02 才能の有無
03 サッカーだけが救いだった
04 HIVウイルスの授業
05 理想と現実
==================(後編)========================
06 サッカードクターの責任
07 気づき
08 新たな取り組み
09 FTMのサッカー選手が競技を続けるには?
10 世界に目を向けて
06サッカードクターの責任
ケガや感染症への対応
サッカードクターは、トレーニングや試合に帯同し、選手がケガをした際の対応と、試合に出られるかどうかの見極めを行う。
ケガの度合いによっては、ドクターストップをかけるだけでなく、監督やコーチへ相談し、帰国を促すこともある。
海外遠征の際は、感染症対策もドクターの仕事。
遠征先が南米やアフリカの場合、感染症によってお腹を壊したり、高熱が出たりすることも多いからだ。
どれほど過酷な気候の地域でも、基本的に外に出て、練習中の選手の様子を見ながらコンディションを見極める。
「U-14など育成年代の場合、100%のコンディションでなければ、試合には出場させないんです」
「たとえチームの主力でも、その子がケガをしているなら、100%の状態の選手を使う。それが、いまの日本サッカー協会(JFA)の方針です」
「注射で痛みを散らしてまで出場させるという例は、育成年代ではあまりありませんね」
アンチ・ドーピング
サッカーのドクターとして、一番責任を持たなければならないのは、アンチ・ドーピングの啓発だ。
柔道やレスリングなどの個人競技に比べ、サッカーのようなチーム競技では、ドーピング検査の対象として選ばれる割合も低くなる。
そのぶん、個人競技の選手に比べて、ドーピングに対する認識が甘くなってしまうこともある。
「サッカーは、ドーピングが必ずしも勝利に直結しないスポーツです」
「スタミナが増強されて、たくさん走れたとしても、それでチームが勝てるわけじゃないですから」
「だから、薬に頼ってまで強くなろうという、サッカー選手はほとんどいないと思います」
怖いのは、禁止物質を含む風邪薬や食べ物などをうっかり口にしてしまう「うっかりドーピング」だ。
ニキビの薬など塗り薬にも、禁止物質が含まれていることがある。
「選手が飲んだり食べたりするものまで、すべて私が管理することはできません」
「何に気をつければいいか、なぜ気をつけなければいけないか」
「うっかりドーピングにならないためには、何度も伝えるしかないんです」
誰か一人がドーピングに引っ掛かった場合、チームメイトに迷惑がかかる。
オリンピックやユニバーシアードの場合、日本選手団全体の足を引っ張ることにもつながるのだ。
ドーピングをしていると見なされれば、未成年以外は名前が公表される。
サッカーを辞めた後も、汚名がずっとついてまわる。
「病気のない子には、風邪薬は飲むな、塗り薬はつけるなって教えてます」
「冷酷なようだけど、不調の程度によっては、水分だけ取って寝てなさいって」
「それでも病院に行く子はいるので、自分はドーピング検査を受ける立場であることを、医師にも薬剤師にも伝えるように伝えてます」
「それだけ口を酸っぱくして言っても、なかなか浸透しないのが現実ですけどね」
トップクラスで生きていくつもりなら、普段から自覚を持ってほしいと、くどいくらい何度も伝える。
「それは、ドクターとして責任を持つべき部分だと思っています」
07気づき
好きな人の話
2012年に女子サッカーに関わり始めた当初、現在の取り組みにつながる、ちょっとした出来事があった。
「車で遠征先に向かっていて、トレーナーさんが運転席、私が助手席に座っていたんです」
「後部座席には女子選手が3人座っていて、おしゃべりしてたんですね」
「そのときに、1人の子が、同じサッカー部の先輩が好きになったと話し始めたんです」
自分も話に加わろうと思ったところで、ふと、その子が女子大に通っていることを思い出した。
女子大で先輩を好きになるってどういうことだろう?
女子大に男子のサッカー部があるのかな?
いろいろ思考をめぐらせたが、よくわからない。
それまで、選手の中に、トランスジェンダーやレズビアンの子がいるという話を聞いたことはなかった。
「女子サッカー選手には、ボーイッシュな子も多いし、もしかしたらトランスジェンダーの子も一定数いるのかもしれないと思いました」
「論文を調べてみようと、いろいろなワードで検索してみたんですけど、当時は全く引っ掛からなかったんですよね」
「私の勘違いなのかなって、1人で2年間くらいずっと悩んでいたんです」
指導者の悩み
ユニバーシアードやU-14など、日本代表レベルのチームに帯同する機会が増えていき、サッカー指導者と出会う機会も多くなった。
あるとき、大会の打ち上げの席で、指導者の一人から、選手への対応について相談を受けた。
「男になりたいから、サッカーを辞めてお金を稼ぎたい」
「アメリカに行って性別適合手術受ける」
その選択を止める権利はないため、選手には「いいよ」と言うしかない。
しかし、その子は両親にカミングアウトしておらず、監督としてどう対応していいか悩んでいるという話だった。
「その相談を皮切りに、ほかの指導者の方からも、同じような相談を受けるようになったんです」
「初めのうちは、専門じゃないのでわかりませんって答えていたんですけど・・・・・・」
「ある指導者の方から『サッカーの現場に出たら、整形外科とか精神科とか関係なくない?』って言われたんです」
その言葉をきっかけに、調査をしてみようと思い始めた。
08新たな取り組み
アンケート調査
現在、サッカーのチーム関係者を対象に、意識調査という形でアンケートを実施している。
トランスジェンダーという言葉を知っていますか?
IOC(国際オリンピック連盟)が設けている、トランスジェンダーに関わる規定を知っていますか?
いままで関わってきた選手の中で、性同一性障害と診断された人や、性ホルモン治療を受けたことがある人はいますか?
トレーナー200名、ドクター200名へのアンケートを終え、次は監督やコーチなど、指導者にアンケートを取る予定だ。
「アンケートを回収するタイミングで、トレーナーさんから『実はけっこう悩んでたんだよね』って言われることもあります」
「古株のドクターから、『昔から女子サッカーに関わってきて、どうしたらいいか、いつも困ってたんだよね』と言われたことも」
「国際大会前のメディカルチェック時に、『生理の話をされるのが、嫌で嫌でたまらない』と言っていた選手がいたという話も聞きました」
アンケート調査を始めた当初は、あまり好意的でない意見を寄せられることも多かった。
「なでしこジャパンが優勝し、やっと競技人口が増えてきたタイミングなのに・・・・・・」
「女子サッカーに、トランスジェンダーが多いといったイメージを持たれたくない」
そうはっきり言うサッカー関係者もいた。
「当初そう言っていた方も、最近は『すごく勉強になります』と声をかけてくださることが多くなりました」
「そういう選手がたくさんいるのはわかっていたけど、いままで目を背けてきたから、って」
「アンケート内の言葉がわからなくて、自分の無知を恥じます、と仰っていた方もいらっしゃいましたね」
スポーツを取り巻くジェンダーの問題
今後は、選手に対してアンケート調査を行うことも視野に入れている。
「やっぱり、選手自身がどう感じているのか、何かしら調査をしなくちゃいけないと感じてます」
「大学機関には、スポーツを取り巻くジェンダー問題について研究している人も、一定数います」
「ただし、実際に選手と密に関わっている研究者は、ほとんどいないという状況なんです」
「現場の認識と、研究者の方々が仰っていることのギャップが大きいんですね。そこを埋めていかなければいけない、と感じています」
アンケート調査を始めてから、さまざまな職種の人と知り合う機会が増えた。
スポーツ法学に詳しい弁護士や、精神科のドクターと話をすることで、新しい知識を得ることも多い。
「サッカーは、世界的に人気があり、発信力も大きいスポーツです」
「ジェンダーの問題は、すべてのスポーツに関わってきますが、まずはサッカーで何かひとつ始められたらいいですね」
「さまざまな方に協力をあおぎ、コマを次に進めたいと思ってます」
09 FTMのサッカー選手が競技を続けるには?
トランスジェンダーFTMをめぐるアメリカの事件
トランスジェンダーの選手が、性別適合手術を受けた後も競技を続けたいと願う場合、どういった手続きを踏めばいいか。
日本では、いまのところ規定が定められていない。
「2017年にアメリカで、ホルモン治療を受けた選手が、高校レスリング大会の女子の部で優勝しました」
「アメリカでは、大学生の選手の場合、男性ホルモンを打ったら男性として出場する、という規定が定められています」
「でも高校生はその規定がないので、その選手は女子の部にしか出場することができなかったんですね」
この試合結果は物議を醸し、その選手は世間から攻撃を受けることになった。
公平性に反する行為を行ったとして、顔や名前がメディアにさらされたのだ。
「このような事件は、今後日本でも起き得ることだと思います」
「明確な規定がなかったために、選手の顔と名前、それからジェンダーに関することが世間にさらされる」
「そういった事態が予想できるならば、いまのうちに、何か防止策を打つべきではないでしょうか」
トランスアスリート
トランスアスリートという、ホルモン治療と競技継続に関する各国の規定がまとめられたサイトがある。
このサイトを見ると、アメリカやカナダ、ドイツ、イギリス、ニュージーランドなどでは、規定が細かく定められていることがわかる。
残念ながら、アジア圏で、ホルモン治療について明確な規定を定めている国はまだない。
「IOC (国際オリンピック連盟)では、MTFに対して、女性ホルモンの投与の基準を定めています」
「最近では、その規定を悪用している選手がいるという噂も聞きますね」
女性ホルモンを打っても、身長や肩幅など体格は以前のまま。
男性アスリートとしては成功できなくても、女性アスリートとしては活躍できる可能性がある。
「実際に、女性として試合に出場し、国によっては大金を得ている選手もいます」
「勝利が生活に直結するような国では、今後も起き得ることですよね」
外見を見ても、心の中はわからない。本人が「私は女です」と言えば、周りは信じるしかない。
FTMの場合は、さらに複雑だ。
ホルモン治療を受けると、筋力が増す。そのまま女子選手として競技を続けた場合、公平性が揺らぐことになる。
「トランスアスリートでは、FTMに対する規制のリストを閲覧することができます」
「男性ホルモンを打った時点で、値に関係なく、男性として競技に参加するよう規定している競技もありますね」
10世界に目を向けて
トップアスリートからレクリエーションレベルまで
新しく何かを決めようとすると、どうしてもひずみが生じる。
そのひずみのせいで、苦しい思いをする人も、一定数出てくるだろう。
「ホルモン治療の問題は、実はトップアスリートだけに関わるものではないんです」
「例えば、男性ホルモンを打った女子生徒が、陸上で好成績を残した場合、進学に有利に働くこともありますよね」
「スポーツ推薦もあれば、中高生は学業だけではない評価軸もありますから」
学校レベル、レクリエーションレベルでも、スポーツの公平性というものを考えていかなければならない。
サッカーのドクターになることを夢見ていた14歳当時、まさかジェンダーの問題に深く関わることになるとは思ってもいなかった。
「LGBTという言葉が知られるようになり、日本でも、男女という境が揺らいできていますよね」
「スポーツでも、男性、女性という2つの型にはめることが、もう難しくなってきています」
「私の中でも、これが正しいという解があるわけではありません」
「女子サッカーに携わる医師として、いろいろな人たちを巻き込みながら、スポーツとジェンダーの問題について考えていきたいですね」
世界には多様な価値観がある
選手から、ジェンダーに関する悩みを受ける機会も、少しずつ増えてくるだろう。
「サッカー選手だけでなく、セクシュアリティに悩むすべての人に伝えたいのは、世界に目を向けてほしいということです」
「つらいことがあっても、世界規模で捉えれば、案外楽になることも多いですから」
狭い価値観の中で生きるのではなく、世界にはいろいろな価値観があることを知る。
その大切さを学んだのは、サッカーのドクターを目指し始めたのと同じ、14歳のときだった。
「14歳のときに、初めて海外に行ったんです」
「親から『タダだから、試験を受けて行ってみたら?』って勧められて、府中市主催の研修会に参加したんですよね」
「試験に合格して、カナダに2週間行きました」
いまいる場所や価値観がすべてじゃない。世界はこんなにも広いと知る。
多感な時期に、世界を感じることができたのは、幸運だったと思う。
大学進学後は、勉強の合間にたくさんのバイトをこなし、お金が貯まったら海外に行っていた。
「最近では、サッカーの仕事の関係で、いろいろな国の人と接する機会も増えてきました」
「SNSやメールで、海外の友だちと連絡を取り合うことも多いですね」
日本では、男子サッカーに比べ、女子サッカーの人気はまだまだ低い。
プロとして活躍する女子選手は、ほんの一握り。仕事をしながら競技を続ける選手も大勢いる。
しかし、ワールドカップで一度優勝したなでしこジャパンは、世界ではリスペクトされる存在だ。
南アフリカの選手の中には、日本と練習試合ができるだけで、涙を流すくらい喜ぶ選手もいた。
「いろいろな国の人と接して話すと、日本ってこういうふうに見られているんだなと、新しい発見をすることがあります」
「狭い場所にしがみつかずに、視野を広く持って」
「それは、日々、自分にも言い聞かせている言葉でもありますね」