績は上位を維持していた。

しかし、先生の言うことをよく聞く優等生とはとても言えなかった。

「当時、仲が良かったのは、サッカー部の不良っぽい子たち」

「煙草を吸うとか、そういうことはしなかったけど、先生には反発してましたね(苦笑)」

「生意気な口のきき方をして、出席簿で頭を叩かれたこともあります」

仲の良かった子たちは皆、サッカーのレベルが高かった。
フットサルの日本代表に選ばれるような子もいた。

「サッカーをやっている人は、皆がプロを目指すんだと思っていました」

「そのくらい、周りのレベルが高かったんですよ」

「人生において、彼らの影響はすごく大きかったと思います」

府中市は、昔から女子サッカーが盛んな地域だ。

澤穂希選手は、隣の小学校出身。彼女に憧れてサッカーを始める女の子も多かった。

そんな環境下にあっても、プレーヤーになろうと考えたことは一度もなかった。

1998年のFIFAワールドカップ後、「私もワールドカップに行く」と友だちに宣言した。

当然ながら、「お前、サッカーやってないから無理じゃん」と言われる。

「私はドクターになってベンチに座る」
「選手たちをサポートするために、ワールドカップに行く」

初めて自分の夢がはっきりと見えた。

04 HIVウイルスの授業

日韓ワールドカップと大学受験

高3のとき、日韓ワールドカップが開催された。

受験生にとって大事な夏休み。頭ではわかっていながらも、観に行かずにはいられなかった。

「全然勉強していなくて、親にすごく怒られました」

「案の定浪人したんですけど、第一志望校には受からなくて、国立で入れそうだった、岐阜大学の医学部に志望校を変えたんです」

6年間の大学生活で、最も印象に残っているのが、HIVウイルスに関する授業だ。

「厚生労働省に一時期勤務していた、血液内科の先生の講義があったんです。その先生が、エイズのことをいろいろ調査していたんですよね」

男性の同性愛者にHIVが多いことを知る。

レズビアンやゲイの存在は知っていた。
しかしそれまで、身近にそういう人がいると考えたことはなかった。

「先生から、同性愛者は皆が思っているより多いと言われたんです」

「自分のクラスに何名くらいるのか、ザッと計算したことを覚えてます」

同じカルテは存在しない

大学卒業後は、千葉大学整形学科へ入局。

医師として働き始め、これまで多くの患者と接してきた。

カルテを見ると、患者の病歴だけでなく、性的指向や性自認、家庭環境まで見えてくることがある。

「見た目が女性でも、カルテには男性と記入されている場合もあります」

「私は整形外科医なので、虐待を受けた子どもの治療に当たることもありますね」

いろいろな人がいて、それぞれ別の人生を生きている。

「職業柄なのか、マジョリティー/マイノリティーで区別する考え方が、私にはないんです」

「完全に同じカルテの人は、この世に存在しませんから」

05理想と現実

女子日本代表チームへの帯同

千葉大学整形学科を選んだ理由にも、やはりサッカーが関係している。

「日韓ワールドカップでドクターを務めていたのが、千葉大学の整形学科の先生だったんです」

「それに憧れて、千葉大学を選びました」

サッカーのドクターとして活動するためには、人脈がカギになる。

知り合いの先生を通じて仕事をもらったり、講習を受けに行ったりするなど、休日をすべてサッカーの活動に当てるめまぐるしい日々が続いた。

「サッカーへの熱い気持ちがあったからこそ、続けてこられたんだと思います」

これまで、大学生のオリンピックと呼ばれる「ユニバーシアード」の日本代表チームや、14歳以下のナショナルチームである「U-14サッカー日本女子代表」のドクターとして、試合やトレーニングに帯同してきた。

「最近は、トラブル防止のために、女子チームには女性のドクターをつけようという流れになっているんです」

女性の整形外科医は少ないため、女子チームにエントリーされるのは必然。

サッカーのドクターとして活動するために

1年のうち、サッカーのドクターとしてチームに帯同するのは、1、2ヵ月だ。

しかし、あくまで主たる業務は整形外科医だ。

「大学病院で外来や手術に対応するほか、外の病院で非常勤として診察に当たることもあります」

「膝の軟骨の培養をするなど、研究も行っていますね」

「それらをしっかりこなさなければ、サッカーのドクターとして活動するのは難しいんです」

医療は健康な人のためではなく、病気やケガをしている人のためにある、というのが日本における医療の考え方だ。

医師が少ないせいもあり、日本では病気を患っている人を優先するのが当然という考えが一般的。

「スポーツドクターってカッコいいイメージがありますが、実際は肩身が狭いんですよ(苦笑)」

「仲間内で、ちょっと白い目で見られるようなことも、たまにあります」

「サッカー以外の競技でも、スポーツドクター1本で仕事を続けるのは、日本では難しいと思いますね」

 

<<<後編 2019/07/02/Tue>>>
INDEX

06 サッカードクターの責任
07 気づき
08 新たな取り組み
09 FTMのサッカー選手が競技を続けるには?
10 世界に目を向けて

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