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Aジェンダーとかトランスジェンダーとかに縛られず、「意外と自由に生きていける」【前編】

ボーダーTシャツに7分丈パンツ、という爽やかな出で立ちで現れた近藤雨さん。ケラケラと軽快に笑い、180センチを超える高身長ながら、その身にまとう空気もまたふわっと軽やか。自分の体の男性的な部分を嫌悪しつつも、当時没頭していた競技のためには筋肉質であることはよしとし、性別適合手術を受けたいまも、「女性」になることをどこかであきらめなければと考えている。相反するかのように思われる要素を、静かに分析し、自分の考えへと落とし込む。その視点は、第一印象と同じくスッキリとクリアだった。

2023/12/30/Sat
Photo : Mayumi Suzuki Text : Kei Yoshida
近藤 雨 / Ame Kondo

1991年、大分県生まれ。幼稚園児の頃に男女の体の違いを知り、自分の体に違和感を抱く。小学校4年生からセーリング(ヨット)を始め、高校生で国体に出場して準優勝を果たす。2010年のイギリス留学をきっかけにLGBTやトランスジェンダーの存在を知り、ホルモン治療や性別適合手術について調べる。2013年からホルモン治療を開始し、2016年に精巣を摘出、さらに2021年に性別適合手術を受け、戸籍の性別を変更する。2023年からは、北海道の羅臼町に地域おこし協力隊として移住。

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INDEX
01 ヨットのオリンピック選手を目指して
02 自分の体に対する嫌悪感
03 女性になりたいという気持ち
04 ヨット漬けの学生生活から開放的な海外生活へ
05 性別を変える方法
==================(後編)========================
06 思いがけないアウティング
07 大学で立ち上げたLGBTサークル
08 ようやく受けた性別適合手術
09 AジェンダーもしくはXジェンダー
10 自分のなかのジェンダーバイアス

01ヨットのオリンピック選手を目指して

父と一緒にヨットの遠征へ

生まれは大分県大分市。

父と母と3つ年下の弟の、4人家族で育った。

「両親とも優しいんですが、躾には厳しかったですね。よく叩かれました」

「うちは田舎の武士の家系なんですよ。だからかな、厳しさの度が過ぎることもあって(苦笑)」

「いちばん度が過ぎてたのは、自分が高校生のとき、夜中まで起きてたら、『いつまで起きてるんだ!』って父がガラステーブルを放り投げて、バリーンッ! てなったことがありました(笑)」

そんな父とは、いろんな場所へ一緒に行った思い出がたくさんある。

「ほとんどがヨットの遠征でしたけど。小学校4年生から地域のジュニアヨットクラブに入っていて、父には遠征についてきてもらってたんです」

「九州はヨットが盛んで、自分もいちおう、ユースの日本代表として世界選手権に出たんですよ。その結果は散々でしたけど(笑)」

セーリング競技(ヨットレース)では1人乗りのシングルハンドクラスの選手として、さまざまな大会に出場していた。

「ヨットはめちゃめちゃ楽しいです。セイルを操作してると、だんだん自分の体とヨットが一体化してくるんですよ」

「風の強さとか波の高さ、潮の向きとか、いろんな気象状況に合わせて、全身を使ってコントロールしていくのが楽しいんです」

休みの日は従姉妹と

体を動かすのが好きだとか、スポーツが好きということではない。
ヨットだけが好きだった。

「体育の授業は苦手でしたね。団体競技は好きじゃないんですよ(苦笑)」

「昼休みとかにサッカーとかバスケとか『一緒にやろう!』ってクラスメイトに誘われるじゃないですか。あれがマジで苦痛でした」

ヨットの練習と遠征、そして学校の授業で、毎日のスケジュールにはほとんど余裕がなく、クラスメイトたちと過ごした思い出は、あまりない。

たまの休みには、近所に住んでいる従姉妹と遊ぶくらいだった。

「平日も学校から帰ったら監督と海で練習・・・・・・って感じで」

「その頃はやっぱり、オリンピックに出たいなって思ってました」

「ほぼヨット一色の毎日でしたね」

02自分の体に対する嫌悪感

ソレがあることがイヤ

男女で体に違いがあることに気づいたのは幼稚園の頃だった。

「パンツ一丁になってみんなで遊んでて、あれ? って」

「男児用と女児用では、パンツの形が違うじゃないですか。それで、体の違いに気がついたんですよ、初めて」

「それからは、ソレがあることが、すごくイヤになってきて、ず―――――――――――っと、イヤでした」

自分の体に、生まれたときから備わっている男性器。

なくなってしまえばいいのに、と思うが、それがそのまま「女性になりたい」という気持ちだと、はっきりとは言い難い。

「いまどきの女の子たちをみると、うらやましいなって思うんですが、そこまでして女性になりたいってわけでは・・・・・・。うーん、そこは迷い中というか、クエスチョニングって感じなんですよ」

「なにを求めているのか、いまもよくわかってないんですけど」

「とにかく、自分の体の男性的特徴は、すべてイヤでした」

自分は「男子」じゃない

小学校のときには “好きな女の子” もいた。
中学校では「かわいいな」と憧れた女の子も。

しかし、その感情が恋愛だったかどうかはわからない。

そもそも、自分が男性というカテゴリーにいるのが不快だった。

「ヨットのレースも、男女で分かれてるんですよ。だから、国体で入賞しても準優勝しても、男子での結果」

「なんか引っかかるというか、うれしくない・・・・・・いや、うれしいんですけど『そこで勝ってもな』って気がするんですよ」

自分は違う。こっちじゃない。男子じゃない。

そっちなんだ。

「結局は女性に憧れているというか、そっちでいたいって気持ちがあるんですけど、現実的に考えて、無理だろうから・・・・・・」

「その頃は、手術したら性別を変えられるとか、性同一性障害(性別違和/性別不合)という言葉さえも知らなかったし」

テレビで見ていたオネエやニューハーフは、職業のひとつとして理解していて、自分との共通点は見出せない。

「初めて性同一性障害というものを知ったのは、高校生のときに読んだ椿彩奈さんの著書です。表紙がかわいかったので買ったんですが、読んでみて『おぉっ! 手術したら性別を変えられるんだ!』ってなりました」

03女性になりたいという気持ち

男性化していくのを止めたい

体に対する嫌悪感などお構いなしに、成長していくにつれ、自分の体は次第に “男性らしく” 変化していく。

「すね毛が生えてきたのが、すごいイヤでしたね・・・・・・」

「自分で剃ってましたけど、これ以上男性化していくのを、なんとかして止めたいって思ってました」

「声変わりもイヤでした」

「家のソファに座ってたら、割といきなり、高い声が出なくなって」

「でも自分は、ヨットをやっていたってこともあって、どちらかというと体は筋肉質になっていったほうがよくて・・・・・・だから、そこまで気にならなかったっていうのはあったかも」

「あと、胸はいらないんです。ぺちゃんこにしたい。そういうのってMTF(トランスジェンダー女性)では珍しいですよね、きっと」

自分は明らかに変態

それでもやはり、女性になりたいという気持ちがなかったわけではない。

「いや、たぶん、なりたかったんですよね」

「小学生のとき、従姉妹と一緒に祖母の家に泊まって、みんなが寝てるあいだに従姉妹の服を着たこともありました。やばいですね(苦笑)」

「女の子の服を着たいという気持ちは、ずっとあって。でも着てみたら、やっぱし似合わないなって思っちゃって」

ヨットの練習を抜け出して、ひとりで近所のデパートに行き、スポーツブラを買ったこともある。

「当時、スポーツブラなら、男の子でもギリ買えるかなって思ったんでしょうね」

しかし、それは誰にも言えない秘密だった。

「こんなことしてるのは、絶対に世界中で自分だけだろうって思ってました。自分は、明らかに変態だ、って」

「家族には絶対言えなかったですね」

九州という土地柄もあったのか、幼い頃は「男の子は男らしく」と育てられる風潮が強かった。

「従姉妹が『ピーマン嫌い』って言っても許されるのに、自分が言ったら『男の子なんだから食べろ』って言われたり」

「従姉妹が泣いていてもいいのに、自分が泣いたら『男の子だから泣くな』って言われる。そういう圧力が性自認に影響してるのかな・・・・・・とは思ったりしなくもない。わかんないですけど」

04ヨット漬けの学生生活から開放的な海外生活へ

母が提案してくれた新天地

小学生と中学生のときはジュニアヨットクラブに所属し、高校へはスポーツ推薦で入学し、ヨット部に入部する。

「高校生になっても、ヨットが好きでしたね。その気持ちは変わらなかった。もうやめたいって思ったこともなかったです」

大学は半年で中退。ヨットもやめてしまった。

「そんなときに、母が『留学でもしてみたら』って言ってくれて」
「半年だけイギリスに留学しました」

イギリスで世界がひらけた

滞在先はブリストル。ジャマイカ人の家庭にホームステイした。

「そこでテレビを観てたら、ゲイパーティに関する番組をやってたんですけど、『こういうのはふつうだよ』って、みんなが話してて」

「そこからですね、ゲイとかLGBTのことを知っていったのは」

大学を中退するまではヨット一色の毎日だった。

自分の体への嫌悪感も、性別に関する悩みも、ヨットへの情熱の陰に隠しておくことができた。

しかし、ヨットをやめて、言葉も生活習慣も異なるイギリスに来て、一気に世界がひらけた感覚があった。

「それまでは、自分の性別についてはふたをしていたのかも」

そのふたが、いま開いたのだ。

05性別を変える方法

男子だから男子らしくないといけない?

「イギリスで生活しているうちに、もっと自由に生きていいのかなって思うようになりました」

「ブリストルはバンクシーが生まれた街ということもあって、至るところで壁画が見られるんですよ。そういうのも、自由な感じがしました」

「それまでは、男子だから男子らしくないといけないとか、そういう考え方にすごく縛られていたんだと思います」

ある年末年始、祖父母の家で従姉妹と一緒に、こたつに入って話しているとき、ふと従姉妹が「男の子に生まれたらよかった」と言った。

「自分は女の子に生まれたかったけどね」

「そんなふうに、割と本気で言ったんですけど、冗談半分にとられたんだと思います、そのときは」

「それが最初のカミングアウトかな・・・・・・」

帰国後は、国際的な環境で学ぶため、立命館アジア太平洋大学に入学。

その頃には、自分自身の性別に対する考えも深まってきていた。

「Facebookで、自分がどういう人間かっていうことを書いたりもしました。小さいときから体の男性的な部分がイヤで、いわゆる女性が好きになるようなものが好きだし・・・・・・というようなことを」

診断書を書いてもらえない

トランスジェンダーMTFの当事者によるブログも読んだ。

「2012年の2月くらいだったと思います。ホルモン治療を始めている人のブログを読んで、あ、自分もやれるんだって思って」

「それから、どうやって性別を変えていくのかってことをすごい調べて。近くの大学病院で診断書を書いてもらおうと思って、予約したんです」

当時、大学病院で診断書を書いてもらうのには、1年ほどかかるものだ、とネットの情報にあった。

しかし、実際にはそれよりもずっと時間がかかってしまう。

「あの頃の自分・・・・・・。若くて細くて、あの状態で生きていたかったんですよ。なのに、なかなか診断書を書いてもらえなくて」

自分は性同一性障害として見てもらえないのか?
どちらかというと男性っぽい見た目のせいなのか?

予想以上に時間がかかるのは、外見のせいかと気になった。

しかし理由は別にあるようだった。

「親が病院に連絡して、『絶対に、うちの子に、診断書を出さないでください』って言ってたらしいんですよ、自分の知らないところで」

大学病院を受診したことは、両親には伝えていない。
友だち限定のSNS投稿で治療のことを書いてはいたが・・・・・・。

そのときは、なぜ両親が治療のことを知っていたのか見当がつかなかった。

 

<<<後編 2024/01/06/Sat>>>

INDEX
06 思いがけないアウティング
07 大学で立ち上げたLGBTサークル
08 ようやく受けた性別適合手術
09 AジェンダーもしくはXジェンダー
10 自分のなかのジェンダーバイアス

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