02 同性愛はいけないこと
03 インドアな趣味
04 優等生という仮面
05 茨城を出て、千葉の高校へ
==================(後編)========================
06 音大でのカルチャーショック
07 人生のターニングポイント
08 大人の一歩を踏み出す
09 恋愛で受けた傷をきっかけに
10 音楽とLGBT活動、二足のわらじで
06音大でのカルチャーショック
理想と現実のギャップ
憧れていた藝大の受験を諦め、入学した私立音大の音楽教育科。
「だけど、入学してふたを開けてみたら、別にみんながみんな学校の先生になりたいわけじゃなくって、『とりあえず』で入ったような人が多かったんです」
授業を受ける態度があまりにも不真面目な学生も多く、ある種のカルチャーショックを感じた。
「でも、英語のクラスだけはすごく楽しかったんです。たまたま上級クラスに入れたんですけど、周りの子も授業に熱心で、みんな仲が良かったです」
だが、それ以外のクラスでは、授業に遅刻したり、やる気のない生徒も多い。それを見ていると、ストレスがどんどん大きくなっていった。
「音大に対する理想と現実のギャップに苦しんで、夏休みに入ってから、家から一歩も外に出られない状況になってしまいました」
大学では、対人関係にも悩んでいた。
「もう大学生だし、東京の学校だしと思って、『男の子が好き』だということを周りにもカミングアウトしていたんです」
「『気持ち悪い』と言われたりはしていなかったんですけど、男の子からからかわれることがあって、そういうのがすごく嫌で・・・・・・」
経済面での不安
ひとまず音大には入れたものの、父の容態もいよいよかというなか、家庭の経済状況も心配だった。
「お父さんがこんな状態なのに、何百万もかかる音大に行って、経済的にも大丈夫なのかなって不安でした」
そんな状況で、仮に自分が親だったとしたら、何が何でも子供には藝大か国公立に進学させていただろう。
「本来であれば、そういった進路にまつわることを、母がもっとアドバイスするべきだったんじゃないかなとも思いましたね。母も母で大変だったので、そういう状況じゃなかったっていうのもわかるんですけど」
「だけど、そうやって理不尽な状況に陥っていても、どうしてか『全部自分が悪いんだ』って思っちゃってたんですよね」
「そうやって色々なことが重なって、家から出られなくなってしまったんです」
当時は一人暮らしだったこともあって、昼夜逆転の生活を送っていた。
どうせ寝ていれば治るだろう、とたかをくくっていたら、あっというまに夏休みが過ぎてしまった。
07人生のターニングポイント
再受験を決意
後期の授業が始まってからも、体調は戻らなかった。そのため、大学はいったん休学して、茨城の実家へ戻ることになった。
「昼夜逆転しているから、まずは生活リズムを直そうと思いました」
心療内科にも足を運んだ結果、自律神経失調症だと診断された。
「薬を飲むこともすごく嫌でした。薬に頼ることにも引け目を感じていましたね」
なんとか3ヶ月ほどかけて、昼夜逆転生活から脱出する。
「その時に、やっぱり藝大を受けようって思ったんですよね」
通っている音大をやめて、藝大を再受験しようと決意した。仮に、4浪、5浪することになったとしても、トータルで見れば、今払っている学費よりもずっと経済的でもあったからだ。
「ずっと優等生だったから、それまでは自分の中で浪人とか留年とかってありえないものだったんです。でも、休学もしてしまったから、もういいやって吹っ切れたんですよね」
「それで、父に生まれて初めて、自分の進路についてちゃんと相談をしたんです」
病床の父には、「大学をやめる必要はないんじゃないか? 仮面浪人でもいいんじゃないか?」と返された。
「でも、僕はこれ以上学費がかかることがものすごく嫌だったので、休学中もお金がかかることなども話して、説得しました」
「藝大に入って『やっぱり違う、居心地が悪い』って感じたら、もう音楽をやめてしまおうっていうくらい、突き詰めて考えていたんです」
12月に差し掛かってからは、受験へ向けてセンター試験の勉強や声楽のレッスンも始めた。入試は2月、時間はほとんど残されていない。とにかく必死だった。
「3か月くらいで準備したんですけど、結果、3次試験まであるうちの2次試験までいけたんです。それがすごく自信になりました」
ひとまず浪人生活をスタートさせることにはなったものの、受験突破への光が見えたような気がした。
父の死
「父が亡くなったのは、ちょうどクリスマスの朝でした」
浪人中の、12月25日のことだった。
「お父さんは入院していたし、そろそろ危ないだろうなっていうのは直感的にわかっていたんです」
「だから、浪人中はバイトもしながら、ひたすら実家の掃除をしていました」
父の看病で母も余裕がなかったため、当時の実家はまるでゴミ屋敷のようになっていたのだ。
「父の死に際して、不思議と悲しさはありませんでした。幼い頃から病気のことは知っていたし、父の死はある種必然のように感じていたんだと思います」
だから、父が死んでからも、後悔していることは一切ない。
「緩やかな死だったから、心の準備もできていたんです。それに、家を綺麗にしたことで、父の最期に役に立てただろうっていう大きな誇りもありました」
「そんな中で、受験勉強とバイトをしながらここまでやったんだから、もう自分の好きなことをしてもいいよね、とも思ったんです」
家の整理をすることで、自分の心の中も整理されていったのだと思う。
「父の闘病生活は本当に長かったので、自分以外の家族も、みんなフッと荷が下りたようなところはあったと思います。だから、悲しみはそんなに長引くことなく、少しずつそれぞれの新しい生活がスタートしていったような気がします」
その直後に控えていた受験にも、ひるむことなく臨んだ。
「12月に父が亡くなって、1月にセンター試験があって、2月に入試がありました」
そんな怒涛の日々を経て、迎えた結果はみごと「合格」。
「よくやりましたよね、本当に(笑)」
08大人の一歩を踏み出す
母とようやく向き合えて
藝大進学が決まった20歳という節目で、これまで母に対して積もり積もった感情も、全部吐き出した。
自分や家族に対する姿勢だけでなく、母が入信している宗教にも、不信感が募っていた。
「母の宗教は、ほかの宗教に関与してはいけないっていうルールがあったんです。だから、仏教家系の父が死んでも、お焼香をあげられなかったり、喪主になれなかったりして。色々おかしいなとは思っていたんですよね」
そうして、少しずつ、母への思いを言葉にして伝えるようになっていく。
「お母さんとの関係って、20歳くらいからやっと始まったかなって思うんです。そこからは、何か思ったことがあれば直接言うし、言うからには自分もちゃんとしなくちゃいけないとも思いました」
19歳、20歳と、思い返せば、本当にいろいろなことが重なった。母への反抗、父の死、自分の進路決定・・・・・・。
きっと、人はこうやって大人になっていくんだろう。
憧れの藝大生活
一年間の浪人を経て、ようやく入った東京藝大の声楽科。
「高校入学の時と同じで、藝大受験それ自体にモチベーションを感じていたので、いざ入ってみてからはどうなるのかな、って気持ちがありました」
いざ藝大に入ってみると、当然ながらも周りはみんな歌が上手で、やりたいこともはっきりしている。そんな同級生たちに対して、引け目を感じることもあった。
「でも、やっぱり環境は素晴らしかったです」
「藝大は本当に色々な人がいて、現役で入った子からすれば僕はいくらか年上だけど、ほかの大学を卒業してから再受験で入って僕よりさらに年上だという人もいました。だから、本当に多様性の嵐でしたね」
音楽科以外に美術科との交流もあったことで、とても刺激的な学校生活を送れたと思う。
「やっぱり、藝大という場所に身を置けたことへの満足感は格別でした。小中学校時代に抱えていた疎外感も、すっかりなくなっていたと思います」
藝大でも持ち前のリーダーシップを発揮し、学年の取りまとめ役や、学園祭の実行委員なども務めていた。
「人と何かをすることは昔から好きだったんです。ゲイだということで、男女問わず仲良くできた。それが自分の良さだったのかなとも思いますね」
寛容な環境もあってか、LGBTだということを周囲にオープンにしている生徒も多かった。
「だから、僕もスッと周りに言うことができました」
「そうはいっても、ストレートの子の方が多いし、そういう子ばかり好きになってしまうので、ずっと不毛な恋愛を続けてたんですけどね(笑)」
09恋愛で受けた傷をきっかけに
彼の裏切り
初めて恋人ができたのは、大学4年生の頃だった。
「当時は出会い系アプリもいろいろとあったので、それを通じて知り合った人でした」
「でも、その時に付き合っていた恋人は、僕に隠して女の人と付き合っていたんです・・・・・・」
しかも、相手の彼女とは、結婚を前提にした仲だった。
「多分、彼は本当のところはゲイなんですけど、良家の生まれで世間体をすごく気にする人だったから、体裁のための結婚だったんだと思います」
彼と一緒にいる時には、携帯をお互いにチェックし合うことも当たり前だった。完全に、信頼し切っていた。
「だけどある時、彼が寝静まってから携帯を見ていたら、知らない女の人と写ってる写真や、女の人とのメールフォルダがあることを見つけてしまったんです」
「それで、5年くらい前から付き合っている彼女がいるということがわかりました。すごくショックでした・・・・・・裏切りですよね」
寝ている彼をその場ですぐに叩き起こし、問いただした。
「そしたら、なんと、とぼけられたんですよ(笑)。この後に及んでそんな態度を取るんだと思って、夜中の2時くらいだったんですけど、部屋から追い出しました」
「その後も何度か話し合いを重ねたんです。もう、彼女との結婚も理解したし認めるから、これからは友達として仲良くやっていく方法を探していきたいって思ったんです」
自分が変わらなくちゃ
しかし、結局話し合いはまとまらず、その後彼とは絶縁状態になってしまった。
苦い思い出ではある。だけど、振り返ってみれば、この事件がいいきっかけにもなっていたと思う。
「彼との一連の次第を、全部細かくmixiの日記に書いたんです。そしたら、みんなすごく励ましてくれて・・・・・・」
ここにきて、持つべきものは、やはり友達だと思った。
「やっぱり、出会い系とかで素性のわからない人と出会って、いい恋愛なんてできるわけないって思ったんですよ。自分も変わらなくちゃと思いました」
一般的な男女の恋愛だって、同じコミュニティ内での出会いだったり、共通の友達を介して知り合うことがほとんどだろう。
「だから、これからはゲイの友達を増やして、その中から恋愛相手になるような人を見つけられればって思ったんです」
ちょうど、LGBTという言葉が世間にも浸透してきた頃だった。そこで、Twitter上でLGBT当事者と理解者のコミュニティを作り、自身が飲み会の幹事を務めるようになった。
10音楽とLGBT活動、二足のわらじで
家族へのカミングアウト
2011年に起こった東日本大震災も、自分の中では大きなターニングポイントとなっている。
「自分がやっている音楽は、こういう非常事態にはなんの意味もなさないものなんだという無力感が大きかったです」
「それと同時に、明日死ぬかもしれないんだから、悔いが残らないように生きないとって、強烈に感じました」
地元である茨城も、この震災で大きなダメージを受けた。これを機に自分の中で大きな変化もあったことから、家族へのカミングアウトを決意して、実家へ戻ることにした。
「信仰のこともあったので、僕は、母にはずっと受け入れてもらえないだろうと思ってたんです。でも、言ってみたら、意外と受け入れてもらえた感触がありました」
幼い頃の自分の姿を見ていて、母も思い当たる節があったようだ。兄弟たちも、寛容に受け入れてくれた。
また、単なるカミングアウトに留まらず、現在行っているLGBT活動や、それがメディアに取り上げられていることなど、社会的な部分を伝えたことも大きかっただろう。
「時間はかかったけれど、色々と思い悩んで考えた上でのタイミングだったので、これはこれで良かったんだと思います。勢いだけでカミングアウトしてしまっても、うまくいかなかったかもしれないです」
「カミングアウトをきっかけに、また母との関係が進んでいったように思います」
現在行っているLGBT活動についても、母は比較的協力的な態度を見せてくれている。
「信仰とどう折り合いをつけているのかはわかりませんが、母なりに寄り添ってくれようとしているのかなって思います」
「歌うLGBTアクティビスト」として
藝大卒業後は、「もっと声楽を学びたい」という気持ちから大学院へと進学したのだが、修了を前にして、自主退学を決めた。
「大学院生活と並行して、LGBT活動にものめり込んでいたんです。あとは、大学院生はほとんどプロのようなものなので、院に通いながら声楽の仕事も請け負うことも多いんですよ。それで仕事も増えてきて、大学院との両立が難しくなっていました」
「大学院の学位を取りそこねたことは、苦い思い出です。でも、これからどう生きていくか、真剣に考えるきっかけにもなりました」
そうして大学院を中退し、2016年の春からは、フリーランスとしての活動をスタートさせる。嬉しいことに、小さい頃からの夢だったラジオパーソナリティや、大好きだったアニメ声優の仕事も請け負うようになった。
また、同年、渋谷区でパートナーシップ条例が施行されたことが、自身にとって大きなターニングポイントともなった。
「パートナーシップ条例の区議会を傍聴しにいったんです。それがきっかけになって、地元の茨城でもLGBTの活動を始めるようになりました」
そうした運動は、新聞や地元メディアにも扱われるようになっていった。
現在は、「歌うLGBTアクティビスト」を名乗り、活動を展開させている。
「二足のわらじで、音楽もちゃんとやるし、LGBTのことももっといろんな人に知ってもらいたいと思います」
「最終的には、藝大の教授になりたいんです」
だから、今はとにかく枠組みを超えて、いろいろなことにチャレンジしていきたい。
「夢を信じ続けていれば、たとえ時間はかかったとしても、きっと叶うんじゃないかと思っているんです」
「音楽的にも、ジャンルにとらわれない、すごい先生になれたら」
河野さんは、笑顔でそう語った。