02 自分を形成する両親の教え
03 突然目の前に現れた “夢”
04 苦手なことに立ち向かう意味
05 トランスジェンダーである自分の未来
==================(後編)========================
06 隠し続けた女性である自分
07 女性として生きるための過程
08 性別を変える覚悟と最初の一歩
09 普通の女子大生で生きていくこと
10 “女子大生・楓ちゃん” の日常
06隠し続けた女性である自分
男子コミュニティからの解放
トランスジェンダーであることを認識したからといって、急に自分をさらけ出せるようになったわけではない。
高校に進んでも、いち男子として毎日を過ごしていた。
「ただ、そこそこレベルの高い高校に進んだので、みんな勉強しに来ていて、いじったりされることはなかったんです」
「女の子たちとの関係は、北九州にいる頃に近かったです」
女子と話して、「ヒューヒュー」とからかわれることもなかった。
ただ、女子として女子の中に紛れていたわけでもなかった。
「日焼け止めは欠かさなかったし、体毛を処理していたので、普通の男の子ではなかった気がします」
「女の子たちからは、『趣味が女子っぽいよね』みたいに言われることが多かったですね」
学ランには嫌悪感を覚え、雪が降る日でもカーディガンで登校。
しかし、人にとがめられることはなく、順調な高校生活を送っていた。
組体操に出ない方法
体育祭では、全学年の男子で行う組体操が恒例だった。
半裸になり、体を寄せ合って、ピラミッドなどを作っていく。
「他の競技は出ていたんですけど、組体操だけは心理的に嫌で、出たくなかったです」
そこで、毎年、体育祭実行員の美術係に立候補した。
応援席の後ろに立てる背景の絵を描いたり、入場ゲートを作ったりする係だった。
「美術係になると、大道具の製作で忙しくて組体操の練習に出られないから、本番も出なくていいんですよ」
「1年生の時、先生に『絵に自信があるから、やらせてくれ』って言って、美術係になりました」
2年生の時も「去年のノウハウがあるから」と、名乗り出た。
3年生の時は、教師から「今年も美術係やるよね?」と指名された。
「3年間、組体操には出ないで済んだんです(笑)」
体育祭の終わりには、みんなが自分の描いた背景の前で記念写真を撮ってくれた。
「組体操には出ていないけど、私も背景で参加できたみたいで、うれしかったです」
「記念写真に写る私は、1人だけ肌が真っ白で、背景の絵にしがみついていました(笑)」
避けてきた女装
文化祭では、「畑島君は女装させたら絶対に似合う」と、同級生から言われたことがある。
「何度か言われたけど、やりませんでした」
「ハロウィンの仮装みたいな感覚で、女装はしたくなかったんです」
「みんなのピエロにもなりたくないな、って思いました」
女装した姿を見た人に、「やっぱり女みたいだ」と笑われる状況も作りたくなかった。
当時、気になる男子もいたが、あまり考えないようにしていた。
「少しでも好意が表に出ると、からかわれるので、意識しないようにしていました」
07女性として生きるための過程
女性になるための準備
高校卒業後、建築を学べる大学に進んだ。
親元を離れ、自分を知らない人たちばかりの環境で、女性としての生活を始めようと考えていた。
「でも、まだホルモン剤を飲んでいなかったので、化粧をしても、女性として生活できるレベルではなかったんです」
「『化粧をしてくる男子がいる』って見られるのは嫌だったので、断念しました」
大学に入学し、すぐに女性ホルモン剤を注文したが、飲むことをためらった。
しっかりと飲み方などを調べ直し、大学生になって半年が経った頃から服用を開始。
容姿が女性っぽくなるまでの間、化粧品やレディースの洋服を買い揃えた。
「最初はメイクの手順もわからないから、ジョークみたいな仕上がりでしたよ(笑)」
「洋服は一期一会なんですよ。少し前までレディースの洋服は、通販でしか買えなかったので、サイズが合わなかったら捨てるしかないんです」
「だから、プチプラの服をいっぱい買って、いっぱい着て、試しましたね」
普通の生活を送る方法
女性として生きていく機会を待つ間、不安に襲われた。
社会的な役割を持ちながら、性別を変え、普通の生活を送っているロールモデルを見つけられなかったから。
「ネットで調べると、芸能人みたいに特殊な状況の人が、特殊なことをして、特殊な女性になるみたいな実例ばかりだったんです」
「コミュニケーション能力も財力もあって、容姿もモデルさん並みに整っていないと、できないのかなって思ったり・・・・・・」
FTMの同級生
大学に通い始めて少し経った頃、同じ学部にFTMの子がいることを知った。
3人いたんですけど、入学した時点ですでに男の子で、最初は童顔な男の子だな、って思っていたんです」
しばらくすると、同級生がしていた「男の子に見えるけど、もともと女の子だったらしい」という噂を、耳にした。
「本人たちは、男性の名前で生活していたんです」
「でも、書類上は女の子の名前のままで、出席カードにその名前を書いていて知られたみたいです」
その中の2人とは、同じ研究室に所属することに。
同じ空間にいることが増え、自然と話す機会も増えていった。
その頃には女性ホルモン剤の影響で、顔が女性らしい丸みを帯び始めていた。
「2人から『入学した頃に比べて、かわいい感じの顔になったね』って言われたんです」
そのタイミングで、「実はジェンダークリニックに通っていて、ホルモン剤をのんでいる」と打ち明けた。
「MTFとFTMだと性別を変えるプロセスが違うので、相談することはなかったです」
ただ、実際の自分を見せられる相手がいたことで、少し気持ちは軽くなった。
08性別を変える覚悟と最初の一歩
性別を変えにくい環境
幼い頃から建築が好きで、パソコンも使い慣れていた。
そのためか、作品を発表するたびに、賞を獲得するという状況が続いていた。
「賞を取ると、注目を浴びるんですよね」
大学のギャラリーには、自分の受賞作品が展示される。
建築関係の雑誌に、自分のインタビューが掲載されたこともある。
「他校の学生でも、私の名前と作品を知っている状況になっていました」
「そうやって友だちや知り合いが増えれば増えるほど、性別を変えにくくなったんですよね」
「賞を取って立派なことを語っていた人が、女装してる。あいつも落ちたな」と思われることを、恐れた。
「私が作品も作らず、学校にもあまり行かない学生だったら、性別も変えやすかったのかなって」
「でも、建築家という夢を抑えて、女性になりやすい環境を整えるのは違うとも思いました」
「『建築家になりたい』と『女性になりたい』は次元が違うから、どちらかを曲げるのはおかしいと思ったんです」
「あなたなら女性として生活できる」
大学卒業後の1年間は、所属研究室の教授でもあった恩師の設計事務所で働いた。
働く中で商業施設の設計に興味が湧き、大学院で専門知識を得ることを決める。
恩師の後押しもあり、大学院に進むことになった。
「大学院の先生には、研究室に入る時に『いずれ女性になろうと思ってる』と伝えました」
しかし、なかなか女性になる覚悟を決められず、入学から2カ月の時が経過。
院内にLGBTサークルがあることを知り、連絡を入れると、代表の学生はLGBTの研究を行っていた。
「その子に、『新宿二丁目に行けば、情報がもらえるよ』って教えてもらったんです」
二丁目で開催されていると教えてもらったのは、女性になるためのメイクや所作を教えてくれる「乙女塾」。
さっそく「乙女塾」を訪ね、初めて本格的なメイクや洋服選びを教えてもらった。
「その日に、講師の西原さつきさんから『明日から女性として生活できるよ』って教えてもらったんです」
「その言葉に背中を押されて、帰ってすぐメンズの服を全部捨てちゃって(笑)」
「次の日から、メイクをして、レディースの服を着て登校しました」
薄かったリアクション
「いざ女性として登校したら、何も起きなくて、びっくりしました」
周囲に戸惑われたり、拒絶されたりすることを、想像していた。
いざ女性として接すると、「畑島君? 畑島さんって呼んだ方がいいのかな?」とあっさり受け入れられた。
「特に女の子たちは、順応するのが早かったです」
「今日から女の子で生活しようと思う」と話すと、女友だちは「かわいいし、いいと思う」と肯定してくれた。
「周りの男子は、『今日はハロウィンじゃないよね?』って感じでしたね(笑)」
「批判的なリアクションではなくて、対応に困っていた感じでした」
“徐々に” ではなく “いきなり” 女性の姿で登校したが、いままで通り授業を受け、積極的に発言もした。
「その姿を見て、周りも『やることをやっていれば、何でもいいんじゃない』って受け止めてくれた気がします」
09普通の女子大生で生きていくこと
親に伝える術
家族に、カミングアウトをするつもりはなかった。
「お正月に帰省する時に、当たり前のように女性として帰ろうと思っていました」
「仰々しく『ご報告があります』って話すと、家族も構えてしまうと思ったから」
「『あれ、性別変えたの?』くらい、気軽な感じで行きたかったんです」
しかし、自分が女性の格好で作品について発表している写真を、SNSを通じて見られてしまった。
母から届いたメールは、「女の子になりたいの?」という一文だけ。
その一言が胸に刺さり、ずっと返信できないでいた。
「会って話せたら一問一答で進められるけど、メールだとそうはいかないじゃないですか」
「だから、なかなか返せなかったんです」
「あらゆる情報を詰め込もうと思って、レポートみたいな長文メールを仕上げました」
自分を女性だと思った理由から、今後の性別適合手術や戸籍変更のプロセスまで、両親の疑問を想定して、伝えるべきことを詰めて送った。
状況を読み取ってくれた両親
返信して1週間が経った頃、母から電話がかかってきた。
作品発表のため、インドに向かう直前の時期。
母から「インドには、女の子で行くの?」と聞かれ、「もちろん」と答えた。
「その時の母の『あ、そう。頑張ってね』の声は、少し寂しそうでした」
「その後、父とも少し話しました」
「『メールで大体読み込めたけど、実物を見ないと信じられない』って言っていましたね」
両親は細かく書き綴ったメールをしっかりと読み、知らない単語は調べてくれたんだと思う。
「いろいろ知識を得た上で、否定しちゃダメなんだ、って思ってくれたのかなって」
「質問もなかったけど、唯一、性別適合手術に関して『いくらかかるの?』って聞かれました」
正確には把握していなかったため、病院で見積もりを出してもらうことに。
「150万円くらいだったんですけど、父は『2000万円くらいかかると思ってた』って言っていました(苦笑)」
大袈裟にせず、普通に生きること
「普通を取り戻すことって、難しいと思っていたんですよね」
男性として培った社会的な役割や人間関係が強固なほど、性別を変えづらいかもしれない・・・・・・。
しかし、女性になるタイミングと、周りに伝える順番さえ間違えなければ、問題ないことを知った。
「やることさえやっていれば、女性として社会生活を再現することは、そこまで難しくないって知りました」
「でも、MTFが普通の生活を送るためのノウハウって、インターネットには載っていないんですよね」
家族や社会の反対を受け、苦しみの果てに性別を変えたという、感動的なエピソードを見かけることは多い。
トランスジェンダーである自分を、笑いものとして自虐的に扱っている人も、見たことがある。
「でも、私は普通の女子大生として、生活が送りたかったんです」
今は、「女性になりたい」とは別の夢も諦めずに生きられることを、自分自身が証明し始めている自覚がある。
「『乙女塾』の西原さつきさんが『性別を変えることは、メガネを変えるくらいのこと』って言われていました」
「メガネを掛けたからってその人自身が変わるわけじゃない。でも、メガネがないと生活しづらいんですよね」
「そのくらいの気楽な気持ちで、自分の性別を捉えてもいいのかな、って思います」
10“女子大生・楓ちゃん” の日常
女性としての悩み
2017年6月から女性として生活し始めて、約半年が経つ。
「女性として生きていて、苦悩を感じたことはないんです」
「周りが受け入れてくれたから、意外と普通だった、って安堵の気持ちの方が大きかったですね」
「ただ、まだメイクは慣れなくて、早起きしなきゃいけないのが悩み(苦笑)」
メイクをし始めたころは、2時間かかっていた。
今では随分慣れたが、それでも30分かかる。
「周りの女の子は10分くらいで終わるらしいので、私もそのレベルに達したいです」
洋服の選び方も変わった。
最近は通販ではなく、街中のショップに入って、試着しながら選べる。
「女友だちが、一緒に買い物に行ってくれるんです」
「私に『どういうのが似合うと思う?』って聞いてくれたり、ナチュラルに接してくれます」
「MTFだから誘ってあげよう」という気遣いではなく、「一緒にいて楽しいから」という理由でそばにいてくれる。
「“女子大生・楓ちゃん” としてコミットできている感じがうれしいし、すごく楽しいです」
もう一つの夢
大学院に通いながら、外資系の設計事務所にインターンシップに行くことが決まっている。
「商業施設の設計に強い会社で、直に学びたいと思って、決めました」
採用面接で、トランスジェンダーであることを伝えた。
「自己紹介で少しだけ話したんですけど、性別に関しては何も言われなかったんです」
「外資系だから、実力主義で、チームに必要とされる人材であれば問題ないのかなって感じました」
将来的には、自分の設計事務所を立ち上げたいと考えている。
女子大生・楓ちゃんの「建築家になりたい」という夢は、実現している途中だ。
そして、メイク、ファッション、ガールズトーク・・・・・・女子大生としての “普通” をもっともっと楽しみたい!
お父さん、お母さんへ
いつも私の選択を否定しないでくれましたね・・・・・・ ありがとう。
改まって気持ちを伝えるのは初めてかもしませんね。
建築の道に進んだときも、大学院に行くときも、私が本気だと分かればいつも応援してくれたこと、心強かったです。
そんな私が女性として生活していることを突然知って、とても驚いたと思います。
私には直接言えない心配や不安もきっといっぱいあったと思うけれど、それでも、一緒に悩んでくれたことを心から感謝しています。
性別が変わってもずっと叶えたかった私の夢が変わらないように、親子の仲もこれまで生きてきた通り、変わらなければいいなと願っています。