INTERVIEW
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不登校になった自分でも、今は自分らしく生きられている。【前編】

カラッとした人懐こい笑顔と、ハキハキとした語り口が印象的な石田悠真(ゆずま)さん。1つ1つの出来事を思い出しながら、鮮明に紡いでくれた人生は、光に満ち溢れたものというわけではなかった。希望を失い、死の淵に立った経験もあるゆずまさんが、現在の笑顔を浮かべられるようになるまでには、さまざまな経験による気づき、周囲の人の支えがあった。

2017/12/31/Sun
Photo : Mayumi Suzuki Text : Ryosuke Aritake
石田 悠真 / Yuzuma Ishida

1996年、長野県生まれ。物心がついた頃から、「まさと」という名前に違和感を抱き、自らを「まぁくん」と名乗っていた。中学時代にいじめが原因で不登校になり、通信制の高校に進学。高校3年時、精神科に入院。大学進学時に、「悠真(ゆずま)」という名前を使い始める。現在は学業のかたわら、LGBT問題に取り組む特定非営利活動法人ReBitのメンバーとして活動中。

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INDEX
01 新しい名前で生きるという選択
02 “まぁくん” としての人生の始まり
03 友だちと過ごす楽しさと寂しさ 04 子どものことを愛してくれる家族
05 もろく崩れてしまった中学時代
==================(後編)========================
06 希望も持てず、真っ暗だった毎日
07 自由にいさせてもらえる場所
08 Xジェンダーである自分と不安定な感情
09 絶望の日々から抜け出す努力
10 勇気を持って踏み出した一歩の先

01新しい名前で生きるという選択

中性的な響きの名前

幼い頃から、「まさと」という自分の名前に違和感を抱いていた。

上京し、周囲の環境が一変した大学1年生の4月から、「悠真」と書いて「ゆずま」と名乗り始めた。

「ゆずま」という名前は、自分で考えた。

「まさとって名前が嫌で、ずっと一人称が『まぁくん』だったんです」

「人からまぁくん、って呼ばれるのは嫌じゃなかったので、どこかに『ま』を入れたいなって」

「性に捉われない名前にしたいと考えた時に、柑橘系って性がないって感じたんです」

「柚子」に「ま」をつなげて、「ゆずま」という中性的な響きに決めた。

漢字は「悠」を使いたかった。

「『悠』が名前に入っている友だちや知り合いに、好印象な人が多くて、使ってみたいと思ったんです」

おおらかでやさしく、まっとうな人生を歩んでいきたい、という思いで「悠真」とした。

名前を呼ばれないこと

大学入学時、通称名として「ゆずま」を使うためには、大学に使用届を提出しなければならなかった。

「両親の承諾が必要だったので、初めて『ゆずまとして過ごしたい』と伝えました」

男性でも女性でもないXジェンダーだと自認していることも、一緒に打ち明けた。

両親は、驚きを隠さなかった。

「親からすれば、まさとと名付けて18年間過ごしてきた息子が、いきなり『名前を変えたい』って言い出したら、驚きますよね」

幼い頃から本名ではなく「まぁくん」と名乗っていたことは、両親も認識していた。

自分らしい名前で生きたいという気持ちを受け入れて、承諾のサインをしてくれた。

「ただ、2人からひと言だけ、『自分たちは、あなたのことを “ゆずま” とは呼ばない』って言われました」

今なら、息子の突然の告白に、両親も葛藤していたのだとわかる。

しかし、その時は、折り合いがつかない状況が辛かった。

徐々に変わっていく両親

大学2年生だった2016年7月に戸籍を変更し、「まさと」から「ゆずま」に改名。

改名の申請のため、家庭裁判所に行く時、両親に相談した。

「母が『ついていくよ』って言ってくれたんです」

「なりたい自分になる一歩を踏み出す時に、一緒にいてくれたことがすごくうれしかった」

「父は『仕事で行けない』って感じだったけど、返事をもらえただけで十分でしたね」

改名によって、保険証を変更する必要があった。

扶養に入っている父に、手続きをしてもらえるよう、お願いした。

「嫌々ながらもやってくれて、『手続き終わったよ』って連絡をくれました」

東京の1人暮らしの家に、両親がときどき食品などを送ってくれる。

以前は、宛名に「まさと」と書かれていた。

最近は「ゆずま」と書いてくれる。

「親も新しい名前を受け入れてくれつつあって、今の状況がすごくうれしいです」

「すれ違ってきた部分を埋めて、尊重し合えるようになってきた感じです」

02“まぁくん” としての人生の始まり

戦略的な一人称の変化

生まれてから改名するまでの間、ほとんど本名を名乗ったことはなかった。

「生まれた時から、ずっと違和感を覚えていたんだろうな、って思います」

「『まさと』って、一般的に男の子の名前と認識されることが、なんだか嫌だったんだと思います」

「男とも女とも捉えられる名前だったら、違和感はなかったかもしれません」

「ただ、当時は性別を意識していたわけではなくて、感覚的なものでした」

小学生の頃は、「まさと君」と呼ばれることが多かった。

「『名前で呼びましょう』みたいに、ニュートラルな表現によるものだったと思うんです」

「でも、違うって感じがしていました」

もともと、一人称は「僕」だった。

しかし、自分で自分のことを「まぁくん」と呼び始めれば、周りも呼んでくれるかもしれないと思った。

「結果的に、今でも地元の友だちからは『まぁくん』って呼ばれています」

呼び名を「まさと君」から「まぁくん」に、変えることに成功した。

浸透していくあだ名

家族からも「まぁ」や「まぁくん」「まぁちゃん」と呼ばれていた。

家でも学校でも、ほぼ本名で呼ばれることはなかった。

唯一、本名を実感させられたのは、テストに名前を書く時。

「中学生の頃には、これは表記上の記号であって名乗る名前ではない、ってドライに捉えていました」

「高校では、ほぼすべての先生から『まぁくんって名前なんだっけ?』って言われるほど浸透していましたね」

「部活用の名簿を作る時には、『石田まさと』じゃなくて『石田まぁくん』って書かれていたり(笑)」

03友だちと過ごす楽しさと寂しさ

仲良しの友だちは女の子

小学生の頃は、女の子と遊ぶことが好きだった。

「女の子と遊んでいると、自分らしくいられるなって感覚がありました」

「クラス替えをしても、新たに仲良くなるのは女の子でした」

一緒に登下校したり、放課後にWiiやニンテンドーDSで遊んだりしていた。

休み時間は、女友だちと一緒に教室でお絵かきをした。

「外でドッジボールやバスケをしてる人たちもいたけど、自分は教室で井戸端会議とかしていました(笑)」

「特別おとなしくも活発でもなかったけど、今でいうスクールカーストの最下層にいたと思います(苦笑)」

「もともと賑やかなグループにいたけど、抜けちゃった子たちと遊んでいました」

しかし、そのポジションが嫌ではなかった。

「自分の立ち位置よりも、仲のいい子たちと一緒にいたい気持ちの方が強かったです」

小学生時代の親友

小学校高学年で、親友と呼べる女友だちが2人できた。

「3人とも共通点が多くて、家も同じ方面で、すごく仲良くなりました」

「今でも連絡を取るくらい、仲がいいんです」

「彼女たちのことは、すごく信頼していますね」

男女別の身長順で並ぶ時に列は違ったが、3人とも背が高かったため、列の後ろので近かった。

「集会の時とか、ちょっかいを出し合ったりしていました」

しかし、現実を突きつけられ、寂しい思いをしたこともあった。

「身体測定の時は男女で分けられるので、彼女たちとは違うんだ、って思いがありました」

「なんとなく、男女という分け方に違和感があったんですよね」

「今考えると、自分は男女どちらかになりたいわけじゃないから、区別することが不思議だったんだと思います」

時に寂しさを感じることはあったが、楽しい日々だったと思う。

「浮き沈みはありながらも、毎日学校に通っていたし、いい思い出だなって感じます」

04子どものことを愛してくれる家族

大好きだった2人の祖父

父と母、4歳上の姉と自分の4人家族。

父方の祖父母は同じ町内、母方の祖父母は隣町と、近くに住み、頻繁に会いに行っていた。

従兄弟の中でも一番年下で、親戚中からかわいがられて育った。

「父方のおじいちゃんには、しょっちゅう呼び出されていました」

農業を営んでいた祖父とは、一緒に田んぼや山に行き、作業を手伝っていた。

「理科の授業でバケツに田植えをしなくても、うちでは種まきからやってるから慣れたもんです(笑)」

「小学生の時、すでに田植機や稲刈り機は使いこなせました。英才教育ですね(笑)」

祖父はかわいがってくれたため、手伝いも嫌ではなかった。

母方の祖父とは、毎日夕方に電話をしていた。

「おじいちゃんのことが大好きで、会いに行く時はマッサージしたり、一緒にお風呂に入ったりする仲でした」

どちらの祖父も、大好きだった。

記憶に残っている母の匂い

「最近、周りの人から『お母さんとそっくり』って、よく言われるんです(笑)」

実家に帰り、母の車を運転していた時、近所のおばさんとすれ違ったため、手を振った。

あとで「あれ、お母さんだったでしょ?」と間違われた。

自分と瓜二つの母は、自分のことより相手の立場を優先して考えられる人。

「小さい頃、何かですごく悲しい思いをして、一晩中泣いていた日があったんですよ」

「母は翌日も朝から仕事だったのに、一緒のベッドに入ってずっと話を聞いてくれました」

温かみのある母が、すごく好きだ。

「近くで感じた母の匂いとか温かさは、今でもときどき思い出します」

「改名をする時に葛藤はあったと思うけど、素敵な母親って印象は今でも変わらないです」

やりたいことを実現してくれる父

父は、人目を気にして、感情を抑え込んでしまう人という印象がある。

「不器用な部分もあるからうまくいかなくて、お酒を飲むと溜まっていたものを吐き出しちゃうんです」

「夜ご飯の時にお酒を飲みながらニュースを見て、あーでもないこーでもないって言うんですよ」

「『そんなことないんじゃない?』って言うと、矛先が自分に向くんです」

「話も1~2時間続くから、小さい頃はうるさいな・・・・・・って思ってましたよ(苦笑)」

しかし、休日は「ここに行きたい」と伝えた場所に、連れていってくれた。

車の洗車も「手伝いたい」と言えば、一緒にやらせてくれた。

「きっと何かしら我慢をしながらも、子どもがやりたいことをやらせてくれる人でした」

「あと、車とか耕運機とか、自分なりに工夫して改良できちゃう人なんですよ」

「父の独創的なところや自己流で何でもできるところは、尊敬しますね」

05もろく崩れてしまった中学時代

男子コミュニティへの戸惑い

中学校に進むタイミングで、母方の祖父母の家に引っ越すことになった。

「おじいちゃんが心臓を悪くしてしまって、介護をする必要があったんです」

引っ越しに合わせて、隣町の中学に通うことになった。

「そこの中学は生徒数が少なくて、ほぼ全員が同じ小学校からの持ち上がりだったんです」

「その中で、1人でポツンとしていました」

卓球部に入ったが、男子と女子で分けられていることに違和感を覚えた。

「男子卓球部に入って、男の子がいっぱいだ・・・・・・って呆然としました」

男子ばかりの慣れない環境に戸惑ったが、卓球自体には熱中していった。

朝練から始まり、放課後は地域の人や他の中学の生徒との合同練習で22時頃まで練習をこなす日々が続いた。

「自分はサウスポーだったのもあって、結構強かったんですよ(笑)」

エスカレートしていくいじめ

卓球は楽しかったが、男子のコミュニティにはうまく入っていけなかった。

「同じ学年の男子卓球部員が、みんな同じクラスだったのもあって、クラスでも馴染めなかったです。クラスでのこと、部活でのことが全部筒抜けで・・・・・・」

当時は変声期を迎える前で、周りに「どこから声が出てるの?」と言われるほど、高い声だった。

「女の子とばかり遊んでいたこともあって、男の子から『オカマ』とか『キモい』って言われるようになりました」

最初は揶揄する言葉だけだったが、徐々に嫌がらせはエスカレートしていった。

同級生たちが遊びに行く時に、自分だけ誘われなかった。

シカトされることもあれば、「ジュース買ってこい」とパシリに使われることもあった。

「一番嫌だったのは、男の先輩にいきなりズボンを下げられたことです」

「自分は自分自身を男性とも女性とも思っていないので、男性も女性も異性に感じるんです」

「異性と思っている相手にズボンを下ろされたことが、本当に許せなくて・・・・・・」

それでも新しい環境で頑張らなきゃ、と中学入学後、1学期は通い続けた。

言葉にできない感情の向かう先

毎日電話をするほど、祖父のことが大好きだった。

しかし、一緒に住み始めると、微妙にズレが生じ始めた。

「おじいちゃんは好意として、業務用スーパーでおにぎりを買ってきてくれたんですよ」

「でも、当時の僕は『毎日同じおにぎりはいらない』なんて言ってしまったり」

「今は、自分の言い方が間違っていたな、って思います」

義理の関係であった祖父と父も、ギスギスしているように感じていた。

「おじいちゃんが父のことを『おたく』って、よその人みたいに呼んでいたんですよ」

家の中で、えも言われぬ居心地の悪さを感じ始めた。

「学校でもいじめられて辛かったし、2学期が始まった時にいっぱいいっぱいになっちゃったんです」

パニックになってしまい、言葉にできない感情を、暴れるという行動で示してしまった。

パソコンやテレビなど、部屋の中のあらゆるものを、破壊してしまうほどだった。

母は「もう学校に行かなくていいよ」となだめ、病院に連れていってくれた。

「中1の後半から中3の終わりまで、約2年半不登校になりました」

「母にいじめられていることは言えなかったけど、体調が悪くなることも多くなっていたし、行動で気づいていたんじゃないかな」

同じタイミングで、「祖父母の家を出て、実家に帰りたい」と告げると、母は許可してくれた。

数日後、部活中に捻挫した姉が実家に帰ってきた。

子ども2人で生活させるわけにはいかないと、結果的に両親も実家に戻ることになり、母が祖父の元に通う生活が始まった。


<<<後編 2018/01/02/TUe>>>
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06 希望も持てず、真っ暗だった毎日
07 自由にいさせてもらえる場所
08 Xジェンダーである自分と不安定な感情
09 絶望の日々から抜け出す努力
10 勇気を持って踏み出した一歩の先

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