02 小学6年で味わった大きな挫折
03 好きな女の子と気になる男の子
04 アメリカ留学を母親に直談判
05 フライトアテンダントになりたい
==================(後編)========================
06 ホモセクシュアルって、なに?
07 ドラァグクイーンとして舞台に立つ
08 “サマンサ” としてアパレル業界へ
09 ゲイでもバイセクシュアルでもなく、クィア
10 “普通” の定義を押し付けないこと
01いで湯と城と文学の街に生まれて
おふざけキャラで人気者
生まれは道後温泉で知られる城下町。
「わたしが長男だったこともあって、母は教育熱心でしたね」
「3才から英語を習って幼稚園からお受験して、小さい頃から習い事ばかりでした」
幼稚園のあとも地元の名門、国立大附属の小学校に入学した。
しかし、小学校でふとした瞬間に英語のリアクションが出たり、表現力が豊かな子どもは、クラスでも目立った。
「普通に『Oops!』とか言っちゃう子やったから(笑)」
「周りから『ガイジンみたい』とからかわれることもありました」
みんなと同じようにしないといじめられるかもしれない。
そう気づいてからは、英語をなるべく話さないように努力した。
「子どもながらに、周りに溶け込もうとしてたのかもしれません・・・・・・」
男の子とも女の子とも、区別なく仲良く遊ぶ子だった。
友だちから、ふざけて「ほっぺにチュウ」されることもあった。
「自分で言うのもおかしいけど、わたし、めっちゃかわいかったんで、みんなの人気者やったんです(笑)」
「いわゆる “おふざけキャラ” で、いつも周りを笑わせてました」
「わたしがなんか言ったりやったりするたびに、みんなが喜んでくれるんで、調子にのってたんでしょうね(笑)」
しつけには厳しい母
学校から帰ると習い事へ。
ピアノ、習字、俳句、プール、塾など、ほぼ毎日予定が詰まっていた。
「ほとんど親からやらされていたんですが、合唱団だけは自分からやりたいって言って始めたんです」
NHKのコンクールに出場したり、大規模な音楽イベントで有名歌手のバックコーラスも務めた。
レコーディングや演奏旅行もたくさん経験する。
「歌うのは楽しかったんですが、練習はイヤでしたね」
「先生の指導が厳しくて。眠そうにしてたら棒で叩かれたり」
通っていた小学校も音楽教育に力を入れており、音楽の授業の一環として作曲をすることもあった。
しかし、両親は「音楽では食べていけない」として、あくまで情操教育のひとつと考え、それ以上は求めていないようだった。
「母は、めちゃめちゃ怖かった(笑)。門限に1分でも遅れたら、家に入れてもらわれへんかったし」
「でも愛情は感じてましたよ。キレたら怖いって感じ」
反対に、父は優しかった。
「よく旅行に連れてってくれてましたね」
「すごく覚えてるのが、父とキャッチボールしていたら、ボールがわたしの顔に当たって、それから怖くなってやらなくなってしまったこと」
「そのことがあってからは、父は弟とキャッチボールしてました(笑)」
02小学6年で味わった大きな挫折
公立の中学校ではハングリーに
中学校も同じく、そのまま大学付属に入学するつもりでいたが、学力審査によって不合格とされた。
「泣きました・・・・・・」
「小学生ながらも、自分は受験に失敗した “落ちこぼれ” だと思いました。親にも申し訳なくて」
大きな挫折に打ちのめされた。
実家は議員家系で親戚も多く、中学受験失敗の噂は瞬く間に広まる。
「親戚からも、残念な目で見られました」
そして公立中学へ。
学校生活は小学校までと、ガラリと変わった。
「教室で先生がわたしに話しかけてきたりすると、あとで『親戚が議員だからひいきされてる!』と陰口を叩かれることもありました」
小学校のときとは違う。もっとハングリーにいかないと。
ちょっと “悪いこと” にも手を出したほうがいいのかも。
「ヤンキーグループとも付き合いました」
「なぜだかヤンキー女子から人気があって。たぶん、いまと変わらないキャラクターだったんだと思う(笑)」
そのおかげで、陰口を言ったり、からかってきたりするような生徒がいたら、ヤンキーグループの強面たちが守ってくれた。
「はじめは『どうしよう』と戸惑ったけど、うまく馴染めば公立の学校もまた開放的で自由な世界に感じられました」
「音楽では食べていけない」
部活はバスケットボール部に所属。
しかし、思うように身長が伸びないことをハンデに感じて泣く泣く退部し、教師から勧められるまま陸上部に入る。
「でも、陸上がやりたくて入ったわけじゃないから、練習はサボりがちで、記録会だけ参加するようなお気楽部員でした」
「顧問からは『どうしようもないヤツや』って、思われてたかと(笑)」
「勉強は得意なものとそうでないものの差が激しかったですね。理数系ができなくて、どんどん成績が下がっていきました」
「音楽は、やっぱり得意でしたね」
「毎年クラスごとに生徒が作曲する学級歌も、ほかのクラスのゴーストライターをするほど評判が良くて」
実は小学校6年生時の三者面談で、担任の教師から音楽系の中学を勧められたこともあった。
そして高校進学時にも同様に音楽系の高校を勧められたが、母は「音楽では食べていけない」の一点張りだった。
03好きな女の子と気になる男の子
同級生のケイ君
小学生のとき、好きな子がいた。
中学生のときも、何人か好きな子がいた。
どの子も女の子だった。
思春期になり、中学では親友と呼べる男友だちもできた。
その中でも、どこか特別な存在だったケイ君。
「すっごい仲良くて、朝は信号のとこで待ち合わせて一緒に登校して、部活が終わったら一緒に帰るって感じ」
「でも、なんか喧嘩してから、しばらく口をきかなくなってしまって」
ある日、女子グループから「ケイ君、きのう靴箱のとこであんたのこと待ってたで」と聞いた。
翌日部活が終わってから靴箱に行くと、やはりケイ君が待っていた。
「『ごめんね』もなく、その日からまた一緒に帰るようになりました」
「なんかようわからん感情で、モヤッとしました(笑)」
その後、中学1年生の時に好きだった女の子が、ケイ君と付き合い出す。
しかも2年生ではふたりは同じクラスで、自分だけ別れてしまった。
「それやのに、ふたりともわたしにいろいろ相談してきて」
「妙な疎外感があったせいか、知らんがな、ふたりで決めたらええやん、って冷めていたこともあって・・・・・・」
それでもまた、中学3年生でケイ君との距離が縮まる。
「別クラスなのに、修学旅行で同じコースにしようって言ってきて(笑)」
修学旅行では、行く先々でケイ君のグループと落ち合うことになった。
男友だちの友だちにヤキモチを
そして進路を決めるときには、ケイ君が工業系の高校を受けると聞いて、自分も同じ高校を受けることに決めた。
「工業系に興味なんてなかったのに」
しかし、一緒に入学することを夢見た工業高校の試験で、ケイ君は受かり、自分は落ちてしまう。
「合否発表は一緒に見に行ったんですが、合格したケイ君は喜びたかっただろうに、わたしが落ちたせいで喜べなくて」
「そのあとは、わたしを家まで見送ってくれました」
そして、高校は私立の特進コースへ。
大学進学を目指したコースで、授業は8時間目まであった。
その頃ケイ君は、「おまえがおらへんから学校が楽しくない」と言いながら、ほぼ毎日部活帰りに家まで遊びにきた。
そんななか、ケイ君にも学校の部活に友だちができ、仲良く一緒に家に遊びにくるようになった。
そうなると、なんだか面白くない。
「いま思うと、ヤキモチだったんでしょうかね・・・・・・。それが恋愛感情かどうかはわからないけど」
初体験は女性だった。好きな女の子がいた。
でも、ケイ君はどこか特別な存在だった。
04アメリカ留学を母親に直談判
海外研修が楽しくて
高校の勉強はかなりハードだった。
8時間目まである授業のせいで、部活もバイトもできない。
「学校やめたい」と毎日のように母親に八つ当たりしていた。
ただひとつの救いが、学校の行事である海外研修。
アメリカの高校へショートステイできる研修だ。
「初めてのアメリカで、なんだか自分が解放された感じがしました」
「ほかのみんなは、まったく英語が話せないわけでもないのに、現地のチューターとも怖がって話そうとしないんだけど、わたしは抵抗なくて」
「いろんな人種がいて、なんかすっごい楽しいわ〜って」
しかし、帰国してからは英会話の授業は週に1時間のみ。
かなり物足りない感じだった。
アメリカで学びたい。
その気持ちが日に日に高まっていく。
「まずは、親に頼み込んで英会話スクールに通わせてもらって」
「レベルが上がるたびに、親に『上がったよ!』と成果を見せるようにして、自分のやる気をアピールしていました」
「でも、いよいよアメリカに行きたい気持ちが抑えられなくなって、こっそり非営利団体の交換留学にエントリーしたんです」
正直な気持ちを手紙に書いて
すでに書類選考を通過した段階で、母に話した。
あと2回面接がある。
最後の面接は親と一緒に受けなくちゃいけない。
どうしても受けさせてほしい。
「母は、なんとなく反対しているようだったし、自分も面と向かってだと反抗的な言いかたになってしまうから、手紙を書いたんです」
「望んだわけでもないのに、小さいときから受験するために勉強ばかりさせられて、やりたいことを全部奪われてきたような感覚がある、って」
次の日、母は「面接に行っておいで」と認めてくれた。
その面接に受かってからは、留学にむけて、誰よりも強く背中を押し続けてくれたのは母だった。
学校にこまかく掛け合ってくれたのだ。
7時間目のあとに英会話スクールに通えるようにカリキュラムを組み直したり、留学中は休学扱いにしてもらったり、当時の校内には前例のなかった海外留学への道筋をつくってくれた。
そして無事、最終面接も通過して渡米し、卒業してから帰国した。
「帰ってきたら、日本で通っていた高校の同級生はみんな卒業してて(笑)」
「自分には内緒で、母が留学中も日本の高校に学費を納めていてくれたおかげで、アメリカでの単位と正規の卒業証書が、そのまま日本の高校でも認められ、卒業することができました」
「ある時、校長室に行ったら、『卒業式です』って言われて」
「地元の新聞に、『ひとりぼっちの卒業式』みたいなタイトルで、留学帰りのわたしが記事になりました(笑)」
05フライトアテンダントになりたい
世界と日本を行き来する仕事
中学生までの将来の夢は、アナウンサー、歌手、アイドルだった。
「いま思うと、どのツラ下げてアイドルやねん、って思いますけど(笑)」
「音楽も好きだったから、芸能方面に興味があって。でも、高校で留学してからは、航空関係の職に就きたい、って思うようになったんです」
飛行機に乗って、親元を離れるという行為は、大人の階段をひとりで上る感覚があって、自分が解放されていくようだった。
「飛行機で世界と日本を行ったり来たりする仕事ってなんだろう、って考えたときに、フライトアテンダントやったらできる、と」
高校卒業後は日本の大学へと進んだが、単位交換制度で半年ほど再びアメリカの大学に留学。
その帰国時に巻き込まれた事件から、さらに将来の夢が明確になる。
「空港で、日本に帰る便の搭乗を待っていたら、時間になってもアナウンスがなくて」
「不思議に思っていたら、出国ロビーにたくさんの人が集まっていて、テレビには、あの映像が流れていたんです」
2001年9月11日、アメリカ同時多発テロだった。
分け隔てのないサービスに感動
航路はすべてストップ。
携帯電話は持っていない。公衆電話はつながらない。
飛行機に乗って帰るだけのつもりだったので、現金は使い果たしている。
どうすればいい?
困り果てていると、航空会社のグランドスタッフから、乗客のために滞在用のホテルを用意したので移動してほしいと指示があった。
そしてようやく、ホテルのロビーから実家に電話することができた。
「それからしばらく、フライト再開の目処がつかないなか、帰りの便を再予約するため、空港のチェックインカウンターに毎日通いました」
「そのうちに、そのルーティンにも慣れてきて、空港で電話をかけられなくて困っているおじいちゃんを手伝ってあげたり(笑)」
「ホテルから空港に行くときも、アメリカンエアラインに乗る予定の人やったら、一緒に連れてってあげるって言って、 “なんちゃって添乗員” みたいなことをしてました」
その後、フライトが再開し、帰国する便が決まった。
「そのとき手続きしてくれたグランドスタッフがとても親切だったり、客室乗務員もとても優しかったんです」
「機内では、客室乗務員が雑誌を持ってきてくれて『一緒に読もう』って言ってくれたんです」
「テロが明けてやっと帰国できる状況の心情を理解して、心のケアをしようとしてくれたんでしょうね・・・・・・」
「『この便なら絶対ハッピーに帰国できから』って」
人種で区別することなどない、臨機応変な対応に感動し、航空関係の仕事に就きたいという想いが強くなる。
そして大学卒業後は大手航空会社グループに就職。
当時日系の航空会社では、男性が客室乗務員として専従することはできなかったが、新卒で入社してから事務職として約16年間勤めた。
<<<後編 2020/08/29/Sat>>>
INDEX
06 ホモセクシュアルって、なに?
07 ドラァグクイーンとして舞台に立つ
08 “サマンサ” としてアパレル業界へ
09 ゲイでもバイセクシュアルでもなく、クィア
10 “普通” の定義を押し付けないこと