INTERVIEW
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MTF当事者の生の声に触れて、ありのままの私を解放できた【前編】

﨑村さんの半生は、けっして順風満帆ではなかったが、そこにいるだけで場が明るくなるような、不思議であたたかい魅力を持つ。﨑村さんは、おひさまの匂いがする人だ。取材中、最初はこわばっていた表情が次第にほぐれるにつれ、その場にいた全員の気持ちもやわらかくほぐれた。

2022/11/05/Sat
Photo : Ikuko Ishida Text : Chikaze Eikoku
﨑村 陽菜 / Haruna Sakimura

1970年、東京都生まれ。9歳で性別違和を自覚。インターネットのない時代、まだ「LGBTQ」という文字列すら浸透していない10代から30代を乗り越え、コスプレを通じて本当の自分を取り戻し始めた。40代で水商売を経験し、女性として生きるように。現在、介護職に就き奮闘している。

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INDEX
01 いじめられっ子だった幼少期
02 放送委員と水泳に打ち込む思春期
03 音響の専門学校に進学
04 憧れの放送業界へ
05 MTFコスプレイヤーとの出会い
==================(後編)========================
06 夜の世界に飛び込む
07 人生の中でいちばん働いた5年間
08 親と職場へ性同一性障害をカミングアウト
09 介護の現場で働く今
10 今まで出会った人、これからを生きる若い人に知ってほしいこと

01いじめられっ子だった幼少期

体が弱かったことをきっかけに、スイミングスクールに通い出す

幼稚園の年少までは体が弱く、よく熱を出していた。

「幼稚園の1年の半分くらいは熱出して休んでたって、母親から聞いてます」

それに加え、幼稚園の先生と相性が悪かったこともストレスになっていた。

「好き嫌いの激しい先生で、園児を差別するんですよ。私はどちらかというと嫌われていて、しょっちゅう怒られてて・・・・・・今の時代では考えられないんですけど」

「赤ちゃん返りみたいになっちゃって、よく泣いてましたね」

体調を崩しやすかったのは、そのせいもあった。

「これじゃいけないと思って、年長の5歳のときからスイミングスクールに通い出したんです。それからはもう、ほとんど風邪も引かなくなりました」

得意だったのはクロールで、地域の大会にも参加した。

「他のスポーツはあんまりだったんですけど、水の中だったら本当に無敵でしたね」

転校を機に始まったいじめと、自覚し始めた性別違和

小学校3年生まで東京・品川区で過ごし、4年生のときに神奈川県の川崎・宮前区へ引っ越す。

「転校する前までは、けっこう公園で友だちと遊んでました」

「そのときはまだ、男らしい遊びもしてたんですよ。昔懐かしの銀玉鉄砲とか」

しかし転校を機に環境が変わり、いじめの標的になってしまう。

当時通っていたスイミングスクールの女性コーチを見て、「大人になったらああいう身体になりたい」と漠然と思うようになった。

「9歳くらいから水着姿が恥ずかしくて、胸を隠したりしてたんです」

「そうするとやっぱり、いわゆる差別用語を言われたりして」

「何ナヨナヨしてんだよ」「オカマ」など、心無い言葉で同級生たちに傷つけられた。

同級生たちは団地に住んでいる子が多く、そのぶん話が回りやすい。

だからこそ余計に、奇異の目で見られることが多かった。

「大人しく本読んでたような子だったから、友だちもあんまりいなかったですし・・・・・・」

「私の癖なんですけど、いつも常にニコニコしてるんですよね。それが気色悪いっていうようなことを、言われた気がします」

当時よく読んでいたのは、科学や地理・歴史に関する本だ。

「特に三国志とか好きでした。漫画もいろいろ読んでたんです」

3人きょうだいの長男と、厳しくも自由にさせてくれた両親

3人きょうだいの長男で、2歳下の妹と5歳下の弟がいる。

「弟や妹とは仲良かったです、たまに喧嘩するくらいで」

妹とは年が近かったが、一緒に遊ぶことはあまりなかった。
両親はそれなりに躾には厳しかった。

「父親は戦時中の生まれで、九州男児なんです。ご飯早く食べなさいとか、片付けなさいとか、言われてました」

私にもよく「男らしさ」を求めてきた。

「友だちと喧嘩して、負けて泣いて帰ってくると、『男は泣くもんじゃない』とか・・・・・・」

ただ、怒鳴りつけるようなことはされなかった。

「そのわりには給料日にパチンコ行って、母親にはよく怒られてましたね(笑)」

母親はその世代にしては、比較的父親に対して強く出るタイプだった。

「そんなに干渉するタイプの母親ではなくて、ある程度自由にさせてくれました」

「ただ間違ったことをするとちゃんと言ってくれる、すごく真っ当で真面目な人でしたね」

02放送委員と水泳に打ち込む思春期

放送委員をきっかけに、音響に興味を持つ

中学時代は、放送委員会の仕事にのめり込む。

「お昼どきに音楽流したり、クイズ出したりしてました」

「委員会のメンバーとは、それほど交流しなかったんですけど、でも機材をいじれるので、放送委員の仕事は楽しかったんです」

一方、同級生たちは同じ小学校から上がってくるので、中学でもいじめは続き、1人でいることが多かった。

特にひどかったのは、中学2年のときだ。

「ちょっと手出せって言われて出すと、割り箸みたいなので手を挟まれてぐりぐりやられたりとか・・・・・・。もう今で言う傷害みたいなことされてました」

学校には行きたくなかったが、親にも先生にも相談できない。

そのため、どうにか頑張って毎日通っていた。

おニャン子クラブに憧れを抱く

そのころおニャン子クラブのファンで、コンサートに行ったりもした。

「自分でチケットぴあに電話かけて、チケット取りました。チケット代も高かったんで、パンフレット買うのがやっとでしたけど(笑)」

「夕やけニャンニャンの時代だったんですけど、高井麻巳子さんや渡辺満里奈さんに憧れてました」

その気持ちが恋愛対象としてではなく、「自分もああなりたい」という羨望であることはなんとなく気がついていた。

「中学の制服も、スカートの方がいいなって気持ちは心の奥底にありましたね」

「第二次性徴も始まって、声変わりしたりヒゲが生えたり・・・・・・」

憧れていたスイミングスクールの女性コーチとはかけ離れていく自分の身体に、違和感を拭えなくなってきた。

「それがやっぱり、ショックでしたね・・・・・・」

中学3年生のときに水泳部が発足し、入部する。

「ただ、プールの水の状態があんまり良くなくて、しょっちゅう外耳炎にかかってあんまり泳げなかったですね(苦笑)」

「それでも、持久力アップのためにひたすら校庭を走って、意気込んでました」

音響の仕事に興味を持ち始める

中学卒業後は、男子高に進学。

14歳で一度スイミングスクールを辞めていたが、実家から歩いて1分もしない場所に新しく教室ができたので、そのころ再開した。

「またスイミングスクールに通い始めたので、部活には入らなかったんです」

水泳がとても好きだったが、一方で水着に対する葛藤は変わらなかった。

「でも、体を隠したい気持ちより、水泳をしたいって気持ちがわずかに勝ちましたけど・・・・・・」

「女性の水着を着たらやっぱり変態扱いされるんじゃないかって思ったので、そこはもう我慢してました」

「制服のズボンも嫌だったんで、ボンタンっていう太いズボン履いたりとか・・・・・・」

校内暴力が激しかった時代、例にもれず自分の通う高校も荒れていた。
それでも仲の良い友だちができ、放課後遊ぶようになる。

「土曜日学校が早く終わると、一緒にご飯食べに行ったり、ゲームセンター行ったり」

宮崎への修学旅行も、とても楽しんだ。

「青島にある鬼の洗濯岩ってところに岩がすごいいっぱいあるんですけど、そこをぴょんぴょん飛んでいったら足を取られちゃって、ズボンが岩海苔だらけになっちゃったんですよ」

「そのあとしばらくのあいだ、友だちに『鬼の洗濯岩で洗濯した人』って呼ばれましたね(笑)」

03音響系の専門学校に進学

先生の反対を押し切り、専門学校へ

おニャン子クラブのコンサートを観に行っていたこともあり、音響の仕事に興味を抱くようになる。

「中学の放送委員が楽しかったのもあって、高校時代には漠然とラジオとか屋外コンサートの音響の仕事をしたいって夢がありました」

高校の先生には進学よりも就職を勧められたが、それを押し切って放送や音響について学べる専門学校に進学した。

「機材の使い方とか音響系を学びました。実際に番組で企画したり、ときには現場に行って自習したり、外で簡単な取材したり」

「ただやっぱりカリキュラムがちょっと高度だったんで、ついていけなかったですね・・・・・・」

中学のころに比べると、扱う機材も確実に高度だった。

「それもあって、ちょっとつまづいちゃって。あとはレポートにも追われて、けっこう大変でした」

楽しかった専門学校生活

「人間関係は、今までの学生生活の中では良好でした」

授業は大変だったが、新たな友だちもできた。
よくみんなで飲みにも行ったが、いちばん思い出深いのは有志の卒業旅行だ。

「1人年配の方がいたんですけど、その人が大型の一種免許を持ってて、『大型バス借りてモータースポーツの聖地・鈴鹿まで行かないか!』って話になって」

男女含めて30人近く、卒業生ほぼ全員が参加した。

「鈴鹿って遊園地があるんですけど、モータースポーツ開催しないときはゴーカート走らせてるんですよ」

「みんなで競争しようってことになったんですけど、そのとき私のマシンの状態がやたら良くて、最後尾だったのにゴール前でトップになっちゃって(笑)」

偶然鈴鹿の走行テストも観ることができ、思い出深い2泊3日になった。

深まっていくセクシュアリティの悩み

専門学校でできた友だちにも、自分の身体への違和感は打ち明けられない。

「仲良くてもこれ話しちゃったら、やっぱり関係壊れるんじゃないかなって・・・・・・」

そのころには「自分は男性ではない」という感覚をはっきりもっていたものの、どうすればいいかはわからなかった。

「悩みは深まっていきましたね・・・・・・」

「胸も大きくならないし、体つきも角ばった感じになっちゃって、どんどん理想からかけ離れていくなって・・・・・・」

当時はインターネットも発達しておらず、あまりにも情報が無さすぎた。
そのため「女性になりたい」という気持ちを持て余し、困惑していた。

04憧れの放送業界へ

舞台音響の仕事へ就職

卒業後は憧れの舞台音響の仕事に就くが、想像以上にハードな世界だった。

「専門的な知識は活かせるんですけど、ものすごく不規則で・・・・・・」

「下手すれば朝、始発の前に会社を出て現場へ向かわなきゃ間に合わなかったり、その状態で重たい機材を運ばなきゃいけなかったので、命がけでした」

職場の環境も、上下関係がとても厳しい世界だ。

「やっぱり男の人が多い世界ですからね」

夢の仕事ではあったものの、ついていけず2年ほどで退職した。

「背広で出社」に覚える苦痛

音響の仕事を辞めたあと、家電量販店の店員として働き始める。

「多少音響の知識があったんで、ヘッドフォンステレオとかラジカセの販売を担当してました」

「これには再生機能がついてます、録音機能がついてます、ラジオがついてます、とかお客さんに説明してましたね」

専門学校の知識も現場での知識も活かせる仕事だったが、生きづらさは増すばかりだ。

「やっぱり背広着て出社するわけですし、制服も男性と女性で違うので・・・・・・」

「女性の制服が着たいなって思いつつ、そんなこと言っても『何言ってんだ? お前』って言われるのが関の山かなって」

LGBTの文字は、ほとんど知られていなかった時代。自分に当てはまるような言葉は完全に蔑称ばかりだ。

「もう最悪、このままその気持ちを押し込めて生きていくしかないって思ってました」

そんなころ、思わぬ出会いがあった。

05 MTFのコスプレ仲間との出会い

mixiを通じてコスプレの世界へ

30代のころ、やっとSNSの走りであるmixiが台頭してきた。

mixiを通じて出会ったコスプレ仲間との出会いをきっかけに、交友関係が一気に広がる。

「元々好きな絵師さんがいてコスプレをかじってたんですけど、mixiでいろんな方と繋がっていって」

「大阪や三重の方もいたんですけど、地方だからなかなか会えないじゃないですか。だからコミックマーケットの最終日に都内のお店で飲んだりしてました」

MTFのコスプレイヤーとの出会いで、はっきりと目覚める

仲間の1人に、コスプレイヤーでMTFの人がいた。

「その子と出会って、はっきり目覚めましたね」

自分は男性ではなく、女性なのだ。
そう確信を得てからは、ますますコスプレの世界にのめり込むようになった。

「街中だったら化粧してると、やっぱりまだ変な目で見られる時代。でもコミケだったら、コスプレっていう免罪符が使えるんです」

「女装レイヤーさんもいっぱいいたんで、コスプレを口実に女性の服や化粧に少しずつ慣れていきました」

当時特に好きだったのは、アニメ『けいおん!』の「ムギちゃん(琴吹紬)」という、キーボードと作曲を担当する「お嬢様キャラクター」だ。

「実際にその数年後に、『けいおん!』の舞台になった滋賀県の豊郷の方まで行きました」

「あそこは聖地なので、『けいおん!』メインでやってる女装レイヤーさんがよく行くんです」

好きなアニメを通じて、ちょっとずつなりたい自分に近づいていった。

「コスプレなら化粧とかの練習みたいな感じで、入りやすいですからね」

コスプレのために仕事を掛け持ち

勤めていた家電量販店は、不況にあおられ入社1年半後に倒産した。

「そのあと、ヤマトさんで荷物の仕分けの仕事に就きました」

本来到着すべきでない場所に、着いていない「荷物事故」を報告する仕事で、手間のかかる作業だった。

「宅配業者さんが使ってるポータブルポスを使って、『荷物間違ったところに着いてます』『荷物が傷んでます』って情報を入力しないといけないんですよ」

「センターに手書きで報告書も書かなきゃいけなくて、そのとき夜勤やってたから量が尋常じゃなかったですね」

それでもある程度は休みの融通が効くため、趣味の時間を捻出するのに都合が良かった。

もっと稼ぎがほしかったため、派遣会社にも登録する。

「週2ほど派遣入ってたんですけど、一番メインでやってたのがサントリーのウイスキーとかワインの検品だったんです」

「そしたら動きがいいと気に入られて、『週2以上出られない?』ってお誘いを受けて」

週5でヤマト、週2で派遣。
仕事を掛け持ちして毎日休みなく働いていたのは、コスプレのためだった。

 

<<<後編 2022/11/12/Sat>>

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06 夜の世界に飛び込む
07 人生の中でいちばん働いた5年間
08 親と職場へ性同一性障害をカミングアウト
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10 今まで出会った人、これからを生きる若い人に知ってほしいこと

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