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摂食障害で苦しんだ、こんな僕でも楽しく生きているのだから【前編】

尊敬する張り子職人の師匠からもらった宝物、ひょっとこのお面を持って来てくれた。7年前、師匠に出会いひょっとこの舞いに一目惚れ。以来、12番弟子として芳賀さんもひょっとこを演じている。芳賀さんがお面を頭にのせた時、何かから解放されたように輝いた。性同一性障害、そして摂食障害で辛い日々を過ごした芳賀さんだから語れるものがある。ひょっとこの面の下に隠された、芳賀さんの素顔を見てみよう。

2017/07/28/Fri
Photo : Mayumi Suzuki Text : Junko Kobayashi
芳賀 裕希 / Haga Yuki

1986年、福島県生まれ。郡山女子大学食物栄養学部卒業。中学生で摂食障害となり、入院、通院生活をおくる。食べ物に悩まされた経験から、栄養士の資格を取得。大学卒業後、オーガニックレストランで見習いとして働くが、東日本大震災がおきる。摂食障害が大きな悩みであったので、性同一性障害に向き合い性別適合手術をうけるのは、20代後半になってから。現在は介護施設に勤務し、利用者がおいしく食べられるよう、調理法などを工夫した献立を提供している。

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INDEX
01 サンタにお願いするのはチンチン
02 女子が好きなのに、僕は女
03 壮絶な摂食障害の始まり
04 食べることへの罪悪感
05 摂食障害と診断されて
==================(後編)========================
06 食べることが怖い僕が栄養士に
07 そして、あの震災がおきた
08 まわりは、僕が性同一性障害とわかっていた
09 食べるものが男性にしてくれる
10 苦しんでいる人に、僕の姿を見せたい

01サンタにお願いするのはチンチン

女の子は嫌という鮮明な記憶

5歳上の兄がいて、両親にとっては待望の女の子。

髪を長くしたり、スカートをはいたり、いつも赤やピンクのいわゆる “女の子らしい洋服” を着せられていた。

「保育園の頃から、女の子の服装が嫌で嫌で仕方なかったんです」

スカート嫌いの自分は、アルバムに残っている写真でも見つけることができる。

運動会の障害物リレー。途中、スカートをはいて走ることになった。

どうしてもはきたくなかったのか、泣いたままの自分を母親が抱えてゴールしている写真がある。

「障害物リレーのことは覚えていないけど、その写真を見るたびに本当にスカートが嫌いだったことを思い出します」

子どもながらに、自分は変わっていると思っていた。

お遊戯会があると、女の子チームではなく男の子に混じって踊る。

「わがままな子どもですよね(苦笑)。そんな僕を先生方が理解してくれ、男の子と一緒でいいよ、と言ってくれたんです」

いつも男の子のような格好をしていたので、母親が七五三に作ってくれた手作りドレスも、もちろん着るのが嫌だった。

「母親は、いつも手作りのもので愛情を注いでくれました」

「裁縫も料理もすごく上手なんです。せっかく僕のために作ってくれたのに、あんなに着るのを拒んで申し訳ないことをしました・・・・・・」

その時は誰も性同一性障害だと知る人はいなかったので、互いの気持ちがすれ違うのは仕方がなかった。

立ちションがしたい

小学校に入学した。

男の子になりないという気持ちは強くなっていく。

芳賀家ではサンタさんに手紙を書き、欲しいクリスマスプレゼントをお願いすることになっていた。

リクエストしたのは、男の子になるために必要な「チンチン」。

「毎年、『チンチン下さい』って、手紙に書いてたんです」

しかし、サンタさんからはいつも全く違うプレゼントが届いた。

「サンタさん、なんでミッキーの人形なんだよ!?って(笑)」

いつしか、プレゼントは親が用意しているとわかり、それからはゲームなど現実的なプレゼントをお願いするようになった。

どうしても男の子になりたかったことがわかるエピソードがある。

父親や兄が立ちションする姿を見て、自分もやりたくなった。ゴムのホースを短めに切ってチャレンジしたのだ。

「当たり前だけど上手くいかなくて(笑)。濡れてしまったズボンとパンツを着替えて、こっそり洗濯かごに入れておきました」

その頃、いつも同じ地区の男の子と女の子と5,6人で遊んでいた。

高学年になると、男の子と遊んでいるだけで「男好き」と言われるようになったので、女の子と遊ぶようにした。

外遊びが好きだったが、女の子と遊ぶのが苦痛かと言えばそうではない。

その頃から恋愛対象は女の子だったから。

好きな子と一緒に遊べるのが逆に嬉しかった。

02 女子が好きなのに、僕は女

初恋は5年生の時

体を動かすのが好きで、5年生からソフトボール部に入っていた。

そこで、1つ年上の先輩を好きになる。

「今でも僕の好みのタイプは年上のお姉さんなんです。ツンツンしている女性に、ヘコヘコしながらデートに連れていってもらうのが理想です(笑)」

「結婚した相手が仕事をしたいと言ったら、僕が家事を担当して、好きな食事を沢山つくってあげます」

冗談でその先輩にバレンタインデーのチョコレートをリクエストしたら、本当にチョコレートをもらうことができた。

「まじかっ!って、凄い嬉しかったです。食べるのがもったいなくて、ずっと家の机の引き出しにしまっておいて・・・・・・」

「そう言えばあのチョコレートどうしたのかな?食べた記憶がないんです(笑)」

先輩が好きという気持ちを、周囲に隠すことはなかった。

ソフトボール部員全員が知っていたので、合宿があれば先輩と同じ部屋にしてもらえた。

「その時に、ふざけて先輩からキスをされたんです。もー舞い上がっちゃって、ソフトボールの試合どころではなくなりました(笑)」

母親にも先輩が好きなことを話すと「憧れの人でしょ」と返された。

女友だちと誰が好きか、という話しをする時に同性を好きだと話す自分。

恋愛というより「憧れ」の話しをしていると、周りは捉えていたのかもしれない。

そんな反応に “違うんだよ、恋愛感情で好きなんだよ” と心の中で思っていた。

女の子として生活するしかない

小学校の頃、自分が女子として扱われるのが嫌だと気づいた。

男子と女子のチームに分かれたり、男女でお道具箱やランドセルなど持ち物の色が違う時、そう思う場面がたくさんあった。

「母親のお腹にいたときにチンチンが写っていたので、男の子が産まれると思った両親は【裕希】という名前を考えていたことを家族から聞いたんです」

「でも、生まれてきた赤ちゃんにはついてなくて・・・・・・。近所の占い師に、女の子で裕希では幸せになれないと言われ、【美裕希】という名前になったんです」

男の子になりたくて、なりたくて仕方がなかった自分は、ついていたという話しを聞くたびに悔しくなった。

「母さん、チンチンどこにやっちゃったんだよ!っていつも聞いていたんですよ」

母親は「ごめん、トイレに流しちゃったよ」と誤魔化し、どうしようもない願いをはぐらかした。

自分が生まれ育った福島県の会津は、自宅から車で20分いくとスキー場がある自然が豊かでのどかな場所。

いつもスボンをはいて裸足で自転車を乗り回し、河原で遊ぶヤンチャな少女だった。

地元の人たちは、男の子っぽい自分を温かく見守ってくれた。

小学校の先生も、出来る範囲で男子チームに入れてくれたし、自分のことを “僕” と呼んでも叱られることはなかった。

でもその頃は、男の子になりたいけど、女の子として生活するしかないんだと考えていた。

03壮絶な摂食障害の始まり

出てきた胸は叩く

高学年になると、身体が女性らしく変化してきた。

いつかこうなると思ってはいたが、実際に身体が丸みを帯び始めると想像以上に戸惑った。

「胸が大きくなってきたのが一番ショックでしたね・・・・・・。胸を叩いて、潰そうとしていました」

スポーツブラをつけるようになっても、走ると揺れる感覚には違和感しかなかった。

走るのが好きで、兄とよくジョギングをしていた。

スポーツ少年団で、ソフトボール部にも所属。

「でも、どの運動をしても走ると揺れる胸の動きが気になって、綺麗なフォームで走ることができませんでした」

そして、生理がきた。

それを母親にこっそり伝えたら「赤飯を炊こう!」となった。

「本心はやめてくれ、めでたくもない、でしたね」

身体が変化することは嫌だった一方で、どこか楽観視していた部分もある。

「きっと成長とともに、この嫌な気持ちは薄らいでいくと思っていたんです」

女子として生きる。

それ以外の選択肢はない。

いずれ心が女子になることを、受け入れられる日がくるだろうと考えていた。

きっかけは、身体をコントロールする快感

中学校では、ソフトボール部と駅伝部に入った。

好きな体育の女の先生に、駅伝の練習を頑張っている姿を褒めて欲しいと思った。

だから、部活の練習が終わっても先生の車がまだ駐車場にあるとわかれば、自主練を続けた。

「先生の帰り際に、もしかたしたら会えるかもって思ったんですよね。車の周りをぐるぐる走っていたんです。わかりやすいですよね(笑)」

毎日かなりの運動をしているうちに、自然と体重が落ちてきた。すると身体が軽くなり、ますます走るのが快感になった。

「こんなに簡単に体重って落ちるんだ!って驚いたんです」

体重が落ちたことが嬉しくて、食事の量を減らしたところ、さらに痩せることができた。

その時は少しふっくらしていたので、ダイエット感覚で始めたことが、その後の人生を大きく狂わせることになってしまう。

「1ヶ月に10kgくらい体重が落ちたんです」

何かがおかしくなりはじめた。

もともとストイックな性格で、自分を追い込むのが好きだった。

スポーツでも勉強でも、我慢すれば我慢した分の結果がついてくると頑張ってしまう。

「走れば走るほど、食事を抜けば抜いただけ、体重が落ちるというはっきりした結果にはまってしまったんですよね・・・・・・」

異常ともいえる生活が、身体のバランスを徐々にくずしていく。

04食べることへの罪悪感

地獄のはじまり

まず、拒食症の症状があらわれた。

頑張って痩せたのに、食べたら台無しになるという恐怖心から食べることを制限する。

そして過剰な食事制限をしたことが、食べ物に対する異常ともいえる執着をうむことになる。

「食べたい衝動を抑えることができなくなると、一転して過食症になってしまったんです。食べても食べてもお腹がいっぱいにならないので、ひたすら食べ続けるんです」

食べたい欲求が爆発すると、自分をコントロールできなくなる。

我に返った時、食べてしまった量に気づいて愕然とする。

「こんなに食べちゃったんだ、と驚くというか、自分に対する恐怖です。何なんだこれ?!という感じで自分が怖くなって、食べたものを吐き出すんです」

「それが地獄の始まりでした」

満腹感を感じぬままひたすら食べて、過食したことへの罪悪感から嘔吐する。

食べては吐き、食べては吐く。

その様子を見ていた母親は、理由もわからず心配やら怒りやらで、ただ困惑するばかり。

「母さんが一生懸命作ったご飯を、食べてはもどしていたので『何でそんなことをするの?』と
怒られました」

母親に言われても、嘔吐をやめることはできなかった。

何故だかわからないが、太ることに対する恐怖心があった。とにかく食べることが怖かった。

嘔吐しないと精神的に落ち着くことができなかったのだ。

「こんな毎日を生きるのはもう嫌だ・・・・・・。死んだ方がましだと思っていました」

どうしたら両親に迷惑をかけずに死ねるのかを考えていた。

性同一性障害が摂食障害をまねいた?

始まりは、体重が減ることの快感からだった。

それが度を越した。

拒食過食を繰り返し、毎日の食事が恐怖にまでなってしまったのだ。

確かに中学に入った時は、少しふっくらしていたが、特別太っていたわけでもなく、いじめられたこともない。

「今思うと、女らしくなることへの嫌悪があったのかもしれないですね・・・・・・」

拒食になると、生理が止まった。

生理がこないことを心配するどころか、生理がないことが嬉しくて仕方なかった。

嫌だった胸の膨らみや走る時の揺れも、体重が減るとあまり気にならなくなった。

「当時は、性同一性障害という言葉すら知らなかったし、考えることもなかったけど、性同一性障害からくる葛藤が摂食障害のきっかけだったと思うと、納得できますね」

思い返せば思春期で身体が変わりはじめた頃から、摂食障害もはじまった。

「中学生の頃100グラムでも体重が増えると、夜も寝ないで腹筋や背筋を続けていました」

太ってはいけないという思いだけで理由がわからぬままだったが、性同一性障害が原因だったと考えると全てが解決する気がする。

「精神科の先生と話した時、摂食障害の子どもを診察する時に『自分の性に違和感があるか?』と尋ねるのだと聞きました」

性同一性障害と向き合う余裕ができるのは、摂食障害に悩んでいた時から随分たった頃。
社会人になってからだ。

それまでは、男子になりたいという性自認、女子が好きという自分の性指向すら深く悩む暇がなかった。

摂食障害と戦わなければならなかった。

05摂食障害と診断されて

不登校の日々

食べ物への執着がいっそう強くなり、何をしていても食べ物のことが頭から離れない。

母親と「なんとか中学校は卒業しよう」と話しはしていたが、学校に行くのが辛くになってきた。

「一番の理由は、友だちと会うのが怖かったんです。落ちぶれてしまった僕が、友だちと何を話して良いかわからなくなったんです」

女子同士が集まると、人の噂話をする。

「学校を休みがちな僕のことを、女子が陰で何と言っているかわからない・・・・・・。不安がどんどん大きくなりました」

母親は不登校になった自分に、毎日1,000円の小遣いをくれ、お昼まで中学校に行ったら、その1,000円で好きな食べ物を食べて良いという約束をした。

それは、摂食障害の子が過食する食べ物を得るため、万引きする例があることを知ったからだ。

「頑張って登校して、お昼のチャイムで家に帰るんです。帰り道に1,000円で買い切れる分の食べ物を買い、家で全部食べて、母親が家に帰る前にもどすんです」

毎食トイレでもどすために使っていた左手には、吐きダコができていた。

母親が一生懸命作ってくれた食事も全部吐いてしまう。

そんな自分を見て、どうして良いかわからなくなった母親が泣いてしまうこともあった。

隠れてまで過食嘔吐する自分を見つけては、頭を抱えていた。

母親を悲しませるのが情けなかったが、どうすることもできない自分がいた。

僕は病気だったんだ

なんとか卒業したいと頑張って中学校へ登校するが、教室から足は遠のいた。

いつも保健室にいるようになる。

様子を見ていた保健の先生が「もしかしたら病気かもしれないから、病院に行ったほうが良いのでは」と母親に話してくれた。

紹介された大学病院で診察をしてもらい、摂食障害と診断された。

「それを聞いた時、あー僕は病気だったんだ。だからこうなってしまったんだ、とホッとしたんです」

わけもわからず拒食過食を繰り返していた理由が、摂食障害とわかったことで、少しずつ回復の方法が見えてきた。

成長期にも関わらず栄養が不足してフラフラしていたし、いつも寒くて眠かった。

このままでは生命の危険があると、すぐに病院に入院することになった。

「とにかく母に会いたくて、病室で毎晩泣いていました」

決められたカロリーの食事をして、目標の体重になったら退院することができると約束され、しっかり食べる努力をした。

「体重測定をする時に、重りを持って体重を誤魔化したりしたんですけど(笑)なんとか目標の体重になることができたんです」

退院してからは、カウンセリングや安定剤を処方された治療が続いた。

車で2時間かかる通院には、いつも父親が付き添ってくれた。

「父さんは仕事が好きで、一家の大黒柱なんです。僕が思春期に摂食障害になり、どう接して良いかわからなかったと思うんですけど、通院の送り迎えをしてくれたり、いつも支えてくれてありがたいです」

家族のサポートもあり、少しずつ症状が落ち着いてきた頃、父親との通院は終了した。

 

<<<後編 2017/07/30/Sun>>>
INDEX

06 食べることが怖い僕が栄養士に
07 そして、あの震災がおきた
08 まわりは、僕が性同一性障害とわかっていた
09 食べるものが男性にしてくれる
10 苦しんでいる人に、僕の姿を見せたい

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