02 男の子なんだから男の子らしく
03 心と身体の変化を通して
04 男は女を好きになる生き物だ
05 傷ついた人を慰める芸能の力
==================(後編)========================
06 夢を絶たれて
07 鬱屈した日々に差し込んだ光
08 やがて故郷から旅立つ日
09 解放されていく本来の自分
10 自分の性別は自分で決める
06夢を絶たれて
目指すはお笑い
美空ひばりさんに魅せられて、12歳のときに、芸能の道へ進むと決めた。
しかし目指した道は歌手ではない。
「お笑い芸人になりたい、と思いました。当時、レイザーラモンHGさんがお茶の間を席巻していたんですね。ただでさえ黒く日焼けした体を、脂を塗ってテカテカにさせて。男性の局部がはみ出てしまうんじゃないかと思うほど、短い丈のショートパンツを履いて、テレビに出ていました。腰を上下左右にいやらしく振りながら『フゥー!』って叫んでいたし」
「でもそれがお茶の間では大ウケで、子どもが真似するほどのブームになって。うちの母もおねえタレントが出ている番組は見せてくれないけれど、レイザーラモンHGのなら見せてくれたんです。たぶんHGは大衆の支持を受けたマジョリティだから、母も躊躇わずにチャンネルを合わせてくれたんでしょうね」
当時、HGは「ハードゲイ」の略だと言われていた。
今ではLGBTという言葉も浸透し、セクシュアルマイノリティへの理解も深まりつつあるが、そうではない10年前に「ハードゲイ」と言い切る、その潔さにも驚いたという。
「結局、HGさんはゲイではなかったわけですけど(笑)。でもバッシングを恐れずに、当時はまだ偏見があったゲイという言葉を、直球勝負で使い、笑いを誘っていた。ゲイがああいう格好をしているかといえば、大いに疑問はあります(笑)。それでも当時の自分は、おかまはダメ、ゲイはダメ、と両親や学校の性教育で刷り込まれていましたから、それが笑いを誘う、というのは本当に大きな驚きだったんです」
「お笑い芸人になるのがいいかもしれない、と思いました。それが一番見た人を笑顔にできる、と。ひょっとしたら自分も女装してテレビに出たい、と頭のどこかで考えていたのかもしれません」
小学6年生なりに考えて出した結論だった。一刻も早く、芸能界への道を歩みたい。
その思いは、なかなか両親に切り出せなかったけど、卒業式の日、母親に向けてぶつけてみた。
お笑い芸人になるために東京に行きたい、と。
前に進めない
しかし自分が懸命に考えた夢が、すぐ母親の賛同を得ることはなかった。
「母親には『まだ義務教育期間中だし、また中学校を卒業するときに考えてみたら?』と言われたんです。もちろん反抗して、さらに主張しつづけることも可能でした。けど親にここまで育ててもらったことも事実だし、もうそれ以上、夢にこだわり続けることは一旦、やめようと思いました。結局、親に経済面で支えてもらっているうちは、決定権なんて自分にはないんですから」
夢を閉ざされたことへの反抗やストレスからだろうか。
学校の女の子にちやほやされることで満足し、それがきっかけでやめていた女装を、またするようになった。
中学校に上がっても、目を盗んではコソコソ家で母親の服を着る、再びそんな日が続くようになる。
07鬱屈した日々に差し込んだ光
希望なき青春
中学校では男子はブレザー着用だった。
決まった格好を強いられることに違和感を覚えながらも、従わざるを得なかった。
「自分がこうありたいと思うものと異なるものが、社会においては正しき男児の姿であると、もうその頃には痛いほど理解していました。亭主関白な父と、多数派を良しとする母の影響です。それに子どもにとって学校に通うのは “労働” です。その対価、給料として食いっぱぐれない生活が保障され、お小遣いがもらえるんです」
「両親が “雇用主” である以上、芸能界に進めないことも、男性の服しか着させてもらえないことも仕方がないんだ、とできるだけ客観的に考えるようにして、毎日を耐え忍んでいました」
そうして忍ぶ3年が過ぎようとしていた。再び芸能界への夢を母に告げてみた。
「今度は高校に入ってみて、卒業したときに考えて見たら、と言われました。母はこうやって決断を先延ばしにすれば、いずれ諦めるだろうという算段だったんです」
「でもやっぱり、親の意思を蹴って上京なんてできない。ジャニーズにしたって、芸能界で活躍する人は、15歳までにその道に飛び込んでいる人が多いことは分かっていました。先延ばしにすると間に合わなくなると思ったけれど、でも自分だけで決めようとは、やっぱり思えなかったんです」
まず母親を説得しなければ、あの亭主関白で頑固な父が首を縦に振るはずがない。
だからいつも真っ先に相談するのは母だった。
「小さいときからセーラームーンになる、キューティーハニーになるって母に言っていました。ばかばかしいけど、そのときは本気でした。でもそういう、ちょっと女性趣味なものに憧れると、『絶対にダメ』と釘を刺され続けていました。もちろんセーラームーンになれるわけはないんですけど、否定されるたびに気持ちが塞ぎ込んでいたんです」
「あまり肯定されたことのない私にとって、たとえ芸能界とはいえ夢を見つけ、それを主張したというのは、相当な決断だったんです。昔の少年野球の仲間たちがイチローになる、松坂になると言って頑張っているなか、私は何も頑張ることができなくて、日々の生活に全く希望が持てませんでした」
人生の師
煮え切らない気持ちのまま、京都市内の公立高校に進学した。
鬱々とした日々だったが、しかし中学の頃にはない、大きな変化があった。
「中学生のときは3000円だったお小遣いが、8000円に増えたんです。それまでは女性の服を着たければ母のクローゼットしか当てがなかったけれど、自分でも女性の服を購入できるようになったんです。店で買うのは抵抗があるけれど、ネット通販で購入すれば恥ずかしくないし。ただ家に直接届くと、両親にバレてしまいます。インターネットで調べたら、代引きだけじゃなく、荷物の局留めもできると知って」
「お小遣いを貯めては女性の服を買って、自分の部屋でメイクして楽しんでいました。自分の好きな服を着られるのが本当に嬉しくて。自撮りして、投稿掲示板にもアップするようになったんです」
インターネットを通した自己表現が、思わぬ出会いを呼んだ。
「市内でニューハーフキャバクラを経営している方から、直接、メールでメッセージが来たんです。20代後半の方だったんですが、私が女装した写真を見て『昔の自分とそっくりで驚いた』と言うんです。だから会いたい、とも。メッセージで私のことを綺麗だ、かわいいと言ってくれてことも嬉しくて、すぐその方のお宅に伺いました。話をしていたら意気投合、その後は私を妹のように可愛がってくれるようになったんです。お姉ちゃんってなついていたら、女性の服を買ってくれて、私の大好きな鰻までご馳走してくれるし(笑)」
「何より嬉しかったのが、一緒に女装して外に遊びに行けたこと。映画をレディースデー料金で見れたときは、本当に感動しました」
「彼女と出会ったことで、溜まっていたダムの水が堰を切るように、自己表現できるようになったんです」
彼女の自宅の近くにはバスケットボール用品店があった。
高校の部活はバスケットボールだったので、道具を買いに行くというのを親への口実に、一緒に女装をする日々が続いた。
08やがて故郷から旅立つ日
東京に行きたい
そうこうしているうちに、高校を卒業する日が近づいてきた。
「両親も地元を離れることは許してくれるようになっていました。大学を見学したいといえば、東京にも行かせてくれたし。どうせなら夢と直結することを勉強したいと、学歴や大学名は気にせずに、演劇専攻がある今の大学を第一志望にしました」
しかし父親の猛反対にあった。
「とにかく有名大学に入れ、と聞かないんです。まず真っ先に名前が挙がったのが、立教大学。長嶋茂雄さんの母校だからです。父の判断基準は、一にも二にも、野球なんです。もし立教大学に入っていたら、また野球をやらさていたかもしれません。そうじゃなくても、東京へ行くなら六大学へ入れ、と。考え方の古い父と話していても、全く埒があかなくて」
兄の死
そんなとき、父の会社で働いていた兄が不慮の事故で亡くなった。
「体育会系、特にラグビー部出身の兄は、愛情表現ががさつで、実はあまり好きじゃなかったんです。いつも私を見ると、ガバッと強い力で抱きしめてくる。ラグビーでトライが決まったときに、チームメイトとするような感覚で。どちらかというと優しいお姉ちゃんが欲しかった私は、その雑さが嫌だった。でも死んで冷たくなった兄を見たら、涙が止まりませんでした」
「やっぱり血の繋がった兄弟だったから」
お葬式のあと、家族で兄の部屋を片付けていたら、調理師免許や教員資格免許の参考書が出てきた。
父はそこで初めて、兄が口にすることがなかった夢に気づいたという。
「兄の死を境に、父の考えも変わりました。『いつ死ぬか、そんなことは神様にしか分からない。明良もしたいようにしなさい』と、私の希望に理解を示してくれるようになったんです」
こうして受験することが叶い、めでたく合格、上京して演劇の勉強をすることになる。
09解放されていく本来の自分
性のスイッチ
こうして親元から離れた。
勉強のために上京したとはいえ、一番良かったのは自分の好きな服を着られることだ。
ただ入学してから今まで、大学には女性の格好をして通ったことはない。
「大学への初登校のときに、どうしようか考えたんです。結局気づいたのが、私の格好が周りの人の望まないものであったなら、授業の間の90分、他の人に不快な思いを強制することになる、ということです。だから男性の服装で通うことにしました」
大学では演劇学よりも心理学に没頭した。
結局、他者を演じるには、その人の気持ちを理解するのが一番だと思ったからだ。
「私自信が、服装で心理が変わるというのもあって。例えば男性の服装なら、話し方も考え方も仕草も男性だけど、女装すると真逆のスイッチが入るんです。けれどどちらかというと、女性の衣服や考え方に寄り添っていた方が落ち着く。そんな心境の変化は何に由来するのか。それが知りたくて、心理学に興味を持ったのかもしれませんね」
自分らしい服装
ただし大学の卒業式には、振袖を着て臨みたいと考えた。
その決意表明をFacebookに認めたところ、兄に読まれてしまい、それを聞いた母から電話で『振袖は絶対にやめて』と言われたいう。
「親元を離れて自由になったつもりが、私が女装していることは、すでに母にも知れ渡っていて。忌々しく思いながら、親戚には『仮装』と言って回っていたそうです。だから成人式も親に言われて、嫌々スーツを着たんです。今回の振袖の件も反対されたけど、でもどうしても卒業式だけは、自分の思う格好で出席したかった」
結局、振袖で卒業式に参加したという。
それより以前、大学に入学して以降は女装して外出することも増えた。
街を歩いていて、男性に声をかけられることもあり、かわいいと言われれば、純粋に嬉しい。
「アルバイト先のカフェで、女装のコスプレをしてショーをしています。やっぱり女性の服を着ているときの方が、自分らしく輝いていると思います」
10自分の性別は自分で決める
2つの自分
ただ女性の格好をしていても、恋愛の対象はひき続き女性だ。
やはり今まで育ってきた環境の影響が大きいと話す。
「私が女装をするのは、もちろんその方が自分らしくいられる、ということが大きいですが、もうひとつ、私の理想の女性像になりきりたい、というのもあります。さっぱりしながらも、心や仕草はたおやかで、女性らしい女性に」
「幸い、私の身体は男性のわりに華奢で顔つきも中性的だった。今はその表現を突き詰めたい、と考えています」
装いを女性らしくしたいだけで、性志向も性自認も以前とさほど変わらないという。
「もちろん理想の女性になりきるために振舞っていると、心の芯まで女性になりきってしまい、カフェに来た男性のお客さんのことを、なんとなくいいなぁ、と思ったりすることもありました。でもそれは女装したときの私。部屋でジャージ姿でいるときなんかは、素の20代の男だったりします」
「服装で性別が変わるようなところが、私にはあるんです」
女装しているときの自分は女性で、普段の自分は男性。
自分の中に二つの性が存在してもなんら問題ない、と考えられるようになったという。
性の定義
大学を卒業した今、なおも芸能人になりたいと考えている。
ただし歌ったり、演技したり、それだけが全てではない、とも思っている。
「小学校の頃とは、その動機が変わってきました。自分の性が曖昧であることに悩んでいる、私のような人にメッセージを届けられる人になりたい、と思うようになったんです。そのためには文章を書いたり、ラジオで話したり、ということでもいいと思っています。有名になって、私の存在を知ってもらう必要はあるけれど、そこへのアプローチの仕方は、ひとつではありませんから」
もっとも伝えたいことは、性別を決める必要はない、ということだ。
「私自身の中にも、二つの性があります。だから女装の時は自分は女だと言うし、そうでない時は男だと言う。結局、性別なんて、その人の主張を尊重してあげればいいんです。法的にはなかなかそうはいかないでしょうけど、周りがそう認識してあげるだけで、悩んでいる人も、ずいぶん生きやすくなるはずです」
自分の性別は自分で決める。そんな世の中がくれば、性の揺らぎに悩む人はどれだけ救われることか。松見さんの主張は一見、先鋭すぎるようにも思えるが、社会が多様性を認めていく中で、案外有効な考え方なのかもしれない。